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アメリカのために行われた日本・イラン首脳会談

マシュハドに飛ぶ半年前、革命防衛隊と関係があるとして米国に制裁されているマハン航空の旧式のエアバスのバンコク便に搭乗したことがある。座席に座ってシートベルトを締めると客室乗務員がやって来て、前方のトイレは壊れていて使えないと言われた。トイレが壊れていても長距離便を運航してしまうというのはイランならではである。

本書 p.38

現役の外務省員は誰も前回一九七八年に行われた福田総理の公式訪問を知らないことになる。歓迎行事で感極まって涙を流して、あやうく一行からはぐれかけてしまった外務省員も出た。

本書 p.52

2019年6月12日、イランのテヘランで日本・イラン首脳会談が行われました。安倍首相とローハニ大統領が出席しました。日本の首相がイランを訪問するのは41年ぶり、革命後初めてのことでした。通常、総理の外国訪問は1年前に決まることもありますが、これは数週間前に決まったもので、当時駐イラン日本国全権特命大使を務めていた著者から見たそのロジ(後方支援)の大変さが描かれていて、大変興味深く読めました。

さらに興味深いのは外交の内容です。共同通信の伝えたところによると、米国の制裁で肝心の外貨の稼ぎ頭であった原油の輸出ができなくなっていたイランに、米国はある提案をします。それは日本を舞台にして、イラン産原油とアメリカ産のトウモロコシ・大豆を物々交換する内容でした。結局イラン側は「経済制裁解除が先」という原理原則を曲げず、この計画は頓挫してしまいます。

イラン側は安倍首相を歓迎し、西側指導者とめったに会わないとされる最高指導者のハメネイ師と面会します。しかし、外交儀礼に反することに、その様子はすべてビデオで撮影され、テレビで公開されてしまいました。

本書はタイトルでわかる通り、「イランは脅威ではない」というスタンスで書かれており、ある種のポジショントークであることは差っ引いて読まないといけません。駐イラン日本国大使を2年務めた著者が書くのですから、イラン寄りになってしまいます。しかし、日本の多くの読者はイランのことを多く知りません。その点で、日本の代表としてイランの内部を見た著者の経験はイランを知る一つのきっかけになると思います。本書ではアメリカとイランの相互不信の原点やその歴史なども詳しく書かれていて勉強になりました。

余談ですが私も著者が書いているマハン航空のバンコク便に乗ってテヘランに3度行ったことがあります。A300の旧型エアバスでしたが、無事テヘランに着くことができました。

マハン航空のA300。バンコクのスワンナプーム空港にて。
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中国国家主席の通訳が見た日中外交

ある日の夜九時頃、日本政府の赤坂迎賓館に泊まっていた彼(著者註:華国鋒 国家主席)は、入浴後に着替えた日本式の浴衣姿で建物の後ろの庭園に散歩に行きたいと外へ出ていった。私はびっくりして彼をとめた。この迎賓館のいたるところに警備員や新聞記者が数多くいるので、もし主席の浴衣姿の写真が誰かに撮られ、明日の新聞やテレビで報道され、おまけに冷やかすような説明を加えられたりしたら、きっとお茶の時間や食後の話題になり、大きなセンセーションを巻き起こすかもしれない、と述べた。

本書 p.170

南昌空港当局が言うには、広州の天候が荒れていて、終日飛行機の着陸を受け入れていない。日本の客人(筆者註:日本作家代表団)はこれを知るとあわてた。
(中略)夕方、(著者の上司の)廖から電話があった。周(恩来)総理に指示を仰ぐと、これは自分が引き起こしたことで、自分に責任があると言って大いにあわて、民航総局と空軍司令部に非常措置をとらせ、時間通りに広州に送り届けるように指示した。

本書 p.298

中国の国家主席の通訳を務めた筆者が間近に見た日中外交の様子を描いた本です。国家主席や総理等、中国のトップの姿を描いたため、共産党から出版の許可はもらったものの中国大陸では発行されず、香港で発行されました。

著者は1934年江蘇省生まれ、高校卒業時に学校の党支部から北京大学の外国語学部に入るよう通知を受けます。憎い日本人の言語を学ぶことに抵抗はありましたが、日本と向き合う人材が必要であると説得を受け、日本語を学び始めます。しかし翌年、学業を休止して共産党員として活動するように命じられます。本人は政治生活が肌に合わなかったらしく、日本語学習野道に戻してもらうよう掛け合い、日本と日本語の専門家になっていきます。

本書で初めて明かされるのは、日中国交正常化交渉時の大平正芳外相と姫鵬飛外相による一対一の車中会談です。田中角栄総理が訪中し、周恩来総理との日中首脳会談を行いますが、二回目で暗礁に乗り上げます。日本と台湾の平和条約であった日台条約の取り扱いを巡って食い違いが起こりました。そんな中、中国側がセッティングした万里の長城への視察の道中、急遽大平外相が「姫外相と二人で話をしたい」と言い出し、同乗者を替えて車中会談を行います。車内は両外相の他、運転手と通訳である著者のみでした。そこで二人は落とし所を見つけます。日中国交正常化への情熱が伝わる貴重なエピソードです。

ほかにも文化大革命のさなか、情勢への対応に忙殺される周恩来の様子や、大平首相の招きで訪日した一ヶ月後に大平首相が亡くなり、弔問のために再来日した華国鋒は国家の情勢から大平家の返礼を受けられなかったこと、大平外相は田中角栄首相に送られた書が論語であるとすぐ分かった知識人だったことなど、国家の首脳を間近で見ていた著者ならではの話が披露されます。ピンポン外交が米中のみならず、日中関係にも大きな影響を与えたことは本書で初めて知りました。

中国では外交官が人民日報で働いたり、国家の規律上言えないこともあったなど、中国の内情が垣間見える話も出てきます。中国での出版が許可されなかったのも、このあたりに原因があるのかもしれません。

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琉球を探検した西洋人

この人々の態度はきわめて温和で、ひかえめであった。注意ぶかく、好奇心がないわけではないが、われわれがくり返してすすめたあとでなければ、決して近づいて見ようとはしなかった。好奇心にかられて我を忘れるような行動ははしたないことだ、という上品な自己抑制を身に着けているためと思われる。

(本書 p.109)

とはいえ、琉球は貿易船の航路とは外れた位置にあり、その物産には何の価値もない。(中略)近い将来にこの島をふたたび訪れる者があろうとは思えないのだが。

(本書 p.287)

1816年にアルセスト号、ライラ号という2隻の船で琉球を訪れたイギリス人航海士たちの記録です。西欧に琉球の具体的な姿を初めて伝えた記録といえます(本書解説より)。シルクロードや朝貢貿易がありながら、琉球と西欧の直接的な接触は19世紀までなかったのが驚きです。

マクスウェル艦長たちは北京で皇帝に謁見をしようとしましたができずに終わり、広東から中国人通訳を一人連れて、朝鮮半島と琉球を経て、マラッカ海峡からヨーロッパに帰ります。結局、現在のインドネシアあたりで船は沈没し、別の船に助けられて帰ることになりました。その際に琉球で採った貴重な標本等も失われてしまいました。この航海記が残ったのは僥倖と言えます。

朝鮮半島では現地の人から冷たい対応を受けますが、琉球では一転、心のこもった扱いを受けて、一同は感激します。釣り糸を垂らすと先に魚を結わえてくれる漁民たち、船に乗り込むも、礼節を持って対応する人々、様々な階層の人たちとの交流がリアルに描かれています。

当初はなぜ琉球に来たのか、何をしに来たのか、と訝しがられますが、船の修理と補給のためと言って納得させ、地図や海図の作成を行うあたりは、さすが船乗りと思います。現代人の感覚からするとあまりにもズケズケと入って行きます。しかし琉球も外交上手で、丁寧に献上品を持って扱うし、病人には医者をよこしたりします。

疫病やトラブル防止のためか、頑なに上陸を認めない琉球側と病人のために上陸して休息を取りたい、願わくば王に謁見したいと要請するイギリス側の駆け引き、同時に深まっていく友好関係が見どころです。

交流が深まるに連れて、琉球側の役人がブロークンな英語を覚え、イギリス側もうちなーぐちを覚えたため、英琉間の通訳が行われています。当たり前といえば当たり前ですが、その様子に新鮮さを覚えました。

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北朝鮮に7年間抑留された日本人船長

腹を決めた。
「命令したのは私だ」
紅粉は切り出した。この一言ですべてが決まった。
「私が機関長に命令した。彼に責任はない。頼むから、ほかの三人と一緒に日本に返してやってくれ。頼む……

(本書 p.41)

「北朝鮮は官僚主義なんです。誰も責任を取りません。私が脱走すれば、軍の上司が責任を取らされます。私が南浦港から密航すれば、警備兵が責任を追及されます。しかし、誰も責任を取らないとなれば、第三者の悪人を仕立て上げる以外に方法がないでしょう。それが富士山丸の船長たちだったんです」

(本書 p.256)

日本と北朝鮮の間にある人権問題として一番に挙げられるのが拉致事件です。戦後から2000年代までを中心に北朝鮮が工作のため日本中から日本人を拉致しました。ある者はスパイ養成の日本語教師に、ある者は戸籍はそのままで北朝鮮から来た人と入れ替わるなど、浸透工作は多岐に及びます。一連の拉致事件の一部を北朝鮮が認めたのは2000年の小泉訪朝でした。ただ、その前に北朝鮮によって不当に拘束された日本人がいました。一人は日本海側で漁をしていたら海難事故(を装って?)で北朝鮮に保護され、そのまま現地に暮らすことになった寺越武志さん、もう二人が本書で出てくる紅粉勇船長と栗浦好雄機関長です。1983年から1990年まで7年間、北朝鮮で抑留されていました。釈放の条件として北朝鮮を悪く言わないこと、言うと家族が交通事故にあうかもしれないなどと脅されましたが、船長が阪神・淡路大震災を経験し、死んだら残らないのだから死ぬ前に記録を残そうとした結果、書かれたのが本書です。

1983年当時、日本と北朝鮮の間に国交はなくても、貿易はありました。その一つ、はまぐりを始めとする魚介類の輸出入を行っていた船が、紅粉船長や栗浦機関長の乗る富士汽船の第十八富士山丸です。

1983年11月3日、北朝鮮の南浦からはまぐりを積んで帰国する途中、密航者を発見します。李英男と名乗るその男は山口県で入管に引き渡されました。入管の考えは当初、四日市ではまぐりをおろした富士山丸に密航者を送り返してもらう予定でした。そのため、富士山丸は当初予定になかった北朝鮮への渡航のため、新たな貿易契約をします。しかし取り調べが長引いたことから、密航者なしで北朝鮮に行くことになりました。その事情は朝鮮総連関係者にも一筆書いてもらい、最善を期しました。しかし北朝鮮につくと北朝鮮の公民を不法に日本に連れて行ったかどで逮捕、勾留されます。同じく捕まった一等航海士、機関士、コック長は船長が罪をかぶったので釈放されました。船長と機関長だけが7年間抑留されます。罪状認否すらない裁判で二人は労働教化刑15年に処せられ、強制収容所に入れられました。持病を持つ二人でしたが、幸いに強制労働はさせられず、強制収容所では仲良くなった看守からアヒルの卵をもらったり、畑を耕して暮らします。

いっぽう、残された人々も奔走します。家族は当時朝鮮労働党と友党関係にあった社会党の代議士に働きかけ、年に何度かあった議員の訪朝団に望みを託します。土井たか子が金日成に会ったとき、事前には断られていた二人の話を持ち出し、政府間対話の緒を掴みます。その頃には署名活動などで世論も大きく動いていたことが功を奏しました。中曽根首相が中国の胡耀邦国家主席に協力を依頼、訪朝団も働きかけるなど大きく動きました。また国際情勢もラングーン事件以来かけていた制裁の解除、米国の対北朝鮮政策の変更、中国、ソ連の韓国への接近などもあり、大きく動きます。結果、二人は最終的に金丸・金日成会談で釈放が決定されました。

7年の間に紅粉船長の父は亡くなり、富士汽船は破産、社長は心労がたたって寝たきりになりました。また、根拠のない噂レベルの話ではありますが、自民党副総裁まで務めた金丸もこのときに北朝鮮に接近しすぎたため米国の信頼を失い、失脚します。その後、失意のうちに亡くなりました。官僚主義国家におけるたった二人の勾留が、多くの人の人生を変えました。一方、特例的な措置で日本に亡命した李英男と名乗っていた閔洪九は窃盗などで前科を重ねつつ結婚、子供を持って日本で暮らし続けます。

本書では北朝鮮との問題が起きた場合のルートとして外務省は5つ考えていたと明らかにされています。当時は通常の外交ルートのほか、議員連盟などを通じた働きかけが可能だったのです。一方、強い制裁を実施している今はそうした交流がありません。交流を狭めてまで制裁するのも、ある程度の交流を残して制裁を緩和するのも、どちらも一長一短です。表の外交ルートで行うのが筋ですが、一筋縄でいかないのが国際政治だと改めて知らされます。

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中国人は快楽に向かう?

竹内実(2009)『中国という世界-人・風土・近代』岩波書店

-チュウゴクはどうなるのですか。
たしかに、興味のある問題である。
ひとから質問されるまでもない。自分でもすぐには答えが見つからない大きな疑問で、自縄自縛になる。問題を設定するもの難しい。
(本書 p.3)

初代のイギリス領事、バルフォアは、「条約」が締結されると、とり急ぎ上海に赴いたが、ホテルなどあるはずはない。県城内に家を借りて住むうち、知らない他人が入りこみ、好寄の眼をかがやかせて、自分の一挙一動を見守るのに気が付いた。
家主の姚(タオ)という広東人が、入場料をとって見せ物にしていたのだった。
(本書 p.162)

中国を知るための入門書です。比較的薄くて読みやすいですが、これまで中国を全く知らなかった人も、中国を何度か行ったことがある人も、学ぶところのある本になっています。

著者は本書の中で中国の向かう先は「快楽」であると述べています。集団で旅行してポーズを決めて写真を撮る、爆買いをする、といった中国人の一側面を考えても、集団で楽しく過ごすという側面から考えたら彼らの思考様式が理解できるかもしれません。それが、周りにとっていいかどうかはさておいて。

翻ると日本はどうでしょうか。団体旅行も減りました。みんなで騒ぐことも、中国と比べて少ないように感じます。もう一つの対立軸として、「快適」が見いだせるかもしれません。

日本は「快適」な国です。ネットも自由だし、高速の自動改札やテレビゲーム、ウォシュレットが開発されたのも日本です。宅配サービスも早いし、アニメや漫画などのサブカルもすそ野が広いです。いずれもみんなで楽しさを共有するものというより、個々人のストレスを軽減する、一人で楽しむものです。大勢で快楽を共有するとともに、個人の快適を追及する方向に行っているのではないでしょうか。

中国は快楽に向かう、という考え方は確かに一つの見方だと思いました。

私も中国に赴任するときに買いました。


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言葉は相手の暮らしを知ってこそ分かる

青木晴夫(1998)『滅びゆくことばを追って -インディアン文化への挽歌』岩波書店

一度、リズおばさんの義弟に、キイチゴを取りに行こうと誘われたことがある。彼のジープに乗ったところが、そのあとが勇ましかった。(中略)七十いくつのおじいさんとは思えない猪突ぶりである。わたしは身体髪膚これを父母に受けたけれども、きょうのイチゴ取りが終わって帰り着くまでは、相当毀傷したようだ。(本書 p.131)

涼しい高原のティーピーで一週間を楽しく過ごした経験のあるわたしには、この暑い谷間に移住をしいられ、異文化のかたまりのような文化住宅で窒息しているおばあさんの姿がこの上なくみじめに見えた。(本書 p.199)

名著である。千野栄一が『ことばの樹海』(レビューはこちら)で絶賛していた消滅の危機に瀕する言語を記録する言語学者のエッセイだ。

文章からにじみ出てくるおもしろみは、著者の個性が出ている。冒頭に引用した箇所なんて孝経の「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」のパロディがさらりと出ている。

カリフォルニア大学の言語学教室で研究をしていたある日、主任教授から「ネズパース語を調査する気はないか」と持ちかけられたことから著者の話は始まる。車を借りて2泊3日、現地調査の始まりだ。まずはモーテルを決め、紹介してもらった人やたまたま知り合った人のおばさんなどをあたってインフォーマント(調査協力者)を決めていく。午前にインタビューを行い、午後はノートの整理。そうして少しずつ言語を記述していく。記述言語学の王道ともいえるべきやり方だ。カードゲーム用の机の上にはノートなど軽いものしか載せられないから、レコーダーは床に置いた、などと書いてあって隔世の感がある。著者の時代は電源式(コンセントにつなぐ!)テープレコーダーを使っていた。

著者のメインの仕事は言語の記述だが、本書の面白みはそれに附随する調査協力者との交流だ。一緒にタルマクスという一週間、遠い山に行って行うお祭り(だけど当時はもう宗教キャンプに成り果てていた)に参加してネズパースの人たちの暮らし方を体験したり、リズおばさんとキャマス(野草の根っこ)を取りに行ったり昔話を教えてもらったり。言語の調査はその言語を使う人々の暮らし全体を理解してこそなしえることがよく分かる。

インディアンの人たちは面で暮らしているから道なき道を進むけど、白人たちは線で暮らしているから道路から少しそれた集落のことは全然知らない。だから同じ土地に住んでいても、インディアンと白人の交流は意外と少ない。その間を著者が取り持つようになったのは、先住民と学界をつなぐ記述言語学者としての役割をも持つ著者だからこそなしえたのだろう。少し足りないぐらいで終わっている分量も、余韻があってまたいい。

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知の格闘技としての名画

高階秀爾(1986)『名画を見る眼』岩波書店

このような新古典主義の「理想美」の美学に対し、ロマン派は、はっきりと人間ひとりひとりの感受性を重んじた「個性美」の世界を対置させた。「美」とは、万人に共通な唯一絶対のものではなく、人によってさまざまに変化し得るものだという考え方である。(中略)万人に共通するものではなく、逆に万人にはなくて自己にのみ秘められているものを追求し、発掘することが、芸術の目的となったのである。(本書 pp.144-145)

従来の絵画表現をすっかり変えてしまう近代絵画の革命は、マネによって幕を開けられることとなるので、クールベは、思想的には急進派であったが、画家としては、ルネッサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派閥であった。(本書 p.172)

芸術は難しい。芸術家に「どのように見ればいいのですか?」と聞いたところで「皆さんがお好きなよう見ればいいんですよ、フフンッ」と返されて、はあそうですかというしかなくモヤモヤ。そんな感じで取り付く島もない芸術を分かりやすく解説してくれる。

解説の裏側には美術史と当時の風俗、それに画家たちの伝記まで読み込んだ知識がさらりと織り込まれている。一級の解説をポケットに入れて持ち運べる喜び。まさに開眼させてくれる書だ。

たとえばラファエロの「小椅子の聖母」。サーチエンジンで調べればいくつでも画像が出てくる有名な作品だ。何も知らずに見ると普通の写実的な絵画だ。しかし著者の目を通すと奥行きが出てくる。まずは衣装の色。キリスト教の図像学では聖母は聖母愛を象徴する赤と真実を象徴する青をまとって描かれる。だからその絵でも赤い上衣と青いマントが描かれる。さらにひざの上のイエスの服を黄色にすることで、赤青黄の色の三原色を配置し安定感を出している。加えて妙に不安定な聖母の姿勢。低い右ひざにイエスをのせて左ひざをあげる不安定な姿勢をしている。この不安定な姿勢こそ、聖母からイエスの顔、左ひざという視線の流れと聖母の肩から右腕、イエスの体といったそれぞれの形を組み合わせて安定感を出すために必要なのだ。その不安定な左ひざを隠すために、あえて右奥にヨハネを配置し、不自然さを打ち消している。

名画とは画家の鑑賞者に対する挑戦であり、鑑賞者の画家に対する挑戦である。絵画は数百年のときを経ても繰り広げられる知の格闘技であり、カンヴァスはその場を提供してくれる舞台なのだ。

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歴史をつくった負け組みたち

山口昌男(2005)『「敗者」の精神史〈上・下〉』岩波書店

覚馬も結局は、公の世界に足を突っ込む権威高官の地位に身を置かないという意味では、敗者の立場を貫いたと言えるのかもしれない。覚馬なくば、京都は学問の府の位置を獲得することなく、影の薄い第二の奈良というにとどまったかも知れない。このような覚馬に対して与えられたのは、従五位という位であった。(本書上 p.319)

薩長閥を中心に原型が形成された、近代日本の単一階層分化社会による学歴・政治・経済の堅い組織が行きづまりを見せている今日、薩長閥的官僚機構から排除されるか、一歩外に出た人士が形成したネットワークは、人は何をもって他人とつながるかという点で示唆するものが極めて大きいと言わなければならないだろう。(本書下 pp.442-443)

歴史に残る負け組みたちの話である。もともとユリイカに連載されていたものだけあって、学術書っぽくはない。しかし、ここにこそ山口昌男の博覧強記ぶりがいかんなく発揮されている。

本書の言う敗者とは、明治維新後に賊軍となった幕府側の人たちを指す。政治的な配慮から、彼らは明治新政府で重用されず、公的に活躍する場は与えられなかった。

しかしそこは幕臣、優秀な人材も多かった。戊辰戦争で負けた会津藩出身の山本覚馬は同志社を作ったし、静岡に逃げた徳川家臣の一人、渋沢栄一は近代日本の土台を作った。

学問のヒエラルキーをつくる近代科学とは相いれない、学問の曼荼羅を形成する本草学をはじめとする江戸的学問を推し進めて、鳥居龍蔵や柳田国男に疎ましがられた山中共古など、公ではない私の世界で、政財界ではなく市井で存在感を示した人たちが多くいた。

実力ある人は一つの世界で重用されなくても、別の世界で活躍の場が見つかる。そして、ネットでつながった今こそ、あらたな活躍の方法があるのではないだろうか。著者は明治維新後に敗者がもう一つの日本をつくったのに、なぜ戦後はそれが起きなかったかいぶかしがるが、それは当然、明治維新では国内に勝者と敗者ができたが、第二次大戦では一億総敗者だったから、国内でヒエラルキーができなかったのだ。逆に格差社会の今こそ、負け組の巻き返しを図るタイミングだと言える。

この本の特徴として、引用が多いのが気になるが、ほとんどが古書店でしか手に入らない本からのものゆえ、それもやむなしなのかな。

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国境線が無いまま700年。大国家ローマ帝国が30年で自壊した理由とは?

南川高志(2013)『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店

現代的観点からすれば、特定の民族にこだわらない寛大な措置と見えるかもしれないが、そもそもローマ人は「民族」という考え方を19世紀以降のような特殊な意味で理解していなかった。皇帝たちは彼らの実力を認め、重用した。「特別の事情」でもない限り、彼らを退ける理由はなかったのである。(本書 p.156)

ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか1600年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである。(本書 p.207)

ローマ帝国は紀元前3世紀から5世紀後半(476年)にかけてローマを中心に強大な力を誇った帝国である。その領地は現在のスペイン、イギリス、ドイツ、ギリシャ、トルコ、そして北アフリカにまで及ぶ。北欧などの一部を除いて、全欧州を手中に入れていた。

本書はローマ帝国が栄華を極めてから衰退していく過程を分かりやすく描いている。ローマ帝国はイタリアを統一したローマ人たちが領地をどんどん広げていった。

その際、彼らが行った方法は地元有力者と「共犯関係」を持つことだった。地元有力者をローマ軍に入れることにより、彼らをローマ人として扱ったのだ。いざというときローマ軍として戦ってくれたらいいだけだから、平時は割りと自由だった。軍隊は国境警備をせず、国境区域(ゾーン)を設けて、そこでの商取引を自由にさせた。

ローマ帝国で高い地位といえば、文官、武官や元老院議員がいる。当初、血統主義でエリートの地位が受け継がれていたが、家系が途絶えるとイタリアや属領の地方から有能な者をエリートに登用した。そんな空気があったからこそ、偏狭の地のドナウなどでも有能な者があればエリートに登用された。もともとローマ人でなかった者が司令官や皇帝になり、生まれながらのローマ人を率いた。

それほど、栄華を極めたローマ帝国は寛容だった。

ローマ帝国が斜陽を迎えたのは4世紀後半である。東からフン族の流入し、その地に住んでいたゴート人が隣接するローマ帝国の地方武官に助けを求める。迎え入れるほうは彼らに食料を提供するどころか、高値で売りつけ、こともあろうにゴート人の司令官の殺害まで企てる。ローマ人の対応に怒りを覚えたゴート人が、フン族とともにローマに攻め入った。そのとき、同時にブリテン島など他の地方でも蛮族の襲来を受け、対応しきれなくなったローマ帝国は一気に崩れてしまう。

本書を読む限り、ローマ帝国の自壊には多くの偶然が重なっていたようだ。皇帝の地位をめぐる内紛、東や北から偶然の同時多発的な蛮族の来襲。歴史にイフはないが、どれも少しずつタイミングがずれていれば対応できたかも知れない。

本書では自壊の原因の一つに寛容さの喪失を挙げる。かつてはローマ人として扱われた辺境の地の人たちも、ローマ人と同じ言葉を話し、格好をした。しかし後年、ローマ人として扱われても蛮族の格好をしたまま町を歩く人々が増えた。そこから、よそ者への目が厳しくなり、蛮族とローマ人の軋轢が深まっていった。筆者はこの軋轢こそが、ローマ帝国自壊への引き金になったと見る。

しかし、ここで疑問が出てくる。なぜ軋轢が生じたのか。辺境の人たちがローマ人の格好をしなくなったのは、ローマにそこまでの威光を感じなくなったからに違いない。なぜそこまで威光が落ちたのか。そこにローマ帝国自壊の序章があるのではないか。史料的な限界があるとはいえ、気になった。

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レビュー 芥川賞

沖縄から離れない影

大城立裕(2011)『カクテルパーティ』岩波書店

やっぱり卑怯だ」小川氏が叫んだ。「そのような話にそらして、いま当面の話題からにげようとしている」 「そうですね」孫氏は、ほとんど涙ぐみながら、「ただ、あなたがたが当然考えるべくして考えてなかったことを言ったのだということも事実です。もちろん私が正しかったとはいいません」(本書 p.211)

亀甲墓、棒兵隊、ニライカナイの街、カクテル・パーティとその戯曲編の5部構成の、沖縄を舞台とした短編集。筆者も沖縄人なので、沖縄文学である。前半から後半にかけて、戦中から戦後へと時代は下っていくが、それでもなお沖縄戦や軍隊といった問題がずっと横たわる。はじめの2本は鉄の暴風雨といわれた沖縄戦のさなかの話で、名士といわれた人に野菜泥棒をさせたり、無辜の市民の犠牲を望む軍隊など、極限状態にまで追い込む戦争の無情さを描いている。

一番の見所は芥川賞を受賞したカクテル・パーティだろう。舞台は一見平和そうに見えるカクテル・パーティ。そこに中国語を話す仲間として軍属の米国人に中国人とともに招待された日本人。本人がカクテル・パーティに楽しく出席している間、娘は裏座敷を貸していた米国人とドライブに行き、襲われる。不公平な法の下、男は犯人を裁くため告訴を決意する。いっぽうで友好的なカクテル・パーティを行いながらも、やはりそこには乗り越えられない壁がある。40年以上前の小説だが、その壁はいまでも沖縄に存在し続ける。国、民族、法律、友人と複雑に絡まり合う関わり合いにどう折り合いを見つけていくのかは、読者にも一考を迫られる。