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かつて代々木にあった、ロシア語がめきめき伸びる語学学校

ちょうどその頃、偶然にも言語学とチェコ語で有名な大学の先生と会う機会に恵まれた。わたしは早速、ロシア語を伸ばすにはどのような学校で学べばよいか尋ねてみた。
「だったらミール・ロシア語研究所」
先生は即答だった。

本書 p.7

その後も日本国内でさまざまな通訳の仕事をしたのだが、何人かと組んで仕事をするとき、わたしが同僚にミールで勉強していることを明かすと、相手は必ず一目置いてくれた。大学と違って通訳の世界では、ミールが一つのステータスだった。

本書 p.104

「ウダレーニエが弱いんです!」

何度発音してもウダレーニエの弱さを指摘される。ロシア語のウダレーニエ(アクセント)をしっかり発音する癖をつけるべく、何度もの発音練習から授業が始まる学校が、かつて東京の代々木にありました。

本書は言語学者でスラブ語学者である黒田龍之介が、自身のロシア語学習歴を振り返った本です。当時、代々木にあったミール・ロシア語研究所(1958年6月開校、2013年5月閉校)での厳しいロシア語学習経験の一端を明らかにしてくれています。

ある大学教師は「ミールの人って、みんな同じ発音だよね」と、小馬鹿にしたように語った。

本書 p.166

上記の通り、ミールでは「音を作る」と表現されていた、発音重視の教育がとられていました。理論ではなく、身体に叩き込む、体育会系の授業でした。

発音が終われば単語テスト、そして露文和訳、和文露訳が待っています。90分でこれをこなすとへとへとになるでしょうが、確実に身につくとも思います。

ミールには様々な人がいました。仕事帰りにロシア語を学んでいるお姉さん、ロシア語のものすごくできる同級生などです。のちにはNHKニュースの字幕を付けるバイトを教えてくれた人や、通訳になって中央アジアで活躍するようになった人もいます。

高校生だった黒田少年は大学を出るころには教える側になり、いつの間にか29歳になっていました。そのころにはロシア語を非常勤で教えるようになり、最終的には東京工業大学で専任教員として就職し、ミールに通うのをやめました。

こうしてみると、ロシア語のような国連公用語とはいえ比較的マイナーな言語でも素晴らしい学校があり、バイトや通訳などで学費が賄えるほど稼げる東京はうらやましいなと思います。

実際、黒田龍之介も父親である落語家の6代目柳亭燕路が亡くなってからは経済的にはある程度自立して、ロシア語で生計を立てていたようです。それは東京という特殊な地理的条件に加え、バブルという特殊な時代的条件が重なった幸運があったのかもしれません。

本書に書いてある、黒田龍之介にミールを勧めた「チェコ語で有名な大学の先生」は『言語学大辞典』を監修した千野栄一のことです。

黒田龍之介のロシア語学習については、以下のリンクに少し書かれています。本書の内容の一端が見える講演録です。

『ぼくたちの英語』刊行記念 黒田龍之助先生 講演会「ことばへの異常な愛情」講演録|三修社

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知らないスラヴ諸語のはなし

チェコ語字幕つきでチェコ映画を観ていたとき、わたしは思わずつぶやいてしまった。

そうか、伯爵はひなどりなのか。

さすがのカミさんも訝しげにこちらを窺う。

本書 p.90

両数のある言語なんて、一部の文法マニアくらいしか惹きつけないのかもしれない。

両数があると何かいいことあるのかな?

カミさん「魚座がはっきりする」

本書 p.217

本書は著者の東欧諸語にまつわる話をつらつらと書いたエッセイ集です。しかしただのエッセイ集ではありません。話題はポーランド語、チェコ語、スロヴァキア語、スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、ブルガリア語、マケドニア語といった多くの言語に及びます。

筆者は上智大学ロシア語学科、東京大学大学院を出て、東京工業大学や明治大学で教鞭をとったあと、今は文筆業で生計を立てています。専門はロシア語をはじめとするスラヴ言語で、ニューエクスプレスプラス ロシア語羊皮紙に眠る文字たち―スラヴ言語文化入門をはじめとする本を出しています。

また、言語だけではなく実際にそれらの土地に行った思い出も書いています。言葉が話せるからか、往々にして東欧の人たちの優しさ(おせっかいさ?)が垣間見えるやり取りがほほえましく読めます。出てくるお酒の話もおいしそうだし、なぜか内陸で食べたイカフライまでおいしそうに感じます。

一方でライフワーク(?)でもある映画のDVDを買う話など、大変興味深い一方、少し古さを感じさせる記述もあります。おそらく2000年代前半の話かと思うので仕方ないかと思いますが、現在では多くがオンラインに移行しているのではないでしょうか。DVDと違って多言語での字幕は出ませんが…。

映画のDVDを見ているとき、著者は上の引用で上げたように伯爵とひなどりの共通点に気づきます。それはチェコ語で14ある格変化の型が、kure(ひなどり)とhrabe(伯爵)は同じだったのです。どうもこの変化型はかなり限られているようで、映画を観ていて感嘆してしまったそうです。

また、もう一つの引用で上げたのはスロヴェニア語にはある両数(あるいは双数)という概念についてです。英語では単数、複数と区別しますが、スロヴェニア語ではさらに2つの場合には両数というカテゴリを作ります。たとえば目や耳などペアのもの、「私たち2人」という場合に使うそうです。また魚座も魚が2匹描かれているため両数となるそうです。これは知りませんでした。もちろん双子座も両数だそうですが、天秤座は単数だそうです。中国語で魚座は双鱼座というので、こちらでもまた魚座がはっきりします。

著者の奥さんが『スロヴェニア語入門』を出している金指久美子さんだったとは初めて知りました。本書にスロヴェニア語の記述が細かく出てくるのも納得しました。

もし1985年にスコピエを訪れていたら、わたしの人生は違ったものになっていたかもしれない。セルビア語からマケドニア語、さらにはアルバニア語やトルコ語をつぎつぎと勉強し、バルカン言語連合研究していた可能性もある。

本書 p.329

私にもこうした可能性が少しあったのかな、と思いました。スコピエに興味が出ました。