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アメリカのために行われた日本・イラン首脳会談


マシュハドに飛ぶ半年前、革命防衛隊と関係があるとして米国に制裁されているマハン航空の旧式のエアバスのバンコク便に搭乗したことがある。座席に座ってシートベルトを締めると客室乗務員がやって来て、前方のトイレは壊れていて使えないと言われた。トイレが壊れていても長距離便を運航してしまうというのはイランならではである。

本書 p.38

現役の外務省員は誰も前回一九七八年に行われた福田総理の公式訪問を知らないことになる。歓迎行事で感極まって涙を流して、あやうく一行からはぐれかけてしまった外務省員も出た。

本書 p.52

2019年6月12日、イランのテヘランで日本・イラン首脳会談が行われました。安倍首相とローハニ大統領が出席しました。日本の首相がイランを訪問するのは41年ぶり、革命後初めてのことでした。通常、総理の外国訪問は1年前に決まることもありますが、これは数週間前に決まったもので、当時駐イラン日本国全権特命大使を務めていた著者から見たそのロジ(後方支援)の大変さが描かれていて、大変興味深く読めました。

さらに興味深いのは外交の内容です。共同通信の伝えたところによると、米国の制裁で肝心の外貨の稼ぎ頭であった原油の輸出ができなくなっていたイランに、米国はある提案をします。それは日本を舞台にして、イラン産原油とアメリカ産のトウモロコシ・大豆を物々交換する内容でした。結局イラン側は「経済制裁解除が先」という原理原則を曲げず、この計画は頓挫してしまいます。

イラン側は安倍首相を歓迎し、西側指導者とめったに会わないとされる最高指導者のハメネイ師と面会します。しかし、外交儀礼に反することに、その様子はすべてビデオで撮影され、テレビで公開されてしまいました。

本書はタイトルでわかる通り、「イランは脅威ではない」というスタンスで書かれており、ある種のポジショントークであることは差っ引いて読まないといけません。駐イラン日本国大使を2年務めた著者が書くのですから、イラン寄りになってしまいます。しかし、日本の多くの読者はイランのことを多く知りません。その点で、日本の代表としてイランの内部を見た著者の経験はイランを知る一つのきっかけになると思います。本書ではアメリカとイランの相互不信の原点やその歴史なども詳しく書かれていて勉強になりました。

余談ですが私も著者が書いているマハン航空のバンコク便に乗ってテヘランに3度行ったことがあります。A300の旧型エアバスでしたが、無事テヘランに着くことができました。

マハン航空のA300。バンコクのスワンナプーム空港にて。

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世界に負ける日本型リーダー


半藤一利(2012)『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』文藝春秋

ともあれ、この西南戦争の勝利が明治政府と帝国陸海軍のリーダーシップに関する考え方を決定づけることになったのです。すなわち日本型リーダーシップの成立です。それはひと言でいって「参謀が大事だ」という考えです。総大将は戦いに疎くても参謀さえしっかりしていれば大丈夫、戦さには勝てる。

本書 p.47

組織にはあまりにも斬新な合理的に過ぎる正論は邪魔でしょうがないのです。せっかくみんながその気になっているときに、いきなり冷水をぶっかけて、それが採用されることはまず皆無です。それ以前にきちんと頭を下げて根回しをして、という手続きが必要なところなんです。(中略)それこそが日本型リーダーシップの残滓というものではないでしょうか。あるいは日本型たこつぼ社会における小集団主義といいかえていい。

本書 p.239

歴史探偵として昭和史を調べつくした作家の半藤一利が書いたリーダー論です。歴史探偵にとっては「余技」といったものでしょうか。口語体で書かれてあり、するすると読めます。当時齢82、おそらく口述筆記でしょう。

リーダーシップというのはもともと軍事用語(本書 p.16)であることから、どんなリーダーがいて、どのリーダーを範とすべきかは旧日本軍を見るとよくわかります。

引用の通り、旧日本軍は戊辰戦争での勝利の影響から、リーダーには優秀な参謀、補佐役がいることが大事だということになりました。それが日本型リーダーシップです。著者はリーダーを以下のタイプに分けてみていきます。

  1. 権限発揮せず責任もとらない…ほとんどの指揮官
  2. 権限発揮せず責任だけとる…南雲忠一海軍中将(ミッドウェイ海戦)
  3. 権限発揮して責任取らず…牟田口廉也(インパール作戦)

戦後になってわたくしは、小岩に住んでいた牟田口に何べんも会っています。訪ねていっても、どういうわけかうちには入れてくれません。いつも江戸川の堤までいって土手にすわって話すことになりました。話していると、かならず最後は「なぜオレがこんなに悪者にされなければならんのだッ」と激昂するのです。

本書 p.78

いかにも責任を取らないリーダーの典型、と言えます。でも一部には南雲中将のような名将もいました。

  1. 最大の仕事は決断にあり
  2. 明確な目標を示せ
  3. 焦点に位置せよ
  4. 情報は確実に捉えよ
  5. 規格化された理論にすがるな
  6. 部下には最大限の任務の遂行を求めよ

読めばわかりますが言うは易く行うは難し。決断はできても責任を取らなかった戦前の参謀みたいなリーダーも多いでしょう。私たちの身の回りを見て、ついそういうことを感じる人も多いのではないでしょうか。

世界に目を向ければプーチン、習近平、金正恩といったリーダーは決断はできますし部下に最大限の任務の遂行を求めています。しかし責任を取るかどうかはわかりません。ああいった国々では責任を取らされる前に命を取られる場合が往々にして多いですから…。


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地獄の人生も天国にできる


佐藤優・田原総一朗(2022)『人生は天国か、それとも地獄か』白秋社

田原 振り返ってみれば、米寿を迎えた私が私語尾を現役で続けていられるのも、不器用であり、決してエリートではなかったことが、逆に功を奏したのかもしれません。特に不器用だからこそ、唯一の趣味たる「人と会うこと」を大事にしてきました。

本書 p.23

田原 ついに私は、「実は、外務省は有本恵子さんや横田めぐみさんらが生きていないことを知っているはずだ」と畳見かけてしまいました。(中略)私は非常に心が痛み、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。私は、この発言について、有本さん、そして横田さんたちに対し、何度も謝罪しました。

本書 p.119

佐藤 また透析を始めたのを機に、公演やラジオ出演は控えるようにしました。これまでの仕事全体を見たときに、私はやはり文章を書くことを優先すべきだと考えたからです。

本書 p.153

佐藤 何がいいだろうかと迷っている人には、私は「地元の歴史や文化を調べる」ことを勧めています。日本全国、それぞれの地方や地域には、独自の歴史や文化があるからです。

本書 p.174

作家の佐藤優とジャーナリストの田原総一朗がお互いの人生について「対談」している本です。対談と言っても、お互いが短い言葉を語り合う対談本ではありません。時には数ページにわたって片方の話(エッセイ?)が載り、そのあとに片方の話(エッセイ?)が載る、といった形をとっている、一風変わった対談本です。

田原総一朗は42歳で原子力の賛成派と反対派に関する連載を書き、電通から圧力をかけられて東京12チャンネルを退職後、フリーになります。その後フリーになり、文字が読めなくなってチームの仲間に口述筆記を頼んで原稿を書いたり、2人の妻に先立たれ、娘の子育てをするなど苦労を経験しています。それでも人と会うことが好きな田原は、娘にご飯を食べさせている横で宮澤喜一や堤真一などの政財界の大御所にインタビューをして、仕事をし続けました。そして現在も、滑舌が悪くなり記憶力も衰えたことを自覚しつつ、「朝まで生テレビ」に出演しています。

佐藤優も42歳で鈴木宗男事件に巻き込まれ、外務省からパージされた後、作家として花開いて現在まで仕事をし続けていますが、腎機能が低下して人工透析をしているほか、前立腺がんも発覚し、自身の仕事に優先順位をつけて作家業と後進の育成に軸足を置くようになりました。

二人は人生が地獄に思えるぐらいの試練を受けています。田原は妻に2回も先立たれ、絶望の淵に追いやられたものの、今では同窓会で出会った彼女と仲良くしているそうです。佐藤はこのまま腎臓の透析をし続けても平均余命は8年、妻からの腎臓移植を決意したそうですが、それまでには多数のハードルがあるようです。

二人に共通しているのは、どんな境遇においても自分を見つめなおし、やりたいこと見つけ、自分の活躍できる範囲で活躍していることです。私たちの多くは彼ら二人ほどのバイタリティはないかもしれません。ですがやりたいことの全くない人もいなければ、できることの全くない人もいないはずです。自分のできる範囲で、できることをして余生をいじけず生きる指南書に、本書はなっています。


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批評はまずストーキングから


北村紗衣(2021)『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』筑摩書房

お気に入りの訳者が出ている上演を見るときは自分が性欲に欺されていないか、訳者の魅力に圧倒さrているだけではないのか、ということを注意して見るようになりました。

本書 p.45

また、私は自分が男性同士の親密な関係に何らかのエロティシズムを感じるスラッシャー(日本語では「腐女子」と言うことも多いですが、ネガティヴな感じがするので私は英語圏で使う「スラッシャー」のほうが好きです)だということを明らかにして批評をしていますが、そう自覚してからは批評がむしろやりやすくなりました。

本書 p.48

本書はさえぼう(saebou)先生としてTwitterの一部界隈では有名な北村紗衣 武蔵大学准教授の書いた書評入門書です。本書の冒頭では以下のような(ほかにもありますが)書評を書くための条件が示されます。

  • 精読する
  • 作者には死んでもらう
  • 嘘を見抜けるようになる

こうしたことは、初心者にとって言うは簡単ですが、行うは難しいことです。

精読するには作者の意図などを気にせずに(作品は書かれた時点で読者のものです)文章の一言一句にまで気を使って読み、ストーリーテラーが必ずしも正直ではない、あるいはすべてを語っているわけではないことを踏まえつつ読んでいかねばなりません。

そのあとに分析が始まります。どこがおもしろくてどこがつまらなかったのか。それを分析するには物語を要素に分解してほかの何の物語と似ているかを見ていきます。昔話のタイプインデックスというものがあり、一通りの昔話はカテゴライズされているようです。

それらを踏まえた実践編として著者による『ごんぎつね』の書評、著者と教え子による『あの夜、マイアミで』と『華麗なるギャッツビー』の映画評が実演されます。

自らが行っていることをここまで簡単に説明できるのは著者の実力がなせる業だと思います。しかし一方で、斎藤美奈子や米原万里など、短いけども読ませる書評も多くあります。それらとここで書かれている書評との違いは何なのだろう、と考えさせられました。

そういった点から、本書も必ずしも絶対唯一の批評方法を述べているのではなく、書評や映画評などで数ある批評の方法の一つを学ぶ本だと言えるでしょう。


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朝日新聞の記者が迫った中国の内実


すでに7時間は過ぎていた。トイレに行くたびに取調官がついてくる。慣れているとはいえ、中国語での事情聴取は思った以上に神経をすり減らした。

本書 p.32

「落ち着いて聞いてほしい、将軍がなくなった。しかも数日前のようだ。」
(中略)いつも冷静な人物が焦っている。すぐに確認に走ると、2日前の12月17日朝に死去していたことが確認できた。
 12月19日正午、朝鮮中央放送が金正日の死去を伝える特別放送を流した。

本書 p.177

特に朝日新聞の中国報道について、「親中的」だという批判は根強い。1960年代の文化革命期に(中略)朝日新聞は当時の社長が「歴史の目撃者になるべきだ」として、追放されるような記事を書かないよう北京特派員に指示。当局に都合の悪いことは書かず、北京に残り続けた。

本書 p.238

朝日新聞記者だった著者が2000日にわたる中国特派員時代のうち、主にその成功談を書いたものです。最近は朝日新聞の記者だからと言って中国も手を緩めてはくれない様子がよくわかります。

しかし、著者は一般客に紛れるために鈍行列車に乗り、5つ以上の携帯電話を使い分け、時には変装をして取材に臨んだ結果、中国の奥深くに入ることができました。その結果、上にあるように金正日の死去は朝鮮中央放送の特別放送より前に知ることができました。アントニオ猪木ですら10分程度前にしか知らなかったというので、中国での情報網の太さが分かります。

北朝鮮の当時の指導者、金正日訪中をめぐる取材は執念とも言えます。北京国際空港で平壌発の北朝鮮国営高麗航空のタラップから降りてくる朝鮮労働党幹部(おそらく崔龍海か?)を確認し、過去の例から考えてその約2~4週間後に金正日が訪中すると踏みました。そしてまさに1か月後、金正日は訪中し、その幹部が下見したホテルに泊まりました。植え込みから撮影していた著者と共同通信のカメラマンは撮影後拘束され、写真の消去を命じられました。共同通信のカメラマンは何とか切り抜け、写真を報じ、2010年の新聞協会賞を受賞しました。

図們市外の中朝国境にある鉄条網

著者は北朝鮮の国境地帯に行っては十数メートルの距離で兵士を撮影し、銃を構えかけられたりなど、無礼にも見える取材をしています。しかし北朝鮮と中国の国境では韓国人や中国人が缶詰やカップ麺を投げ、それを取りに来る北朝鮮の人々を見て楽しむ「人間サファリツアー」をやっていることを苦々しく書いています。

あなたはすでに国境区域に入っています。自覚して国境の法規を遵守してください。

著者は本書末尾に新聞記者を続けるようなことを書いていますが、「週刊ダイヤモンド」に掲載する予定だった安倍晋三元首相へのインタビューを事前に見せるよう迫るなどし、退職目前に控えて1か月の停職処分となりました。今は青山学院大学の客員教授をしています。

本書は成功談の断片が多く、面白いですが、やはり同じ著者の『十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』のほうが断然面白く読めました。


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琉球の言葉は彩り豊か


日本語と琉球語が祖語からいつごろ分岐したのかは明らかになっていないが、西暦500年ごろだという研究者もいる。現在存在する多種多様な琉球諸語・方言は言語学的な特徴に基づき分析すると、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の6つの言語に分類できる。

本書 p.53

日本語以外に琉球語と同系統である言語はあるのだろうか。これまでの研究によると、琉球語と直接的な同系統関係にある言語は日本語だけである。

本書 p.191

本書は北は奄美諸島から南は南西諸島まで、琉球弧を描く島々の言葉を横断的に見て、そこから祖語を再構築するための入門書です。

本書では琉球語を北琉球語と南琉球語に分け、前者に奄美語、国頭語、沖縄語を、後者に宮古語、八重山語、与那国語を設定します。前半では沖縄語を例にして、日本語との違いを示します。たとえば「っ」や「ん」(っんじゃん(行った))で始まる語があるなど、代表的な違いを概説します。

中盤以降、琉球祖語の再構をしていきます。これらはすべて同じ言語だから内的再構(あるいは内的再建)と言っていいのか、それとも違う言語として扱うべきなのか、私にはよくわかりません。しかし与那国語と奄美語では相互理解不可能でしょうから、内的でない再構と言ったほうが適切かもしれません。

「ありがとう」を表す語も奄美語では「おぼこりょーた」、沖縄語の今帰仁方言では「かふーし」、与那国語では「ふがらさ」と、一般的に沖縄語学習者が学ぶ那覇方言(あるいは首里方言)の「にふぇーでーびる」とは大きな違いがあります。琉球弧の言語は多様です。

祖語の再構はまず小さな単位から始めます。例えば「鏡」という語を例にとり、名瀬ではkagan、湾ではkagami、伊仙ではkagamiということから、*kagamiと再構するなど、奄美祖語や国頭祖語を再構し、最後にそれぞれの祖語を比較して琉球祖語を再構します。

丹念な手続きに則って再構するのは比較言語学の鉄則です。琉球語の概観を知るほか、比較言語学の入門書としても本書は良書ではないかと思います。


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20ヵ国語をマスターした日本人


本書は『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門』の著者としても知られる言語学者、スラブ語学者の黒田龍之助の愛読書で、あちこちの出版社に持ち掛けてようやく再販が実現したらしいです。その新聞記事を読んでから注文しましたが、もうすでに第3版でした。筑摩書房も大喜びでしょう。

本書は20ヵ国語がペラペラになった通訳者、翻訳者の種田輝豊さん(1938-2017)の自伝的語学学習経歴書です。

本書によれば種田さんは中学時代にハマった英語のほか、フランス語、スウェーデン語、フィンランド語、ドイツ語、ロシア語、オランダ語、中国語、イタリア語、デンマーク語、ノルウェー語、アイスランド語、ペルシャ語、トルコ語、スペイン語、ポルトガル語、古典語(ラテン語、ギリシア語)、チェコ語、インドネシア語、ルーマニア語、朝鮮語、アラビア語を学んだとのこと。

おそらく古典語、朝鮮語、中国語は自在に操れないような感じですが、それでもこれだけのヨーロッパ語を押さえているのはすごいことです。インド・ヨーロッパ語族の言語だから多少の類似性があるとはいえ、アイスランド語とイタリア語は相互理解不可能です。さらに黒田のあとがきによれば、本人が後年一番得意としたのはここに書いてないスペイン語だというのだから驚きです。

ざっと見る限りでも入門書はドイツ語は関口存男のを、アラビア語は井筒俊彦のを使っていて、そりゃあやる気があれば身に着くのが早いだろうなと思わせます。

肝心の語学学習方法ですが、これもまた根性の一言です。まずはアメリカのペンフレンドと文通をする、気になる表現があったら覚えていく、500の例文を覚える、学校にやって来るGI(駐留米軍)と話して発音を教えてもらう、ギリシャ大使館に連絡してギリシャ語のできる留学生を紹介してもらって録音する、ミスアイスランドにお願いしてホテルでアイスランド語を録音する、映画館に通って気になるフレーズがあったら録音してあと何度も聞き返す(今やると著作権法違反です)、などなど今でも使える方法もあれば、今では使えない方法やずいぶん迷惑な方法もあります。

しかも東京外国語大学在学中は大学にはあまり行かず、外国人の集う喫茶店などでいろんな言語で交流をして言語の腕を磨いたというのだから驚きです。

やっぱり語学は根性と異国への愛情なのだな、と思わせる一冊でした。


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選挙協力で権力を狙うしたたかな共産党



「知の巨人」が暴く 世界の常識はウソばかり 単行本(ソフトカバー)

佐藤 地方には、地道に土建屋をやっていたけれどお、土建屋はもうダメだから、介護施設でもカラオケバーでもパン屋でもなんでもやろう、というコングロマリットがたくさん生まれています。そういう経営をしている人は、船井総研のファンです。

本書 pp.37-38

副島 ダボス会議への日本人の招待状は、竹中平蔵が許可を出していると言われている。日本の首相にすら竹中平蔵が許可を出す。だから竹中平蔵が日本国の代表です。いつも民間人有識者として動き回っています。公人になったら逮捕される恐れがあるからです。

本書 p.172

佐藤優と副島隆彦の対談本第5弾だそう。世界情勢を見ていろいろと話していますが、話題の中心の一つは日本共産党です。

人新世の資本論』で話題となった斎藤幸平にも、佐藤優は「旗」(しんぶん赤旗のこと)には気をつけろ、といったようです。現在、佐藤優は佐高信と名誉棄損で裁判をしているほか、共産党への批判も多く書いているようです。

前者は電事連の広告に出たら1000万円のギャラをもらっているはずだ、という荒唐無稽な話を本の中でされたからだそうで、実際にもらった額は100万円よりもっと少なかったそう。

後者は佐藤は共産党はいまだに「敵の出方論」を堅持していて、暴力革命の可能性があること、立憲民主党などと選挙協力を通じてもしかしたら権力が転がりこむかもしれないこと、そうすると共産党にすり寄る官僚が出てきて、スターリン主義の官僚になることを恐れています。

考えたくもない恐ろしい未来ですが、自民党はもしかしたら野党になるかもしれません。しかし共産党は与党側になると決して権力を手放さないと佐藤は見ています。確かに「しんぶん赤旗」の取材力も、党としての組織力もほかの政党と比べたら強いです。スターリン主義の官僚たちが生まれる未来が来ないことを祈りつつ、選挙に臨むしかありません。


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日本語の起源はウラル・アルタイ語?


田中克彦(2021)『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』筑摩書房

大野さんの著書にはよくあることだが、その節の提唱者、発明者のことに触れられることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどんと話が進められるのである。だから大野さんの話はしろうと受けしやすいのである。

本書 p.156

日本語のように、「持っている」ではなくて「だれだれには~がある」という言い方をするきわめて多くの言語があり、ウラル・アルタイ語族のすべてがhaveではなく、「ある」という言い方を共有し、それが覆う地帯は、ユーラシアの半分以上を占める。

本書 p.186

御年88歳の言語学者、田中克彦の新書です。おそらくは口述筆記に典拠資料を加えたものだと思いますが、それにしてもこの年で新たな本を書くバイタリティは尊敬に値します。

本書で主なターゲットとなっているのは印欧語比較言語学です。印欧語の比較言語学はラテン語のような屈折語こそ発達した言語とし、中国語のような孤立語はまだ未発達な言語で、最終的には屈折語に行きつくという前提を持っています。印欧語の祖語の推定は音をもとにした再建で行っていきます。

これに対し、田中は異を唱えます。ウラル・アルタイ語が持つ特徴と、語族ではなくそうした特徴を共有する言語同盟こそがもっと注目されるべき、という意見です。

例えば上述の引用に書いたように、日本語をはじめとするウラル・アルタイ語やロシア語ではhaveにあたる動詞を印欧語ほど使いません。「私は辞書を持っている」ではなく「私には辞書がある」という言い方をします。こうしたものの考え方の共通点こそ、言葉の真相に潜む類縁性に迫る可能性があるのではないかと指摘します。

私もその点については賛成で、もっと累計論的立場から言葉を深く掘り下げていってもいいような気がしますが、日本の学界では日本語の起源の問題などはあまり論じられていないようです。

そもそも、田中は専攻したモンゴル語のほかにロシア語、留学したドイツ語、さらにエスペラントができますが、近年はここまでできる学者は少なくなってきています。それが類型論を語る人の少なさにもつながっている気がしてなりません。


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サントリー学芸賞 レビュー

中国人がはじめて西洋音楽を聴いたのはいつ?


北京は長らく清朝のお膝下であり、近代になってからは軍人が幅をきかす埃くさい街であった。少数の大劇場(映画館)を除けば、音楽会の開けるような場所もなかった。
(中略)
この中国に、西洋は存在していたのである。
上海であった。

本書 p.72

始めは渋々ながら教えることに同意したザハロフも、次第に学生の情熱に動かされ、後にこう語ったといわれる。「私は自分の予想が間違っていたことを、嬉しい気持ちで認めなければならない。私はこれからも喜びをもって教えていきたい。中国の学生は私に大きな楽しみをくれるから」。

本書 p.107

本書はおそらく数年ぶり二度目の読書だが新鮮に読めました。何度読んでも面白い本は面白いです。

本書は1999年にサントリー学芸賞を受賞しています。当時の選評にもある通り、本書は多くの読者にとってあまり興味を抱かないテーマを扱っているといえます。

この若さにしての文章の明快さ、切れのよさ、論点の手渡し方のうまさに舌を巻く。
 副題に「近代中国における西洋音楽の受容」とあるように、本著のテーマは今世紀初頭から1930年代までの中国で、西洋音楽がいかに受容され、発展したかということにある。ただし、その分野の専門家はともかくとして、おおかたの人にとっては関心が薄いことだろう。

https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/1999gb1.html

本書では中国人が西洋音楽を受け入れ、さらに中国人の手によって西洋音楽を奏でていくようになった過程を、音楽学校の設立という公的機関の歴史を通して明らかにしていきます。

中国では、例えば北京に1652年に建てられた最初の天主堂にパイプオルガンがあり、またアヘン戦争敗北後、1842年の南京条約で設定された租界で教会学校が建てられます。そうやって西洋人の手で西洋音楽が導入され始めました。

中国人の手によって西洋音楽が導入されたのは1922年8月に発足した北京大学附属音楽伝習所が始まりと言えます。もともとは課外サークルの一つだった音楽研究会を学長である蔡培元のリーダーシップで学内組織にしたのでした。その所長はヨーロッパで音楽を学んだ蕭友梅が着きます。

そしていよいよ、1923年12月27日に伝習所初めての演奏会が開催されました。会場は大勢の聴衆であふれたといいます。これが、中国人の一般庶民がはじめて聞いた西洋音楽といえます。

その後、北京では戦争の激化が進み、不要不急の音楽伝習所は閉鎖を余儀なくされます。蕭友梅は租界のある上海に行き、その地で国立音楽院を誕生させます。

鳴り物入りで誕生した国立音楽院は高給で外国人教師を雇い、質の高い音楽教育を実施します。引用したザハロフは上手に弾けると「Good boy」と言い、悪く弾くと「I kill you!」と叫んで腕をつねるような、スパルタレッスンだったようです。

上海では当初大学の扱いだった国立音楽院が戦争の激化や蔡培元の後ろ盾がなくなったこともあり、専門学校の扱いになりました。しかし、困難な時代にありながら、若く情熱のある音楽家たちを育てていきました。

その後の中国での音楽家たちの活躍や音楽教育の研究を射程に入れつつ、1920年代から30年代の中国における西洋音楽教育を丹念に追った本書は現代中国の音楽史を考えるうえで重要な資料となります。