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サントリー学芸賞 レビュー

雑誌じゃないよ超雑誌『キング』

佐藤卓己(2002)『キングの時代』岩波書店

雑誌メディアは、読者対象を細分化することによって発展するものであり、(中略)つまり、細分化可能な領域が存在する限り、雑誌は「専門化」していくことになる。(中略)こうした個別雑誌による読者の細分化、分節化が完成した段階で、『キング』は階級、年齢、性別を超越した国民統合メディアとして構想された。(本書 p.145)

「国民」とはそれほど消極的かつ受動的な読者だったのだろうか。売上部数の著しい伸張を見る限り、戦況を伝える雑誌に国民は殺到した。膨大な購読者に情報操作の犠牲者、メディア被害者としての免罪符を与えることは、大衆政治における政治的無関心や情緒的行動がもたらした結果に対する国民一人ひとりの責任を不問にすることにほかならない。(本書 p.342)

かつて『キング』(講談社)という雑誌があった。その名の通り雑誌界の王として君臨した。1925年創刊、1957年終刊、日本で史上初めて100万部を突破したオバケ雑誌である。

当時より人口の多い2013年現在、一番売れている月刊誌は文藝春秋の58万部、週刊誌でも週刊文春の70万部であることからも、その名に負けないキングぶりがわかるだろう。

我々と同様、著者も疑問に思う。「なぜそれだけ売れたのか」。しかも、当時の知識人、文化人たちはキングを毛嫌いしていた節がある。じゃあ、逆に何故それだけ売れたのか。どこが読者に受け入れられたのか。

キングの発行年をみてピンと来た人は鋭い。当時の日本は雑誌の揺籃期~草創期だったのに加え、ラジオ放送(1925年)、テレビ放送(1953年)も始まったばかりだった。 この疑問に対する分析の枠組みを、著者は自らの体験から編み出す。即ち、これまでは雑誌や新聞といった媒体ごとに分析する研究が多かったのだ。しかし、雑誌や新聞はテレビやラジオといった他の媒体とリンクしながら消費されていた。これまでの見方では、他のメディアとの関わり合いという観点を取りこぼしていた。 通常、雑誌は読者対象を細分化するメディアである。講談社もそうした雑誌を持っていた。男性、婦人、少年、少女と対象を絞った雑誌のラインナップをそろえた上で、それらを統合する国民雑誌『キング』をリリースした。

いろんな人に読ませる雑誌であったこと、いろんな人を満足させるだけの中身があったこと、まさに「ラジオ・トーキー的雑誌」だ。

大正デモクラシー、普通選挙と参政権、国家総動員体制、ラジオ・トーキー・テレビの誕生。歴史の荒波の中でキングは雑誌界に君臨し、100万部の栄華を極め、33年で幕を閉じた。キングと時代の共存を緻密に描き出している。

当時、大衆を対象とした講談社文化の対立軸として、インテリを対象とした岩波文化が挙げられた。大衆誌のインテリ的分析を行った本書がその岩波書店から出ているのにも、また歴史の妙を感じてしまう。

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修辞学以前のレトリック

リチャード・A・レイナム 著/早乙女忠 訳(1994)『雄弁の動機-ルネサンス文学とレトリック』ありな書房

レトリック的人間は生来、単一の価値体系ではなく、複数の価値体系に支配される。つまり単一の世界観を信奉するのではなく、眼前に展開する現実の問題に専心する。レトリック的人間は熱心党にはなれない。創造的思考、新たなる認識の体系に無縁な人間なのだ。レトリック的人間は、現実を発見するのではなく、それを操作するように訓練される。彼にとって実在は、一般に現実として受容されているもの、また有用なものに限定される。(本書 p.16)

レトリック的人生観は、いたるところでシリアスな人生観を脅かす。(中略)西欧的自我はその当初から、レトリック的人間とシリアスな人間、あるいは社会的自我と中心的自我の、変わりやすくつねに不安定な結合から構成された。(本書 p.18)

レトリック的な座標軸とシリアスな座標軸は、両極限の状態である。シリアスな現実からすれば、過去にはさまざまな出来事が存在し、過去から遊離した現在という地点に立つ人物が、出来事の内容を人に語ることが可能である。レトリック的現実の場合は、それとは異なり、一切が現在である。それゆえこれら(筆者註:シェイクスピアのヘンリー諸王劇)四篇の芝居では、登場人物が真に演劇的な自我であり、単に過去に固定されている限り、彼らは真に過去に生きる。同時にその存在はたえず流動しているのだから、まさに現在しか認識しえず、彼らが演ずる劇は現在の時間の中に存在する。(本書 p.264)

本書はこれまでの西欧理解に新たな側面を付け加えてくれた。

西欧には元来、「かくあるべし」という真面目な(シリアスな)態度と「こう読めるよね/ぼくはこう読むよ」というレトリック的な態度があった。

だから戯曲の長いセリフも、シリアスな人たちは「この文章は明晰である」という前提のもと、文章の意味と、さらに深い読みをしようと試みる。

レトリック的人間は違う。彼らは人の心を動かし、不透明である現実の不透明さをさらけ出すため、言葉の美しさをたたえるため、幸せや悲しみを表すために、レトリックを用いるのだ。

衣装を考えてみたらよい。被服の本来の役割は寒さに耐えるため、身を守るためだった。そこに、自分をきれいに見せるためという、元来の役割に別の役割が付け加えられた。言葉もそれと同じである。物事を伝えるための「もの」的言葉のほかに、どういう文脈を紡ぎだし、事実をどう位置付けるかという「こと」的言葉があったのだ。「社会的自我」であるシリアスな人間は社会的に容認されるような言い方や意味付けを考える。「中心的自我」であるレトリック的人間は自分の快楽のために言い回しや道理付けを考える。

この二つの見方があると知ってこそ、中世文学の見方が変わってくる。そして、西欧への見方も変わってくる。レトリックな文脈をシリアスに読むことは無粋だし、逆もまた然りだ。それと同時に、この見方を知ることで主観対客観という西欧が有する二元論の根深さも理解できる。

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労働理論の総まとめ

今村仁司(1981)『労働のオントロギーフランス現代思想の底流』勁草書房

認識といえども人間が社会関係の中でおこなうひとつの世界獲得形式であるというのがマルクスの基本的な立場である。いいかえれば、認識は人間が世界とかかわる社会活動の一領域である以上、認識活動は社会的実践過程の一局面でしかない。社会的行為の基礎概念をわれわれは労働とよぶ。したがって認識は基礎的労働を構成する一モメントとなる。(本書 p.24)

多くの唯物論者たちは、「生産」活動を唯物論的世界観の基礎だと主張してきたが、実際には、かれらはイダリスムの基礎概念を称揚してきたにすぎない。「生産」(超越、対象化、客観化……)こそイデアリスムのエレメントであるから、観念論的世界観の根拠づけを「生産」に求めるイデアリスト(例えばヘーゲル)の主張は、きわめて正当である。唯物論者たちは、観念論者たちと「生産」概念の争奪戦をくりかえしてきたわけであるが、原理的にいってその勝負の結末は眼に見えている。言うまでもなく、唯物論者たちの負けだ。(本書 p.219)

今村仁司の訃報では、代表的な著書として挙げられていた『労働のオントロギー』。僕は『暴力のオントロギー』や『儀礼のオントロギー』などは読んだものの、本書は読んだことがなかった。いや、読んだことがなかったのではなくて、一度読もうとして、最初のアルチュセールのところで挫折したのだ。文庫で出た『アルチュセール全哲学』を上滑りながら読み終え、数年のスパンを開けて本書をひも解いた。働いている人には読んでもらいたい本だ。

本書の構成は、最初にマルクスの労働のフランスでの研究概況を見るため、ルイ・アルチュセール、コルネリウス・カストリアディス、ミシェル・アンリの思想について概観し、その問題点を克服していく。それで三章を使い、第四章からはそれらの批判を加え、問題点の克服を試みる。社会をもろもろの生産活動としてみる(本書 p.201)アルチュセール、線形の変化をする「生産」と非線形の変化をする「創造」の一半を明らかにしたカストリアディス、超越の根拠としてライプニッツのモナド的な生を持ってきたが、モナドゆえに社会的関係をとりこぼしかけているアンリ。彼らの理論を継承しつつ、どうくみ上げていくかを今村は課題としているが、中でもアンリの非対象化の導入を称賛している。

すなわち、フーリエの言うように労働には「いやな労働」(travail repugnant, industrie repugnante)と「楽しい労働」(travail atttrayant, industrie attractive)があり、前者は分業を行う対象化活動だが、後者は分業を廃棄した非対象化活動である。すなわち「異質性を同質化する活動ではなく、異質な諸活動を異質なままに実現する根拠としての活動」(本書 p.258)である。そこではアソシアシオンという社会的つながりが求められる。すなわち、生産されるモノ(対象)ではなく、つながるコトが第一となり、それこそが快の源泉となるのである。

今村仁司も翻訳にかかわった『ドイツ・イデオロギー(抄訳)』で妙に印象に残った「朝には狩りをし、午すぎには魚をとり、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」という「悪名高い箇所」(本書 p.249)も本書では引用がされ、そこまで批判するものではない、という見方が呈示されている。このころから、今村はブレていない。

哲学もしなければ経済学者でもない我々が本書を読んで身につけるべきは、「いやな労働」と「楽しい労働」の比率をいかに変えていくかということ。前者の量を減らすのは努力だけでは限界がある。それでは後者を増やすことを考えればいいのではないか。人間とは周りとかかわって生きていく生物なのだから、そのかかわりを大事にして、分業を廃棄してその人らしさを発揮(全体的個人の表出)し、生きていくように、すなわちプラスを増やしてマイナスを凌駕していくようにするのも一つではないか。

言うことはもっともだけど、実践は難しいよなあ、と思う。難しいといって匙を投げずに努力しよう。

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聖と俗に振れる宗教

ヒューム, デイヴィッド、福鎌忠恕ほか訳(1992)[1972]『宗教の自然史』法政大学出版局

人々の誇張された賛辞や追従が、それでもなおこれらの諸力についての人々の観念を膨張させる。そして彼らの神々を完全性の最極限まで高揚させて、ついに統一と無限、単一性と精神性の属性を産み出す。このような繊細な観念は俗衆の理解にそもそも対応していないので本来の純粋性に長い間とどまってはいない。そして人類とその至高神の間に介在する下級の介在者ないし従属的な代理者の概念によって支持されることを要求する。これらの半神半人ないし中間的存在は人間本性により多くあずかり、またわれわれにいっそう親密なので、敬虔の主要な対象となり、小心で貧窮した人類の熱烈な祈願と賛辞によって、以前に追放されてしまっていた偶像崇拝教をしだいに呼び戻す。(本書 pp.53-54)

来世の信仰により顕示された快適な視野は、忘我的で歓喜にあふれている。しかしそれは、宗教の恐怖の出現とともになんとすばやく消滅することであろう。この恐怖は人間精神をより強固に、より永続的に占拠するのである。(本書 p.105)

本書は佐藤優がアーネスト・ゲリナーの『イスラム社会』を絶賛する中で言及した、ヒュームの振り子理論が掲載されている本である。

要は一神教は素晴らしい、多神教はまだまだレベルの低い連中が信じているから、相手にしないでいい。そもそも多神教って、神々は一体だれが作ったのさ?ってことになるでしょ。というお話。そのため、多神教の本場、ギリシャのお話がいっぱい出てくる。一神教の立場からしたら論理的に多神教を受け入れないのもわかるし、ギリシャの放恣な神様と日頃の倫理を比べたらぜんぜん違うから、乗り越えるべき矛盾があるのもわかる。ただ、そこに21世紀の、そしてキリスト教徒でない者が読むべき現代性があるかどうかは微妙なところ。

肝心の振り子理論にしても、ゲリナーが書いてある通り、まずは身近なところに神々を見つけて、人々は多神教、偶像崇拝に走る。そこから、それらの神々や偶像の創造者に心をとめるようになり、すべてを支配するただ1つの神を信じるようになる。そうして洗練された一神教が出来上がるが、あまりにも洗練されすぎたために多くの大衆はついていけず、身近な神の代理人を作り出す。そしたら神の代理人がまた直接信仰を集めて多神教になり…の繰り返しというお話。

この振り子理論、面白いんだけど、結局2次元的な往復でしかない。ヘーゲルのいう弁証法は3次元的な螺旋のはずで、そのほうが理論としては面白い。しかしこの場合、一神教を克服したうえで多神教になるのかと思ったら、前提が蒙昧な俗衆なので、一神教を信じていたころのことを忘却して、また多神教、偶像崇拝を始めて元の木阿弥に戻るとみなしているんだろうから、たぶん振り子でいいんだろうと思う。

でもやっぱり、理論としてはヘーゲル的弁証法の3次元(螺旋)のほうが面白いし、現代性があると思う。

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世界はドーダで満ちている!

鹿島茂(2007)『ドーダの近代史』朝日新聞社

ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、「ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。(本書 p.5)

普通の基準からすると、こうした人間はありえないような気がする。だが、私は語学教師の端くれなので知っている。兆民のような純粋の語学バカ、シニフィアン人間は実在すると。語学と言うのは、その才能がある人間にとって、生きていくことの支え、おのれの自尊心をくすぐる立派なドーダ・ポイントともなりうるのである。(本書 p.239)

最近仕事が忙しかったのもあって、すいすい読める本を探していた。たまたま、千夜千冊で紹介されていたのを読んで、これを読もうと思った。そこに書いてある通り「ドーダの超論理というのは、べつだん難しいものではない。学問でもないし、高遠なものでもない」のである。ただ分厚いので読みごたえはあるし、鹿島茂のこと、やっぱり読ませる。

本書は幕末の時代に跋扈したドーダさんたち、「マイッタか!」と相手に自慢したいがために、頑張ったり頑張らなかったり斜に構えたり死に物狂いになったりする人たちの系譜を紹介している。

僕は松岡正剛とは逆で、最初のころの陽ドーダよりも後半の陰ドーダ、内ドーダに興味を持った。中江兆民をシニフィアンの人(書いてあることよりも、外国語の響きにひかれて語学の上達を一身に願った人)と述べているあたり、語学者として大変共感を覚えた。そこがシニフィエの人へ転換したかどうかの真実性についてはともかくとして。基本的に三つ子の魂百までなので、シニフィアンの人はシニフィエへの転向を目指したとしても、やっぱり限界があるし、シニフィアンへの思いはそう簡単に断ち切れるものではないと思うから、ここは保留にしている。

しかし、兆民とルソーの思想的バックグラウンドを対比しだすあたりからは、鹿島茂らしい細かさを持ち出して来て、さすがだなあと思わせた。

最近の文脈に照らしてみると、絶望の国でも幸せに生きる若者たちは陰ドーダなんだろう。すなわちa×b=1の図式に於いて、a=内面、b=外見として、外見にお金をかけないし興味もないフリをして、bを減らした結果、自動的にaが上がる。すなわち「そんなことより内面さ」と斜に構える風潮、これが今はやりの内ドーダである。もはや消費を知らない世代な上に、将来に不安だらけだから仕方ない。

世の中にはいろんなドーダがあって、結局人はドーダに籠絡されつつ生きるしかない。では今の時代、どうやって幸せに生きるのか。本書に少し述べられていた、人のいいボンクラを上に据えて、徳のない秀才を輔弼に据える、というのが一つの可能性で或る気がする。

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日本植民地下の鉄道の概要を知る

高成鳳(1999)『植民地鉄道と民衆生活 朝鮮・台湾・中国東北』 法政大学出版局

この号の満鉄の広告には鍬を担ぎ子供を抱いた開拓民のシルエットをバックに「大陸国策を現地に看よ!」のスローガンが配されているが、台湾鉄道部のそれは緊張感とはおよそ無縁な「平和な」コピーの羅列である。「パパイヤの甘い香りはいつしか夢を誘ふ」ことが、どうにも当時の国策にダイレクトに結びつくとは考え難い。このあたりにも台湾鉄道の日常が現れているとも考えられないだろうか。植民地期台湾鉄道には、日本の内地の鉄道に通じる地域への一定の定着を見ることができたと推察される。(本書 pp.79-80)

最近はあちこち乗ったことがある国の鉄道に興味を持っている。だからタイの鉄道史を描いた『王国の鉄路』や今回の台湾の鉄道史に言及している本を読んだりしている。

本書は大日本帝国の植民地の鉄道を対象としており、すなわち朝鮮、台湾、中国東北部(満鉄)の3地域の比較研究となっている。

論文等は、この本は資料の読み込みの浅い部分があることも指摘されている。と言ってもその論文は台湾研究社が書いたものなので、この著者(在日コリアン)の興味の中心は朝鮮半島だろうから、少し情熱に偏りがあるのは否めない。

日本人が朝鮮の都市に本格進出するにあたっては、街の規模の大小に関係なく旧市街に隣接する形で新市街が造られ、もっぱら日本人が定住し官公庁の諸機能も集約されるというパターンが多く採られたという。
(中略)
このように鉄道建設は朝鮮在住日本人による町づくりと一体に推進され、日本人の都市への移住に多大な便宜を与えるとともに、都市の朝鮮人に対する支配を、都市の立地条件からも容易ならしめる上で大きな効果があったのだといえよう。(本書 pp.44-45)

と、古来より住んでいた朝鮮人を蔑ろにして、新たに入植した日本人に比重を置いて鉄道を敷設したとしつつも、

列車本数が少なく、長距離輸送は大陸への通過ダイヤのために朝鮮内での移動には不都合も多く、都市部での短距離の移動にも不便だった鉄道の一面がのぞかれる。(本書 p.53)

と、ダイヤは大陸(満鉄)と日本国内とを結ぶ輸送に主眼が置かれており、朝鮮内の事情は二の次だったとしており、この点では日本人も朝鮮人も分け隔てなく蔑ろにされていることになる。結局この矛盾を

とはいえ朝鮮在住日本人にとっては、鉄道が敷かれ列車が通るというそれだけのことでも、異郷である朝鮮で生活していく上での強力な精神的支えとなっていたことだろう。(本書 p.56)

として解決しているのだが、異郷での鉄道が精神的な支えとなるのであれば、台湾や中国東北でも事情は同じはずであるのだが、ほかの地域に関してはそのような記述は見受けられない。

1964年に交通博物館が東海道新幹線開通記念に刊行した本の題名は『鉄道の日本』だった。格助詞の「の」は「が」と同じである。鉄道の日本は、「鉄道が日本」、鉄道こそ近代以降の日本そのものであった。

そしてその日本の鉄道が、東アジア植民地に出ていったときに、それは植民地地域の日本化を促す作用をした。今日、台湾の駅弁が「ビエンタン」と呼ばれるのは、「弁当」の現地語読みに由来している。(両方とも本書 p.187)

格助詞の「の」と「が」が同じになるのは、君が代や我が国等の用法で、この場合は便宜的にいうところの主格の「が」であって、「の」と同じ属格的正確を有したものではないだろう。弁当の話は、現在では便當と書かれているし、民間語源学(Folk Etymology)の域を出ない。

日本の旧植民地の鉄道に関するまとまった研究は本書を含めて数は多くないので、資料として貴重である。当時の車両や駅舎、地図を見ているだけでも楽しめる。満鉄のあじあ号はあんな流線型の機関車が90km/hで走っていたとのことで、その勇壮さは想像もできない。また、装甲列車も走っていたということで、当時の中国東北部の鉄道は、さぞかしダイナミックな光景が展開していたんだろうと想像力が刺激される。

それにしても冒頭の台湾鉄道のキャッチコピー、牧歌的だなあ。

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宗教の栄華と退潮を見る

アーネスト・ゲルナー著/宮治美江子, 堀内正樹, 田中哲也訳(1991)『イスラム社会』紀伊國屋書店

急速な職業移動と技術革新が特殊な諸共同体の平和的共存を困難または不可能とした近代的状況下では、これらの共同体のそれぞれが自分自身の国家を獲得または創設しようと試みる。言い換えれば、民族主義が支配的になる。(常軌を逸した悲劇的なケースであるレバノンにおいてのみ、諸共同体は不安定な力の均衡によってどの共同体にも属していない政治体制の下で共存し続けることを強いられている。(後略))(本書 p.140)

カダフィによるスンナ(筆者註:コーランとは対照的に、法典化された伝承)の停止や削減はウラマーの地位と権威を大いに減少させ、またある意味ではそれはウラマー階級の解職であった。(中略)日々のスンニー主義は、その秩序や冷静さ、それを優先的に受け入れてくれる態度がある時、それを人民のアヘンと呼ぶことはほとんどできない。すなわちそれは市民たちを守る市民憲章に非常に近いものであり、そこではウラマーたちはその法委員会のような存在であった。しかしカダフィの極端な厳格主義は市民からそうした防衛手段を奪った。(本書 p.149)

だからどの部族もムスリムとしての立場を示す必要があるし、いかなる場合にもそれを示したいと望むわけである。ところが彼らはコーランに関する学識でそれを示すことはできない。文盲だから。(本書 p.264)

佐藤優をして「獄中で読んだ学術書の中でそりが合うのはアーネスト・ゲルナーだけだった。(中略)マグレブのムスリム社会をイブン・ハルドゥーン[1332-1406]の交代史観とヒューム[1711-76]の「振り子理論」を用いて見事に分析している。この方法論も極めてユニークで、まさに自分の頭で考えている」(佐藤優(2010)『獄中記』 岩波書店. p.434)と言わしめた。

僕は仕事でムスリムと関わるので読んだ。しかしこれまで行ったことがあるイスラム圏も、仕事で関わりのある国、すなわちマレーシアだけだ。この本の射程は訳者あとがきに書いてあるとおり、オスマントルコには適用しづらいものの、一概にマグレブ(地中海沿岸)じゃないからといって適用できないと決めつけるのは性急らしい。ただ、東南アジアでは合わないのではないか。

基本的な枠組みとしては、マグレブを例にとったイスラム社会においては、都会の定住民と田舎の遊牧民に分けられ、前者は文字を読むことができて聖天に直接アクセスすることができるのに対し、後者は文盲で聖典へのアクセスは仲介者を必要とする。そして前者は聖典の読みを研究するウラマーと遊牧民の攻撃から守ってくれる政府を必要とし、後者は仲介者としてのスーフィーがいて別途クランの長がいればいいだけの組織で、特段政府のようなものを必要としない。

こうした二項対立的な構図は、おそらくは西はマグレブ地方から、東はトライバルエリアのあるパキスタンまでのものだろう。スリランカやインドネシア、マレーシアといった国々では該当しないのではないだろうか。

イブン・ハルドゥーンの社会学とヒュームの振り子理論、それに加えてケインズやエドマンド・リーチといった大家の理論を縦横無尽に使いこなしてイスラム社会を分析するアーネスト・ゲルナーの頭のキレは、まさに快刀乱麻を断つ具合だ。原著書初出年が1981年と30年前、もちろん執筆時に使ったデータはそれ以前のものだから、アラブの春のジャスミン革命でチュニジアは政権交代が行われ、リビアのカダフィは殺害されてしまった。そうした社会情勢の違いはあっても、やはり本書は、まだイスラム社会を理解する上では多くの示唆を与えてくれる。

スーフィズム(神秘主義)については井筒俊彦の本から知っていたが、実際は田舎の部族が頼るもので、土着の信仰とないまぜになったものだ、という見方は知らなかった。大変勉強になった。

上記引用の、文盲だからという箇所についてだけど、イスラム社会は声の文化なのではないか。マレーシアでも決まった時間にはモスクからアザーンが朗々と聞こえてくるし、井筒俊彦の回顧録にもそういう話が出てくる。本書でもp.290にアルジェリアのスーフィー(イスラム神秘主義者)コーランの九割を覚えたというエピソードが出てくる。解釈や伝承を捨象して、原典に忠実な姿勢をしめすには、頭の中にあるコーランを引用すればいいのだけれど、そのあたりの説明がないのがもどかしい。(もっとも、オングの『声の文化と文字の文化』の出版は本書の翌年、1982年だから仕方ないとも言えるのだけど。)

惜しむらくは、原著書の題名がMuslim Societyだったのだが、本書では(出版当時の)日本の事情を考慮して『イスラム社会』と訳出された。今ではムスリム社会でも通じるだろう。ここ十数年でイスラムもずいぶん人口に膾炙した。そのほか、原住民と書いていたり(Aborigineだったらまだしも、Indigenous Peopleは、今は先住民という。中国語では原住民と言うけれど。)、諸刃の剣と諸刃の刃と、両方の書き方が混在していたりと、少し急いだような箇所が見られるところだ。

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パリ万博の壮観を再体験

鹿島茂(1992)『絶景、パリ万国博覧会-サン=シモンの鉄の夢』河出書房新社

万博博覧会というイベントは、たしかに国家の主導による「公」の行事であるが、その目的が、個人や私企業の発明・開発した優れた「商品」を一か所に集めて展示し、、生産者・流通業者・消費者それぞれに刺激を与えて、各々の利潤追求の欲望を加速することであるという点では、これほど資本主義的な制度もほかにない。共産圏ではオリンピックは開かれても万国博覧会はついに一度も開かれなかったのは、ある意味では当然すぎるほど当然のことなのである。(本書 p.110)

いっぽう、商品もまた、展示されるというそのことによって、重大な本質的変化を蒙ることになった。すなわち、展示されたその時点から、商品は、役に立つ品物という本来の性質、すなわち使用価値のほかに、プラス・アルファの価値を獲得することになるのである。このプラス・アルファの価値とは、もちろん「視線の弁証法」による欲望の投影で生まれてくるものなのだが、それと同時に、いわば日常レベルとは切り離された、祝祭的、演劇的空間におかれることによって商品に付け加わる価値でもある。ベンヤミンの用語でいう「展示価値」あるいは「交換価値」がこれに相当する。ようするに、商品は、それがどんな商品であれ、「展示される」ことによりアウラを獲得するという原理がここで実証されたのである。(本書 pp.160-161)

本書は万博大好きな鹿島茂の、パリ万国博覧会に関する集大成その1とでもいえる作品である。

以前にロンドンで開催された万博とは趣が異なり、パリで開催された2回の万博は、万物(universelle)のための万博だったのである。それに一役を買ったのがナポレオン3世であり、その庇護下にあったサンシモン主義者たちであった。彼らは世界中のありとあらゆるものを集め、展示し、それらを民衆に見せる(教育もサンシモン主義の大事な要素)というのを目的とし、万博を計画した。

結果、準備不足だった1855年の万博では一部の展示館ができず、ナポレオン3世は開会の挨拶で不満を見せて(ぼそぼそと小声で、極短なスピーチを行なって)帰ってしまう。しかし1867年の第2回万博で彼らは捲土重来を期す。日本からも芸者たちが参加したこの万博において、世界のありとあらゆるものを展示するという計画は結実した。

民衆は大いに沸いた。万博の展示物には関税をかけず、その場で即売することを可としたのも大きかった。当時のパリではモノの売り買いというのは今とは全く違って、正札販売がされておらず、店に入ったが最後、知識の豊富でふっかけようとしてくる店員と、入ったものの手ブラで出る自由のない客との不平等な駆け引きがなされた。しかし万博では正札販売、ウィンドーショッピングも可ということから、大変な人気が出た。まさにパリ万博は、売り買いの変革という点においても、エポックメイキングな出来事だったのだ。

本書の意義としては、上記の引用にあるように、万博の楽しさの淵源(展示されることによってアウラを獲得する)を示し、それが国家による私企業や個人の利潤追求の奨励であることを見抜いた点であろうと思う。ただ、共産圏では万博は開催されたことがない、と当時は書いているが、2010年、上海万博が共産党支配下の中国で開催された。これはどう見たらいいのだろう。

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レビュー 日本ノンフィクション賞

南方熊楠、渋沢敬三、新村出らとの交遊録

岡茂雄(1974)『本屋風情』平凡社

風呂場の外がわに下駄の足音が近づいた。「湯加減はどうかな」と翁の声。「結構です」と応える。しばらくするとまた足音がして「湯加減はどうかな」。「結構です」。繰り返すこと三回。わずか十五分か二十分のあ間にである。全く驚いた。私は他家の風呂をいただく機会はたびたびあったが、これほどまでに気を使われた経験はない。しかもそれが南方翁である。感激しないわけにはいかないではないか。(本書 pp.41-42)

私が碧梧桐に揮毫を頼んだ時、「私の書く看板を掲げた本屋は、たいがい潰れるが、それでもいいですか」といわれ、「かまいません」と応えたけれど、何とそのとおりになったのは笑止である。(本書 p.268)

民俗学、人類学、考古学専門の書肆である岡書院、山専門の梓書房を営んでいた岡茂雄のノンフィクション短編集。題名は柳田国男の一言に依る。柳田と筆者の仲がこじれて、渋沢敬三が仲裁をすべく会食を開いたが、後日「なぜ本屋風情を呼んだのだ」と言った(らしい)ことから、本書は名付けられたらしい。

そもそも陸軍幼年学校から陸軍士官学校を出て将来を嘱望された軍人だった岡が、なぜ一念発起して出版業を始めたのかは本書に詳しく書かれていないが、彼のような人が出なかったら、世界的にもかなり早いといわれるソシュールの『一般言語学講義』の翻訳やその他の貴重な出版物が後世に残らなかったのだから、その恩恵に浴している我々は、深く感謝せねばならない。

時代もあってか、本書に出てくる人たちがたいへん高名で、またその意外な一面に驚く。熊野の田舎に蟄居していて、わざわざ会いに来た人でも気が向かなかったら会わないが、自分がすいた人にはとことん筆まめ、それでいて照れ屋の南方熊楠。気持ちに波があって、自分から謝ることのできない意固地な柳田国男。表には出さないけども、いろいろと難しいところのある金田一京助。質実剛健という感じで学問の育成に援助を惜しまなかった渋沢敬三。そして出版界の指南役として岡の相談相手にもなってくれた岩波茂雄。こうした人々の、いわゆる公の側面でない、私的な側面の性格が見られるエピソードが満載で楽しめる。

新村出が安倍能成に頼まれて小林英夫を京城帝国大学にやったとか、広辞苑の編集には新村、柳田、金田一の他、橋本進吉や小倉進平にまで話が行ったこと、長野の駐屯地に徴用されて旅館に投宿して仕事をしていたら折口信夫が訪ねてきたり、自分の書肆名を河東碧梧桐に揮毫してもらったり(碧梧桐については石川九揚『書の終焉』にも記載あり)、梓書房には日本百名山の深田久弥が出入りしたりと、出てくるのはそうそうたるメンバー。やはりこれは岡の旺盛な仕事への情熱から生まれた輪なのだろう。ちなみに、終戦間際に軍務を頼まれたのは終戦の日に自決する阿南惟幾陸軍大将(終戦時は陸軍大臣)の依頼によるのだが、これは陸士時代の縁によるものとしても、おそらくは円満退官だったのではないかと想像される。

後に京大総長になる濱田耕作や、事件を起こした清野謙次との知遇も得ており、こうした日本の一流学者との付き合いがあったからか、本屋としての「分をわきまえる」ことをかなり意識している。今の感覚から見たら、少し遠慮しすぎではないかと思える。プロデューサーとして、もう少し遠慮を取り払ってもよかったのではないか。でも、そういう時代だったのだろう。

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レビュー

鉄道に隠された政治的意図を読みほどく

柿崎一郎(2010)『王国の鉄路 -タイ鉄道の歴史』京都大学学術出版会

彼(サリット)は高規格道路を「開発」の象徴と絶賛したのに対し、鉄道に対しては非常に冷淡な態度を取り、バンコク市内の鉄道を軒並み撤去しようと画策したのですが、なぜかこのスパンブリー線については完成にこだわりを見せたのです。(本書 p.254)

ホープウェル計画は、正確にはバンコク高速道路・鉄道建設計画という名称で、香港のホープウェル社がバンコク市内の国鉄の在来線を高架化し、合わせて高速道路と都市鉄道を建設するという壮大な計画をBOT方式で行いたいとタイ側に打診してきたのが起源でした。この計画では、在来線の鉄道用地を使用して、三線化した在来線と都市鉄道を中層、高速道路を上層とする二重の高架線を建設し、高架下は商店や一般道路に活用する予定でした。(中略)北線と東線沿いに高架橋の橋脚が並び始めたものの建設は大幅に遅れ、更に1997年の経済危機によって、計画は完全に頓挫してしまいました。政府は1998年12月のアジア大会までの完成をデッドラインとしたものの、この時点でも完工率はわずか19%だったことから、1997年9月に免許を取り消しました。残った橋脚は「バンコクのストーンヘンジ」と揶揄されることとなり、今日でも北線沿いにその残骸を晒しています。(本書 pp.317-319)

タイの鉄道の歴史的変遷を周辺の東南アジア諸国と比べつつ追っている本書では、タイだけではなく、東南アジアの鉄道事情を俯瞰することができる。この夏休み、ぼくはバンコクに行ったのだけども、その時に初めて鉄道を大いに利用して抱いた謎が解けた。

バンコクのスワンナブーム空港についてエアポートリンクに乗ると、国鉄東線と合流するあたりで眼下に大きな鉄道工場が広がる。ここにはJR西日本から送られたと思しき12系と見られる客車も留置されているものの、熱帯の旺盛な生命力には勝てないようで、蔦に覆われ、放置されたままとなっている。何も動いている風はなかったので、単なる留置線なのかと思っていたら、これは国鉄マッカサン工場らしい。全く関係ないが、帰りにホテルからエアポートリンクのマッカサン駅に行こうとタクシーに乗って、下手なタイ語で「マッカサン駅まで」と伝えたら国鉄東線のマッカサンまで連れて行かれ、「違う違う、ペッチャブリー駅(地下鉄)に近いマッカサン」と伝えたのに、なぜかラッチャプラロップ駅に連れて行かれたのも、今となってはいい思い出である。地元の人にとってのマッカサンはやっぱり国鉄らしい。

夏にはフアランポーン駅からノーンカイ経由でラオスのタナレン駅まで乗ったのだけど、その際に気になっていたバンコクから北に少し行ったところにある橋脚も、新線計画かと思ったら、上記のとおりホープウェル計画の残骸だと知った。著者は、あとがきで書いている通り、鉄道好きなこともあって、かゆい所に手が届く。いまでは2両のディーゼルカーの運転となっているタナレンまでの国際鉄道も、かつてはノーンカイ行きの客車列車の一部が行っていたなんて、知らなかった。それを写真付きで掲載してあるんだから、著者の鉄道好きのホンモノさを感じる。

また、タイの鉄道史についても丁寧に追ってあり、とくに戦時中の国際鉄道網の発展などは興味深い。現在タイの国際鉄道網は南のマレーシアと北のラオスとしかつながっていない。しかもラオスは東北線の終着駅、ノーンカイから10kmほど伸びただけで、10分ほどでタナレンに着く。しかし戦前、軍用列車を運行する必要があった際には、日本軍の尽力により、ビルマまでの鉄道網も持っており、あと少しでプノンペンまでも伸びるところだった。今よりも国際鉄道網という点については、充実していたのだ。その後、ビルマの軍事独裁、ラオスの社会主義化、カンボジアはポルポトの恐怖政治等、地域の情勢もあって、国際鉄道網は分断されてしまった。そして今頃また、国際鉄道網への機運が高まっている。歴史は繰り返すのだ。

黎明期には北部の平定や発展促進を目指し、政治的意味合いを持って建設された鉄道も、次第に貨物や人の輸送といった経済的側面が考慮されるようになる。そしていま、また国際鉄道網に見られるような政治要素がまた出てきた。中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ビルマと鉄道網はつながるのだろうか。中国の出方がかぎを握る。

また、かつては米や豚を中心としていた貨物輸送も、道路網の整備によって車にとって代わり、今では専用車で量がはける石油やセメントが中心になった。また、行商をする短距離客よりも長距離客中心にシフトしていったという変遷から、時間軸に沿ってタイの人たちの暮らしの移り変わりを垣間見ることができる。場所こそ違うが、北河大次郎の『近代都市パリの誕生 ―― 鉄道・メトロ時代の熱狂』も一緒に読むと、鉄道をめぐる人々のかけひきそのものの面白さに、つい魅了されてしまう。

今後の課題としては、渋滞がひどいバンコクにどのような都市鉄道網が整備されるのか、そして遅延が常態化している上にきわめて安い運賃水準となっている国鉄が赤字体質からどうやって抜け出すのか。その点にかかっている。

本書でのもう一つの驚きは、鉄道の撮影が禁止されているビルマの鉄道の写真があること(許可があれば撮影可らしい)。こうした分野の先行研究はあまりないものの、それをまとめてしかも博士論文にした筆者の苦労が、見事に結実している。