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儲けより社会のためを考えた明治の経営者

鹿島 茂(2013)『渋沢栄一 下 論語篇』平凡社

渋沢が子供や孫などを実業界に進ませたがったのは、一族郎党で財閥を形成するためではなかった。(中略)息子や孫たちには、あくまで、経済界に入って自助努力で出世することを望んでいたのである。渋沢の願いは、実業界に一人でも多くの有能な人材をスカウトして、日本経済というパイを大きくすることだったのである。(本書 p.506)

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

上巻と合わせて、鹿島茂が十八年近くにわたって書き続けていたライフワーク、渋沢栄一の伝記の完結編だ。

渋沢は金儲けをしようと思えばいくらでも出来るような立場にいた。確かに金持ちにはなったが、自らのためではなく、社会のために使った。

その代表例として恵まれない孤児たちを育てる養育院の運営や、明らかに儲からないと思われる企業の経営に手を挙げるなど、火中の栗を拾うようなことをしている。どちらも民業で難しければ、当時は役所への転職も簡単だったし、渋沢程度の実績があれば政治家にもなれただろうに、そうはしなかった。あくまでも民間、実業界の立場を崩さなかった。

その裏にはやはり、フランスで見た民と官の平等な姿、若い時に受けた教養もなさそうな代官からの侮辱などがある。だからこそ、日本の実業界を強くすることで社会全体をよりよくしていこうという発想があった。まさにサン=シモン主義を地で行った。渋沢が自らを犠牲にしてまで民業を育てたお陰で、王子製紙や日本郵船など、いまも残る大企業が育った。渋沢がいたからこそ、今の日本の経済界があると言ってもいいだろう。国家全体を俯瞰してより良い方向に変えていこうとする視点は、明治の渋沢が持っていたのに、現代の経済人には見当たらない。

良書であるが難点も一つ。連載が長期間に及び、多方面にわたったせいか、上巻と比べるとトリビアルな話が多く、散漫な印象を受けた。


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商人から幕臣になった26歳

鹿島茂(2013)『渋沢栄一 上 算盤篇』文藝春秋

埼玉の農民の小倅が、代官に面罵されたのがきっかけで討幕運動に加わり、いったんは、高崎城を襲って横浜の居留地を焼き討ちにしようと試みたが、ひょんなきっかけで一橋家に仕える身となり、そこで出世して、兵制改革から財政改革までを手掛け、次の時代の到来に備えようとしていた矢先、突然、主君が徳川十五代将軍として就任したため、自らも幕府の役人となってしまう。(本書 p.131)

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

江戸末期に生まれて明治から大正、昭和にかけて活躍した経済人、渋沢栄一の自伝だ。鹿島茂による連載をまとめたものなので一回ずつ読み切りにしてある上に、文章も読みやすい。渋沢の足跡を学ぶには最適の本だろう。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄など、渋沢栄一が設立に関わった会社は500以上にもなると言われている。なぜそれほどできたのか?

渋沢は当時において資本主義の本質を理解していた、稀有な存在だったからだ。だから幕府も明治政府も渋沢を重用した。逆に渋沢がいなかったら今の日本の経済界は全く違っていたはずだ。

もともと、茨城県の豪農の家に生まれた渋沢は、若い頃から才覚があり、藍葉の仕入れや藍玉の販売で成功を収めた。ただ、商売一辺倒ではなく、幼少時より父から読書も授けられていたため、知識人ともいえる経済人だった。

江戸末期、尊王攘夷活動に失敗し、江戸遊学で知り合った一橋家に仕える。歴史の偶然から一橋慶喜が将軍になったため、渋沢もまた幕臣となる。当時、商人から武士への身分変更は全くできないわけではなかった。しかし誰もができたわけではない。渋沢は大出世した。

いよいよ開国も間近、パリ万国博覧会が開かれた。日本も招待されたため、幕府からは慶喜の弟である民部公子が留学も兼ねて行くことになった。民部公子の世話をしていた水戸藩の家来も何人か行くことになったが、旧来より保守的な土地、固陋な連中しかいないことを心配した将軍、慶喜の命で渋沢もパリ行きを命ぜられる。

パリで渋沢が見たのは、官と民が平等に交流している姿だった。当時の日本では渋沢家の当主であっても若い代官に偉そうにされ、商人は武士に頭を下げるのが常であった。官と民との関係はこうではならない。渋沢はパリでその思いを強くした。また、パリ万国博覧会でのサン=シモン主義(「パリ万博の壮観を再体験」を参照)にも感銘を受けた。産業発展は民衆への啓蒙も兼ねている。そうして利益を得るのみならず、産業を通して社会全体を良くしていかねばならないと開眼したのだった。

それがのちの日本での活躍につながる。

本書は渋沢の大活躍をあまり述べてはいない。むしろ大活躍の素地が形作られた背景を明らかにしている。渋沢の思想のバックグラウンドを知って、後編に続く。

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明日からクリエイティブになるために

鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』文藝春秋

これまでに立てたことのないところに問いを立てるとしたら、その問いが果たしてトリビアルな問題ではなく、本質的な問題に届いているかどうか、リンゴの芯を切っているのかどうかということを検討しなければなりません。(本書 p.64)

論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられてきた古典的な形式なので、ビジネスだろうと政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。(本書 p.231)

もっと若い時に読んでおけばよかった。いつ読んでもそう思うに違いない。

筆者はサントリー学芸賞受賞作でも最高に面白い『馬車が買いたい!』の筆者であり、無類の書評家にして古書と木口木版印刷本の蒐集家である。その一方、共立女子大(当時)で教鞭をとる教育者である。みんなが読みたくなる論文がどうすれば書けるようになるか。それをろくにフランス文学どころか小説の名に値するものすら読んだことない学部生に教える。そういう体裁で書かれてある。

ただ、中身は十代向けではない。そしておっしゃることはごもっとも。しかし行うは難し。

やるべきことは数少ない。よい論文はよい結論があるもの。よい結論のためにはよい大クエスチョンを用意する。よい大クエスチョンを上手に少しずつ解いていき、答えを出せばいい。

一番の難関はよい大クエスチョンを見つけること。そして解くためのツールを見つけること。そのツールは、大体みんなが手にしている。まだ気づいていないだけだ。その気付きを与えるため、著者は具体例をいくつも挙げて、果ては自分の名著『馬車が買いたい!』の発想法まで開陳して教えてくれる。

いい論文の書き方は、いい企画書、いい起業にも応用できる。そのカギは身近にあるが、明らかに年長者の方が有利だ。あとは気づくだけ。さあ、周りを見渡してみよう。

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暇がなくても読書をする方法

鹿島茂(1993)『暇がないから読書ができる』文藝春秋

大学の授業や雑用のほかに、新聞・雑誌に雑文を月に百枚以上は書いているので暇はまったくないのだが、なぜか、読書量は、書評のためのものを除いたとしても、急激に増加しているのである。だいたい最低でも、月に三十冊くらいは読む。(本書 pp.179-180)

これまた忙しかったせいもあり、鹿島茂の書評でも読んで気を紛らわせようとしたところから、本書を読み始めた。いつも書評を読むと思うのだけど、世の中には僕の知らない本はもちろんいっぱいあって、その中の相当数がこれまた面白そうなのに、なぜか寿命は長くないということ。

本書はやっぱり上手に面白そうな本を紹介しているのだけど、あとの方になるとほめてばかりで、多少はけなさないとこの人はなんでもほめるんじゃないかと思えてきてしまう。だから暇がないとか文句を言いつつも本を読んでは感想を書いている前半の方に好感をもった。

本書で紹介されている本でも、知らない本ばかり。でも確かに本屋に行ってみればおいてある本もまだまだ多い。サイパンに行くときにも本を持って行ってちゃんと読んでいたり、フランスの古本屋めぐりをするっていうのに十冊も本を持っていったりと(これは半ば仕事のため)、本当にすごい人だと思う。本は重いので、はっきり言って旅行の邪魔なのだ。しかし本がないと移動中にすることがなくなってしまう。このジレンマを解決する方法は、ぼくはまだ見つけていない。

逆に言うと本を読むしかないわけで、台湾のように人懐っこい人たちがいる国では、列車や飛行機の中で隣の人と話すこともあるけれど、アメリカの国内線なんかは機内サービスもないわフライト時間は長いわで、本当に何もすることがない。ネットもできないしパソコンを開くのも大仰だ。そう、本を読むしかないのだ。

そのためには、書評でも読んで読みたい本をピックアップするというのも、ひとつの手なのだ。

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世界はドーダで満ちている!

鹿島茂(2007)『ドーダの近代史』朝日新聞社

ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、「ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。(本書 p.5)

普通の基準からすると、こうした人間はありえないような気がする。だが、私は語学教師の端くれなので知っている。兆民のような純粋の語学バカ、シニフィアン人間は実在すると。語学と言うのは、その才能がある人間にとって、生きていくことの支え、おのれの自尊心をくすぐる立派なドーダ・ポイントともなりうるのである。(本書 p.239)

最近仕事が忙しかったのもあって、すいすい読める本を探していた。たまたま、千夜千冊で紹介されていたのを読んで、これを読もうと思った。そこに書いてある通り「ドーダの超論理というのは、べつだん難しいものではない。学問でもないし、高遠なものでもない」のである。ただ分厚いので読みごたえはあるし、鹿島茂のこと、やっぱり読ませる。

本書は幕末の時代に跋扈したドーダさんたち、「マイッタか!」と相手に自慢したいがために、頑張ったり頑張らなかったり斜に構えたり死に物狂いになったりする人たちの系譜を紹介している。

僕は松岡正剛とは逆で、最初のころの陽ドーダよりも後半の陰ドーダ、内ドーダに興味を持った。中江兆民をシニフィアンの人(書いてあることよりも、外国語の響きにひかれて語学の上達を一身に願った人)と述べているあたり、語学者として大変共感を覚えた。そこがシニフィエの人へ転換したかどうかの真実性についてはともかくとして。基本的に三つ子の魂百までなので、シニフィアンの人はシニフィエへの転向を目指したとしても、やっぱり限界があるし、シニフィアンへの思いはそう簡単に断ち切れるものではないと思うから、ここは保留にしている。

しかし、兆民とルソーの思想的バックグラウンドを対比しだすあたりからは、鹿島茂らしい細かさを持ち出して来て、さすがだなあと思わせた。

最近の文脈に照らしてみると、絶望の国でも幸せに生きる若者たちは陰ドーダなんだろう。すなわちa×b=1の図式に於いて、a=内面、b=外見として、外見にお金をかけないし興味もないフリをして、bを減らした結果、自動的にaが上がる。すなわち「そんなことより内面さ」と斜に構える風潮、これが今はやりの内ドーダである。もはや消費を知らない世代な上に、将来に不安だらけだから仕方ない。

世の中にはいろんなドーダがあって、結局人はドーダに籠絡されつつ生きるしかない。では今の時代、どうやって幸せに生きるのか。本書に少し述べられていた、人のいいボンクラを上に据えて、徳のない秀才を輔弼に据える、というのが一つの可能性で或る気がする。

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パリ万博の壮観を再体験

鹿島茂(1992)『絶景、パリ万国博覧会-サン=シモンの鉄の夢』河出書房新社

万博博覧会というイベントは、たしかに国家の主導による「公」の行事であるが、その目的が、個人や私企業の発明・開発した優れた「商品」を一か所に集めて展示し、、生産者・流通業者・消費者それぞれに刺激を与えて、各々の利潤追求の欲望を加速することであるという点では、これほど資本主義的な制度もほかにない。共産圏ではオリンピックは開かれても万国博覧会はついに一度も開かれなかったのは、ある意味では当然すぎるほど当然のことなのである。(本書 p.110)

いっぽう、商品もまた、展示されるというそのことによって、重大な本質的変化を蒙ることになった。すなわち、展示されたその時点から、商品は、役に立つ品物という本来の性質、すなわち使用価値のほかに、プラス・アルファの価値を獲得することになるのである。このプラス・アルファの価値とは、もちろん「視線の弁証法」による欲望の投影で生まれてくるものなのだが、それと同時に、いわば日常レベルとは切り離された、祝祭的、演劇的空間におかれることによって商品に付け加わる価値でもある。ベンヤミンの用語でいう「展示価値」あるいは「交換価値」がこれに相当する。ようするに、商品は、それがどんな商品であれ、「展示される」ことによりアウラを獲得するという原理がここで実証されたのである。(本書 pp.160-161)

本書は万博大好きな鹿島茂の、パリ万国博覧会に関する集大成その1とでもいえる作品である。

以前にロンドンで開催された万博とは趣が異なり、パリで開催された2回の万博は、万物(universelle)のための万博だったのである。それに一役を買ったのがナポレオン3世であり、その庇護下にあったサンシモン主義者たちであった。彼らは世界中のありとあらゆるものを集め、展示し、それらを民衆に見せる(教育もサンシモン主義の大事な要素)というのを目的とし、万博を計画した。

結果、準備不足だった1855年の万博では一部の展示館ができず、ナポレオン3世は開会の挨拶で不満を見せて(ぼそぼそと小声で、極短なスピーチを行なって)帰ってしまう。しかし1867年の第2回万博で彼らは捲土重来を期す。日本からも芸者たちが参加したこの万博において、世界のありとあらゆるものを展示するという計画は結実した。

民衆は大いに沸いた。万博の展示物には関税をかけず、その場で即売することを可としたのも大きかった。当時のパリではモノの売り買いというのは今とは全く違って、正札販売がされておらず、店に入ったが最後、知識の豊富でふっかけようとしてくる店員と、入ったものの手ブラで出る自由のない客との不平等な駆け引きがなされた。しかし万博では正札販売、ウィンドーショッピングも可ということから、大変な人気が出た。まさにパリ万博は、売り買いの変革という点においても、エポックメイキングな出来事だったのだ。

本書の意義としては、上記の引用にあるように、万博の楽しさの淵源(展示されることによってアウラを獲得する)を示し、それが国家による私企業や個人の利潤追求の奨励であることを見抜いた点であろうと思う。ただ、共産圏では万博は開催されたことがない、と当時は書いているが、2010年、上海万博が共産党支配下の中国で開催された。これはどう見たらいいのだろう。

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デパートという概念を発明した二人

鹿島茂(1991)『デパートを発明した夫婦』講談社

十九世紀前半までのフランスの商店では、入店自由の原則がなかったばかりか、出店自由の原則もなかった。つまり、いったん商店の敷居を跨いだら最後、何も商品を買わずに出てくることは許されなかったのである。(本書p.15)

極端な言い方をするなら、買いたいという欲望がいったん消費者の心に目覚めた以上、買うものはどんなものでもいいのだ。まず消費願望が先にあり、消費はその後にくるという消費資本主義の構造はまさにこの時点で生まれたのである。(本書p.70)

ブシコーが真に偉大だったのは、商業とは「商品による消費者の教育」であると見なしていたことである。(本書p.250)

著者本人がデパート大好きらしいので、その分気合いが入っている。19世紀のパリからどのようにしてデパートが誕生し、発展したのかを追っていった本。まさに題名通りデパートは出るべくして出てきたのではなく、1組の夫婦によって「発明」されたのだ。

田舎から出てきて丁稚を経てから独立したアリスティッド・ブシコーとその妻によって発明されたボン・マルシェ百貨店は正札販売、返品可能、宅配など、いまのデパートの販売体制の原型を作り出し、挙句の果てには御用記事まで新聞に掲載させた。

描かれるブシコーの戦略がまさに的を射ていて、次々に客が彼の手の上で踊らされるかのようにふるまう。正札販売、冷やかしOKというのも当時のパリでは画期的だったので人が来る、すると問屋を通さずに直接仕入れて大量購入、直接購入で原価を下げる、薄利多売路線をとる、日にちのたったものは価格を下げて販売する、といった販売戦略のほか、読書室やレストラン、清潔なトイレを設けるといった顧客満足の発想、売り場を担当させてその売り上げによって給与を変動させる、デパートの上に寮を作る、従業員専用楽団を作ってクラッシック音楽という教養を身につけさせるといった従業員教育まで、経営者としての彼の先手の打ち方はまさに顧客の心をつかむものだった。

変動の19~20世紀で似たようなエピゴーネンは出てきたものの、常にボン・マルシェ百貨店がその先陣を切っていられたのはなぜか。それはひとえに彼のスピードや演出まで含めた経営手腕にあったのだった。

これを現代に置き換えると、コストコやIKEAといった大規模な量販店、ショッピングモールに代表される複合商業施設が庶民の我々に「楽しみ」を与えてくれる場所となっている。これらがどこで発生したのか、あるいは誰の発明によるのか。そこにもまた、興味がわいた。

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サントリー学芸賞 レビュー

上流階級の馬車中心主義

鹿島茂(1993)[1990]『19世紀パリ・イマジネール 馬車が買いたい!』白水社

このように、テクノロジーの進歩によって新しい交通手段が登場する際には、意外にその前の時代の交通手段の構造を受け継ぐもののようだ。もし、大型旅客機がフランスで最初に実用化されていたら、あるいはこれもコンパートメント型になっていたかもしれない。(本書 p.38)

我らが主人公たちが出世への野心を燃やすきっかけとなる場面は、不思議なことにどの小説でもほとんど同じである。すなわち、シャン=ゼリゼの大通りで豪華な馬車の行列を見たときに、我らが主人公たちはにわかに上流の生活に憧れをもつようになるのである。(本書 p.187)

おもしろい! サントリー学芸賞を受賞している本なので期待はしていたが、その期待を裏切らない面白さだった。

筆者の疑問は自動車でフランスを旅行していた時に田舎で目にする「パリ通り」という名前の街路から出発する。その名前が付いているのは決まって日本の○○銀座のような繁華街ではなく、町はずれのさびれた街路である。これは田舎からパリにつながる道、逆にいえば青雲の志を持って若者が故郷を出立し、一獲千金を夢見て旅立った際に最後に通った故郷の道である。19世紀の様々な典籍を渉猟し、挿絵を豊富に入れながら、19世紀の小説の主人公がどのような生活を営み、その頃のパリはどんな様子だったか、どうやって上流階級を目指すのかといった、「我らが主人公」のプロトタイプを浮かび上がらせるのが本書の目的である。

彼らの田舎からパリに出る方法、パリでの衣食住を具体的な金額を提示しながら描き、どの時代にどこが流行の発信源であるか、どこに行けば上流階級と知り合いになれるか、上流階級になるためにはどれくらいのお金(現代日本の価値で年間二千万円以上!)が必要かを描いていく。

いくら懐がさびしくても上流階級らしい振る舞いをしなければならない彼らのプライドや衣服が一番換金性の高い財産だったというような、今では考え難い事実など、本書を読むと発見がいっぱいである。

とくに19世紀の小説を読むときには、本書のタイトルにも取られているような馬車のステイタスなどを意識してこそ、その真髄が味わえるのだろう。とくに巻末の「馬車の記号学」は様々なタイプの馬車を簡潔にカテゴライズしてあって、わかりやすい。

個人的には、馬車とその後の交通手段の話が興味深かった。乗合馬車の前方から1等、2等、3等と座席のランクが分かれていたというのは、現代の飛行機にもそのままあてはまるが、そのあたりの関係はどうなんだろうか。(著者は引用の個所の通り、それはアメリカの影響だとしているが)現代の乗り物の淵源がフランスやアメリカの馬車にあるというのが興味深い。我々が毎日乗っているのも、元をたどれば19世紀の欧米に行きつくのだ。

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古書で借金かかえても

鹿島茂(2003)『それでも古書を買いました』白水社

書評用の献本が一か月で最低百冊は送られてくるから、その沖積ぶりは尋常一様のものではない。ほかに、自分でも、月に十万円分くらいの新刊本を買う。研究用のフランス語の新本と古本は別予算だから、毎月、合計何冊ずつ増加してゆくのか見当もつかない。(本書 p.94)

もちろん、床という床には本がうずたかく積みあげられ、次男は数百万円もする一五〇年前のジャイアント・フォリオ判の古書の上でメンコをしていた。残された空間といったら、あとは天井しかない。私はときどき天井を見つめながら、なんとか限定的に無重力状態をつくりだして、天井に本を置く方法はないものかと夢想した。(本書 p.89)

かつて河盛好蔵氏から「研究者というものは買った本が一ページでも役にたったなら、それでよしとしなければなりませんよ。最初から最後まで全部役にたつような本だけを集めようなんて、そんなケチな根性では、研究者はつとまりません」というお話をうかがったことがあるが、まさにその通りだと思う。(本書 p.91-92)

洋古書収集家でも知られている鹿島茂のエッセイ集。なぜ自分が本を集めるのか、本の集め方の流儀やその収納方法、お金の捻出方法(といっても土地と家を抵当に入れて銀行から借りる!)などが軽いタッチで描かれている。

コンテナいっぱいの新聞記事をフランスから船便で送ってもらって、量のことを考えずにいたため、物理的にも経済的にも持ち運びに困った話や、置き場所に常に悩まされている話など、興味は尽きない。

ここまで根性を入れて本を集める気概があるというのは見習うべき点だ。しかもフランスの古書は装丁が皮であるためにその手入れも必要だという。好きでなければできない、その世界の奥の深さに峻拒した。


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