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言語活動の諸相を見る

ハイムズ, デル・唐須教光訳(1979)『ことばの民族誌』紀伊國屋書店

言語学における説明の目標は、人間の心の普遍的特質におかれ、現在の社会言語学的視点の興味や妥当性は拒否されているのである。
しかしながら、アメリカの言語学においては長期間にわたる強調の変化が起こっていて、社会学的なかかわりあいからの撤退の様相は、部分的で一時的である事が判明するかもしれないのである。(本書 p.109)

多くの人類学者と同様に、多くの言語学者は、人間のどの集団をとりあげても、文明の最高度の達成が本来的に不可能であるような集団はいないと考えている。(中略)発展途上国の教育相で、どの言語においても、どんなことでも言ったり、読んだりできるという考えの人はいないのである。時間と、お金と、意思があればそうでありうるということは、現実の状況を語っていることにはならないのである。(中略)テキストに見出される言語の機能に関する一般的な考察は、典型的には、言語の多様な素晴らしさという形で見出されるのだが、そんなものはくずにすぎない。(本書 p.264)

本書は下のリンクにもあるとおり、原題はFoundations in Sociolinguistics: An Ethnographic Approach(社会言語学の原理: 民族誌的アプローチ』)である。

問題意識としては、従来のアメリカの構造主義言語学と言われる学問では、あくまでも言語の体系(文法)を記述することに情熱を注いでいた。それは滅びゆくインディアン諸語の記録をとどめるという必要性からなされていたため、時代の要請であったともいえる。

その趨勢に加えて、戦後はチョムスキーの生成文法が出てきてしまった。上に引用した109ページの箇所は直前にチョムスキーを引用していて、敬意を払いつつも、ほかの方向性を呈示している。すなわち、言語の仕組みそのものの分析に深く分け入っていくのではなく、人と言語のかかわり、当該社会や集団内での言語の位置づけを考えるため、どのような状況において発話がされるのかを分析する必要があることを訴えたのだった。音素、音韻から形態素の分析を経て、談話文法へと分析の単位が拡大していくのは、これまた時代の要請だったともいえる。

本書が出た当時はラボフのニューヨークで調べたデパートの店員の言語の使い分けに関する調査がセンセーションを起こしていたこともあり、社会言語学が一気に注目を浴びていた時期で、まさにその分野が輝いて見えた時代だった。

言語学と隣接の社会科学の変換の過渡期としての「社会言語学」の全盛を見る見込みはあるのだろうか。私の考えでは、その可能性は非常に微妙である。(本書 p.267)

一応これは、日本においてはひとまずの成功を収めたと言っていいだろう。しかしいまだに、文脈と発話のかかわりについては難しいからか、モヤッとしたところで終っている。そもそも文脈とはいろいろな次元が考えられるし、日本語の母語話者でさえも「空気が読めない」と言われることがあるくらい適切な選択が難しいものなのだ。それを参与観察している外部の者にどれだけ分析できるのか。この点がいまだ乗り越えられていない。その点において、本書のいう人と言語のかかわりの探求は、いまだ十分現代的価値を持つのだ。

本書で面白かったのは、『史的言語学における比較の方法』を書いたメイエには手厳しい評価を与えていた点だ。

ある学者の言語区域は、彼の言語のいくつかに彼が伝達的に参加できることを意味しないこともある(偉大なフランスの言語学者のメイエは多くの言語が読めるけれども、フランス語以外の言語は話したり書いたりしたことがないと言われている)し(以下略)(本書 p.73)

比較言語学者だったから、英独はできてあたりまえ、希羅も書けて話せたと思うのだけど。

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史的言語学を担保する厳密性

メイエ, アントワヌ著 泉井久之助訳(1979[1977])『史的言語学における比較の方法』みすず書房

言語地理学は各々の語、各々の形のもつ歴史が、それぞれ特異性をもつことを特に明らかにした点において功績があった。これらの特異性はそれぞれの言語の体系的な全体のなかにその位置をもつものである。この全体のなかにそれらを置くことを忘れて、単に孤立的にのみ見る人は、反対に全体ばかり眼を注ぐのみであって、併せてこれらの全体を構成する特殊事実の各々を十分に正確な批判を持って研究することを知らない言語研究者にもまさって、大きい誤謬をおかすことになるであろう。(本書 p.123)

要するに、守旧の力に乏しく、変化に向う勢力が強い。今日以降、英語は英国と合衆国とで、それぞれ異なる進展の道を辿るであろうことは極めて自然である。
世界における英語の運命をあとづけるのは、ことに教えられるところが多いことと思われる。(本書 p.193)

本書は比較言語学の泰斗であったフランス人言語学者、アントワヌ・メイエの主著である。主に扱われているのは史的言語学(=歴史言語学・比較言語学)において、どのような方法論を持って厳密に祖語を再建(Reconstruction、再構とも)してゆくかについてである。

言語地理学でジリエロンの方言周圏論という成果があるフランスでも、同市年情な広がりを持たない部分もある。それはやはり交通手段によるもので、実は同心円的な分布ではないものの、周圏論の枠組みで語ることができるのだ、というあたり、当時のフランス人にとっては眼から鱗だったはずだ。

「ただひとりの言主では、その地方弁全体を代表する上に、田w賞とも不適当なところがあるのを免れない。手続きは粗大であり、およそにとどまるといわなければならない。しかし唯一可能な方法としては、これしかないのである」(本書 p.110)

と正直に吐露しているあたり、著者への信頼が置ける。この点をどう克服するかと言うと、そこは信頼できる調査者があちこちに行って言主を選ぶしかないのである。これでぎりぎり「雑多な調査者の個性による歪みを考慮する必要がない」(本書 p.111)のだ。

また、よく見落としがちな借用についても

「一個の与えられた言語の形態法の体系が、相異なる二つの言語の形態体系の混合に由来すると考えかねればならないような場合に、われわれはいまだ遭遇したことがない。」(本書 pp.139-140)

と述べている。借用語という意識がある限り、違う言語だという意識が生き続けるからである。

著者が一貫して述べているのは、個別言語・方言へのミクロな探求と同時に、全体の中での位置づけを慎重に行うためのマクロな目配りである。現在の日本での言語学の趨勢を見る限り、比較言語学や類型論のような、細部をみつつ全体の位置づけを考える学問は下火である。しかし英語や中国語といった大言語だけが言語ではなく、そしてそれらの大言語も誕生から今まで、そして未来永劫大言語であるとは限らない。言語とは何か、言語と人とはどうかかわるか。この言語学のテーマを改めて顧みることができる点で、本書の持つ意義は大きい。

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環境が文明に影響を与える?

梅棹忠夫(1967)『文明の生態史観』三陽社

マイクロ・ウェーブ網ができようというのに、市内電話の発達のわるさはどうだ。鉄道はあっても、自動車道路はこれでも道か。化学工業、造船、光学機械はたいしたものでも、工作機械はだめ。数百の大学と、わずかな研究費。たしかにこういうデコボコはあるにしても、全体としてみれば、やはり日本人の生活様式は、高度の文明生活であることは、うたがいをいれない。(本書 p.81)

第二地域は、将来四つの巨大なブロックの併立状態にはいる可能性がかなりおおいとおもう。中国ブロック、ソ連ブロック、インド・ブロック、イスラム・ブロックである。それぞれは、たしかに帝国ではない。(中略)昔の帝国の「亡霊」でありえないだろうか。(本書 p.100)

昨年亡くなった梅棹忠夫の代表作である本書は、一大センセーションを巻き起こした。

文明論という、現在の民族学でもあまり扱われていない話で、戦後20年を経ていない時期に行った調査旅行からこのような着想を得たのは、筆者の創造性の強さのおかげだろう。あるいは、生物学というバックグラウンドが、その他の民族学者と違った見方を提供したのかもしれない。

本論の概要としては、ユーラシア大陸の両端に先進国があり(ヨーロッパと日本:第一世界)、その間に栄華を極めた帝国であった過去を持つ発展途上国(第二世界)があり、後者は中間の乾燥地帯と、それと直行する軸で4つの地域に分け、それぞれロシア地域、中国地域、インド地域、イスラム地域という見方をする。四大文明も帝国もその第二世界から生まれたのに、なぜか没落して第一世界に文明を伝播したのに、それらの植民地になった。これはおそらく、大陸という生活環境と関わりがあるのではないか、と梅棹は着想を広げていく。

その後の比較宗教論の話でも、宗教の伝播にはやはり生態的な要素があると共に、ウイルスとのアナロジーを用いて、その広がりを検討している。すなわち、地域病のようなエンデミックなものと、流行病のようなエピデミックのようなものがあるのではないか、と。

そこで思い当たったのが、方言周圏論だ。日本では柳田國男が『蝸牛考』で述べた、中央の方言が、まるで波紋を描くように時間差と共に地方へと広がっていくという話だが、文明も宗教も、同様のことが言えるのではないだろうか。

本書では文明や宗教とは何かとか、アフリカや中南米を捨象していること、東南アジアも一部当てはまらないことや、中国もあの巨大な国をひとつとして扱っていいのかといったような、荒削り故の要検討箇所もあるのは事実。しかし、いろんな見方を持つことの重要さは勉強になる。これが学際性の成果というものだろう。

その後、ソ連は崩壊して中国も市場経済を導入した。インドは情報産業で急成長を続けているし、アラブでもジャスミン革命以降、変化が起こっている。そんな今、本書のような発想は出るのだろうか。あるいは今の日本の若い人たちがそれらの諸国に行って、「日本は特殊な国だ」という気持ちを持つのだろうか。

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これで分かる『論理哲学論考』

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 著/木村洋平 訳・注解(2010)『『論理哲学論考』対訳・注解書』 社会評論社

注 4.114 『論考』の哲学は、「思考の空間」を「言語の空間」に置き換えて、そこで、有意味な命題と無意味な命題の間に境界線を引くことによって、施行できる領域を確定する。
(本書 p.135)

7 語りえないことについて人は沈黙する。
7 Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
(本書 pp.358-360)

この訳者は1983年生で、本書を出したのが27歳のとき、さらにこれより前に訳本を出しているから、もっと若くデビューしたことになる。

ドイツ語と日本語の対訳なので、日本語で意味の取りづらい箇所があれば、ドイツ語で何となく大意をつかんで分かった気になることも可能である。

また、左ページにある対訳に対応する形で、右ページには注解が入る場合には入る。

本書の成果の一つは、言語で表現できる境界を確定させたことである。すなわち、言語に表現できるものはともかく、言語で表現できないものについては沈黙せざるを得ないのだ。

それは例えば「AはBよりCだ」という形式を示すことは出来ても、その意味が述べられないような事態が該当する。(2.172)

例えば楕円を写し取るのに真四角の桝目で観測するか、正三角形の升目で観測するかで、元となった楕円は同じなのに、写し取られた形が変わる。そうした形については示せるものの、語り得ない。

ヴィトゲンシュタインは自分の構築した体系のなかでは完全に透徹した論理を貫いている。本書は短いし、与えたインパクトは大きいし、それにドイツ語だといまやProject Gutenbergで無料で読める。そういう意味では読んでおいて損はない。

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日本植民地下の鉄道の概要を知る

高成鳳(1999)『植民地鉄道と民衆生活 朝鮮・台湾・中国東北』 法政大学出版局

この号の満鉄の広告には鍬を担ぎ子供を抱いた開拓民のシルエットをバックに「大陸国策を現地に看よ!」のスローガンが配されているが、台湾鉄道部のそれは緊張感とはおよそ無縁な「平和な」コピーの羅列である。「パパイヤの甘い香りはいつしか夢を誘ふ」ことが、どうにも当時の国策にダイレクトに結びつくとは考え難い。このあたりにも台湾鉄道の日常が現れているとも考えられないだろうか。植民地期台湾鉄道には、日本の内地の鉄道に通じる地域への一定の定着を見ることができたと推察される。(本書 pp.79-80)

最近はあちこち乗ったことがある国の鉄道に興味を持っている。だからタイの鉄道史を描いた『王国の鉄路』や今回の台湾の鉄道史に言及している本を読んだりしている。

本書は大日本帝国の植民地の鉄道を対象としており、すなわち朝鮮、台湾、中国東北部(満鉄)の3地域の比較研究となっている。

論文等は、この本は資料の読み込みの浅い部分があることも指摘されている。と言ってもその論文は台湾研究社が書いたものなので、この著者(在日コリアン)の興味の中心は朝鮮半島だろうから、少し情熱に偏りがあるのは否めない。

日本人が朝鮮の都市に本格進出するにあたっては、街の規模の大小に関係なく旧市街に隣接する形で新市街が造られ、もっぱら日本人が定住し官公庁の諸機能も集約されるというパターンが多く採られたという。
(中略)
このように鉄道建設は朝鮮在住日本人による町づくりと一体に推進され、日本人の都市への移住に多大な便宜を与えるとともに、都市の朝鮮人に対する支配を、都市の立地条件からも容易ならしめる上で大きな効果があったのだといえよう。(本書 pp.44-45)

と、古来より住んでいた朝鮮人を蔑ろにして、新たに入植した日本人に比重を置いて鉄道を敷設したとしつつも、

列車本数が少なく、長距離輸送は大陸への通過ダイヤのために朝鮮内での移動には不都合も多く、都市部での短距離の移動にも不便だった鉄道の一面がのぞかれる。(本書 p.53)

と、ダイヤは大陸(満鉄)と日本国内とを結ぶ輸送に主眼が置かれており、朝鮮内の事情は二の次だったとしており、この点では日本人も朝鮮人も分け隔てなく蔑ろにされていることになる。結局この矛盾を

とはいえ朝鮮在住日本人にとっては、鉄道が敷かれ列車が通るというそれだけのことでも、異郷である朝鮮で生活していく上での強力な精神的支えとなっていたことだろう。(本書 p.56)

として解決しているのだが、異郷での鉄道が精神的な支えとなるのであれば、台湾や中国東北でも事情は同じはずであるのだが、ほかの地域に関してはそのような記述は見受けられない。

1964年に交通博物館が東海道新幹線開通記念に刊行した本の題名は『鉄道の日本』だった。格助詞の「の」は「が」と同じである。鉄道の日本は、「鉄道が日本」、鉄道こそ近代以降の日本そのものであった。

そしてその日本の鉄道が、東アジア植民地に出ていったときに、それは植民地地域の日本化を促す作用をした。今日、台湾の駅弁が「ビエンタン」と呼ばれるのは、「弁当」の現地語読みに由来している。(両方とも本書 p.187)

格助詞の「の」と「が」が同じになるのは、君が代や我が国等の用法で、この場合は便宜的にいうところの主格の「が」であって、「の」と同じ属格的正確を有したものではないだろう。弁当の話は、現在では便當と書かれているし、民間語源学(Folk Etymology)の域を出ない。

日本の旧植民地の鉄道に関するまとまった研究は本書を含めて数は多くないので、資料として貴重である。当時の車両や駅舎、地図を見ているだけでも楽しめる。満鉄のあじあ号はあんな流線型の機関車が90km/hで走っていたとのことで、その勇壮さは想像もできない。また、装甲列車も走っていたということで、当時の中国東北部の鉄道は、さぞかしダイナミックな光景が展開していたんだろうと想像力が刺激される。

それにしても冒頭の台湾鉄道のキャッチコピー、牧歌的だなあ。

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宗教の栄華と退潮を見る

アーネスト・ゲルナー著/宮治美江子, 堀内正樹, 田中哲也訳(1991)『イスラム社会』紀伊國屋書店

急速な職業移動と技術革新が特殊な諸共同体の平和的共存を困難または不可能とした近代的状況下では、これらの共同体のそれぞれが自分自身の国家を獲得または創設しようと試みる。言い換えれば、民族主義が支配的になる。(常軌を逸した悲劇的なケースであるレバノンにおいてのみ、諸共同体は不安定な力の均衡によってどの共同体にも属していない政治体制の下で共存し続けることを強いられている。(後略))(本書 p.140)

カダフィによるスンナ(筆者註:コーランとは対照的に、法典化された伝承)の停止や削減はウラマーの地位と権威を大いに減少させ、またある意味ではそれはウラマー階級の解職であった。(中略)日々のスンニー主義は、その秩序や冷静さ、それを優先的に受け入れてくれる態度がある時、それを人民のアヘンと呼ぶことはほとんどできない。すなわちそれは市民たちを守る市民憲章に非常に近いものであり、そこではウラマーたちはその法委員会のような存在であった。しかしカダフィの極端な厳格主義は市民からそうした防衛手段を奪った。(本書 p.149)

だからどの部族もムスリムとしての立場を示す必要があるし、いかなる場合にもそれを示したいと望むわけである。ところが彼らはコーランに関する学識でそれを示すことはできない。文盲だから。(本書 p.264)

佐藤優をして「獄中で読んだ学術書の中でそりが合うのはアーネスト・ゲルナーだけだった。(中略)マグレブのムスリム社会をイブン・ハルドゥーン[1332-1406]の交代史観とヒューム[1711-76]の「振り子理論」を用いて見事に分析している。この方法論も極めてユニークで、まさに自分の頭で考えている」(佐藤優(2010)『獄中記』 岩波書店. p.434)と言わしめた。

僕は仕事でムスリムと関わるので読んだ。しかしこれまで行ったことがあるイスラム圏も、仕事で関わりのある国、すなわちマレーシアだけだ。この本の射程は訳者あとがきに書いてあるとおり、オスマントルコには適用しづらいものの、一概にマグレブ(地中海沿岸)じゃないからといって適用できないと決めつけるのは性急らしい。ただ、東南アジアでは合わないのではないか。

基本的な枠組みとしては、マグレブを例にとったイスラム社会においては、都会の定住民と田舎の遊牧民に分けられ、前者は文字を読むことができて聖天に直接アクセスすることができるのに対し、後者は文盲で聖典へのアクセスは仲介者を必要とする。そして前者は聖典の読みを研究するウラマーと遊牧民の攻撃から守ってくれる政府を必要とし、後者は仲介者としてのスーフィーがいて別途クランの長がいればいいだけの組織で、特段政府のようなものを必要としない。

こうした二項対立的な構図は、おそらくは西はマグレブ地方から、東はトライバルエリアのあるパキスタンまでのものだろう。スリランカやインドネシア、マレーシアといった国々では該当しないのではないだろうか。

イブン・ハルドゥーンの社会学とヒュームの振り子理論、それに加えてケインズやエドマンド・リーチといった大家の理論を縦横無尽に使いこなしてイスラム社会を分析するアーネスト・ゲルナーの頭のキレは、まさに快刀乱麻を断つ具合だ。原著書初出年が1981年と30年前、もちろん執筆時に使ったデータはそれ以前のものだから、アラブの春のジャスミン革命でチュニジアは政権交代が行われ、リビアのカダフィは殺害されてしまった。そうした社会情勢の違いはあっても、やはり本書は、まだイスラム社会を理解する上では多くの示唆を与えてくれる。

スーフィズム(神秘主義)については井筒俊彦の本から知っていたが、実際は田舎の部族が頼るもので、土着の信仰とないまぜになったものだ、という見方は知らなかった。大変勉強になった。

上記引用の、文盲だからという箇所についてだけど、イスラム社会は声の文化なのではないか。マレーシアでも決まった時間にはモスクからアザーンが朗々と聞こえてくるし、井筒俊彦の回顧録にもそういう話が出てくる。本書でもp.290にアルジェリアのスーフィー(イスラム神秘主義者)コーランの九割を覚えたというエピソードが出てくる。解釈や伝承を捨象して、原典に忠実な姿勢をしめすには、頭の中にあるコーランを引用すればいいのだけれど、そのあたりの説明がないのがもどかしい。(もっとも、オングの『声の文化と文字の文化』の出版は本書の翌年、1982年だから仕方ないとも言えるのだけど。)

惜しむらくは、原著書の題名がMuslim Societyだったのだが、本書では(出版当時の)日本の事情を考慮して『イスラム社会』と訳出された。今ではムスリム社会でも通じるだろう。ここ十数年でイスラムもずいぶん人口に膾炙した。そのほか、原住民と書いていたり(Aborigineだったらまだしも、Indigenous Peopleは、今は先住民という。中国語では原住民と言うけれど。)、諸刃の剣と諸刃の刃と、両方の書き方が混在していたりと、少し急いだような箇所が見られるところだ。

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パリ万博の壮観を再体験

鹿島茂(1992)『絶景、パリ万国博覧会-サン=シモンの鉄の夢』河出書房新社

万博博覧会というイベントは、たしかに国家の主導による「公」の行事であるが、その目的が、個人や私企業の発明・開発した優れた「商品」を一か所に集めて展示し、、生産者・流通業者・消費者それぞれに刺激を与えて、各々の利潤追求の欲望を加速することであるという点では、これほど資本主義的な制度もほかにない。共産圏ではオリンピックは開かれても万国博覧会はついに一度も開かれなかったのは、ある意味では当然すぎるほど当然のことなのである。(本書 p.110)

いっぽう、商品もまた、展示されるというそのことによって、重大な本質的変化を蒙ることになった。すなわち、展示されたその時点から、商品は、役に立つ品物という本来の性質、すなわち使用価値のほかに、プラス・アルファの価値を獲得することになるのである。このプラス・アルファの価値とは、もちろん「視線の弁証法」による欲望の投影で生まれてくるものなのだが、それと同時に、いわば日常レベルとは切り離された、祝祭的、演劇的空間におかれることによって商品に付け加わる価値でもある。ベンヤミンの用語でいう「展示価値」あるいは「交換価値」がこれに相当する。ようするに、商品は、それがどんな商品であれ、「展示される」ことによりアウラを獲得するという原理がここで実証されたのである。(本書 pp.160-161)

本書は万博大好きな鹿島茂の、パリ万国博覧会に関する集大成その1とでもいえる作品である。

以前にロンドンで開催された万博とは趣が異なり、パリで開催された2回の万博は、万物(universelle)のための万博だったのである。それに一役を買ったのがナポレオン3世であり、その庇護下にあったサンシモン主義者たちであった。彼らは世界中のありとあらゆるものを集め、展示し、それらを民衆に見せる(教育もサンシモン主義の大事な要素)というのを目的とし、万博を計画した。

結果、準備不足だった1855年の万博では一部の展示館ができず、ナポレオン3世は開会の挨拶で不満を見せて(ぼそぼそと小声で、極短なスピーチを行なって)帰ってしまう。しかし1867年の第2回万博で彼らは捲土重来を期す。日本からも芸者たちが参加したこの万博において、世界のありとあらゆるものを展示するという計画は結実した。

民衆は大いに沸いた。万博の展示物には関税をかけず、その場で即売することを可としたのも大きかった。当時のパリではモノの売り買いというのは今とは全く違って、正札販売がされておらず、店に入ったが最後、知識の豊富でふっかけようとしてくる店員と、入ったものの手ブラで出る自由のない客との不平等な駆け引きがなされた。しかし万博では正札販売、ウィンドーショッピングも可ということから、大変な人気が出た。まさにパリ万博は、売り買いの変革という点においても、エポックメイキングな出来事だったのだ。

本書の意義としては、上記の引用にあるように、万博の楽しさの淵源(展示されることによってアウラを獲得する)を示し、それが国家による私企業や個人の利潤追求の奨励であることを見抜いた点であろうと思う。ただ、共産圏では万博は開催されたことがない、と当時は書いているが、2010年、上海万博が共産党支配下の中国で開催された。これはどう見たらいいのだろう。

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経済学を学ぼうと思ったら

佐和隆光(1982)『経済学とは何だろうか』岩波書店

アメリカには夥しい数のビジネス・スクール(経営学の大学院)がある。ビジネス・スクールの卒業証書である経営学修士(MBA)の肩書きが、この国でビジネス・エリートたるための不可欠の資格証明とされている。
(中略)
こうした学習が、経営者としての実践的手腕に資するところは、たとえあるにしても、はなはだ僅少であろう。実のところ、ビジネス教育が実践に役立つか役立たないかは、どうでもよいことなのである。要は、ビジネス教育というものが、これまた一個の<制度>として社会的に容認されていること(中略)こそが、ビジネス・スクールの隆盛のゆえんなのである。(本書 pp.65-66)

完成された学問をなるべく速やかに、しかも正確に習得できるようにするのが、「教科書」の目的である。学問の発展過程における試行錯誤、歴史的背景、学説の草創期における論争、著者の人間性などはいずれも、教科書にとっては夾雑物ないし枝葉末節であるとして、きれいさっぱり取り払われてしまう。教科書の篇別構成は、学説史的展開の順序はほとんど無関係に、易しいものから難しいものへと、論理的かつ単系的に配列される。(本書 p.82)

結局のところ、経済理論が掛け値なしで「有効」でありえたのは、なんらかの「政策」を論駁するという役柄においてのことであった。もちろん、ある政策を論駁することが、オールタナティブな政策の「支持」を意味することを否定する気はない。しかし、その「支持」は、あくまでも消極的な支持にすぎないのである。(本書 p.203)

これまで経済学とは何か知らなかったのだけど、この本を読むとどういう特色があって、他の社会科学とどう違うのかがよくわかる。

産業革命の際に起きた科学の制度化を契機に、経済学は離陸する。世界恐慌の端緒となったアメリカの大恐慌でフーバーの反介入主義と均衡予算主義をモットーとする古典派的経済学を実践し、直後にルーズヴェルトはニューディール政策で介入主義、積極的支出政策、いわゆるケインズ政策を行った。そして戦争下に人間社会の現象を数学的に解析するという営みに参加した数学者から、計量的経済学者が生まれる。その後は、引用した教科書化や大学院・学会の拡充による制度化がなされて、コンスタントにエコノミストが排出される土壌が出来上がった。

しかしやはり理論はオッカムのかみそりで、現実を捨象したものとなり、現実に適用するには多くの変数を付け加えて美しくなくさせなくてはならない。その適用と失敗の繰り返しで理論は現実の近似値に近づくんだろうけど、しかし現実も同時に変化しているため、これはイタチごっことなる。そのため、学問にできるのは、経済学に限らず、畢竟論駁することだけとなる。という指摘はいまだに現代性を失っていない。

wikipediaに書かれてあった「著書『経済学とは何だろうか』では、トーマス・クーンのパラダイムの概念を新古典派~ケインジアン~新古典派総合~ルーカス反革命という一連の経済学説の流れにあてはめて見せた。」という一文に興味をひかれて読んでみた。

クーンへの言及で最も注目すべきは、或るパラダイムを基準にして問題が決められるため、その問題が解決されないのはパラダイムではなくて科学者が悪いのだ、としている点である。そのため、経済学において現在もまだ問題が残っているのは、ひとえにパラダイムの問題ではない。経済学者の問題であり、今を生きる我々の問題なのだ。

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レビュー 日本ノンフィクション賞

南方熊楠、渋沢敬三、新村出らとの交遊録

岡茂雄(1974)『本屋風情』平凡社

風呂場の外がわに下駄の足音が近づいた。「湯加減はどうかな」と翁の声。「結構です」と応える。しばらくするとまた足音がして「湯加減はどうかな」。「結構です」。繰り返すこと三回。わずか十五分か二十分のあ間にである。全く驚いた。私は他家の風呂をいただく機会はたびたびあったが、これほどまでに気を使われた経験はない。しかもそれが南方翁である。感激しないわけにはいかないではないか。(本書 pp.41-42)

私が碧梧桐に揮毫を頼んだ時、「私の書く看板を掲げた本屋は、たいがい潰れるが、それでもいいですか」といわれ、「かまいません」と応えたけれど、何とそのとおりになったのは笑止である。(本書 p.268)

民俗学、人類学、考古学専門の書肆である岡書院、山専門の梓書房を営んでいた岡茂雄のノンフィクション短編集。題名は柳田国男の一言に依る。柳田と筆者の仲がこじれて、渋沢敬三が仲裁をすべく会食を開いたが、後日「なぜ本屋風情を呼んだのだ」と言った(らしい)ことから、本書は名付けられたらしい。

そもそも陸軍幼年学校から陸軍士官学校を出て将来を嘱望された軍人だった岡が、なぜ一念発起して出版業を始めたのかは本書に詳しく書かれていないが、彼のような人が出なかったら、世界的にもかなり早いといわれるソシュールの『一般言語学講義』の翻訳やその他の貴重な出版物が後世に残らなかったのだから、その恩恵に浴している我々は、深く感謝せねばならない。

時代もあってか、本書に出てくる人たちがたいへん高名で、またその意外な一面に驚く。熊野の田舎に蟄居していて、わざわざ会いに来た人でも気が向かなかったら会わないが、自分がすいた人にはとことん筆まめ、それでいて照れ屋の南方熊楠。気持ちに波があって、自分から謝ることのできない意固地な柳田国男。表には出さないけども、いろいろと難しいところのある金田一京助。質実剛健という感じで学問の育成に援助を惜しまなかった渋沢敬三。そして出版界の指南役として岡の相談相手にもなってくれた岩波茂雄。こうした人々の、いわゆる公の側面でない、私的な側面の性格が見られるエピソードが満載で楽しめる。

新村出が安倍能成に頼まれて小林英夫を京城帝国大学にやったとか、広辞苑の編集には新村、柳田、金田一の他、橋本進吉や小倉進平にまで話が行ったこと、長野の駐屯地に徴用されて旅館に投宿して仕事をしていたら折口信夫が訪ねてきたり、自分の書肆名を河東碧梧桐に揮毫してもらったり(碧梧桐については石川九揚『書の終焉』にも記載あり)、梓書房には日本百名山の深田久弥が出入りしたりと、出てくるのはそうそうたるメンバー。やはりこれは岡の旺盛な仕事への情熱から生まれた輪なのだろう。ちなみに、終戦間際に軍務を頼まれたのは終戦の日に自決する阿南惟幾陸軍大将(終戦時は陸軍大臣)の依頼によるのだが、これは陸士時代の縁によるものとしても、おそらくは円満退官だったのではないかと想像される。

後に京大総長になる濱田耕作や、事件を起こした清野謙次との知遇も得ており、こうした日本の一流学者との付き合いがあったからか、本屋としての「分をわきまえる」ことをかなり意識している。今の感覚から見たら、少し遠慮しすぎではないかと思える。プロデューサーとして、もう少し遠慮を取り払ってもよかったのではないか。でも、そういう時代だったのだろう。

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鉄道に隠された政治的意図を読みほどく

柿崎一郎(2010)『王国の鉄路 -タイ鉄道の歴史』京都大学学術出版会

彼(サリット)は高規格道路を「開発」の象徴と絶賛したのに対し、鉄道に対しては非常に冷淡な態度を取り、バンコク市内の鉄道を軒並み撤去しようと画策したのですが、なぜかこのスパンブリー線については完成にこだわりを見せたのです。(本書 p.254)

ホープウェル計画は、正確にはバンコク高速道路・鉄道建設計画という名称で、香港のホープウェル社がバンコク市内の国鉄の在来線を高架化し、合わせて高速道路と都市鉄道を建設するという壮大な計画をBOT方式で行いたいとタイ側に打診してきたのが起源でした。この計画では、在来線の鉄道用地を使用して、三線化した在来線と都市鉄道を中層、高速道路を上層とする二重の高架線を建設し、高架下は商店や一般道路に活用する予定でした。(中略)北線と東線沿いに高架橋の橋脚が並び始めたものの建設は大幅に遅れ、更に1997年の経済危機によって、計画は完全に頓挫してしまいました。政府は1998年12月のアジア大会までの完成をデッドラインとしたものの、この時点でも完工率はわずか19%だったことから、1997年9月に免許を取り消しました。残った橋脚は「バンコクのストーンヘンジ」と揶揄されることとなり、今日でも北線沿いにその残骸を晒しています。(本書 pp.317-319)

タイの鉄道の歴史的変遷を周辺の東南アジア諸国と比べつつ追っている本書では、タイだけではなく、東南アジアの鉄道事情を俯瞰することができる。この夏休み、ぼくはバンコクに行ったのだけども、その時に初めて鉄道を大いに利用して抱いた謎が解けた。

バンコクのスワンナブーム空港についてエアポートリンクに乗ると、国鉄東線と合流するあたりで眼下に大きな鉄道工場が広がる。ここにはJR西日本から送られたと思しき12系と見られる客車も留置されているものの、熱帯の旺盛な生命力には勝てないようで、蔦に覆われ、放置されたままとなっている。何も動いている風はなかったので、単なる留置線なのかと思っていたら、これは国鉄マッカサン工場らしい。全く関係ないが、帰りにホテルからエアポートリンクのマッカサン駅に行こうとタクシーに乗って、下手なタイ語で「マッカサン駅まで」と伝えたら国鉄東線のマッカサンまで連れて行かれ、「違う違う、ペッチャブリー駅(地下鉄)に近いマッカサン」と伝えたのに、なぜかラッチャプラロップ駅に連れて行かれたのも、今となってはいい思い出である。地元の人にとってのマッカサンはやっぱり国鉄らしい。

夏にはフアランポーン駅からノーンカイ経由でラオスのタナレン駅まで乗ったのだけど、その際に気になっていたバンコクから北に少し行ったところにある橋脚も、新線計画かと思ったら、上記のとおりホープウェル計画の残骸だと知った。著者は、あとがきで書いている通り、鉄道好きなこともあって、かゆい所に手が届く。いまでは2両のディーゼルカーの運転となっているタナレンまでの国際鉄道も、かつてはノーンカイ行きの客車列車の一部が行っていたなんて、知らなかった。それを写真付きで掲載してあるんだから、著者の鉄道好きのホンモノさを感じる。

また、タイの鉄道史についても丁寧に追ってあり、とくに戦時中の国際鉄道網の発展などは興味深い。現在タイの国際鉄道網は南のマレーシアと北のラオスとしかつながっていない。しかもラオスは東北線の終着駅、ノーンカイから10kmほど伸びただけで、10分ほどでタナレンに着く。しかし戦前、軍用列車を運行する必要があった際には、日本軍の尽力により、ビルマまでの鉄道網も持っており、あと少しでプノンペンまでも伸びるところだった。今よりも国際鉄道網という点については、充実していたのだ。その後、ビルマの軍事独裁、ラオスの社会主義化、カンボジアはポルポトの恐怖政治等、地域の情勢もあって、国際鉄道網は分断されてしまった。そして今頃また、国際鉄道網への機運が高まっている。歴史は繰り返すのだ。

黎明期には北部の平定や発展促進を目指し、政治的意味合いを持って建設された鉄道も、次第に貨物や人の輸送といった経済的側面が考慮されるようになる。そしていま、また国際鉄道網に見られるような政治要素がまた出てきた。中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ビルマと鉄道網はつながるのだろうか。中国の出方がかぎを握る。

また、かつては米や豚を中心としていた貨物輸送も、道路網の整備によって車にとって代わり、今では専用車で量がはける石油やセメントが中心になった。また、行商をする短距離客よりも長距離客中心にシフトしていったという変遷から、時間軸に沿ってタイの人たちの暮らしの移り変わりを垣間見ることができる。場所こそ違うが、北河大次郎の『近代都市パリの誕生 ―― 鉄道・メトロ時代の熱狂』も一緒に読むと、鉄道をめぐる人々のかけひきそのものの面白さに、つい魅了されてしまう。

今後の課題としては、渋滞がひどいバンコクにどのような都市鉄道網が整備されるのか、そして遅延が常態化している上にきわめて安い運賃水準となっている国鉄が赤字体質からどうやって抜け出すのか。その点にかかっている。

本書でのもう一つの驚きは、鉄道の撮影が禁止されているビルマの鉄道の写真があること(許可があれば撮影可らしい)。こうした分野の先行研究はあまりないものの、それをまとめてしかも博士論文にした筆者の苦労が、見事に結実している。