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国境線が無いまま700年。大国家ローマ帝国が30年で自壊した理由とは?

南川高志(2013)『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店

現代的観点からすれば、特定の民族にこだわらない寛大な措置と見えるかもしれないが、そもそもローマ人は「民族」という考え方を19世紀以降のような特殊な意味で理解していなかった。皇帝たちは彼らの実力を認め、重用した。「特別の事情」でもない限り、彼らを退ける理由はなかったのである。(本書 p.156)

ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか1600年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである。(本書 p.207)

ローマ帝国は紀元前3世紀から5世紀後半(476年)にかけてローマを中心に強大な力を誇った帝国である。その領地は現在のスペイン、イギリス、ドイツ、ギリシャ、トルコ、そして北アフリカにまで及ぶ。北欧などの一部を除いて、全欧州を手中に入れていた。

本書はローマ帝国が栄華を極めてから衰退していく過程を分かりやすく描いている。ローマ帝国はイタリアを統一したローマ人たちが領地をどんどん広げていった。

その際、彼らが行った方法は地元有力者と「共犯関係」を持つことだった。地元有力者をローマ軍に入れることにより、彼らをローマ人として扱ったのだ。いざというときローマ軍として戦ってくれたらいいだけだから、平時は割りと自由だった。軍隊は国境警備をせず、国境区域(ゾーン)を設けて、そこでの商取引を自由にさせた。

ローマ帝国で高い地位といえば、文官、武官や元老院議員がいる。当初、血統主義でエリートの地位が受け継がれていたが、家系が途絶えるとイタリアや属領の地方から有能な者をエリートに登用した。そんな空気があったからこそ、偏狭の地のドナウなどでも有能な者があればエリートに登用された。もともとローマ人でなかった者が司令官や皇帝になり、生まれながらのローマ人を率いた。

それほど、栄華を極めたローマ帝国は寛容だった。

ローマ帝国が斜陽を迎えたのは4世紀後半である。東からフン族の流入し、その地に住んでいたゴート人が隣接するローマ帝国の地方武官に助けを求める。迎え入れるほうは彼らに食料を提供するどころか、高値で売りつけ、こともあろうにゴート人の司令官の殺害まで企てる。ローマ人の対応に怒りを覚えたゴート人が、フン族とともにローマに攻め入った。そのとき、同時にブリテン島など他の地方でも蛮族の襲来を受け、対応しきれなくなったローマ帝国は一気に崩れてしまう。

本書を読む限り、ローマ帝国の自壊には多くの偶然が重なっていたようだ。皇帝の地位をめぐる内紛、東や北から偶然の同時多発的な蛮族の来襲。歴史にイフはないが、どれも少しずつタイミングがずれていれば対応できたかも知れない。

本書では自壊の原因の一つに寛容さの喪失を挙げる。かつてはローマ人として扱われた辺境の地の人たちも、ローマ人と同じ言葉を話し、格好をした。しかし後年、ローマ人として扱われても蛮族の格好をしたまま町を歩く人々が増えた。そこから、よそ者への目が厳しくなり、蛮族とローマ人の軋轢が深まっていった。筆者はこの軋轢こそが、ローマ帝国自壊への引き金になったと見る。

しかし、ここで疑問が出てくる。なぜ軋轢が生じたのか。辺境の人たちがローマ人の格好をしなくなったのは、ローマにそこまでの威光を感じなくなったからに違いない。なぜそこまで威光が落ちたのか。そこにローマ帝国自壊の序章があるのではないか。史料的な限界があるとはいえ、気になった。

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読むと絵画の見方が変わる

バクサンドール, マイケル[篠塚二三男・石原宏・豊泉尚美・池上公平訳](1989)『ルネサンス絵画の社会史』平凡社

この本(筆者註:ヤコブス・デ・ケッソリス(1493)『チェスの書』)はチェスになぞえらえて社会階層を表した中世的なアレゴリーである。クイーン側のビショップのボーンは、このアレゴリーでは宿屋の主人で表される。そしてこの人物を見わけるための三つの手がかりのひとつが、勧誘の仕草である。「彼は右手を、勧誘する人のように伸ばす」。手のひらを少しあげ、指を扇状にやや下向きに開いている。(本書 pp.120-124)

フイリッポ・リッピの絵は豊富であると同時に多様性を持っているが、クアトロチェントの批評家たちが最も賞賛したのは、諸要素を効率的に使って多様性を持たせる絵画である。(中略)絵画における多様性の価値と、クアトロチェントのほかの文化の領域-すでにみたような天上的経験や文芸批評-との間には、きわめて密接な呼応関係がある。(本書 p.233)

大学院のときにとある教員が授業中に「これは名著です」と言って紹介していた本で、僕はずっと気になっていた。当然すぐに図書館に行って借りたが、やることが多くて読み始める前に返却期限が来てしまい、結局読めずじまい。今ではどうもなかなか手に入らない本っぽくて、買うのもままならないまま、数年が過ぎた。

本書はその評どおりの名著であった。おもに主眼が置かれるのはクアトロチェント(1400年代)に活躍した画家たちと、彼らの作品への人々のまなざしである。本書はまず絵画取引の話から入る。当時の画家が描いていた条件にアプローチする。すなわち、依頼主がどこに力点を置いて注文し、画家たちがどのようにそれにこたえたか、から始まる。当初は色に細かな注文が出ていたが、時代が下るにつれ、画家の技量に価値が置かれる。何で描くべきか、よりもどう描くべきか、が重視されるのだ。

絵を見る側も、それなりの階級の人たちはそれなりの知識と審美眼を持っており、画家たちはそれに如何に応えるかが腕の見せどころであった。それとともに、宗教画として描かれる場合は宗教画らしさ(ある一定のルール)も求められた。すなわち、聖書の物語から逸脱しないこと、過度な演出をしないことなどなどである。当時の文字が読めない大衆にとっては、宗教画こそキリスト教を理解するもの、聖書に代わるものであった。当然、宗教画への偶像崇拝も現れる。しかし教会側もそれをわかった上で、宗教画の教育上の必要性を理解し、画家たちに依頼し続ける。

聖書の物語が上の引用で引いたような15世紀の人たちの身振りを交えて描かれたのが、当時の絵画なのだ。それを理解するには当時の絵画と画家と依頼主の関係や鑑賞者の目の付けどころといったものを知ってこそ、深みに達することができる。多くの絵が挿入されており、大変読みやすく勉強になる本であった。

孫引きで申し訳ないが、下記の個所だけはあまりにもかわいそうだと思ったので最後に引用しておこう。

以前ナポリに駐在していたシエナの大使がいた。彼はいかにもシエナ人らしく非常に派手だった。一方アルフォンソ王はいつも黒い服を着ており、飾り留め金しかついてない帽子をかぶり、首に黄金の鎖をつけているだけだった。そして綿や絹の服をほとんど着なかった。ところが先の大使は非常に高価な金襴を身につけており、王の引見に出向くときはいつもこれを着こんでいた。(中略)ある日王は、小さく粗末な部屋に対し全員を招集して引見する手筈を整え、さらに家臣数人と相談し、ひしめきあいのなかで皆がシエナ大使を押し分けて進み、着ている錦をこするように示し合わせた。さてその当日になって、シエナ大使の錦の服はほかの大使たちばかりでなく王にまでこづかれ、こすられた。皆、部屋を出て錦の様子をみると笑い転げた。毛はまったくつぶれ、錦は深紅色になり、金がはげ落ちて黄色い絹が残るだけの見るも無残なぼろぎれになってしまったのである。シエナ大使が、すっかり台なしになった錦を着て部屋から出て行ったのを見とどけると、王も笑いを止めることができなかった。・・・
(本書 pp.34-35; この箇所はVespasiano da Bisticci, Vite di uomini illustri『名士列伝』, ed P.d’Ancona and E. Aeschlimann, Milano, 1951, p.60の引用とのこと)