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京都大学草創期の蹉跌


君は予が試験の為めに何頁の講義筆記を暗記せざるやを知るや。実に五千頁なり

本書 p.113

京都の教授たちは、こうした期待を受けて、京都の土地に「二番目の帝国大学」ではなく、一番目の帝大に対抗する新たな大学を作り上げようと試みた。

本書 p.210

現在の京都大学の前身である京都帝国大学は、日本で二番目の国立大学として産声を上げました。東京大学が官僚養成の大学として設立され、詰込み型の教育をしていました。一方、京都大学では学生に研究の自由を与えました。その内情と改革の結果を、京都大学法学部(当時京都帝国大学法科大学)の実例を引きながら本書は明治の帝国大学の改革競争を紐解きます。

東京帝国大学での法律の授業は熾烈なものでした。 学生が受ける授業は一週間に27.5時間にも及びました。予習復習の時間を入れると40時間、現在のサラリーマンの勤務時間程度にはなったでしょう。授業中、学生たちはまるで速記機のように教師の言う言葉をノートに書きとり、上の引用でも書いた通り、1年間で筆記講義五千頁にも及ぶ量を記憶し、1年に1度の進級試験に臨みました。中には授業中に言ったダジャレを答案に書かせる教員までいたそうですから、筆記も気が抜けません。

一方の京都帝国大学は東京のような詰め込み式教育では法典条項の中身を覚えさせるより、法的修練を身に着けるほうが大事だと考えます。どうやって身に着けるか? そこでドイツ帰りの教員たちが当地で見たゼミナールを模倣します。ゼミナールを模倣して論文を必修とする一方、必修科目を減らして選択科目を多くした結果、最短3年で卒業することができる制度に変えました。

結果、京都帝国大学は負けました。当初は期待をもって受け入れられたものの、卒業生を輩出しだし、その高文試験(現在の国家公務員総合職試験)合格者の数が少ないことが新聞はおろか、帝国議会でも問題にされました。「碌な卒業生がいない」「文部省の信任問題だ」などと批判されます。

しかし、負けたとはいえ高文試験の合格者数だけの話です。当時の高文試験の出題委員は多くの東京帝大教授、一部の京都帝大教授で占められていました。外交官試験等、ほかの試験も同様です。そうすれば東京帝国大学の教授が行う授業を受けるほうが有利に働きます。その教師たちこそが出題者であり、採点者なのですから。かなりの大差をつけられたとはいえ、東大方式の教育方法に真っ向から反対した京都帝国大学は、国家公務員になる人こそ少ないものの(この傾向はいまでもある)、学会や民間でそれなりの実績を残しているとも考えられます。

ただ公務員試験だけで成功・失敗を測るのではなく、より多面的な方向で価値判断する余地の残る議論だと思いました。少なくとも東大方式、京大方式の二つがライバルとなる形で試行されたのは学生にとっても、大学にとっても、ひいては社会にとっても良いことだったと思います。


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中国国家主席の通訳が見た日中外交


ある日の夜九時頃、日本政府の赤坂迎賓館に泊まっていた彼(著者註:華国鋒 国家主席)は、入浴後に着替えた日本式の浴衣姿で建物の後ろの庭園に散歩に行きたいと外へ出ていった。私はびっくりして彼をとめた。この迎賓館のいたるところに警備員や新聞記者が数多くいるので、もし主席の浴衣姿の写真が誰かに撮られ、明日の新聞やテレビで報道され、おまけに冷やかすような説明を加えられたりしたら、きっとお茶の時間や食後の話題になり、大きなセンセーションを巻き起こすかもしれない、と述べた。

本書 p.170

南昌空港当局が言うには、広州の天候が荒れていて、終日飛行機の着陸を受け入れていない。日本の客人(筆者註:日本作家代表団)はこれを知るとあわてた。
(中略)夕方、(著者の上司の)廖から電話があった。周(恩来)総理に指示を仰ぐと、これは自分が引き起こしたことで、自分に責任があると言って大いにあわて、民航総局と空軍司令部に非常措置をとらせ、時間通りに広州に送り届けるように指示した。

本書 p.298

中国の国家主席の通訳を務めた筆者が間近に見た日中外交の様子を描いた本です。国家主席や総理等、中国のトップの姿を描いたため、共産党から出版の許可はもらったものの中国大陸では発行されず、香港で発行されました。

著者は1934年江蘇省生まれ、高校卒業時に学校の党支部から北京大学の外国語学部に入るよう通知を受けます。憎い日本人の言語を学ぶことに抵抗はありましたが、日本と向き合う人材が必要であると説得を受け、日本語を学び始めます。しかし翌年、学業を休止して共産党員として活動するように命じられます。本人は政治生活が肌に合わなかったらしく、日本語学習野道に戻してもらうよう掛け合い、日本と日本語の専門家になっていきます。

本書で初めて明かされるのは、日中国交正常化交渉時の大平正芳外相と姫鵬飛外相による一対一の車中会談です。田中角栄総理が訪中し、周恩来総理との日中首脳会談を行いますが、二回目で暗礁に乗り上げます。日本と台湾の平和条約であった日台条約の取り扱いを巡って食い違いが起こりました。そんな中、中国側がセッティングした万里の長城への視察の道中、急遽大平外相が「姫外相と二人で話をしたい」と言い出し、同乗者を替えて車中会談を行います。車内は両外相の他、運転手と通訳である著者のみでした。そこで二人は落とし所を見つけます。日中国交正常化への情熱が伝わる貴重なエピソードです。

ほかにも文化大革命のさなか、情勢への対応に忙殺される周恩来の様子や、大平首相の招きで訪日した一ヶ月後に大平首相が亡くなり、弔問のために再来日した華国鋒は国家の情勢から大平家の返礼を受けられなかったこと、大平外相は田中角栄首相に送られた書が論語であるとすぐ分かった知識人だったことなど、国家の首脳を間近で見ていた著者ならではの話が披露されます。ピンポン外交が米中のみならず、日中関係にも大きな影響を与えたことは本書で初めて知りました。

中国では外交官が人民日報で働いたり、国家の規律上言えないこともあったなど、中国の内情が垣間見える話も出てきます。中国での出版が許可されなかったのも、このあたりに原因があるのかもしれません。


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英領事館襲撃計画を立てた日本軍の秘密工作員


香港工作における経費は最初支給されなかった。当時で十万円、今日の金額では何千万円に相当する金額を工面しなくてはならない。そこで青幣、法幣の連中と連絡した結果、上海、香港地区の重慶側の軍需物資を押さえる、という方法をとってみた。

本書 p.156

ノモンハン事件の時、関東軍の情報隊の謀略別班がソ連軍の後方を攪乱するため、もう個人に変装して平原奥深く潜入した。(中略)一人の老人がふと顔を上げた。一瞬老人の顔は不思議そうな表情に曇っていたが、次の瞬間晴々と輝いた表情となり、情報隊員に懐かしそうに日本語で話しかけてきた。
「私もハルビン特務機関員です」

本書 p.251

本書は戦前の日本陸軍特殊工作員養成機関であった中野学校の設立の経緯、教育カリキュラム、そして出身者の活躍を追った貴重な本です。ルバング島で発見された小野田寛郎の出身校としても有名です。

筆者はメディア論を専門とする早稲田大学名誉教授であり、資料を読み込んだ丹念な記述で貫かれています。資料もアジア歴史資料センターや古本屋で手に入れたほか、インテリジェンス資料を集めていた民間人から提供してもらったもの、中野学校関係者からコピー提供を受けた「中野校友会々誌」に加え、2016年11月に101歳で亡くなった卒業生、牧澤義夫氏のインタビューも行っているなど、おそらく現代の日本で可能な限りの資料を盛り込んだ集大成といえます。

陸軍中野学校はシベリア出兵後に現地の軍事機関との連絡調整や植民地の宣撫工作などの必要性が認識され、「軍人らしくない」工作員を養成するために設立されました。結果、東京帝大や早稲田、法政、拓殖といった大学や東京外事(後の東京外大)等の民間の高等教育を受けた者を中心に集められました。カリキュラムでは英語や中国語、ロシア語といった語学のほか、置き引きの仕方や忍術まで色々教わったようですが、教科書は授業後に回収されたため、詳しい内容は不明です。一方、学生たちはノートを取ったり暗記したり、必死で勉強したそうです。

設立7年後に終戦を迎えたため、卒業生は大きく活躍できるほど出世しませんでした。また、戦局の悪化に伴い、工作員養成からゲリラのリーダー養成へと性質が変わっていき、教育期間もだんだん短くなっていきました。

しかし7年しかなかったにも関わらず、満州からモンゴル、ロシアにかけては史上最大規模の工作網を構築し、情報収集や攪乱を行いました。足りない資金は引用で書いたような幣(マフィアグループ)と関係をして稼ぐなど、幅広い活躍をしていたようです。

その脅威を知ってか、終戦直後、創設者の秋草俊を始めとする中野学校関係者はソ連に連行され、厳しい取り調べを受けました。関心を示さなかった英米とは大きな違いです。ソ連は当時の日本のインテリジェンス工作の詳細を調べ、今も調査結果は公開されていません。

一方、日本では中野学校の実績が顧みられた形跡はありません。関連文書も終戦とともに焼かれてしまいました。敗戦により日本から情報が消え、ソ連に情報が渡り、今もロシアが極秘扱いにしているとは、歴史の皮肉を感じます。

表題にあげた英国領事館襲撃事件は、伊藤佐又少佐が教え子を巻き込んで神戸の英国総領事館への襲撃事件を企てたところ、途中で計画が発覚し、憲兵隊に逮捕された事件です。伊藤は総領事を脅迫し、英国の反日活動の証拠を掴み、反英世論を促すことが目的でした。しかし憲兵がエリート軍人を追及するのは至難の業、結局伊藤は予備役に編入され、勲章と退職金をもらいました。しかしこの事件の報は昭和天皇の耳に入り、畑俊六陸軍大臣を叱責し、中野学校の設立当初の自由さは徐々に失われ、「誠」を説く精神教育が増えていくことになりました。


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琉球を探検した西洋人


この人々の態度はきわめて温和で、ひかえめであった。注意ぶかく、好奇心がないわけではないが、われわれがくり返してすすめたあとでなければ、決して近づいて見ようとはしなかった。好奇心にかられて我を忘れるような行動ははしたないことだ、という上品な自己抑制を身に着けているためと思われる。

(本書 p.109)

とはいえ、琉球は貿易船の航路とは外れた位置にあり、その物産には何の価値もない。(中略)近い将来にこの島をふたたび訪れる者があろうとは思えないのだが。

(本書 p.287)

1816年にアルセスト号、ライラ号という2隻の船で琉球を訪れたイギリス人航海士たちの記録です。西欧に琉球の具体的な姿を初めて伝えた記録といえます(本書解説より)。シルクロードや朝貢貿易がありながら、琉球と西欧の直接的な接触は19世紀までなかったのが驚きです。

マクスウェル艦長たちは北京で皇帝に謁見をしようとしましたができずに終わり、広東から中国人通訳を一人連れて、朝鮮半島と琉球を経て、マラッカ海峡からヨーロッパに帰ります。結局、現在のインドネシアあたりで船は沈没し、別の船に助けられて帰ることになりました。その際に琉球で採った貴重な標本等も失われてしまいました。この航海記が残ったのは僥倖と言えます。

朝鮮半島では現地の人から冷たい対応を受けますが、琉球では一転、心のこもった扱いを受けて、一同は感激します。釣り糸を垂らすと先に魚を結わえてくれる漁民たち、船に乗り込むも、礼節を持って対応する人々、様々な階層の人たちとの交流がリアルに描かれています。

当初はなぜ琉球に来たのか、何をしに来たのか、と訝しがられますが、船の修理と補給のためと言って納得させ、地図や海図の作成を行うあたりは、さすが船乗りと思います。現代人の感覚からするとあまりにもズケズケと入って行きます。しかし琉球も外交上手で、丁寧に献上品を持って扱うし、病人には医者をよこしたりします。

疫病やトラブル防止のためか、頑なに上陸を認めない琉球側と病人のために上陸して休息を取りたい、願わくば王に謁見したいと要請するイギリス側の駆け引き、同時に深まっていく友好関係が見どころです。

交流が深まるに連れて、琉球側の役人がブロークンな英語を覚え、イギリス側もうちなーぐちを覚えたため、英琉間の通訳が行われています。当たり前といえば当たり前ですが、その様子に新鮮さを覚えました。


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現代的でもあるファシズム


佐藤 片や、ファシズムは出自や民族、人種は問いません。そこにファシストと民族主義者や人種主義者の違いがあります。

(本書 p.65)

片山 (前略)明治国家体制では、ヒトラーのように天皇は演説もしなければ具体的命令も滅多にしない。ここに同じ束ねる原理でも大きな相違があります。

(本書 p.109)

佐藤優と『未完のファシズム』の著者、片山杜秀の対談本です。二人の対談は『平成史』に続くものです。

ファシズムはイタリアのムッソリーニが第二次大戦中に敷いた体制で、同じ枢軸国だったナチスドイツと同様、独裁体制であったと思われがちです。しかし、両者には決定的な違いがありました。

ヒトラーは人種主義を掲げ、アーリア人種以外は劣っており、ユダヤ人はこの世から抹殺しなければいけない、という排除の思想が働いていました。一方、ムッソリーニが提唱したファシズムはイタリアに協力するものならイタリア人であり、国家のためにみんなで束になって協力していこうという体制でした。排除ではなく、包摂し、束ねていく発想です。

一方の日本はどうだったのでしょう。国内の体制的には行政、司法、立法が独立して存在していました、内閣と同時に枢密院があり、内閣の決定を枢密院が覆すこともできました。内閣には各省庁の調整機能を求められました。そうしたばらばらの状況をまとめたのは、天皇でした。ペリー来航の折、まだ国内は幕府を始めとする各大名が群雄割拠する時代でした。ここでもう一度戦国時代を初めて、大きな将軍を決めても良かったのでしょうが、そんな隙に西洋から入ってこられます。だからたまたま、天皇を使って統治し始めたわけです。しかし、天皇がなにか大きな権力を奮って、それの責任を問わされたり、第二の徳川が現れたりしないよう、天皇は下から上がってきた議題の説明を受け、「あっそう」と返すだけにしていました。こうしたやり方が、日本的な未完のファシズムといえると思います。

ファシズムは危機のときに発生しがちです。ろくに議論せずに勧めていく姿勢がファシズムです。「この道しかない」という発想はファシズム的です。

しかしファシズムは弱者も包摂します。国のために頑張るものが国民なのですから、強いものが弱いものを支え、自分たちの力の限り国を支えるべきだ、という発想です。国民は多いほうが強いですし、排外主義的になると束が細ります。

本書でファシズムへの理解が深まることは間違いありません。


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現代沖縄の裏社会


こうした猥雑な空気をはらんだ街に引き込まれたのは、私が地方都市の場末の歓楽街で生まれ育ったせいもあっただろう。そしてもう一つ、それまで」自分の中で醸成してきた沖縄のイメージが揺らぎ始めたことによる、静かで深い衝撃も大きかったと思う。

(本書 p.13)

戦争未亡人たちが、生活を維持するために米兵相手に売春をしてドルを稼ぐという現実は、当時の沖縄の人々なら誰しもが認識していることで、さきの新聞にあるような「頽落」やら「風紀の乱れ」ではないことは、警察もメディアもわかりきっていたはずだ。

(本書 p.217)

沖縄で「恥部」とまで言われた売春地帯を記録したノンフィクションです。沖縄ではそうした地帯は特殊飲食店街、通称「特飲街」と呼ばれてきました。昭和33年に売春禁止法が施行されましたが、沖縄は復帰前だったため、本土と足並みは合いませんでした。

沖縄にあった特飲街は吉原、真栄原新町、そしてアギムヤーと呼ばれる松島でした。特に松島特飲街はネット上に情報がほとんどありません。米軍基地ホワイトビーチの近くらしいのですが、現在では住宅街となっているそうです。ネットではわからない情報が載っている、貴重なルポでもあります。

沖縄では第二次大戦中、県民の4人に1人は犠牲になったといわれる沖縄戦ですべてを失った人たちのうち、家族のため、自らの身体を売って稼ぐしか道のなかった女性もいました。当時、戦争未亡人に対する補償はないに等しかったためです。米軍に攻め入られ、占領された島々の経済は米軍によって支えられたのです。

米軍内部での風紀が厳しくなると、沖縄や本土の観光客を相手にするようになりました。そして沖縄だけでなく、遠くは北海道の女性まで流れてくるようになります。本書はそうした変化や女性の流れてくるルートの解明に、警察や歓楽街の人たちはもちろん、裏社会の人にまでアプローチして迫っています。

しかし、時代は売春を許さなくなってきました。2010年代に入ってから人権意識等の高まりを受け、特飲街は「浄化:されていきます。その先頭にたったのが、警察と婦人団体でした。女性の生業を女性が浄化していったのです。

幻の映画「モトシンカカランヌー」(元金かからない者=売春婦)で「十九の春」を歌っている女性、アケミを探し歩く章は推理小説を読むような展開です。沖縄復帰前に撮られた映画に出てきた女性を探すため、細いつながりを何本も使って筆者は撮影地や撮影者、アケミを知っている人たちを訪ね歩きます。


モトシンカカランヌー(一部)

本書のタイトルで『東京アンダーグラウンド』を思い出す人も多いと思う。あちらはプロレスから裏社会、テキヤなどを政治経済に絡ませていたが、本書のメインは売春だ。それ以上は個人単位でかかわっているから深く把握しがたいらしい。本当に表に出てこない「アンダーグラウンド」の世界に肉薄した本です。米軍と女性といった一枚岩では解決できない問題を提示され、考えさせられてしまいます。おそらく答えは出ないのでしょう。現実を前に、考え続けるしかありません。


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知れば「おそロシア」も怖くない?


池上 「おそロシア」という言葉がありますよね。よくわからなかったり、怖かったりというのが、日本人のロシアに対する一般的なイメージだと思います。
(中略)
佐藤 (東京大学名誉教授の和田春樹先生が仰っています。日本人にとってのロシアには、常に二つの顔があると。一つ目の顔は「先生としてのロシア」。(中略)そしてもう一つ、同時にある顔が「軍事的な驚異としてのロシア」。

(本書 pp.64-65)

佐藤 (中略)今、「反知性主義」という言葉をよく聞きますが、ソ連共産党書記長には凡庸な人物が選ばれるのが常でした。日本的に言うと偏差値五〇前後の人しかならないようにしていたんです。

(本書 p.149)

ふしぎな国、ロシアについて外務省ロシアスクールに属していたエキスパートである佐藤優とジャーナリストの池上彰が対談形式で読者にわかりやすく謎解きをしていきます。

崩壊して住みづらかったと思われがちなソ連ですが、世界に良い影響ももたらしました。冷戦当時は資本主義国にとって共産主義国は脅威だったため、共産革命が起きないように社会保障が充実しました。また、特に宇宙開発では世界をリードし続けています。人工衛星も有人宇宙飛行もソ連が世界初でしたし、未だに宇宙ステーションに定期的にロケットを打ち上げているのはソユーズだけです。また、ポリオの生ワクチンもソ連が開発しました。その他、五カ年計画といった複数年で国家政策を作る方式も効果を発揮したため、多くの国で取り入れられました。

いっぽう、共産主義国特有の罪もありました。一つが労働時間です。国民は就職先を選べず、国によって就職先を割り当てられる「強制労働」をさせられていました。一方、実質的な労働時間は3時間だったそうです。中央官庁や党中央委員会の官僚は長時間勤務をしていましたが、特に給料が高いわけでもありませんでした。ただ、腐っていない卵が買えるといった特権はありました。お金による格差がない分、行列に並ぶ時間の格差がありました。

北方領土交渉やトランプのロシア疑惑など、ロシアは国際政治でも一筋縄で行かない相手です。専門家の佐藤をしてもわからないのが、ポロニウムを使ったスパイ暗殺事件です。なぜ核物質を使ってまでスパイを使ったのかも、イギリスが騒ぎ立てた理由も不明だといいます。そういう点が「おそロシア」という印象を強めているのかもしれません。

つくづくふしぎな国ですが、佐藤も池上も70年台の東側の暮らしは豊かだったといいます。実際に東欧諸国を回った佐藤も、70年台の東ドイツの暮らしを再現した博物館に行った池上も、同じ意見を述べています。本だけでなく、実際に行く大切さが伝わるエピソードです。


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北朝鮮に7年間抑留された日本人船長


腹を決めた。
「命令したのは私だ」
紅粉は切り出した。この一言ですべてが決まった。
「私が機関長に命令した。彼に責任はない。頼むから、ほかの三人と一緒に日本に返してやってくれ。頼む……

(本書 p.41)

「北朝鮮は官僚主義なんです。誰も責任を取りません。私が脱走すれば、軍の上司が責任を取らされます。私が南浦港から密航すれば、警備兵が責任を追及されます。しかし、誰も責任を取らないとなれば、第三者の悪人を仕立て上げる以外に方法がないでしょう。それが富士山丸の船長たちだったんです」

(本書 p.256)

日本と北朝鮮の間にある人権問題として一番に挙げられるのが拉致事件です。戦後から2000年代までを中心に北朝鮮が工作のため日本中から日本人を拉致しました。ある者はスパイ養成の日本語教師に、ある者は戸籍はそのままで北朝鮮から来た人と入れ替わるなど、浸透工作は多岐に及びます。一連の拉致事件の一部を北朝鮮が認めたのは2000年の小泉訪朝でした。ただ、その前に北朝鮮によって不当に拘束された日本人がいました。一人は日本海側で漁をしていたら海難事故(を装って?)で北朝鮮に保護され、そのまま現地に暮らすことになった寺越武志さん、もう二人が本書で出てくる紅粉勇船長と栗浦好雄機関長です。1983年から1990年まで7年間、北朝鮮で抑留されていました。釈放の条件として北朝鮮を悪く言わないこと、言うと家族が交通事故にあうかもしれないなどと脅されましたが、船長が阪神・淡路大震災を経験し、死んだら残らないのだから死ぬ前に記録を残そうとした結果、書かれたのが本書です。

1983年当時、日本と北朝鮮の間に国交はなくても、貿易はありました。その一つ、はまぐりを始めとする魚介類の輸出入を行っていた船が、紅粉船長や栗浦機関長の乗る富士汽船の第十八富士山丸です。

1983年11月3日、北朝鮮の南浦からはまぐりを積んで帰国する途中、密航者を発見します。李英男と名乗るその男は山口県で入管に引き渡されました。入管の考えは当初、四日市ではまぐりをおろした富士山丸に密航者を送り返してもらう予定でした。そのため、富士山丸は当初予定になかった北朝鮮への渡航のため、新たな貿易契約をします。しかし取り調べが長引いたことから、密航者なしで北朝鮮に行くことになりました。その事情は朝鮮総連関係者にも一筆書いてもらい、最善を期しました。しかし北朝鮮につくと北朝鮮の公民を不法に日本に連れて行ったかどで逮捕、勾留されます。同じく捕まった一等航海士、機関士、コック長は船長が罪をかぶったので釈放されました。船長と機関長だけが7年間抑留されます。罪状認否すらない裁判で二人は労働教化刑15年に処せられ、強制収容所に入れられました。持病を持つ二人でしたが、幸いに強制労働はさせられず、強制収容所では仲良くなった看守からアヒルの卵をもらったり、畑を耕して暮らします。

いっぽう、残された人々も奔走します。家族は当時朝鮮労働党と友党関係にあった社会党の代議士に働きかけ、年に何度かあった議員の訪朝団に望みを託します。土井たか子が金日成に会ったとき、事前には断られていた二人の話を持ち出し、政府間対話の緒を掴みます。その頃には署名活動などで世論も大きく動いていたことが功を奏しました。中曽根首相が中国の胡耀邦国家主席に協力を依頼、訪朝団も働きかけるなど大きく動きました。また国際情勢もラングーン事件以来かけていた制裁の解除、米国の対北朝鮮政策の変更、中国、ソ連の韓国への接近などもあり、大きく動きます。結果、二人は最終的に金丸・金日成会談で釈放が決定されました。

7年の間に紅粉船長の父は亡くなり、富士汽船は破産、社長は心労がたたって寝たきりになりました。また、根拠のない噂レベルの話ではありますが、自民党副総裁まで務めた金丸もこのときに北朝鮮に接近しすぎたため米国の信頼を失い、失脚します。その後、失意のうちに亡くなりました。官僚主義国家におけるたった二人の勾留が、多くの人の人生を変えました。一方、特例的な措置で日本に亡命した李英男と名乗っていた閔洪九は窃盗などで前科を重ねつつ結婚、子供を持って日本で暮らし続けます。

本書では北朝鮮との問題が起きた場合のルートとして外務省は5つ考えていたと明らかにされています。当時は通常の外交ルートのほか、議員連盟などを通じた働きかけが可能だったのです。一方、強い制裁を実施している今はそうした交流がありません。交流を狭めてまで制裁するのも、ある程度の交流を残して制裁を緩和するのも、どちらも一長一短です。表の外交ルートで行うのが筋ですが、一筋縄でいかないのが国際政治だと改めて知らされます。


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向坂逸郎訳とされる『資本論』を本当に訳したマルキシストの自伝


われわれの同級会は「大正十三年一高文甲会」と称し、和田貞一という非常にまめな世話役がいるために、最も集まりの良い同級会である。(中略)集まりは良くても、向陵時代の楽しさが味わえるなどと思ったら大間違いで、じじいばかりの集まりなど面白くもなんともない。お互いにまだ生きていることを確認し合うだけのことである。

(本書 p.38)

保谷村閑居のころからよく家事の世話をしてくれ、そのころ東京の洋裁学校の教師をしていた篠田クニに、入籍手続きをして大連にくるようにと手紙を出した。翌十五年四月、彼女はやってきた。埠頭に出迎えた私の第一声は、金はいくら持ってきたか、だったと彼女はいまでもそう言っている。そんなさもしいことを言った覚えはないのだが、彼女が飽くまでそう聞いたと言うからにはそう言ったのだろう。これが今日まで四十年余り苦楽を共にしてきた妻である。

(本書 p.148)

碁盤が二つ置いてあって、私は出勤するとその前に腰を下ろした。とっかえひっかえ相手がやってきて、昼食抜きで例の賭け碁を戦わせた。退勤時刻になると、正業に就いているだれかから電話がかかってきて、一緒に出かけた。あるとき幹部の一人に、部付とはなんという社費の無駄使いか、とあからさまに言ったら、遊んでいるように見えていてもいざというときに役に立つのだ、という答えが返ってきた。平時でさえ役に立たないから部付になっているような者が、いざ一大事というときに果たして役立つものかどうか甚だ疑問に思った(後略)。

(本書 p.150)

最初の申し合わせの前半の「交替訳」というのはいつしか自然消滅して、「下訳」という名の「全訳」を私がやり、向坂はその原稿かまたは校正刷に目を通すだけ、ということになってしまった。そして「印税二等分」という最初の約束の後半だけが厳然として残った。

(本書 p.194)

数日後に私は今年十月限りで印税受領権を放棄する旨の手紙を出した。向坂からは、それでけっこう、という簡単な返事がきた。そして、その年十月初めのある朝、大新聞朝刊の二面の下五段ぶち抜きで、マルクス『資本論』百年記念、向坂逸郎訳z『資本論』全四冊、という巨大な活字が私の目に飛び込んだ。

(本書 p.302)

佐藤優がどこかでこの本が面白いと褒めていました。確かにおもしろい。賢い人の自伝は細かいところまで覚えていてさすがだなあと感心します。最後の腕力での喧嘩まで覚えているなんて。

80歳の著者が実名でいいことも悪いことも飄々と書いた交遊録です。なぜ実名で書けたか? おそらくこれが著者の遺言だったらからでしょう。本書を出版後、著者は家を引き払って妻とともに全国放浪の旅に出ます。大阪のホテルに泊まったのを最後に、足取りは途絶えました。未だに消息はわかっていません。本書には「鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった」(本書 p371)と書いてあるので、あるいは実行したのかも知れません。

能力ある自由人の生き方を体現した筆者は、独学で一高、東大を出て満鉄調査部に勤め、戦後は九大や法政大の教授を勤めただけあって、頭がいい。頭のいい人の回顧録はよくここまでの記憶力があるなあ、と嘆息します。本人の飄々とした性格もあるのか、ユーモアのある文体で語られていて、飽きません。エリート校に入っただけあって、知り合いも後の大物が出てきます。一学年上には手塚富雄(ドイツ文学者、東大教授)や当時から学力や知識がずば抜けていた石田英一郎(文化人類学者、病気で休学したので卒業は同年)などがいます。

著者の岡崎次郎は明治37(1904)年6月に北海道庁職員の次男として生まれます(当然、長男の名前は太郎、三男は三郎)。父は板垣退助に払い下げた国有地を3年間開拓しなかったから規則通り没収し、職を追われます。その後、東京市役所に職を得ました。その後、転勤で名古屋に移り、著者は読書は好きだけど無味乾燥な教科書を読むのは嫌いだったので進学せずに済む方法はないかと考え、南洋拓殖少年団(ミクロネシアの農園で働く青少年)に応募しようと考えました。しかし家族の猛反対にあい、親に「学校に行くなら一番良い学校に行け」と言われ、第一高等学校に進学します。

人生で一番楽しかった高校生活を過ごた後は、東京帝国大学文学部哲学及び哲学史科に進学、卒業します。しかし、当時は就職難で仕事が見つからなかったため、経済学部に再入学、卒業します。卒業後は翻訳などをして食いつないでいたところ、寮の同室だった橋本乙次の紹介で東亜経済調査局にいる小森新一を紹介されました。それが縁で東亜経済調査局に就職し、調べ物をしたり碁を打ったり盛り場に行ったりと楽しい日々を過ごします。昭和12年~13年には思想弾圧で『マルクス伝』を訳していた著者も逮捕されます。娑婆に復帰してから、調査局は満鉄に復帰しており、大連行きを打診され、そのまま満鉄調査部に異動します。大連でも異動になった北京でもそこでも碁を打つなど楽しい日々を過ごします。終戦を北京で迎え、たまたま会った高校の同級生、石田英一郎と協力して引き上げ準備をドタバタやり、得体の知れない軍人に社屋を明渡したり、いくつかの所持品を憲兵に没収されたりしながら日本に帰国します。

帰国後、九州大学や法政大学の教師をする一方、翻訳も続けました。特に有名なのは『資本論』でしょう。向坂からの依頼で彼のやっていたマルクス『資本論』の訳を手伝うことになります。「下訳」と言われてもほぼ全訳したのに、向坂訳として岩波から出版されています。その後、著者は改めて大月書店から新訳を出そうとしていたところ、向坂に裏切り行為だと指摘され、それまでもらっていた印税をもらわないようにする約束をしました。その途端、岩波がマルクス『資本論』セットを発売します。著者は悔しい思いをしますが、もうどうしようもありません。

大学紛争盛んな頃、暴力を行う学生に警察を介入させず、キャンパスを追い出されて開いた教授会で学生運動の対処について話し合う法政大学に嫌気が差し、職を辞します。このあたりの記述が原因となったようで、本書は法政大学出版社からの出版を拒否されました。その後はまた翻訳をしてお金を稼いでいきます。職を転々としたことと生来の性格から、あまり貯金がなかったようで、晩年まで翻訳等で稼ぎます。そして最後は夫婦で失踪します。こういう人生もあるのか、と驚くばかりです。


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街の語学者 三上章の一生


今西(筆者註:錦司)は生前「わしに進化論をはじめて教えたのは三上やで」と言っていた。三高時代の今西に進化論の手ほどきをしたのは、古今東西の主要著作に親しみ博覧強記で知られた三上章だった。

本書 p.93

三上はこの論文に相当の自信を持っていた。それで、すくなくとも古語、雑誌『コトバ』に載るすべての論文から「主語」という言葉は消えて無くなるに違いない、と本気で信じていたそうである。-「次の号から、いや印刷に間に合わないということもあろうから(!)次の次の号から」そうなるだろうと。

本書 p.160
「象は鼻が長い」で有名な三上章の一生を描いた本です。丹念に取材をして、三上章の人生を、生まれから死去まで追っています。また、くろしお出版の会長や実妹・茂子など生前の三上章と交遊のあった人たちにも会って話を聞き、エピソードに肉付けをしています。

三上章は1903年1月26日に広島県高田郡甲立村に生まれました。三上家はもともと武家で、三上の生まれた明治の時代は豪農でした。大叔父(母方祖母の弟)の義夫は数学者で和算を世界に紹介した科学史家として有名です。

幼い頃は病弱で病に臥せっていたこともありましたが、広島市内の中学校に入学するとスポーツを通じて健康になりました。小さな頃から読み書きや計算に優れていましたが、数学では気に食わない問題が出ると白紙で提出したり、xyzと書くところをセスンと書くなど、反骨精神のある子だったようです。その調子で主席で入学した山口高校を退学し、数学が得意だった御神は三高理科甲類に入学します。三高では今西錦司と同級生、桑原武夫の1年上にあたります。卒業後は当日の受験拒否騒動などありながらも、叔父義夫の勧めで東大建築学科に進学します。当時は文系では食えず、関東大震災後の東京では建築の仕事はいくらでもありました。

卒業後は台湾総督府で技師として働くもすぐに退職し、内地に帰ります。しかし仕事をせねばなりません。戦前は数学教師として朝鮮に赴任しました。1935年には広島に帰国、1938年からは大阪の高校で教鞭をとります。数学教師をしながら、日本語文法の研究をし続けました。金田一春彦の勧めもあって本を出版し、佐久間鼎の支えもあって東洋大学で文学博士号を取得します。そのおかげで武庫川女子大学、大谷女子大学で教鞭をとることになりました。

私生活では結婚せず、母フサ、妹茂子と3人で暮らします。しばらくは健康に過ごしていたようですが、戦前からすっていたタバコ(一番きついゴールデンバット)のほか睡眠薬ヴェロナールも常用し、また躁うつ病をわずらうなど、順風満帆とは行きませんでした。大谷女子大学では時間に正確なことでも有名で、始業前にドアの外で待って、ベルが鳴ったら入ってくる。またベルが鳴ったら話の途中でも切り上げる。だから「とは言」とだけ言って帰り、次の授業では「えない」から始まる。といった一種異様な有様を呈しました。

才能は恵まれた三上が自らの健康と引き換えにしてささげた文法研究が生前は正当な評価を受けなかったのは残念なことです。しかし生誕100周年の2003年には三上章フェスタが開かれる(余談だが、このフェスタに妹茂子は大阪から駆けつけ、久間鼎の次男均にお礼を伝えた)など、ある程度の地位は持ってきたように思えます。大きな業績の裏側では、三上の私生活を支えた母や妹、そして出版社や一部の学者の力があったことを教えてくれる本です。

惜しむらくはその偉大さを伝え切れていない点です。著者は日本語を教える過程で三上文法のすばらしさに気づいたそうなのですが、そうならば従来の文法(著者があげている橋本文法など)を取り上げ、比較検討して優位性を示してほしかったと思いました。

また、エピソードが足らないからか、ある年代の時代背景を描くのに世界や日本の出来事と「三上はどういう気持ちでいただろう」などの著者の感想がやたら入ります。そのため三上と周りの人のエピソードが散漫になってしまっています。歴史上の出来事や感想はできるだけ控えて書いた方が伝わったのではないかと思います。本人の人となりを伝えるという点では関口存男の周りの人が死後に思い出を語った『関口存男の生涯と業績』や斎藤秀三郎を知っている人に丹念に取材をしてエピソードを集めた『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』の方が人となりが伝わります。本人の学習ノートも見せてもらったほか、「雑談の名手だった」というエピソードも聞いたのですから、研究に対する真摯な姿勢、鬼気迫る様子などもおそらく伝え聞いたのではなかったかと思います。三上がどのような姿勢で研究をしていたのか、ぜひ知りたかったです。