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日本植民地下の鉄道の概要を知る

高成鳳(1999)『植民地鉄道と民衆生活 朝鮮・台湾・中国東北』 法政大学出版局

この号の満鉄の広告には鍬を担ぎ子供を抱いた開拓民のシルエットをバックに「大陸国策を現地に看よ!」のスローガンが配されているが、台湾鉄道部のそれは緊張感とはおよそ無縁な「平和な」コピーの羅列である。「パパイヤの甘い香りはいつしか夢を誘ふ」ことが、どうにも当時の国策にダイレクトに結びつくとは考え難い。このあたりにも台湾鉄道の日常が現れているとも考えられないだろうか。植民地期台湾鉄道には、日本の内地の鉄道に通じる地域への一定の定着を見ることができたと推察される。(本書 pp.79-80)

最近はあちこち乗ったことがある国の鉄道に興味を持っている。だからタイの鉄道史を描いた『王国の鉄路』や今回の台湾の鉄道史に言及している本を読んだりしている。

本書は大日本帝国の植民地の鉄道を対象としており、すなわち朝鮮、台湾、中国東北部(満鉄)の3地域の比較研究となっている。

論文等は、この本は資料の読み込みの浅い部分があることも指摘されている。と言ってもその論文は台湾研究社が書いたものなので、この著者(在日コリアン)の興味の中心は朝鮮半島だろうから、少し情熱に偏りがあるのは否めない。

日本人が朝鮮の都市に本格進出するにあたっては、街の規模の大小に関係なく旧市街に隣接する形で新市街が造られ、もっぱら日本人が定住し官公庁の諸機能も集約されるというパターンが多く採られたという。
(中略)
このように鉄道建設は朝鮮在住日本人による町づくりと一体に推進され、日本人の都市への移住に多大な便宜を与えるとともに、都市の朝鮮人に対する支配を、都市の立地条件からも容易ならしめる上で大きな効果があったのだといえよう。(本書 pp.44-45)

と、古来より住んでいた朝鮮人を蔑ろにして、新たに入植した日本人に比重を置いて鉄道を敷設したとしつつも、

列車本数が少なく、長距離輸送は大陸への通過ダイヤのために朝鮮内での移動には不都合も多く、都市部での短距離の移動にも不便だった鉄道の一面がのぞかれる。(本書 p.53)

と、ダイヤは大陸(満鉄)と日本国内とを結ぶ輸送に主眼が置かれており、朝鮮内の事情は二の次だったとしており、この点では日本人も朝鮮人も分け隔てなく蔑ろにされていることになる。結局この矛盾を

とはいえ朝鮮在住日本人にとっては、鉄道が敷かれ列車が通るというそれだけのことでも、異郷である朝鮮で生活していく上での強力な精神的支えとなっていたことだろう。(本書 p.56)

として解決しているのだが、異郷での鉄道が精神的な支えとなるのであれば、台湾や中国東北でも事情は同じはずであるのだが、ほかの地域に関してはそのような記述は見受けられない。

1964年に交通博物館が東海道新幹線開通記念に刊行した本の題名は『鉄道の日本』だった。格助詞の「の」は「が」と同じである。鉄道の日本は、「鉄道が日本」、鉄道こそ近代以降の日本そのものであった。

そしてその日本の鉄道が、東アジア植民地に出ていったときに、それは植民地地域の日本化を促す作用をした。今日、台湾の駅弁が「ビエンタン」と呼ばれるのは、「弁当」の現地語読みに由来している。(両方とも本書 p.187)

格助詞の「の」と「が」が同じになるのは、君が代や我が国等の用法で、この場合は便宜的にいうところの主格の「が」であって、「の」と同じ属格的正確を有したものではないだろう。弁当の話は、現在では便當と書かれているし、民間語源学(Folk Etymology)の域を出ない。

日本の旧植民地の鉄道に関するまとまった研究は本書を含めて数は多くないので、資料として貴重である。当時の車両や駅舎、地図を見ているだけでも楽しめる。満鉄のあじあ号はあんな流線型の機関車が90km/hで走っていたとのことで、その勇壮さは想像もできない。また、装甲列車も走っていたということで、当時の中国東北部の鉄道は、さぞかしダイナミックな光景が展開していたんだろうと想像力が刺激される。

それにしても冒頭の台湾鉄道のキャッチコピー、牧歌的だなあ。

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鉄道に隠された政治的意図を読みほどく

柿崎一郎(2010)『王国の鉄路 -タイ鉄道の歴史』京都大学学術出版会

彼(サリット)は高規格道路を「開発」の象徴と絶賛したのに対し、鉄道に対しては非常に冷淡な態度を取り、バンコク市内の鉄道を軒並み撤去しようと画策したのですが、なぜかこのスパンブリー線については完成にこだわりを見せたのです。(本書 p.254)

ホープウェル計画は、正確にはバンコク高速道路・鉄道建設計画という名称で、香港のホープウェル社がバンコク市内の国鉄の在来線を高架化し、合わせて高速道路と都市鉄道を建設するという壮大な計画をBOT方式で行いたいとタイ側に打診してきたのが起源でした。この計画では、在来線の鉄道用地を使用して、三線化した在来線と都市鉄道を中層、高速道路を上層とする二重の高架線を建設し、高架下は商店や一般道路に活用する予定でした。(中略)北線と東線沿いに高架橋の橋脚が並び始めたものの建設は大幅に遅れ、更に1997年の経済危機によって、計画は完全に頓挫してしまいました。政府は1998年12月のアジア大会までの完成をデッドラインとしたものの、この時点でも完工率はわずか19%だったことから、1997年9月に免許を取り消しました。残った橋脚は「バンコクのストーンヘンジ」と揶揄されることとなり、今日でも北線沿いにその残骸を晒しています。(本書 pp.317-319)

タイの鉄道の歴史的変遷を周辺の東南アジア諸国と比べつつ追っている本書では、タイだけではなく、東南アジアの鉄道事情を俯瞰することができる。この夏休み、ぼくはバンコクに行ったのだけども、その時に初めて鉄道を大いに利用して抱いた謎が解けた。

バンコクのスワンナブーム空港についてエアポートリンクに乗ると、国鉄東線と合流するあたりで眼下に大きな鉄道工場が広がる。ここにはJR西日本から送られたと思しき12系と見られる客車も留置されているものの、熱帯の旺盛な生命力には勝てないようで、蔦に覆われ、放置されたままとなっている。何も動いている風はなかったので、単なる留置線なのかと思っていたら、これは国鉄マッカサン工場らしい。全く関係ないが、帰りにホテルからエアポートリンクのマッカサン駅に行こうとタクシーに乗って、下手なタイ語で「マッカサン駅まで」と伝えたら国鉄東線のマッカサンまで連れて行かれ、「違う違う、ペッチャブリー駅(地下鉄)に近いマッカサン」と伝えたのに、なぜかラッチャプラロップ駅に連れて行かれたのも、今となってはいい思い出である。地元の人にとってのマッカサンはやっぱり国鉄らしい。

夏にはフアランポーン駅からノーンカイ経由でラオスのタナレン駅まで乗ったのだけど、その際に気になっていたバンコクから北に少し行ったところにある橋脚も、新線計画かと思ったら、上記のとおりホープウェル計画の残骸だと知った。著者は、あとがきで書いている通り、鉄道好きなこともあって、かゆい所に手が届く。いまでは2両のディーゼルカーの運転となっているタナレンまでの国際鉄道も、かつてはノーンカイ行きの客車列車の一部が行っていたなんて、知らなかった。それを写真付きで掲載してあるんだから、著者の鉄道好きのホンモノさを感じる。

また、タイの鉄道史についても丁寧に追ってあり、とくに戦時中の国際鉄道網の発展などは興味深い。現在タイの国際鉄道網は南のマレーシアと北のラオスとしかつながっていない。しかもラオスは東北線の終着駅、ノーンカイから10kmほど伸びただけで、10分ほどでタナレンに着く。しかし戦前、軍用列車を運行する必要があった際には、日本軍の尽力により、ビルマまでの鉄道網も持っており、あと少しでプノンペンまでも伸びるところだった。今よりも国際鉄道網という点については、充実していたのだ。その後、ビルマの軍事独裁、ラオスの社会主義化、カンボジアはポルポトの恐怖政治等、地域の情勢もあって、国際鉄道網は分断されてしまった。そして今頃また、国際鉄道網への機運が高まっている。歴史は繰り返すのだ。

黎明期には北部の平定や発展促進を目指し、政治的意味合いを持って建設された鉄道も、次第に貨物や人の輸送といった経済的側面が考慮されるようになる。そしていま、また国際鉄道網に見られるような政治要素がまた出てきた。中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ビルマと鉄道網はつながるのだろうか。中国の出方がかぎを握る。

また、かつては米や豚を中心としていた貨物輸送も、道路網の整備によって車にとって代わり、今では専用車で量がはける石油やセメントが中心になった。また、行商をする短距離客よりも長距離客中心にシフトしていったという変遷から、時間軸に沿ってタイの人たちの暮らしの移り変わりを垣間見ることができる。場所こそ違うが、北河大次郎の『近代都市パリの誕生 ―― 鉄道・メトロ時代の熱狂』も一緒に読むと、鉄道をめぐる人々のかけひきそのものの面白さに、つい魅了されてしまう。

今後の課題としては、渋滞がひどいバンコクにどのような都市鉄道網が整備されるのか、そして遅延が常態化している上にきわめて安い運賃水準となっている国鉄が赤字体質からどうやって抜け出すのか。その点にかかっている。

本書でのもう一つの驚きは、鉄道の撮影が禁止されているビルマの鉄道の写真があること(許可があれば撮影可らしい)。こうした分野の先行研究はあまりないものの、それをまとめてしかも博士論文にした筆者の苦労が、見事に結実している。

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サントリー学芸賞 レビュー

近代化と誇りの折り合いでできたパリ

北河大次郎(2010)『近代都市パリの誕生-鉄道・メトロ時代の熱狂』河出書房新社

この平和と鉄道という一見奇異な組み合わせについても、サン・シモン主義者は大まじめに考えていた。つまり、鉄道の建設によって、これまで社会に存在していたさまざまな障害(地形、税関、城壁など)が取り除かれ、人、情報、モノの流れが活性化する。この流れが世界の新たな交流を生み出すことで、世界的な協同体をつくりだす気運が高まり、フランス革命以降の戦争と動乱の時代を新たな調和と平和の時代に移行することができる、というわけである。(本書 p.49)

この駅は、プラットフォームに屋根もつけない「桟橋』と呼ばれる簡易な施設であった。ちなみに、当時一般にフランスの鉄道停車場にはこの言葉が使われ、今使われる駅という言葉は舟運の拠点をさしていた。当時の交通上の重要度を反映してか、今とは言葉の使い方が逆だったのである。(本書 pp.82-83)

日本のように大量の人が整然とホーム上を移動することはフランスでは困難と判断され、シャトレ=レ・アール駅では中目黒駅(筆者註:約7m)の二・五倍のホーム幅が採用されている。(本書 p.226)

2010年、サントリー学芸賞を受賞した本なので、面白さはお墨付き。鹿島茂『馬車が買いたい!』と併せて読めば、当時のフランス(とくにパリ)の交通事情がよくわかる。フランス人は自らの国土、特にパリにかなりの誇りを持っていることを、この書を読んで初めて知った。

19世紀は英国と米国が鉄道を持っていた。もちろんフランスの技術者も両国に見学に行くが、そこはフランス人、単なる模倣はしない。彼らは理想的な秩序のためにモノづくりをするのであって、現場での工夫は苦手なのである。アメリカのような貧相な鉄道を持つのではなく、フランスにふさわしいものを目指す。そのため、運河と同じ発想でゆったりした規格の線路を敷いていく。もちろん、歴史的建造物の多いパリ中心部にターミナル駅を持ってくるなんて持ってのほかなのである。多少は不便でも郊外に置く。結果、方面ごとにおかれたターミナル駅のために地方から地方に行くにもパリを経由せねばならず、パリにとっては人が集まってきて便利であったが、一方でその混雑はひどくなるばかり。

結果、環状線を作ってすべてのターミナル駅に行けるようにしたけども、それは貨物中心でやっぱり人の流れは変わらない。そこで業を煮やしたパリ市がメトロ計画を立ち上げる。が、そこはやっぱりパリジャン、パリジェンヌ。一筋縄で賛成するわけではなく、侃侃諤諤と議論が交わされる。路線で既存の船会社や地元に利益誘導をしたがる議員との攻防があり、加えて高架か地下かでも一悶着起こる。結果的には今みてもわかるとおり、ほとんどが地下になったのだけど、その地下駅への入り口についてもパリらしさが求められた。難問山積の中、どうしても万博開催までには開通を目指したいパリ市。時間がない中、どこで折り合いをつけて、解決策を見出すのか。手に汗握る時間との戦いが行われる。

面白かったのが、芸術家の多いパリならではか、メトロ建設に際して出た様々な案である。鉄骨の高架にしようとか、上下3段にして上2段を旅客、下1段を貨物にしようとか、レールを使わない案としてタイヤ付の柱を並べて、その上の客車を押し出していく方法とか、いろいろと進歩的な案が出されるとともに、地下への抵抗から唯一許せるのは下水道に蒸気船を走らせて、何なら下水管の壁にフレスコ画まで描いたらいい、といった案まで。

パリの鉄道建設の紆余曲折を通して現れるのは、近代文明の便利さをただ受容するのではなく、歴史や誇りとの折り合いを探る歴史だった。