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呪術師になった後の世界

カスタネダ、カルロス 真崎義博訳(1974)『呪術師に成る-イクストランへの旅-』二見書房

「それがどんな決断かなんてことは問題じゃない」彼が言った。「どんなことだってほかのことより重大だとか、そうでないとかいうことはないんだからな。わからんのか? 死が狩人であるような世界では、決断に大小なぞないんだ。避けられない死の面前でする決断しかないんだよ」(p.74)

死というものを意識して、人生をどう生きるか。これがドン・ファンのいう戦士の生き方だ。つい人生が永遠であると勘違いしそうな我々だが、戦士は一瞬一瞬に命をかけて生きる。

本書はカスタネダシリーズの第3弾。主に「世界を止める」ということについて話が広げられていく。ここで言われている「世界を止める」というのは、いつもと違った見方をし始めたら、それを無理矢理理性で理解しようとせずに、そのままの世界を受け止め続ける、という意味らしい。

本書では、真っ暗な中を歩く(走る)方法として、中沢新一の『チベットのモーツァルト』に出てきた風の行者の話とそっくりな「力の足どり」というものが出てきた。これは非常に興味深い。人間の身体のふしぎさを感じる話だと思う。

そうして、ドン・ファンの指導によってどんどん新たな身体の地平を切り開いていくカスタネダの成長がおもしろい。

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心身二元論の根源

デカルト, ルネ(谷川多佳子訳)(2007)『方法序説』岩波書店

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(本書 p.46)

したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(本書 p.47)

最近(といってもここ数十年だけど)、デカルト的心身二元論を克服すべく、いろいろな学者が頭をひねっている。古くは井筒俊彦の『意味の深みへ』にも見られるし、近年ではIngold, Tim (2000) The perception of the environment: essays on livelihood, dwelling and skill. Routledge.にも見られる。もっとも、前者も後者もデカルトを批判しているのではなく、欧州に古くからはびこるこうした二元論を克服しようとしている。

Je pence donc je suis. (羅: Cogito ergo sum) はやたら有名な言葉だけど、その真意は本書を読んで初めて知った。

デカルトはまずすべてを疑うところから始めた。そして一から新たな真理の体系を作り出していこうと考えた。そして、これまで他人が証明し、正しいと学んだことをすべていったん保留し、もう一度自分で確かめていこうと決めた。

たとえば、いまいるこの世界について考えてみる。たとえば夢の中では、我々は夢だと気づかない。夢の中の世界を、まるで現実の世界のように感じる。でも、夢の世界は現実じゃない。逆に、現実のように感じられるこの世界も、夢のようにはかないものかもしれない。

そうして周りのものをすべてを疑って、疑って、疑い続けても、唯一疑いえないものが残る。それは「考えている自分がここにいる」という事実である。この宇宙と別の宇宙を考えることもできるし、自分のいない世界を考えることもできる。でも、考える自分のいない世界を考えることはできない。

だからデカルトは、それを哲学の原理の一つとすることにした。すなわち、身体は疑うことができても、考える自分(心)は疑うことができない、ということで、ここに心身二元論が明確にうち立てられている。

デカルトにとっての真理の探究とは、すなわち神によってつくられた自然法則の発見にあったようだ。真理を発見しない限りわかっていない人間は不完全な存在で、逆にそうした真理を世界にちりばめた神こそ、完全な存在である。こうした考え方が非常に欧州っぽい。後年、ニーチェが神を殺すことによって、この前提は覆される。

心身二元論、動物と人間との区別、そうしたものが100ページ程度の本書に明快に述べられている。アプローチの違いはあれども、真理の探究という学問の志向自体は変わってない。

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見ることを身につける

カルロス, カスタネダ(真崎義博訳)(1973)『呪術の体験 分離したリアリティ』二見書房

「見ることが他の人になんの影響も与えないってことは?」

「もう言ったろうが、見ることは呪術じゃないんだ。だが人はすぐ混同しおる。それは、見ることのできる奴はさまざまな盟友のあやつり方を学んで呪術師になれるからさ。だが、盟友を支配するためにある技術を学んで呪術師になることもできるが、そういう奴は決してみることは学ばんのだ。それどころか見るってのは呪術の反対で、呪術なんぞちっとも大事じゃないってことを気づかせてくれるんだ」

「何が大事じゃないって?」

「何もかもだよ」(pp.209-210)

前書『呪術師と私』に続くカスタネダの著書。余談ではあるが真木悠介の『気流の鳴る音』の描写は本書から来ている。

カスタネダはドンファンに、見るというのはどういうことか。どういう状態のことをいうのか、再三再四教えを請うが、ドンファンはそれは見ることによってしか学べないのだと言って(カスタネダにとっては)明確に答えてくれない。見るためには煙が必要であり、煙を通して訓練して、見ることができるのだという。見ることによって何が変わるかというと、何も変わらない。ただ、すべてが管理された愚かさの下に置かれ、善悪も好き嫌いもなくなり、すべてが平等の世界になるとのことであった。

 第二期の修行でドン・ファンが特に関心を寄せたのは、わたしに「見る」ことを教えることであった。彼の知の体系では明らかに、異なった近く方として、「見ること」(seeing)と「眺めること」(looking)には意味上の区別があった。「眺める」というのは、いつもわたしたちが世界を知覚している普通の仕方であり、「見る」というのは、それによって知者が事物の「本質」を認知する非常に複雑なプロセスを伴っている。
(pp.16-17)

見ることは幻覚性のキノコを用いて、新たな世界を探ることだと思う。カスタネダは10年かかっても苦労しているが、鈴木大拙はだいたい10年で禅のものの見方はできるようになるだろう、といっている。それほどドン・ファンの教えは難しいんだろうか。

本書ですごいのは、ドン・ファンの力だと思う。カスタネダの小さな頃の知り合いの話を当ててしまったり、わざと車のエンジンをかからなくさせたりした。知者であり、意志を持つものであるドン・ファンはやっぱりすごい。

つい僕はカスタネダ側に立ってしまう。それはあまりにも純粋で、我々の気持ちを代弁しているからだと思う。ただ、我々の見ている世界だけが世界のすべてではないというのは前の著書での到達点の一つだと思うし、カスタネダも努力しているんだけど、なかなかドン・ファンの思っているところにたどり着くのは難しいらしい。ドン・ファンのいった目を使うだけでなく、耳も使って見ろ、というのは印象に残った。

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呪術師への第一歩

カルロス, カスタネダ、真崎義博訳(1972)『呪術師と私 -ドンファンの教え-』二見書房

特に学ぶべきことは、二つの世界の裂け目までどうやって行き、どうやってもう一つの世界に入るかってことだ。(p.220)

途方もない恐怖が冷静な意識に与えた影響は、日常生活での現実性が絶対的な現実であるという確信や、日常的現実において、漠然と自己に合意を与えうるという確信をくずしてしまうような独特な特質をもっていた。(p.291)

80年代後半あたりによく話題になっていた(らしい)本。中沢新一の『チベットのモーツァルト』や、真木悠介の『気流の鳴る音』にもこの人への言及が出ている。当時はかなりセンセーショナルな本だったんだろう。(蛇足ではあるが、中沢と真木のことについては西部邁『学者 この喜劇的なるもの』にかかれてしまっている)

本書はペヨーテといわれる幻覚性キノコについて、興味本位でメキシコのインディアンに聞いてみたことからすべてが始まる。ペヨーテについてはこんなに知っているんだ、と話かけて相手の興味をそそろうとした主人公(カスタネダ)だが、師となるインディアン(ドンファン)は素っ気ない。いつかうちに来たらいい、と誘われてしばらくの後に家を訪ねたことから、修行が始まる。

カスタネダはなぜペヨーテに興味を持ったのかわからない。ある種の麻薬の代替品として興味を持ったのか。あるいは呪術に興味があったのか。

ドンファンはカスタネダにかなり大変な修行をさせる。カスタネダは音を上げそうになりながらも、それについていく。その様子から見て、カスタネダは興味本位でペヨーテに近づいたのではないか。それがいつの間にか、ペヨーテによって人生を変えられてしまった。ミイラ取りがミイラになるように。

ここでは最初の修行を取り上げただけで、先は続編へと続く。

これまで20年以上浸ってきた自らの世界をはがして、新しい世界を受け入れる。これがカスタネダに科せられた訓練だ。

おそらく本書の一番の見所は空を飛ぶところだろう。カスタネダ自身、空を飛んだ。カスタネダ自身も感覚として空を飛んでいたのはわかっている。そのとき、外部から見ていたドンファンには自分の肉体がどうなっていたか、教えてくれとせがむ。もし友達が見ていたら、カスタネダが飛んだというだろうか。そういう質問をしてドンファンに迫る。

「いや僕の言ってるのはね、あんたとぼくが鳥を見てそれが飛んでいればぼくらはそれが飛んでいることに同意するだろう。だけど、僕の友達二人が、夕べみたいにぼくの飛んでいるところを見て、ぼくが飛んでいることに同意するかしらっていうことなんだ。」「そう、同意するだろうな。お前が鳥を飛ぶことを認めるのは、それが飛んでいるのを見たことがあるからだ。鳥の場合なら飛ぶことはあたりまえのことだ。だがお前は鳥が他のことをするのは認めないだろう、それはお前が鳥がそういうことをするのを見たことがないからだ。お前の友達もデビルズ・ウィードを使って人間が飛ぶってことを知っていれば、同意するだろうよ」(p.153)

結局、ドンファンはカスタネダに、これまで身にまとい続けてきた考え方を捨てて、何にも縛られない状態でものを見なさい、といっているのだと思う。鳥と全く同じ意味で、地表から離れて空を飛んでいたかどうか、というと確かではないが、鳥が「飛んでいること」を知覚するように自ら「飛んでいること」を知覚したから飛んでいたんだよ、ということを言っているように思う。大事なのは肉体が地表面から離れたかどうかではなく、「飛ぶ」経験をしたかどうか、「飛べる」かどうかにあるのだと思った。

こういう考え方は禅のようなものの見方に通じると思う。井筒俊彦が言っていた西洋哲学に対置するという意味での精神的な東洋に息づく東洋哲学と言えるのかもしれない。読者にとってありがたいのは、カスタネダが「西洋の古い存在論」に籠絡されていて、そこからドンファンに質問をするという点にあると思う。我々多くの国の人々はそういう考え方になれてしまっているので、その思いを代弁するカスタネダの質問は非常にわかりやすい。それに反して、ドンファンの答えはまるで禅問答に写る。でも、ドンファンはカスタネダと向き合っている。