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サントリー学芸賞 レビュー

中国人がはじめて西洋音楽を聴いたのはいつ?

北京は長らく清朝のお膝下であり、近代になってからは軍人が幅をきかす埃くさい街であった。少数の大劇場(映画館)を除けば、音楽会の開けるような場所もなかった。
(中略)
この中国に、西洋は存在していたのである。
上海であった。

本書 p.72

始めは渋々ながら教えることに同意したザハロフも、次第に学生の情熱に動かされ、後にこう語ったといわれる。「私は自分の予想が間違っていたことを、嬉しい気持ちで認めなければならない。私はこれからも喜びをもって教えていきたい。中国の学生は私に大きな楽しみをくれるから」。

本書 p.107

本書はおそらく数年ぶり二度目の読書だが新鮮に読めました。何度読んでも面白い本は面白いです。

本書は1999年にサントリー学芸賞を受賞しています。当時の選評にもある通り、本書は多くの読者にとってあまり興味を抱かないテーマを扱っているといえます。

この若さにしての文章の明快さ、切れのよさ、論点の手渡し方のうまさに舌を巻く。
 副題に「近代中国における西洋音楽の受容」とあるように、本著のテーマは今世紀初頭から1930年代までの中国で、西洋音楽がいかに受容され、発展したかということにある。ただし、その分野の専門家はともかくとして、おおかたの人にとっては関心が薄いことだろう。

https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/1999gb1.html

本書では中国人が西洋音楽を受け入れ、さらに中国人の手によって西洋音楽を奏でていくようになった過程を、音楽学校の設立という公的機関の歴史を通して明らかにしていきます。

中国では、例えば北京に1652年に建てられた最初の天主堂にパイプオルガンがあり、またアヘン戦争敗北後、1842年の南京条約で設定された租界で教会学校が建てられます。そうやって西洋人の手で西洋音楽が導入され始めました。

中国人の手によって西洋音楽が導入されたのは1922年8月に発足した北京大学附属音楽伝習所が始まりと言えます。もともとは課外サークルの一つだった音楽研究会を学長である蔡培元のリーダーシップで学内組織にしたのでした。その所長はヨーロッパで音楽を学んだ蕭友梅が着きます。

そしていよいよ、1923年12月27日に伝習所初めての演奏会が開催されました。会場は大勢の聴衆であふれたといいます。これが、中国人の一般庶民がはじめて聞いた西洋音楽といえます。

その後、北京では戦争の激化が進み、不要不急の音楽伝習所は閉鎖を余儀なくされます。蕭友梅は租界のある上海に行き、その地で国立音楽院を誕生させます。

鳴り物入りで誕生した国立音楽院は高給で外国人教師を雇い、質の高い音楽教育を実施します。引用したザハロフは上手に弾けると「Good boy」と言い、悪く弾くと「I kill you!」と叫んで腕をつねるような、スパルタレッスンだったようです。

上海では当初大学の扱いだった国立音楽院が戦争の激化や蔡培元の後ろ盾がなくなったこともあり、専門学校の扱いになりました。しかし、困難な時代にありながら、若く情熱のある音楽家たちを育てていきました。

その後の中国での音楽家たちの活躍や音楽教育の研究を射程に入れつつ、1920年代から30年代の中国における西洋音楽教育を丹念に追った本書は現代中国の音楽史を考えるうえで重要な資料となります。

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サントリー学芸賞 レビュー

西野カナはギャル演歌

輪島裕介(2010)『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社

小柳ルミ子や春日八郎においては、五木が「公認されざる”差別された”現実」の権利回復として提示した「演歌」は、「公認された」国民的な文化財として扱われているように見えます。(本書 p.300)

繰り返しますが、それゆえに「演歌」は「日本的・伝統的」な音楽ではない、と主張することは私の本意ではありません。本書で強調してきたのは、「演歌」とは、「過去のレコード歌謡」を一定の仕方で選択的に包摂するための言説装置、つまり「日本的・伝統的な大衆音楽」というものを作り出すための「語り方」であり「仕掛け」であった、ということです。(本書 p318)

あくまでも強調したいのは、現在の「歌謡曲」なるものが、それが「現役」であった時とは全く異なる文化的な位置に置かれ、全く別のステータスを獲得しつつある、ということです。(本書 pp.339-340)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

演歌とは日本の心を歌っているジャンルで、古くからある歌を指す。

そう思っていた時期が私にもありました(本書を読むまで)。

本書は演歌の概念がどのように作られていったかを明らかにすべく、多くの資料を縦横無尽に使って戦後の音楽シーンを丁寧に明らかにしていきます。

たとえば、美空ひばりなんて今では歌の神様のごとく扱われていますが、デビュー当時はあんな幼い子なのに大人の歌を歌うなんてやりすぎだ、と白眼視されていました。世間とは勝手なものです。

演歌も同じです。今では日本の心を歌い上げる伝統的な歌、といった位置づけがされていますが、その歴史はたかだか戦後数十年のことに過ぎません。現に春日八郎や北島三郎はデビュー当時、自らが「演歌歌手」だとは思ってもいませんでした。流行かを歌う歌手として活躍していました。

ではなぜ演歌が誕生したのか。もともとは演説の歌の略として使われ、社会批判の言説を生み出していたものが、演歌でした。しかし戦後、レコード産業やラジオ、テレビ、それにオリコンチャートといった様々なメディアが流行を作っていく過程で、次第に演歌の枠組みも作り上げられていきました。当初は男女のあれこれや生きる辛さ、暮らしの大変さ、アウトローの生き方などを歌っていた演歌は俗悪な文化だと知識人から批判されました。しかし安保闘争の前後で空気は一変します。

知的・文化的エリートが「遅れた」大衆の啓蒙を通じて文化的な「上昇」、つまり目標への接近を目指す、という行き方は根本的に転覆され、その逆に、既成左翼エリートが「克服」することを目指した「草の根的」「土着的」「情念的」な方向へ深く沈潜し、いわば「下降」することによって、真正な民衆の文化を獲得しよう、という行き方が、六〇年代安保以降の大衆文化に関する知的な語りの枠組みとなっていくのです。(本書pp.202-203)

ここで真正な民衆の文化を歌い上げているものこそ、演歌だと位置づけられました。本書は演歌をめぐる位置づけの過程を様々な資料を読み込んだ上で縦横無尽に使い、鮮やかに描出していきます。

現代の「歌謡曲」というジャンルもJ-POPとは違うものの位置づけがなされているため、似たような過程を経てまたある特定の位置づけをなされる可能性を指摘しています。その中で社会学者の鈴木謙介の言葉を引用し、加藤ミリヤや西野カナといった「ハッピーさから遠ざかるベクトル」を持つ楽曲を「ギャル演歌」と形容している、と紹介しています。なるほど、演歌は現代でも不滅です。

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サントリー学芸賞 レビュー

アラブ、ペルシャ、スンニ、シーアを包み込むイスラム

小杉泰(1995)『現代中東とイスラーム政治』昭和堂

身体刑が主となっているのは、自由および共同体帰属を奪わざるべき基本的権利として、禁固等の自由刑を嫌うためであるし、その対象となる犯罪も、財産の不可侵性や社会の基礎単位としての家族といった基本的価値を犯すと考えられる犯罪である。その点を見るならば、イスラーム法の論理としては整合性を持っている(中略)しかしこのような身体刑の実施は非イスラーム世界では共感を呼ばないし、すでに「近代化」の進んだエジプトでは、こうした刑法をア・プリオリに非文明的で残酷であると見なす人々が存在する。(本書 p.247)

本書は今から見たら古い点もあるが、それでもなお、イスラーム諸国の現状について理解する手掛かりを与えてくれる。僕の中東体験はイランだけだけど、その時に感じた不思議が氷解した。それは「なぜイランには大統領がいるのに、ハメネイ師の写真の方が街中に多く飾ってあるのか」というもの。イスラームではコーランに書いてある規律が最重要視される。それを解釈して規則を創り出すのが一番偉い人で、イスラームの規律を世界に広めていくのが信者の役割となっている。だから、国家の運営者はあくまでもその解釈のもとに、現実世界で適用できるルールを作成し、運営していくのが仕事となる。だからアフマディネジャド大統領よりもハメネイ師の写真の方が圧倒的に多かったんだ。

イスラームには衰退する時期と復興する時期の大きな波があって、その波の一つとして現れたスンナ派のリダーというオピニオンリーダーが新たな解釈を切り開いて行ったダイナミックな時代のうねりを紹介するなど、本書は抑えるべきイスラーム社会の政治的、思想的に重要な史実を紹介してくれる。

一番面白かったのは第13章「現代中東諸国の国家類型」だった。それぞれを西洋化・近代化、民族主義、イスラーム復興という三つのベクトルを指標に類型化を図っている。今では無くなった南北イエメンやフセイン政権下のイラク、ムバーラク政権下のエジプトなど、少し古い点もあるが、たいへん参考になる。アラブ首長国連邦はいずれの独立したアラブ地域も連邦に入ることを妨げないと宣言していたり、実は選挙のあるイランの方が、選挙のないサウジアラビアよりもバリバリのイスラーム的主権論(成立した法律がイスラーム法に反しないかどうかを判断する機構まで備えている)だったりするなんて、知らなかった。

また、第15章で書かれている通り、イスラーム国家は周辺に波及する影響まで考慮して政治を行っているらしい。イラクがクウェートに侵攻してきたときはみんなさらっとサウジアラビアに逃げ込んだし、また、クウェートでは女性参政権を要求する声が強かったのに認めなかったのも、サウジアラビアに影響を及ぼすことが考慮されたとも言われているらしい。イスラム諸国では内政干渉と言われるようなことを平気でやりあっているらしく、西洋の枠組みにとらわれない国家のありかたがあることを思い知らされる。

本書のあちこちで書かれているが、イスラーム復興運動で王制を倒し、イスラーム国家を樹立したイラン革命ははやり当時としてはかなりのインパクトがあったようだ。上記のように、周辺諸国に影響を及ぼしやすい中東の政変は、世界から注目されただろう。しかし、著者の見方は異なる。

イランにおけるイスラーム革命は「二十世紀において宗教による革命が起きた」ことが尋常でないゆえに注目に値するというよりも、むしろ特筆すべきことは、イスラーム法が正当性を否定すると国家が存立基盤を掘り崩されるというこのモデルが、歴史的な有効性を超えて、現代でもなお機能することを示した点なのである。そして、イラン革命を領導したホメイニー理論の重要性は、このモデルを現代に再生させた点にある。(本書 p.21)

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したたかな中国人の間でよりしたたかに生きるムスリム

中西竜也(2013)『中華と対話するイスラーム 17-19世紀中国ムスリムの思想的営為』京都大学学術出版会

中国と言うイスラーム世界の辺境において、イスラーム世界の中核から比較的孤立した状況のもとで、自らの進行を実践せねばならない苦労を背負いこむこととなった。(本書 p.3)

明の中頃まではペルシア語もアラビア語に劣らぬ尊厳を保持していたが、明末あたりから再イスラーム化の動きに合わせ、アラビア語の威信が著しく高まったことで、アラビア語とペルシア語の間に大きな格の違いが生じたのである。(本書 p.352)

中にコラムや写真、イスラームのお祈り方法までパラパラ漫画で書いてあって、面白い体裁をとる本書は中国のイスラームの思想や彼らと漢民族をはじめとするマジョリティとの関わりについて焦点を当てたもので、15世紀後半から19世紀を対象としている。中国に入ったイスラームは、婚姻を繰り返すことで、見た目による違いはほとんどなくなっていった。そして周りは儒教や道教、仏教などが主で、イスラームはマイノリティのままだった。本場のイスラームにはありえないような圧倒的マイノリティという逆境の中で、イスラームは生き残るべくしなやかに生きた。あるときはスーフィズム(神秘主義)を朱子学のアナロジーとして本を書いたり、またある時は漢訳版は簡略版にするといった配慮だ。マジョリティから攻撃を受けそうな箇所はあえてあいまいに訳してお茶を濁し、ムスリムの間で読まれるものについてのみ、本来のいいたいことを書いた。その中では中国のことを「戦争の家」とまで言っている。

本書は確かに、マイノリティの側から見たヘゲモニーとの応酬と見ることもできるが、中国の多様な一側面の理解に役立つ。軋轢を抱えた中での統治という社会体制がここ最近できたものではないことが分かる。さらに「宗教は人民のアヘン」とまで言ってはばからない社会主義体制になってから、より一層しめつけが厳しくなったことが予想される中国イスラームを取り巻く環境の中において、彼らがどうしたたかに、しなやかに生きているのかが気になった。続編もぜひ読みたい。

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よりよい政治のために首相政治を知る

待鳥聡史(2012)『首相政治の制度分析―現代日本政治の権力基盤形成』千倉書房

安倍以降の自民党政権もまた政策的な成果という意味では極めて不十分であった。五人連続で不成功の短命政権が続くということは、首相個々人の能力や資質では説明できない、より構造的な制約要因が日本の首相政治にはなお存在していると考えるべきではないだろうか。(本書 p.171)

小泉は中選挙区制時代の自民党では決して総裁になれなかったであろうが、一方、佐藤や竹下でさえ小選挙区制の下でどこまで活躍できたかは大いに疑問が残る。(本書 p.184)

サントリー学芸賞の選評で五百旗頭真が述べている通り、本書はアメリカ政治研究が専門の著者が、これまでの比較政治と言う武器を手に日本の首相制度を論じた本だ。著者の疑問はシンプルだ。日本の首相制度はどこからやってきて、どういうもので、どこへ向かおうとしているのか。

その違いを見るため、国内では「大統領型」といわれた二人の政治家、中曽根康弘と小泉純一郎を例に出し、国外ではアメリカの大統領制を比較の俎上に載せる。

日本の首相はアメリカの大統領と違って、政治任用スタッフをあまりおいていない。だから首相は派閥の推薦で閣僚を決め、閣僚が官僚とともに制度をつくる。小泉以降は政治任用の幅が増えたものの、逆に首相が上手にふるまわないと政治が回らなくなり、失脚してしまうもろ刃の剣になった。

与党と内閣の関係も「ウェストミンスター型」と「大陸ヨーロッパ型」に分けて検討をする。ウェストミンスター型は与党と内閣の一体性が強く、与党一般議員が執政中枢部の意思に反した行動をとりにくく、大陸ヨーロッパ型は比例代表制で連立政権が常態であるから内閣と与党の一体性は確保されにくく、与党一般議員が内閣提出法案を議会で修正しやすい(本書 p.167)。

首相制度は単独政権か連立政権かで大きく型が違って来る。これは選挙制度の問題だ。得票率は20%程度でいいため、接戦になりやすく、また同一政党でも一選挙区から数人の候補者・当選者を立てられた中選挙区と、より多くの得票率を必要とし、一選挙区一候補しか当選できない小選挙区。前者では政党の後ろ盾より個人として戦うため、当選後も党の影響力を与えづらい・後者は政党の看板で選挙戦を戦うため、当選後は党が影響力を与えられる。単独政権が生まれやすい中選挙区では与党は議員への影響が及ぼしづらく、与党が議員への影響を及ぼしやすい小選挙区だと、連立政権になりやすい。ああ二律背反、世の中よくできている。

著者にすれば、日本の民主主義は「未完のプロジェクト」だという。それは参議院の存在だ。参議院の特徴は三つある。「内閣との信任関係をもたない」、「衆議院とほぼ対等な関係」、「特異な選挙制度」だ。このうち1番目と2番目、3番目が整合性を欠く。衆議院の優越があるのは「民意の反映」が前提になっているからで、その制度が存在する限り、参議院は衆議院と差別化されないといけない。しかし現行制度では参議院に当選する議員の性格をあいまいにしている。ここをクリアにしないと、二院制の意味がない。

本書全般を通して言えるのだが、文章でグイグイ引っ張っていく筆致の力強さはない。クールと言えばそうだけど、なぜここまで日本の戦後政治を解明する必要があったのか。筆者をして数百日分の首相動静を調べさせる動機はどこにあったのか。それをもっと情熱的に語ってほしかった。

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雑誌じゃないよ超雑誌『キング』

佐藤卓己(2002)『キングの時代』岩波書店

雑誌メディアは、読者対象を細分化することによって発展するものであり、(中略)つまり、細分化可能な領域が存在する限り、雑誌は「専門化」していくことになる。(中略)こうした個別雑誌による読者の細分化、分節化が完成した段階で、『キング』は階級、年齢、性別を超越した国民統合メディアとして構想された。(本書 p.145)

「国民」とはそれほど消極的かつ受動的な読者だったのだろうか。売上部数の著しい伸張を見る限り、戦況を伝える雑誌に国民は殺到した。膨大な購読者に情報操作の犠牲者、メディア被害者としての免罪符を与えることは、大衆政治における政治的無関心や情緒的行動がもたらした結果に対する国民一人ひとりの責任を不問にすることにほかならない。(本書 p.342)

かつて『キング』(講談社)という雑誌があった。その名の通り雑誌界の王として君臨した。1925年創刊、1957年終刊、日本で史上初めて100万部を突破したオバケ雑誌である。

当時より人口の多い2013年現在、一番売れている月刊誌は文藝春秋の58万部、週刊誌でも週刊文春の70万部であることからも、その名に負けないキングぶりがわかるだろう。

我々と同様、著者も疑問に思う。「なぜそれだけ売れたのか」。しかも、当時の知識人、文化人たちはキングを毛嫌いしていた節がある。じゃあ、逆に何故それだけ売れたのか。どこが読者に受け入れられたのか。

キングの発行年をみてピンと来た人は鋭い。当時の日本は雑誌の揺籃期~草創期だったのに加え、ラジオ放送(1925年)、テレビ放送(1953年)も始まったばかりだった。 この疑問に対する分析の枠組みを、著者は自らの体験から編み出す。即ち、これまでは雑誌や新聞といった媒体ごとに分析する研究が多かったのだ。しかし、雑誌や新聞はテレビやラジオといった他の媒体とリンクしながら消費されていた。これまでの見方では、他のメディアとの関わり合いという観点を取りこぼしていた。 通常、雑誌は読者対象を細分化するメディアである。講談社もそうした雑誌を持っていた。男性、婦人、少年、少女と対象を絞った雑誌のラインナップをそろえた上で、それらを統合する国民雑誌『キング』をリリースした。

いろんな人に読ませる雑誌であったこと、いろんな人を満足させるだけの中身があったこと、まさに「ラジオ・トーキー的雑誌」だ。

大正デモクラシー、普通選挙と参政権、国家総動員体制、ラジオ・トーキー・テレビの誕生。歴史の荒波の中でキングは雑誌界に君臨し、100万部の栄華を極め、33年で幕を閉じた。キングと時代の共存を緻密に描き出している。

当時、大衆を対象とした講談社文化の対立軸として、インテリを対象とした岩波文化が挙げられた。大衆誌のインテリ的分析を行った本書がその岩波書店から出ているのにも、また歴史の妙を感じてしまう。

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サントリー学芸賞 レビュー

東京の建築を再発見

藤森照信(1986)『建築探偵の冒険 東京篇』筑摩書房

「こないだ古本屋で買った建材メーカーのカタログに、使用例として聖蹟記念館って変な楕円形の建物が載ってたでしょ。あれ、場所がわかんなかったけど、色々考えたら京王線の聖蹟桜ヶ丘の駅と何か関係ありそうなんだ。ちょっと探しに行かない」
痛いところを衝いてくる。あれなら私だって行きたい。娘よ許せ!(本書 p.10)

ブザーを押すと、使用人らしい人物が出てきて、こちらの申し出を当然ながらハネつける。こんな申し込みをいちいち聞いていてはお金持ちの身がもたないから当り前の反応だが、こちらとしても、このまま夕暮れの土手を引き下がっては探偵の誇りがもたない。
 さっき、丘を遠回りしたのが役に立った。敷地の東の斜面は小川で周りの田んぼと切り離されているから、ここだけ塀が作ってない。田んぼの畦道づたいに歩いてから川を渡り、斜面をはい上れば、敷地の中にはいることができたはず。(中略)
 しばらくしのんだあと、首筋のあたりに殺気を覚えてふり返ると、芝生の向うの端にさっきの使用人が現れた。手に太いヒモを持ち、その先にはデカイ犬がいる。建物は好きだが、犬は嫌いだ。両者は同時に相手に気づいた。(本書 pp.16-17)

たとえば、一つ論文を書こうと思ってある西洋館を見に行くと、まず未知の物件と遭遇するんだという高揚感があり、その高揚感で眺めるアプローチ風景の新鮮さがあり、そして実物を見た時の勝手な印象があり、さらに勧められるまま古いソファーに腰を沈めるときの肌ざわりがあり、最後に、対座した持ち主の口から飛び出してくる逸話の面白さがある。このように、日がな一日、見たり聞いたり触ったりしながら建物と一緒の時間を過すのだが、その全体験のうち学術論文という形で掬える部分はごく少量で、五感が味わった現場ならではの興奮も家にまつわる逸話もほとんど落ちこぼれてしまう。まあそれでも最初のうちは、<アカデミックということはそういうことナンダ>と頭で決めていたが、しかしそのうち、目玉と肉体が納得しなくなってしまった。(本書 p.325)

文句なしに面白い! こちらもサントリー学芸賞受賞作。建築探偵となった藤森センセイが東京都内のあちこちの建築を見て回るノンフィクション。いま、彼のようなやり方で見て回りと、確実に通報されて国家権力の御厄介になる。女子大構内への入り方も指南されているが、この程度のやり方だと、今ではすっかりガードマンに追い払われてしまう。世知辛い世の中になったと思う。が、この藤森さんは上記の犬に追いかけまわされた話や、そっと忍びこんで建物を楽しんでいたら、室内から悲鳴が聞こえてきたという話(そりゃあ、裏庭に知らない人がいたらびっくりするよね)があって、かなりヤバイことをしているなあと、今の感覚をもってすれば、思う。

この本は、読んでいる時もうっすら疑問を感じていたが、いわゆる専門書、学術書の類ではない。これは上記の引用(本書のあとがきにあたる)にご本人が書かれている通り、論文やアカデミックな業績からは抜け落ちてしまう、見過ごすには惜しいものを集めたものだと言える。そのため、文章は読みやすいし、タッチは軽い。いま、人類学ではそうしたフィールドワークで抜け落ちてしまう生の面白さをどうアカデミックな形で回収していくかが問題になっているけど、こうしたアカデミックからは距離を置いた形で、一般への啓蒙や楽しい読み物という形で残す方法もひとつの道であることを、本書は示している。

子供より古書が大事と思っている鹿島茂をはじめ、やっぱり学者は子供を放ってでも自分のテーマを追ってしまう。このすべてを打ち込む姿勢に、私のような読者は笑いとともに引き込まれてしまう。

本書はバブル期に至るまでの時期に行われた調査の記録であり、不審火があった後にすぐに不動産屋がやってきて、ぜひビルにしましょう、と言いだすとか、そうした今では見られなくなった行いが書かれている。この例からもわかるとおり、当時建築探偵が歩いて記した箇所は、もうほとんど残ってないようだ。東洋キネマも、神田界隈の看板建築も、そして東京駅ですらいまは工事中になってしまった。

もう少し本書を早く知っておけば。東京建築ツアーを、ぜひ楽しみたかった。

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機械語と自然言語の包括的分析

田中久美子(2010)『記号と再帰 記号論の形式・プログラムの必然』東京大学出版会

二元論では使用は記号モデルの外に配置され、使用によって生成される記号の意味は記号系の全体論的価値を為した。一方の三元論では使用は記号モデルの内側に含められた。(中略)二元論では、記号はよその記号から呼ばれ、呼んだ記号がまた別の記号から呼ばれることを繰り返して記号過程が生成されたのに対し、三元論では、記号の解釈項を自身が呼び、解釈項がさらに記号を為すのでさらにその解釈項を呼び、というように記号過程が生成された。(本書 p.78)

構造的な記号系では意味が明示的ではないため、記号の意味はいつもある程度曖昧であり、他の記号との重なりもある。(中略)したがって、ある記号が一つ削除されたからといって、すべての系が動かなくなることはなく、同じとまではいかなくとも、補強を要しつつも何とか系全体が動き続ける。一方で構成的な記号系では、記号は投機的に導入されても最終的には明示的で曖昧性のない内容となるように導入されなければならない。(本書 p.183)

本書はプログラムに用いられるような機械語を通して、元来おもに自然言語の俎上でしか論じられてこなかった記号論の新たな世界を切り開いた。2010年度のサントリー学芸賞受賞作であるが、その評でも少しふれられているとおり、本書は従来の区切りからすると理系の本である。参考文献の書き方や論の進め方といったスタイルから、必要とされる基礎知識まで、理系の教育を受けてきた人のほうがすんなり読めるのではないかと思う。私のように、高校の数学の時間に教師が「私の時代はプログラムは無かったから…」と言ってそこは飛ばされて教わったような、浅学の身には少々荷が重い。

ただ、プログラムを知らなかったらまったく読めないというわけでもない。基本的な路線としては、関数がデータ構造に外在する関数型プログラミングと、内在するオブジェクト指向プログラミングの違いと二元論と三元論の違いをみて、その位置づけを探り、オブジェクト指向プログラミングと自然言語でよくおこなわれる再帰について分析を行うという形をとっている。前者は解釈方法が開示された開かれた系であり、後者は開示されていない閉じた系であることに差がある。

本書を読んでいる間、ずっと感じていたのが、プログラムで用いられる機械語は、自律的な変化を伴わない静的な言語なので、これまでの記号論(少なくともソシュールは)前提としてきた自然言語と同列で語っていいのか、という疑問であった。すなわち、サピアのいうドリフトが起きない言語、フンボルトのいうエネルゲイアとしての言語ではなく、エルゴンとしての言語を対象としているのではないかという疑問である。

しかし、上記の引用の個所でこの疑問は氷解した。ひとつに、ソシュールは言語研究はラングを対象とすると同時に、共時態と通時態の両方をみるようにと言っている。そうすれば、本書では取り急ぎ共時態の側面をみているということになるので、問題はない。エネルゲイアの問題については本書のかなり最後のほうで触れられるコンパイラの話や自動生成プログラムの話が関連するだろう。私にとってもっとも大きな収穫は、自然言語は閉じた系であるために、言語のルール(ラング)を共有している人々の間ですら解釈系が共有されず、相手の反応から相手の解釈系を勝手に解釈しているにすぎない。それが反射して自らのランガージュに跳ね返ってくるという再帰的な行為を行っているのだけれども、ここにエネルゲイアの源泉があり、ドリフトのトリガーがあるのだろう。

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近代化と誇りの折り合いでできたパリ

北河大次郎(2010)『近代都市パリの誕生-鉄道・メトロ時代の熱狂』河出書房新社

この平和と鉄道という一見奇異な組み合わせについても、サン・シモン主義者は大まじめに考えていた。つまり、鉄道の建設によって、これまで社会に存在していたさまざまな障害(地形、税関、城壁など)が取り除かれ、人、情報、モノの流れが活性化する。この流れが世界の新たな交流を生み出すことで、世界的な協同体をつくりだす気運が高まり、フランス革命以降の戦争と動乱の時代を新たな調和と平和の時代に移行することができる、というわけである。(本書 p.49)

この駅は、プラットフォームに屋根もつけない「桟橋』と呼ばれる簡易な施設であった。ちなみに、当時一般にフランスの鉄道停車場にはこの言葉が使われ、今使われる駅という言葉は舟運の拠点をさしていた。当時の交通上の重要度を反映してか、今とは言葉の使い方が逆だったのである。(本書 pp.82-83)

日本のように大量の人が整然とホーム上を移動することはフランスでは困難と判断され、シャトレ=レ・アール駅では中目黒駅(筆者註:約7m)の二・五倍のホーム幅が採用されている。(本書 p.226)

2010年、サントリー学芸賞を受賞した本なので、面白さはお墨付き。鹿島茂『馬車が買いたい!』と併せて読めば、当時のフランス(とくにパリ)の交通事情がよくわかる。フランス人は自らの国土、特にパリにかなりの誇りを持っていることを、この書を読んで初めて知った。

19世紀は英国と米国が鉄道を持っていた。もちろんフランスの技術者も両国に見学に行くが、そこはフランス人、単なる模倣はしない。彼らは理想的な秩序のためにモノづくりをするのであって、現場での工夫は苦手なのである。アメリカのような貧相な鉄道を持つのではなく、フランスにふさわしいものを目指す。そのため、運河と同じ発想でゆったりした規格の線路を敷いていく。もちろん、歴史的建造物の多いパリ中心部にターミナル駅を持ってくるなんて持ってのほかなのである。多少は不便でも郊外に置く。結果、方面ごとにおかれたターミナル駅のために地方から地方に行くにもパリを経由せねばならず、パリにとっては人が集まってきて便利であったが、一方でその混雑はひどくなるばかり。

結果、環状線を作ってすべてのターミナル駅に行けるようにしたけども、それは貨物中心でやっぱり人の流れは変わらない。そこで業を煮やしたパリ市がメトロ計画を立ち上げる。が、そこはやっぱりパリジャン、パリジェンヌ。一筋縄で賛成するわけではなく、侃侃諤諤と議論が交わされる。路線で既存の船会社や地元に利益誘導をしたがる議員との攻防があり、加えて高架か地下かでも一悶着起こる。結果的には今みてもわかるとおり、ほとんどが地下になったのだけど、その地下駅への入り口についてもパリらしさが求められた。難問山積の中、どうしても万博開催までには開通を目指したいパリ市。時間がない中、どこで折り合いをつけて、解決策を見出すのか。手に汗握る時間との戦いが行われる。

面白かったのが、芸術家の多いパリならではか、メトロ建設に際して出た様々な案である。鉄骨の高架にしようとか、上下3段にして上2段を旅客、下1段を貨物にしようとか、レールを使わない案としてタイヤ付の柱を並べて、その上の客車を押し出していく方法とか、いろいろと進歩的な案が出されるとともに、地下への抵抗から唯一許せるのは下水道に蒸気船を走らせて、何なら下水管の壁にフレスコ画まで描いたらいい、といった案まで。

パリの鉄道建設の紆余曲折を通して現れるのは、近代文明の便利さをただ受容するのではなく、歴史や誇りとの折り合いを探る歴史だった。

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上流階級の馬車中心主義

鹿島茂(1993)[1990]『19世紀パリ・イマジネール 馬車が買いたい!』白水社

このように、テクノロジーの進歩によって新しい交通手段が登場する際には、意外にその前の時代の交通手段の構造を受け継ぐもののようだ。もし、大型旅客機がフランスで最初に実用化されていたら、あるいはこれもコンパートメント型になっていたかもしれない。(本書 p.38)

我らが主人公たちが出世への野心を燃やすきっかけとなる場面は、不思議なことにどの小説でもほとんど同じである。すなわち、シャン=ゼリゼの大通りで豪華な馬車の行列を見たときに、我らが主人公たちはにわかに上流の生活に憧れをもつようになるのである。(本書 p.187)

おもしろい! サントリー学芸賞を受賞している本なので期待はしていたが、その期待を裏切らない面白さだった。

筆者の疑問は自動車でフランスを旅行していた時に田舎で目にする「パリ通り」という名前の街路から出発する。その名前が付いているのは決まって日本の○○銀座のような繁華街ではなく、町はずれのさびれた街路である。これは田舎からパリにつながる道、逆にいえば青雲の志を持って若者が故郷を出立し、一獲千金を夢見て旅立った際に最後に通った故郷の道である。19世紀の様々な典籍を渉猟し、挿絵を豊富に入れながら、19世紀の小説の主人公がどのような生活を営み、その頃のパリはどんな様子だったか、どうやって上流階級を目指すのかといった、「我らが主人公」のプロトタイプを浮かび上がらせるのが本書の目的である。

彼らの田舎からパリに出る方法、パリでの衣食住を具体的な金額を提示しながら描き、どの時代にどこが流行の発信源であるか、どこに行けば上流階級と知り合いになれるか、上流階級になるためにはどれくらいのお金(現代日本の価値で年間二千万円以上!)が必要かを描いていく。

いくら懐がさびしくても上流階級らしい振る舞いをしなければならない彼らのプライドや衣服が一番換金性の高い財産だったというような、今では考え難い事実など、本書を読むと発見がいっぱいである。

とくに19世紀の小説を読むときには、本書のタイトルにも取られているような馬車のステイタスなどを意識してこそ、その真髄が味わえるのだろう。とくに巻末の「馬車の記号学」は様々なタイプの馬車を簡潔にカテゴライズしてあって、わかりやすい。

個人的には、馬車とその後の交通手段の話が興味深かった。乗合馬車の前方から1等、2等、3等と座席のランクが分かれていたというのは、現代の飛行機にもそのままあてはまるが、そのあたりの関係はどうなんだろうか。(著者は引用の個所の通り、それはアメリカの影響だとしているが)現代の乗り物の淵源がフランスやアメリカの馬車にあるというのが興味深い。我々が毎日乗っているのも、元をたどれば19世紀の欧米に行きつくのだ。