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修羅場で生き延びる術を身に付ける

佐藤優(2014)『修羅場の極意』中央公論新社

イエスが、剣によって戦わなかったのは、非暴力の戦いの方が、圧倒的に強いということを知っていたからである。弱いのではなく、強いから剣に頼らなかったのだ。(本書 p.40)

西原
佐藤さん、本当に大変な修羅場をくぐり抜けてきましたね。
佐藤
大したことありません。事件の容疑者になって、メディアスクラムで三ヶ月間ホテル暮らしを強いられ、自宅の郵便物を報道陣に荒らされて、逮捕されて足掛け513日間独房に入れられて、公判に4500万円かかって、裁判に8年を要して、外務省をクビになったくらいです。ハムラビ法典の「目には目を」じゃないですが、やられた範囲内での復讐しか考えていませんよ。
西原
ははは。

(本書 p.210)

修羅場の切り抜け方の指南書である。

誰もが経験する修羅場を古今東西の本を軸に、どうやって切り抜けるかを解説する。

マキャベリからは助言者を絞り込む方法を学び、新約聖書からはイエスの喧嘩の上手さを学ぶ。

人間誰しも生きていれば多少の修羅場に巻き込まれる。歴史に名を残した偉人たちは修羅場を上手にくぐり抜けて名を残した。だからこそ、彼らの書物を通して修羅場の対処法を学ぶことには意義がある。明日すぐにでも使える対処法だ。

やっぱり、東京地検特捜部に逮捕された著者は未だに国家の恐ろしさを強調する。エドワード・スノーデンや安藤美冬を引き合いに出し、彼らの生き方はアナーキズム的でいずれ国家と対立する、国家に勝てる方法はないから危ない、と警鐘を鳴らす。確かにそうなのだけど、一つだけ抜け落ちている観点がある。普通の人なら問題ないのだ。どの社会でも国家を意識せず、ノマド的な生き方で暮らしていける余裕はある。そこに上手に入り込んで、ほそぼそと暮らしていく分には大丈夫。ただし一度目立ち始めるとあぶない。だからこそ、スノーデンや安藤は危険なのだ。

修羅場は起こさないようにがんばっていても巻き込まれる場合がある。どんな人でも対処法を知っていたほうがよい。対処法とは自分を客観的に見るところから始まる。自分は一流じゃないからと作品を三流の出版社に持ち込んだり、歌舞伎町じゃなくて六本木のバーで働くことにした中村うさぎはやっぱり強い。普通の人は、自分の値段をそこまでクールに値付けできない。

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子供の才能を発掘するしたたかなアメリカ

ダットン, ジュディ著/横山啓明 訳(2012)『理系の子-高校生科学オリンピックの青春』文藝春秋

ブルースの病気とキャトリンの事故の治療費がかさみ、ホーニグ夫妻には娘を大学に行かせる金はなかった。奨学金を勝ち取ることは、たんなる栄誉ではなかった。それがなければ、キャトリンは大学へ行けないのだ。(本書 p.140)

フィリップはハーヴァードに進学し、十万ドル以上の奨学金を手にし、数百万ドルの利益を生む会社を設立した。常軌を逸しているとしか思えなかったストライク家の向こう見ずな計画は、結局、成功をおさめたのだ。(本書 p.284)

アメリカらしい話である。

サイエンスフェスタを舞台にした、アメリカの高校生の成功譚が収められている。ある子は貧しい家庭に育ち、トレーラーハウスを温めるためにラジエターを改造した暖房器具を作った。ある子は聴覚障害者の女の子が健聴者と話すときにも秘密の話ができるように手話を読み取る手袋を作った。

彼ら高校生のうち、大半の子たちの研究動機は身の回りの困っている人を助けたい、または身近な謎を解き明かしたいという純粋な気持ちだ。じゃあ、所与の目的を達せばいいはずだ。なぜ彼らはサイエンスフェスタに出るのか。

そこに注目すると、若きアメリカンドリームと表裏一体の暗い影が見えてくる。

後がない子が多いのだ。病気の父親の入院費と治療費で借金を背負ってしまったり、少年院に入っているために将来への希望が持てなかったり。そんな少年少女に取って、唯一未来を切り開く可能性があるのはサイエンスフェスタでの賞金だ。優秀者には主催者からのみならず、協賛企業からの賞金や奨学金がもらえたり、政府や企業からの研究支援が得られたりする。サイエンスフェスタの結果で彼らの未来がかかっている。可能性あふれる未来か、たいした希望の持てない未来か。

科学を通じてアメリカ社会の両極端なところが映し出される。親が大富豪で、さらにその息子もサイエンスフェスタで6万ドル以上の賞金を稼いで起業するような成功者もいれば、奨学金を得ないと大学に行くという選択肢すらなくなる子までいる。高校生からそのようなシビアな状況に置かれるのは気の毒にすら思える。ただ、逆に考えれば、シビアな状況にも一縷の望みを与えるのがアメリカ社会の良さであるとも言える。

しかし、そうなると世間の役に立つ短いスパンの研究に重点が置かれるのも仕方ない。一方で科学はいま成果がでなくても、50年後、100年後にパラダイムシフトが起きても即対応できるような柔軟性を持たせるべく、広い基礎研究も必要となる。本書で取り上げられていたアメリカの事例が即役に立つものばかりだったのに比べ、巻末に付けられた日本代表の女の子は基礎研究を行っていた。この研究を選んだ日本側の審査員と本書の著者に、基礎研究を重視する日本の矜持を感じた。

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腰かけのつもりの仕事を極めて第一人者になった話

小塚昌彦(2013)『ぼくのつくった書体の話』グラフィック社

最終面接で将来の希望を聞かれた際に、私が迷わず「新聞記者になりたい」と言ったところ、面接官であった工務局長が「君にとって工務局は腰かけのつもりか?」。それに対して躊躇もなく「ハイ」と答えたものです。(本書 p.15)

世界の中で少し立ち後れていた国々と、タイプフェイスをつくりづらい構造の文字を持つ国々がほぼ一致していたことは、示唆深い現象だといえるかもしれません。(本書 p.144)

Illustratorでテキストを書くときデフォルトで選択される日本語フォント、小塚ゴシック。その開発者の自伝だ。淡々と自分の生い立ちから仕事のことを語っていく中で、徐々にその中で気づいたことが思想となってフォントへと反映されていく過程が描かれる。

単なるはやりのグラフィックデザイナーかと思ったらそうではない。毎日新聞に活版印刷時代から在籍し、金属で活字を作っていた職人だ。金属の活字から写植、タイポグラフィと変遷の激しい印刷技術の第一線で活躍していた人なのだ。しかも入社のきっかけが父が亡くなって大黒柱として働かなくてはいけなかったからだ。進学校の中でただ一人就職した負い目を感じながらの上京だった。

毎日新聞の工務局に配属され、活字を作る仕事をし始めてから、面白さに気づいて没頭する。戦時中の資材に制限のあった頃のまま引き継がれていた小さい活字を読みやすい大きなものに変えたり、従前の毛筆時代の活字から硬筆(鉛筆、ボールペン)の時代に合うような活字を作る。Illustratorなどに入っている小塚ゴシック、小塚明朝は横書き時代に合ったフォントだ。ただ受け継いだ伝統を守っていくのではなく、時代にそぐう字を開発し、提供する柔軟な姿勢には頭がさがる。職人気質の世界で育ったのに、どうしてそんな柔軟性が備わったのだろう。

本書を読んでいると活字づくりの様々な試みをしていて、毎日新聞も余裕があったのだと感じられる。朝毎読と呼ばれるだけあったのだ。Adobeに移ってからは四半期ごとの決算なのでフォントづくりのような長期のプロジェクトは危ない橋をわたっていると感じることもあったという。活字やフォントを作るには時間とお金がかかるのだ。

実はこれまで小塚ゴシックとは違うフォントを選んでいた。新ゴが好きだったから。だけどその新ゴも小塚さんが作ったと聞いて、結局ぼくは巨人の手のひらの上で踊っていただけであることを悟った。フォントの海は果てしなく広い。

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沖縄がもっと力をつけるために

佐藤優(2014)『佐藤優の沖縄評論』光文社

現在、筆者が沖縄について勉強し、語り、書くことは、筆者自身の人生の意味を探求することと、かなり重なっているのである。(本書 p.210)

沖縄に対する構造化された政治的差別を放置しておくと、今後それが社会的、経済的差別に転化する危険がある。(本書 p.286)

佐藤優には沖縄の血が流れている。だからこそ、彼は琉球新報に連載を持ち、沖縄への思いを正直に吐露した。高邁な一般論ではない。新聞に掲載する以上、時勢にあった方法で、具体的にどう動けば沖縄の利益になるかを誠実に訴えている。

沖縄の大学に公務員養成講座を開講し、毎年数人を霞ヶ関に送り込めるような仕組みを作ること、普天間基地の県外移設に取り組もうとした鳩山由紀夫首相への沖縄の声の届け方、国会でなされた沖縄に関する答弁が持つ意味などなど、中央省庁で働いた経験のある筆者の視線から、一般の読者にもわかりやすい表現で現状を分析し、効果的な対応策を訴えている。首相に声を届けるには、年賀状などの手紙がいいなど、今すぐ役立つトリビアだ。

沖縄は左翼の島ではない。かつての琉球王国の時代から連綿と息づいている郷土愛を軸に考えるとわかりやすい。普天間基地移設問題を始めとする一連の日本国政府への異議申立ても、沖縄の人が自らの土地や人々を愛しているからこそ起こる。彼らは基地があるから反対しているのではない。(現実的ではないが)その広大な土地に米国人専用の民間空港や運河があったとしても反対するだろう。自らの土地が不当な形で奪取され、日本国内全体で考えても不釣り合いなまでの負担を強いられている。その現状に異議申立てをしているのだ。

沖縄の民意が反対している米軍基地が未だに移設されていない点に、沖縄には民主主義が適用されていないと見る筆者の指摘は鋭い。

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言葉は相手の暮らしを知ってこそ分かる

青木晴夫(1998)『滅びゆくことばを追って -インディアン文化への挽歌』岩波書店

一度、リズおばさんの義弟に、キイチゴを取りに行こうと誘われたことがある。彼のジープに乗ったところが、そのあとが勇ましかった。(中略)七十いくつのおじいさんとは思えない猪突ぶりである。わたしは身体髪膚これを父母に受けたけれども、きょうのイチゴ取りが終わって帰り着くまでは、相当毀傷したようだ。(本書 p.131)

涼しい高原のティーピーで一週間を楽しく過ごした経験のあるわたしには、この暑い谷間に移住をしいられ、異文化のかたまりのような文化住宅で窒息しているおばあさんの姿がこの上なくみじめに見えた。(本書 p.199)

名著である。千野栄一が『ことばの樹海』(レビューはこちら)で絶賛していた消滅の危機に瀕する言語を記録する言語学者のエッセイだ。

文章からにじみ出てくるおもしろみは、著者の個性が出ている。冒頭に引用した箇所なんて孝経の「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」のパロディがさらりと出ている。

カリフォルニア大学の言語学教室で研究をしていたある日、主任教授から「ネズパース語を調査する気はないか」と持ちかけられたことから著者の話は始まる。車を借りて2泊3日、現地調査の始まりだ。まずはモーテルを決め、紹介してもらった人やたまたま知り合った人のおばさんなどをあたってインフォーマント(調査協力者)を決めていく。午前にインタビューを行い、午後はノートの整理。そうして少しずつ言語を記述していく。記述言語学の王道ともいえるべきやり方だ。カードゲーム用の机の上にはノートなど軽いものしか載せられないから、レコーダーは床に置いた、などと書いてあって隔世の感がある。著者の時代は電源式(コンセントにつなぐ!)テープレコーダーを使っていた。

著者のメインの仕事は言語の記述だが、本書の面白みはそれに附随する調査協力者との交流だ。一緒にタルマクスという一週間、遠い山に行って行うお祭り(だけど当時はもう宗教キャンプに成り果てていた)に参加してネズパースの人たちの暮らし方を体験したり、リズおばさんとキャマス(野草の根っこ)を取りに行ったり昔話を教えてもらったり。言語の調査はその言語を使う人々の暮らし全体を理解してこそなしえることがよく分かる。

インディアンの人たちは面で暮らしているから道なき道を進むけど、白人たちは線で暮らしているから道路から少しそれた集落のことは全然知らない。だから同じ土地に住んでいても、インディアンと白人の交流は意外と少ない。その間を著者が取り持つようになったのは、先住民と学界をつなぐ記述言語学者としての役割をも持つ著者だからこそなしえたのだろう。少し足りないぐらいで終わっている分量も、余韻があってまたいい。

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大言語学者同士の交遊録

オットー・イェスペルセン(1962)『イェスペルセン自叙伝』研究社

キーン自身は守ったが、私が不幸にして常に(ことに外国語で書くときはけっして)従うことができたと限らなかったいちじるしい忠告を彼は私に与えてくれた。その忠告というのは、文の冒頭の語を書き下ろす前に、自分の脳中で全文を作り、文全体を味わって発音し、舌の上で観ずるべきだ、そして人が一旦筆を下ろした以上けっして文体を訂正すべきではないということであった。(本書 p.46)

私は老伯父Mφhlからやむを得ず借金をした。やがてMφhlは私の帰国に先立って歿したので、私の負債は私の義兄Harderに引き継がれ、数年後私はこれを完済した。しかし私は自分の呑気さ・贅沢さを後悔すべきなんらの理由を持たない。なぜならその年に自由な研究をしなかったならば私は一廉(ひとかど)の学者には決してなれなかったであろうから。(本書 p.49)

高名な英語学者のイェスペルセンの自叙伝だ。かの英語学の泰斗、斎藤秀三郎の伝記である『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』では斎藤が後進の育成に熱心でなく、研究に専心していたらイェスペルセン以上の学者になっていただろうと何度か書かれている。当時は世界的な英語学の大家といえばイェスペルセンとされていたようだ。

そんな人の自叙伝である。自分の仕事については詳しく書いてない。いまどきイェスペルセンのことを研究している人なんてあまりいないので別にいいだろう。amazonでは訳がひどいと書いてある。時代的に仕方ないことだろう。自分で書いているので多少のエエカッコシイもあるだろう。それらを差し引いても面白い。

一番面白いのはロンドン学派の中心で音声学の大家、ヘンリー・スウィートとの交遊録だ。ヘンリー・スウィートはオードリー・ヘップバーン主演の「マイ・フェア・レディ」のヘンリー・ヒギンズ教授のモデルになった人だ。オックスフォードを出て苦学した割にはオックスフォードの教授職に就けず、偏屈な性格になったがゆえ、「ビター・スウィート」と言われていたあの難物である。イェスペルセンが彼の家に泊まった時も二人きりでいるのにかかわらず、1時間以上何も話さないでいたこともあったらしく、やっぱり少し窮屈さを感じていたようだ。その他アメリカでは人類学の祖、フランツ・ボアズ(Franz Boas)の家に招かれたり、1910年秋のミュンヘンにヘルマン・パウル(『言語史原理』の著者)を訪ねたり、ローマではムッソリーニに会ってそのフランス語の流暢さに驚いたりしている一方、日本から来た市河三喜の訪問を受けたりしている。トムセンやメイエとも関わりがあったようで、今となっては歴史上の人物の者同士の交友が書いてあって面白く読める。

イェスペルセンが最初は法律を志していたこと、英語学者になる気はなく、たまたま英語を研究し始めたに過ぎないことなど、こんな大学者も想定外の顛末が重なって生まれたことは初めて知った。

以下の箇所にはスウィートの個性が出ていて興味深い。

スウィートの家では私は日刊新聞を読まなかった。なぜ新聞をとらないのかと私が尋ねると彼は答えた:「そうだ、僕は1年間やめている。そして毎朝タイムズ紙を通読する時間をアラビア語の独習に当てている。そのほうがよりよい時間の利用法だよ。」(本書 p.92)

はるかに興味があったのはスウィート夫人が夫の書き残した自叙伝に基づいてLife and Letters of Henry Sweetを刊行する計画を私に告げたことであった。(中略)それは当時生存していたきわめて多くの人たちに対する非難に充ち、到底出版される見込みがなかった。(中略)彼は信ぜられないほどひどい近視であったが、成人するまで誰一人眼鏡を用いて矯正できることを彼に告げる者がなかった。(中略)多年ののちスウィート夫人が歿したとき私はWyldをして自叙伝の行方を捜させたが、Wyld自身これを捜し出すことができずに終わった。(本書 pp.145-146)