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拉致事件は世界的な作戦の一部だった?

手嶋龍一(2007)『ウルトラ・ダラー』新潮社

「K・Tさんよ、そこのけじめをつけていただくために、こうして写真をお送りした。(中略)」
「俺の名はクンじゃない、イサオだ。呼ぶならI・Tといいたまえ」
(本書 p.327)

前回紹介した『知の武装』で手嶋龍一本人が産経新聞を引用する形で、瀧澤勲 外務省アジア・大洋州局長のモデルが田中均 元局長とされたと言っている(本人は誰をモデルにもしていない、と述べている)。瀧澤が外交交渉の記録を残していないことと、田中が安倍首相にfacebook上で名指しで「交渉の公式記録を残さなかった」と指摘されたことは偶然にすぎる一致だし、均をキンと呼ぶ人もいた(石原慎太郎など)ことから、K・Tさんと呼ばれていたのも事実じゃないかと思えてくる。

ともあれ、手嶋龍一との対談本でも、本書の解説でも佐藤優が絶賛する通り、本書はインテリジェンス小説(近未来に起こりうる事象を扱った小説)として面白く、読み応えのある出来になっている。

本書を読むと、一部の拉致事件の真相がうっすらと見えてくる。それは北朝鮮を介して、東アジアにおけるアメリカの影響力低下を狙う作戦の一部としての拉致事件という姿だ。国際的な事件は他の事件と結び付けて見ると、真相が見える場合もある。本書はその一つの可能性を示している。

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ことばにまつわるふしぎなエッセイ

千野栄一(1999)『ことばの樹海』青土社

ある言語には数詞が五までしかないというと、そんな未開な、とくる。(中略)〇と一しかない野蛮(?)な言語が、コンピューターの言語であるというのは何としても皮肉なことである。(本書 p.77)

文化を発展させていくために必要である多様性が、一つの言語が消えるたびに失われていくのである。もしこのことの意味がよく理解できたなら、次の世紀に行うべき言語学の作業はなにであるかはおのずから明白で、言語の死滅を防ぎきれないとすれば、せめてその姿を書きとどめておくことである。(本書 p.249)

言語学界きっての名文家であった千野栄一のエッセイ集。言語の多様性、いろんな言葉に興味を持っている人にはぜひお勧めの本。

このころの言語学者は危機言語(消滅の危機にひんした言語)に興味を持ち始め、まずはそれらを記述することが大事だと喧伝した。しかしポスドクの失業問題が明らかになると、就職率の問題から言語屋は大体英語か日本語か第二言語習得(教育)に逃げてしまい、本当に根性のある者か何も考えてない蛮勇のある者しか、危機言語の世界に飛びこんだ若者はいない。

確かに言語の多様性を記述するのは大事だけど、未開の言語でヘーゲルが翻訳できるか、と言われたら、必要があればできるようになる、と書いてあるのだから、未開の言語が消えたとしても、人は必要があれば既存の言語から所与の環境で行きぬくように作り替えていけるはずだ、という強弁も出したくなる。

本当は人の言語は多様で、その中に色々な叡智が集積されており、それを共時的、通時的にみることによって言語の何たるかに肉薄できるかもしれない、という点がポイントなのに、そこを押し出し切れていない。

言語を含む生活を変えて人間たるものの本質を変えようとしたコメンスキーに着目したり、二十一世紀に言語学の課題になる分野に言及したりと、その慧眼には恐れ入る。

指摘されている通り、ピジンやクレオールとともに、言語の分裂は記録されたが、コイネーにおける方言レベル以外では言語の同化は記録されていないというのは勉強になった。研究したいと思った。

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2800円で学べる人類5000年の歴史

マクニール,ウィリアム・H. 著/増田義郎/佐々木昭夫 訳(2008)『世界史〈上・下〉』中央公論新社

十九世紀のなかば、イスラム文明の継承者たちが直面したジレンマは、きわめて単純であった。要するに、イスラム教徒足らずしてイスラム教徒的であるにはどうしたらいいのかということだったのである。(中略)この難問にたいして、現在(1978年)までかなりの支持を受けてきた唯一の対応策は、近代的世俗国家を作り上げる基盤として、言語による民族性という西欧の概念を使うことであった。(下巻 p.247)

二十世紀までの西欧社会の住民の圧倒的多数は、世界の他の地域の場合と同じく農民であり、当然その生活は伝統的な季節ごとのリズムによって規制されていた。労働や家族関係、そして外部の世界に対する基本的姿勢は、いずれも日々の農作業習慣に基づいていた。この基準は二十世紀の工業化社会からは急速に姿を消している。(下巻 pp.339-340)

昔から名著と名高い世界史。四大文明の頃から冷戦後の現代まで、しかもひとつの地方に偏らず、全世界を俯瞰した歴史5000年が2800円で読めてしまうのは今の時代に生まれてきた者だけが享受できる贅沢だ。

本書の著者はコーネル大学で博士号を取り、長年シカゴ大学で歴史を教えていたアメリカ人であるが、第二次大戦の記述にしても戦勝国側の歴史観ではなく、冷静な筆致でどちらの側も納得できる書き方をしている(日本語訳では)。そういった瑣末なところからも細かな配慮が読み取れる。

上巻を読めばわかるが、人類の歴史はほとんどが血で血を洗う抗争だ。争いを避け、自らの得た土地を平定するために人は宗教を使って結束を高めた。それが後に国家になっていく。

当初、国家の運営は神の代弁者である王が行っていた。しかし悪政をみるにつけ、あの王は本当は神から使わされた者ではなく、正当な者が受ける権利を簒奪したのではないかと疑われる。そうして革命がおき、国民主権という考えが芽生えた。政教分離なんて浅い歴史なのだ。

著者によると、人類はこれまでにないスピードで変化に巻き込まれているという。村落共同体で暮らしていた数千年の伝統を捨て、伝染病がはやりやすい都市にも住めるようになった。そして、マスメディアも交通網も発達し、お互いの意思疎通が容易になった。ここまで変化がおきながら、戦争が起きていないのはまさに驚異的だという。

つい所与のものと思いがちな平和のありがたさをかみ締めて、先人の失敗と成功を振り返り、今後の人類のためにするのが、世界史という学問が我々に投げかける課題だ。

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やっぱり言語は思考に影響を与える!

ドイッチャー,ガイ(2012)『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』インターシフト

今日の言語学者や心理学者の大半は、母語が話しての思考に影響を及ぼし得るという見方を頭から否定したり、たとえ影響があったとしてもきわめて小さい、あるいは問題にする価値もない、という態度をとっている。しかし近年、一部の勇敢な研究者たちがこの問題に科学的手法を適用するようになった。そして、その研究からはすでに、母語に固有の特徴が意外な形で話しての心に影響を及ぼす、という結果が得られている。(本書 p.32)

ジェンダーが言語から詩人への贈り物であることはいうまでもない。ハイネの男性名詞の松の木は、女性名詞の椰子に恋い焦がれる。ボリス・パステルナークの「我が妹人生」は、ロシア語で「人生」が女性名詞だったからこそ成立した。シャルル・ボードレールの「L’homme et la mer(人と海)」の英語訳がいかに見事でも、ボードレールが「彼(人)」と「彼女(海)」のあいだに喚起した激しい愛憎を再現できる見込みはない。(本書 p.268)

Guy Deutscherの代表的著作、Through the Language Glassの日本語訳。同署は2011年にRoyal Society Prizes for Science Books(アメリカのサントリー学芸賞みたいなもの)にノミネートされた。

書いてある内容はとても一般向け。分野としては一般言語学から言語人類学と言われる分野になる。

たとえば、有名な研究である人は色をどう見るか、という問題を分かりやすく解説している。言語によって色の区分はまちまちだ。英語でgreenとblueは区別するけど、日本語だと緑でも青信号、青りんごという。ただし当然、日本人も見た目では青と緑の区別はついているわけで、それを言葉にあわさないだけだ。区別の仕方はある程度のパターンがあって(黒と赤を同じカテゴリに入れる言語はない)、色のスペクトルを全く恣意的に分類しているわけではないが、まったく同じような分類をしているわけでもない。

また、絶対座標と相対座標、言語の性などの事例を持ち出して、言語が人の思考に与える影響について考えている。サピア・ウォーフの仮説の再検証だ。著者が使える英語やヘブライ語のほかにも、ヨーロッパ言語、日本語はもちろん、オーストラリアの先住民言語まで持ち出してさまざまな言語現象を引き合いに出し、決してメジャー言語(話者数の多い言語)の常識が人類の常識でないことを示す。

一番面白かったのは2012年に話題沸騰となったピダハンの反証が載っていること。それだけでも充分にこの本の価値はある。(ここ数年、ブラジルのアマゾン流域で使われるピダハン語に従属関係がかけている、という説が学界をにぎわせた。(本書 p.151))

『言葉の眼鏡を通して』という原題は、言語哲学でよく言われる「言語は現実を大雑把に切り取るだけで、細かい部分では取りこぼしがある」という性質を含意したものなのに、日本語訳では魅力が半減している。残念だ。中身は素晴らしいのに、残念だ。

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20世紀の夢は21世紀でもまだ夢か

荒俣宏(2000)『奇想の20世紀』NHK出版

ヘンな本かと思ったらNHK出版である。 荒俣宏である。テイストはちょっと変わってるけど中身はマトモに決まってる。実際マトモだった。奇妙な思想のコレクションという意味ではマリナ・ヤグェーロ(1990)『言語の夢想者』工作舎に軍配が上がる。

思想ではなく奇想なので、生き残らなかったマイナーな思想を取り上げている。メジャーどころとしてはパリ万国博覧会で最大瞬間風速を発揮したサン・シモン主義が挙げられる他、住まうための理想宮を建設しながら住まうところになりえなかった郵便配達夫のシュヴァルなど、独特の思想をもった20世紀の「巨人」たちが描かれている。

中でも丁寧に解説されていたのがデジタルの誕生だ。メディア学の良書と言われる『グラモフォン・フィルム・タイプライター』ではタイプライターがデジタルの端緒となった、あっさり書かれているが、それがどうデジタルにつながったか判然としなかった。本書では自動計算機にジャカード織機のパンチカードから応用したメモリーを搭載させ、チェスで人間を打ち負かせるコンピューターを夢想したプログラム式コンピューターの発明者、チャールズ・バベジの考えと業績が描かれている。荒俣宏がコンピューター関係の部署にいたこともあって、書きぶりは分かりやすく丁寧だ。

もちろんこれは19章からなる本書のほんの一部にすぎない。全体を通して、人々はファッション、自動車、飛行機、万博、新技術にどのように夢を託し、どのような未来を夢見たかが描かれている。

この本が20世紀最後の年に出たのがとても意味ありげだ。20世紀の思想大総括と言える。翻って我々はどんな夢を抱いているだろうか。21世紀版の夢想大総括は誰に、どのように書かれるのだろうか。

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市場戦略としての品種改良

藤原辰史(2012)『稲の大東亜共栄圏 帝国日本の<緑の革命>』吉川弘文館

品種改良という技術は、耕地整理、肥料の普及、農作業の機械化などによって構成される農業技術近代化のパッケージの一部にすぎず、これらの要素と密接に関連しており、それだけで稲作の生産力を上昇させることは当然できない。(本書 p.12)

やはり、導入に成功したという定評のある新技術でさえ、慣習的にも経済的にも生理的にも、どれほど違和感を持って受け入れられたかが明らかであろう。(本書 p.130)

本書は稲の品種改良を通じて、大日本帝国がどのような大東亜共栄圏を描こうとしたかに迫っている。

1934年、東北地方を中心に大飢饉が日本を襲った。腹が減っては戦はできぬ。食糧、なかんずく主食の供給が足りなくなるのは大東亜共栄圏建設を目指す大日本帝国にとってゆゆしき事態だった。

そこで政府はすでに影響下においていた満州のほか、統治下の朝鮮、台湾で米を作り、内地の需要を賄おうとした。

元来、タイやベトナムで食べられていることから分かる通り、コメとは南方の植物である。それを朝鮮や北海道といった寒冷地で育てるためには品種改良が必要だった。結果、冷害や病気に強く、収穫量も多い品種ができた。ただ、化学肥料を多くやらねばならなかった。

たとえば台湾の場合、内省人は甘藷といったイモ類とコメなど、さまざまな就職をもっていた。外省人の場合はインディカ米を食べていた。彼らには彼らの暮らし方があり、その中でコメが作られていた。だから日本のコメはビーフンに不向き、家畜の飼料にならないなどの理由で敬遠された。

ただ、在来種より有利な点があった。在来種より多くの化学肥料を与えると、とたんに多く収穫でき、多くの現金収入が入るのだ。結果、収入を求める農民は多くを肥料に投資し、多くの現金をえて、更に来年、また多くの肥料に投資する…といったサイクルに組み入れられ、これまでの暮らし方も当然変わっていった。

これは単に品種改良をしてよかったね、という話ではない。品種改良は地元の人々の暮らし方を変え、化学肥料企業を中心とした大経済圏に組み入れられることを意味する。こうした流れは終戦とともにいったんの終焉を見るが、農業の品種改良といった聞こえのいい帝国主義は、戦後も生き続け…

品種改良は単に味や収穫量だけで行われるのではない。その裏では企業の熾烈な戦いが繰り広げられている。

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これからのメディアを知るために

佐藤卓己(1998)『現代メディア史』岩波書店

書物は19世紀半ばすでに「旧いメディア」と見なされていた。大衆社会到来の400年前にメディアとして完成した書物が、大衆を前提としていないのは当然であった。(本書 p.43)

労働者文化の伝統があるヨーロッパと違って、アメリカの移民労働者たちは共同体的娯楽から切り離されていた。教養を必要としない映画鑑賞は識字能力の未熟な移民労働者や青少年にとっての格好の「安息の場」となった。(本書 p.102)

書物、ラジオ、テレビといったメディアがどのように発展してきたのかを日米英独の比較を通して描き出している。

ここ数百年、人は書物を古いメディアと言い続けてきたが、いまだに生き残っているし、それが駆逐されそうもない。いつの時代も書物は危機を喧伝されながら生き延びてきた。

注目に値するのは、国家と人々の関わりだろう。かつてのメディアはラジオにしろテレビにしろ、大きな資本力を必要としていた。そのため、国家主導で開発され、イデオロギーを浸透させるために使われた。戴冠式をテレビ中継した英国にせよ、ラジオで戦況を伝えていた日独にせよ、国は異なれどやっていたことは同じだ。

しかし一方、比較的少ない投資額で済んだ雑誌と映画は民間主導だった。それが国民に憩いの場、公共への参加の糸口、娯楽を与えたのだった。

テレビを最後に国家がけん引するメディアは終わった。ネットや携帯を使ったメディアの登場は、いよいよ大衆主導型メディア時代の幕を開けた。これからは国家に導かれるのではなく、大衆の興味や関心が世間を導く。ネットを見てると世間が分かる。かもしれない。

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国際情勢は穿って見たら面白い

手嶋龍一, 佐藤優(2013)『知の武装―救国のインテリジェンス』新潮社

たとえば「金正日の料理人」として有名な藤本健二さん、実は本名じゃないんですが、彼は北朝鮮の権力者のすぐそばにいた人で、今もなかなかの事情通です。北朝鮮は、この藤本さんに託す形で、現指導部の何人かの映像や金正恩第一書記と婦人の映像を流しています。(本書 p.68)

手嶋龍一と佐藤優の3冊目の対談本。この二人はインテリジェンス(情報を扱う仕事)をやっていただけあって、関心の所在が似ている。

帯にもある通り、本書では東京五輪決定が日本を取り巻く国際情勢にどのような影響を与えたか、スノーデンのCIA諜報活動の暴露や鳩山元首相のイラン訪問、飯島秘書官の訪朝にも切り込んでいる。話はTPPや憲法改正、日本と中国の関わりなど多岐に及んでいて、メディアでは殆ど報じられない見方を呈示してくれる。

引用に示した藤本さんの話もそうだ。彼はサングラスとバンダナで素顔を隠してテレビに出る。金王朝の秘密を知り過ぎたため狙われているから、という理由だけど、映像を流すなど、いまでもつながりがあるし、そもそも素性はバレている。いったい何から隠れているのだろう。

本書で注目したのは明治時代、単身ロシアにわたって写真技師や洗濯屋などに扮しながらシベリア鉄道などの軍事機密や軍人の内部事情などを探った石光清真の話。とても面白い。彼は軍を離れて食べながら、それでいて軍の仕事をしていたのだ。

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人と機械のかかわり方を通して見えてくるタイらしさ

森田敦郎(2012)『野生のエンジニアリング -タイ中小企業における人とモノの人類学-』世界思想社

タイに移動した機械の多くは新しい環境で出会った要素と安定した関係を築くことができず、その動作は不安定化した。だが、この不安定さは、人々との間に新たな関係を作り出す生成的なものでもあった。奇妙な動作に対処するために何人もの人がコンバインにつきっきりになったように、不安定化した機械は人々の行為を誘発していったのである。(本書 pp.186-187)

本を読んでなかったわけじゃないけど久々の投稿。

この本は前々から気になっていた。やっと読めた。HONZにもレビューがある。

筆者の問題意識は明確だ。タイにやってきた日本企業の技術者は、タイの技術者に技術を教えるとき、彼らが図面を引き直さずに、現物をその場で改造し始めることに驚いた。図面を引き直した方が明らかに効率的で、この失敗を今後生かせるのに。彼らは一体何を考えているのか。

実務に即した疑問から調査は始まった。

タイで見たものは、日本とは違う機械の捉え方だった。機械は動けばいい、動かなければ動くようにすればいい。やり方は使う者が決める。

だからこそ、ブランドが生まれず、多くのメーカーが同じような製品を出す。同じように動き、同じように改造できる機械が求められているから。

当然、新たな機械が持ち込まれると、不具合が起きる。冒頭の引用は日本のコンバインをタイの田んぼに持ち込んだ時の例だ。動かすと草が絡む。ちゃんと動くようにするにはどうすればいいか。

もちろん、機械の改良はエンジニアが手掛けるけど、使うのは農民で、使う場所は農地だから、農民の意見が十分に取り入れられる。動かない機械をめぐって、エンジニアと農民に新たな関係が生成される。

モノに着目しながらも、関係の生成に着目したのが本書の見どころだろう。

エンジンむき出しで手作りフレームのイーテンを見ると、本当にメーカーの思いつかない使われ方をしているのが分かる。

かつて読んだ『差異とつながりの民族誌』、『道は、ひらける』や『王国の鉄路』とは違ったタイが見えてくる。

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サントリー学芸賞 レビュー

雑誌じゃないよ超雑誌『キング』

佐藤卓己(2002)『キングの時代』岩波書店

雑誌メディアは、読者対象を細分化することによって発展するものであり、(中略)つまり、細分化可能な領域が存在する限り、雑誌は「専門化」していくことになる。(中略)こうした個別雑誌による読者の細分化、分節化が完成した段階で、『キング』は階級、年齢、性別を超越した国民統合メディアとして構想された。(本書 p.145)

「国民」とはそれほど消極的かつ受動的な読者だったのだろうか。売上部数の著しい伸張を見る限り、戦況を伝える雑誌に国民は殺到した。膨大な購読者に情報操作の犠牲者、メディア被害者としての免罪符を与えることは、大衆政治における政治的無関心や情緒的行動がもたらした結果に対する国民一人ひとりの責任を不問にすることにほかならない。(本書 p.342)

かつて『キング』(講談社)という雑誌があった。その名の通り雑誌界の王として君臨した。1925年創刊、1957年終刊、日本で史上初めて100万部を突破したオバケ雑誌である。

当時より人口の多い2013年現在、一番売れている月刊誌は文藝春秋の58万部、週刊誌でも週刊文春の70万部であることからも、その名に負けないキングぶりがわかるだろう。

我々と同様、著者も疑問に思う。「なぜそれだけ売れたのか」。しかも、当時の知識人、文化人たちはキングを毛嫌いしていた節がある。じゃあ、逆に何故それだけ売れたのか。どこが読者に受け入れられたのか。

キングの発行年をみてピンと来た人は鋭い。当時の日本は雑誌の揺籃期~草創期だったのに加え、ラジオ放送(1925年)、テレビ放送(1953年)も始まったばかりだった。 この疑問に対する分析の枠組みを、著者は自らの体験から編み出す。即ち、これまでは雑誌や新聞といった媒体ごとに分析する研究が多かったのだ。しかし、雑誌や新聞はテレビやラジオといった他の媒体とリンクしながら消費されていた。これまでの見方では、他のメディアとの関わり合いという観点を取りこぼしていた。 通常、雑誌は読者対象を細分化するメディアである。講談社もそうした雑誌を持っていた。男性、婦人、少年、少女と対象を絞った雑誌のラインナップをそろえた上で、それらを統合する国民雑誌『キング』をリリースした。

いろんな人に読ませる雑誌であったこと、いろんな人を満足させるだけの中身があったこと、まさに「ラジオ・トーキー的雑誌」だ。

大正デモクラシー、普通選挙と参政権、国家総動員体制、ラジオ・トーキー・テレビの誕生。歴史の荒波の中でキングは雑誌界に君臨し、100万部の栄華を極め、33年で幕を閉じた。キングと時代の共存を緻密に描き出している。

当時、大衆を対象とした講談社文化の対立軸として、インテリを対象とした岩波文化が挙げられた。大衆誌のインテリ的分析を行った本書がその岩波書店から出ているのにも、また歴史の妙を感じてしまう。