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サントリー学芸賞 レビュー

中国人がはじめて西洋音楽を聴いたのはいつ?

北京は長らく清朝のお膝下であり、近代になってからは軍人が幅をきかす埃くさい街であった。少数の大劇場(映画館)を除けば、音楽会の開けるような場所もなかった。
(中略)
この中国に、西洋は存在していたのである。
上海であった。

本書 p.72

始めは渋々ながら教えることに同意したザハロフも、次第に学生の情熱に動かされ、後にこう語ったといわれる。「私は自分の予想が間違っていたことを、嬉しい気持ちで認めなければならない。私はこれからも喜びをもって教えていきたい。中国の学生は私に大きな楽しみをくれるから」。

本書 p.107

本書はおそらく数年ぶり二度目の読書だが新鮮に読めました。何度読んでも面白い本は面白いです。

本書は1999年にサントリー学芸賞を受賞しています。当時の選評にもある通り、本書は多くの読者にとってあまり興味を抱かないテーマを扱っているといえます。

この若さにしての文章の明快さ、切れのよさ、論点の手渡し方のうまさに舌を巻く。
 副題に「近代中国における西洋音楽の受容」とあるように、本著のテーマは今世紀初頭から1930年代までの中国で、西洋音楽がいかに受容され、発展したかということにある。ただし、その分野の専門家はともかくとして、おおかたの人にとっては関心が薄いことだろう。

https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/1999gb1.html

本書では中国人が西洋音楽を受け入れ、さらに中国人の手によって西洋音楽を奏でていくようになった過程を、音楽学校の設立という公的機関の歴史を通して明らかにしていきます。

中国では、例えば北京に1652年に建てられた最初の天主堂にパイプオルガンがあり、またアヘン戦争敗北後、1842年の南京条約で設定された租界で教会学校が建てられます。そうやって西洋人の手で西洋音楽が導入され始めました。

中国人の手によって西洋音楽が導入されたのは1922年8月に発足した北京大学附属音楽伝習所が始まりと言えます。もともとは課外サークルの一つだった音楽研究会を学長である蔡培元のリーダーシップで学内組織にしたのでした。その所長はヨーロッパで音楽を学んだ蕭友梅が着きます。

そしていよいよ、1923年12月27日に伝習所初めての演奏会が開催されました。会場は大勢の聴衆であふれたといいます。これが、中国人の一般庶民がはじめて聞いた西洋音楽といえます。

その後、北京では戦争の激化が進み、不要不急の音楽伝習所は閉鎖を余儀なくされます。蕭友梅は租界のある上海に行き、その地で国立音楽院を誕生させます。

鳴り物入りで誕生した国立音楽院は高給で外国人教師を雇い、質の高い音楽教育を実施します。引用したザハロフは上手に弾けると「Good boy」と言い、悪く弾くと「I kill you!」と叫んで腕をつねるような、スパルタレッスンだったようです。

上海では当初大学の扱いだった国立音楽院が戦争の激化や蔡培元の後ろ盾がなくなったこともあり、専門学校の扱いになりました。しかし、困難な時代にありながら、若く情熱のある音楽家たちを育てていきました。

その後の中国での音楽家たちの活躍や音楽教育の研究を射程に入れつつ、1920年代から30年代の中国における西洋音楽教育を丹念に追った本書は現代中国の音楽史を考えるうえで重要な資料となります。