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向坂逸郎訳とされる『資本論』を本当に訳したマルキシストの自伝

われわれの同級会は「大正十三年一高文甲会」と称し、和田貞一という非常にまめな世話役がいるために、最も集まりの良い同級会である。(中略)集まりは良くても、向陵時代の楽しさが味わえるなどと思ったら大間違いで、じじいばかりの集まりなど面白くもなんともない。お互いにまだ生きていることを確認し合うだけのことである。

(本書 p.38)

保谷村閑居のころからよく家事の世話をしてくれ、そのころ東京の洋裁学校の教師をしていた篠田クニに、入籍手続きをして大連にくるようにと手紙を出した。翌十五年四月、彼女はやってきた。埠頭に出迎えた私の第一声は、金はいくら持ってきたか、だったと彼女はいまでもそう言っている。そんなさもしいことを言った覚えはないのだが、彼女が飽くまでそう聞いたと言うからにはそう言ったのだろう。これが今日まで四十年余り苦楽を共にしてきた妻である。

(本書 p.148)

碁盤が二つ置いてあって、私は出勤するとその前に腰を下ろした。とっかえひっかえ相手がやってきて、昼食抜きで例の賭け碁を戦わせた。退勤時刻になると、正業に就いているだれかから電話がかかってきて、一緒に出かけた。あるとき幹部の一人に、部付とはなんという社費の無駄使いか、とあからさまに言ったら、遊んでいるように見えていてもいざというときに役に立つのだ、という答えが返ってきた。平時でさえ役に立たないから部付になっているような者が、いざ一大事というときに果たして役立つものかどうか甚だ疑問に思った(後略)。

(本書 p.150)

最初の申し合わせの前半の「交替訳」というのはいつしか自然消滅して、「下訳」という名の「全訳」を私がやり、向坂はその原稿かまたは校正刷に目を通すだけ、ということになってしまった。そして「印税二等分」という最初の約束の後半だけが厳然として残った。

(本書 p.194)

数日後に私は今年十月限りで印税受領権を放棄する旨の手紙を出した。向坂からは、それでけっこう、という簡単な返事がきた。そして、その年十月初めのある朝、大新聞朝刊の二面の下五段ぶち抜きで、マルクス『資本論』百年記念、向坂逸郎訳z『資本論』全四冊、という巨大な活字が私の目に飛び込んだ。

(本書 p.302)

佐藤優がどこかでこの本が面白いと褒めていました。確かにおもしろい。賢い人の自伝は細かいところまで覚えていてさすがだなあと感心します。最後の腕力での喧嘩まで覚えているなんて。

80歳の著者が実名でいいことも悪いことも飄々と書いた交遊録です。なぜ実名で書けたか? おそらくこれが著者の遺言だったらからでしょう。本書を出版後、著者は家を引き払って妻とともに全国放浪の旅に出ます。大阪のホテルに泊まったのを最後に、足取りは途絶えました。未だに消息はわかっていません。本書には「鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった」(本書 p371)と書いてあるので、あるいは実行したのかも知れません。

能力ある自由人の生き方を体現した筆者は、独学で一高、東大を出て満鉄調査部に勤め、戦後は九大や法政大の教授を勤めただけあって、頭がいい。頭のいい人の回顧録はよくここまでの記憶力があるなあ、と嘆息します。本人の飄々とした性格もあるのか、ユーモアのある文体で語られていて、飽きません。エリート校に入っただけあって、知り合いも後の大物が出てきます。一学年上には手塚富雄(ドイツ文学者、東大教授)や当時から学力や知識がずば抜けていた石田英一郎(文化人類学者、病気で休学したので卒業は同年)などがいます。

著者の岡崎次郎は明治37(1904)年6月に北海道庁職員の次男として生まれます(当然、長男の名前は太郎、三男は三郎)。父は板垣退助に払い下げた国有地を3年間開拓しなかったから規則通り没収し、職を追われます。その後、東京市役所に職を得ました。その後、転勤で名古屋に移り、著者は読書は好きだけど無味乾燥な教科書を読むのは嫌いだったので進学せずに済む方法はないかと考え、南洋拓殖少年団(ミクロネシアの農園で働く青少年)に応募しようと考えました。しかし家族の猛反対にあい、親に「学校に行くなら一番良い学校に行け」と言われ、第一高等学校に進学します。

人生で一番楽しかった高校生活を過ごた後は、東京帝国大学文学部哲学及び哲学史科に進学、卒業します。しかし、当時は就職難で仕事が見つからなかったため、経済学部に再入学、卒業します。卒業後は翻訳などをして食いつないでいたところ、寮の同室だった橋本乙次の紹介で東亜経済調査局にいる小森新一を紹介されました。それが縁で東亜経済調査局に就職し、調べ物をしたり碁を打ったり盛り場に行ったりと楽しい日々を過ごします。昭和12年~13年には思想弾圧で『マルクス伝』を訳していた著者も逮捕されます。娑婆に復帰してから、調査局は満鉄に復帰しており、大連行きを打診され、そのまま満鉄調査部に異動します。大連でも異動になった北京でもそこでも碁を打つなど楽しい日々を過ごします。終戦を北京で迎え、たまたま会った高校の同級生、石田英一郎と協力して引き上げ準備をドタバタやり、得体の知れない軍人に社屋を明渡したり、いくつかの所持品を憲兵に没収されたりしながら日本に帰国します。

帰国後、九州大学や法政大学の教師をする一方、翻訳も続けました。特に有名なのは『資本論』でしょう。向坂からの依頼で彼のやっていたマルクス『資本論』の訳を手伝うことになります。「下訳」と言われてもほぼ全訳したのに、向坂訳として岩波から出版されています。その後、著者は改めて大月書店から新訳を出そうとしていたところ、向坂に裏切り行為だと指摘され、それまでもらっていた印税をもらわないようにする約束をしました。その途端、岩波がマルクス『資本論』セットを発売します。著者は悔しい思いをしますが、もうどうしようもありません。

大学紛争盛んな頃、暴力を行う学生に警察を介入させず、キャンパスを追い出されて開いた教授会で学生運動の対処について話し合う法政大学に嫌気が差し、職を辞します。このあたりの記述が原因となったようで、本書は法政大学出版社からの出版を拒否されました。その後はまた翻訳をしてお金を稼いでいきます。職を転々としたことと生来の性格から、あまり貯金がなかったようで、晩年まで翻訳等で稼ぎます。そして最後は夫婦で失踪します。こういう人生もあるのか、と驚くばかりです。

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ことばにまつわるふしぎなエッセイ

千野栄一(1999)『ことばの樹海』青土社

ある言語には数詞が五までしかないというと、そんな未開な、とくる。(中略)〇と一しかない野蛮(?)な言語が、コンピューターの言語であるというのは何としても皮肉なことである。(本書 p.77)

文化を発展させていくために必要である多様性が、一つの言語が消えるたびに失われていくのである。もしこのことの意味がよく理解できたなら、次の世紀に行うべき言語学の作業はなにであるかはおのずから明白で、言語の死滅を防ぎきれないとすれば、せめてその姿を書きとどめておくことである。(本書 p.249)

言語学界きっての名文家であった千野栄一のエッセイ集。言語の多様性、いろんな言葉に興味を持っている人にはぜひお勧めの本。

このころの言語学者は危機言語(消滅の危機にひんした言語)に興味を持ち始め、まずはそれらを記述することが大事だと喧伝した。しかしポスドクの失業問題が明らかになると、就職率の問題から言語屋は大体英語か日本語か第二言語習得(教育)に逃げてしまい、本当に根性のある者か何も考えてない蛮勇のある者しか、危機言語の世界に飛びこんだ若者はいない。

確かに言語の多様性を記述するのは大事だけど、未開の言語でヘーゲルが翻訳できるか、と言われたら、必要があればできるようになる、と書いてあるのだから、未開の言語が消えたとしても、人は必要があれば既存の言語から所与の環境で行きぬくように作り替えていけるはずだ、という強弁も出したくなる。

本当は人の言語は多様で、その中に色々な叡智が集積されており、それを共時的、通時的にみることによって言語の何たるかに肉薄できるかもしれない、という点がポイントなのに、そこを押し出し切れていない。

言語を含む生活を変えて人間たるものの本質を変えようとしたコメンスキーに着目したり、二十一世紀に言語学の課題になる分野に言及したりと、その慧眼には恐れ入る。

指摘されている通り、ピジンやクレオールとともに、言語の分裂は記録されたが、コイネーにおける方言レベル以外では言語の同化は記録されていないというのは勉強になった。研究したいと思った。