兵藤裕己(2000)『“声”の国民国家・日本』NHK出版
仁侠・義侠のモラルと法制度とのあつれきを語る物語に、社会の埒外を生きる語り手のすがたを投影する。またそのようなアウトローの物語が、体制内の日常を生きる庶民大衆にカタルシスを与えてゆく。(本書 p.142)
文章語(文字言語)のロジックがメロディアスな声のなかで解体されるとでもいえようか。声によってひきおこされる聴衆の親和的な一体感や高揚感が、社会秩序や法制度のロジックにたいする合理的な感覚を麻痺させる。(本書 p.207)
大衆の知的前衛から大衆との心情的連帯へ、そうした路線転換がそのまま社会ファシスト化を意味したというところに、日本近代の大衆運動のアポリアが露呈していた。(本書 p.235)
とても面白い。今の時代、浪花節を聞いたことがある人はどれぐらいいるだろう。落語や漫才と同じく、声の芸能であった浪花節は、戦前は国が警戒し、いっぽうで国民国家の形成にまでいたったほどの力を持っていた。いまの落語や漫才が国民を統合する機能を担えるとは到底思えない。しかし、浪花節はその大役を担ったのだ。本書では浪花節がどのように誕生し、受容され、国民国家を形成するにまでいたったかを描いている。
近代日本が国家として成立したのは明治維新以降である。国家は領土と国民があってこそ存立する。国家が誕生した明治期に、どのように国民がまとまっていったのか。「声」すなわち浪花節という切り口からその過程が明らかになってくる。
昭和七年の調査では浪花節は民謡や落語、講談を抑えてリスナーの聴きたい番組一位を得ている。なぜ、そしてどのように人々は浪花節に熱狂したのか。
浪花節の誕生は江戸時代後期の江戸は芝新網町に求められる。明治になっても明治三大貧民窟だった新網町には、アウトローや芸者、浪人などの人々が暮らしていた。その中に願人坊主もいた。願人坊主とは、声音や浄瑠璃、弁舌などを往来で披露してお金をもらっていた人たちのこと。彼らが旅をして、全国各地に浪花節の源流となるチョボクレやチョンガレといった声の芸能が生まれる。彼らの取りまとめ役として、各地にやくざも生まれた。
誕生したての浪花節は人々の人気を得るも、すでに「伝統芸能」となっていた歌舞伎や落語からは下に見られ、同じ舞台に立たせてもらえなかった。だから彼らは辻や場末の演芸場で細々と歌っていたが、逆境にもかかわらず、人々は大いに浪花節を聞きに足を運んだ。それに警戒したのが警察だった。反国家的なことを言わないようにと、お目付け役の警官が浪花節の会場を監視するようになる。明治の初頭で、国にとっても無視できないほどの吸引力を、浪花節はすでに持っていた。
流れを決定づけたのが桃中軒雲右衛門と宮崎滔天だ。東京の浪花節組合と折り合いの悪かった雲右衛門たちは名古屋、大阪と西に移動し、最終的には九州に行く。日露戦争前後で兵隊の集まっていた九州では、彼らの浪花節は大いに受けた。それこそ、日本中が気になるほどに。そしていよいよ東京屈指の大劇場本郷座で公演するにいたった。
国民は彼らの声に熱狂し、語られる物語に陶酔した。
彼らの語る物語は、あだ討ちなどの法制度からは禁じられているが、義理人情の側面からは応援したくなるような物語である。聴衆は制度の中で蓄積された日ごろの鬱憤を、制度の埒外の物語に没入することによって晴らした。
それに目をつけたのが社会主義活動家だったが、彼らの声は大衆には届かなかった。大衆は心理的に連帯し、義理や人情で結び付けられる家族のアナロジー(類推)として、天皇陛下を頂点にいただく大きな家族としての国家に気持ちを向けていった。そうして天皇を「親」とし、国民をみな平等な「家族」と認識することによって異分子を排除する、日本的ファシストが生まれたのだった。そこに危うさを感じた柳田國男は、あえて民俗学の中に浪花節を入れなかったのではないかー筆者はそこまで想像する。
本書は浪花節が隆盛を極めたところで終わっている。なぜ戦後になってどんどん廃れていったのか。その過程は明らかにされていない。おそらくはテレビの普及とそれに伴う劇場の減少がかかわっているのだろう。行者必衰は世の定めだが、『キングの時代』で行われていたような退潮の分析もしてほしかった。