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大変な時代だからこそ知の力で生きる

佐藤優(2015)『危機を克服する教養 知の実戦講義「歴史とは何か」』角川書店

アベノミクスも瑞穂の国資本主義も、私は念力主義の現代版だと思っています。現実的にはどう考えても、明らかに圧倒的大多数の国民生活の水準を下げていきます。そうすると子どもに高等教育を与えることが難しくなってくる。その結果、日本全体の知力は、世代交代によって低下するでしょう。社会の力も明らかに落ちていきます。そうしたところに向かっていると思うのです。(本書 p.231)

危機を克服する教養 知の実戦講義「歴史とは何か」

本書は佐藤優が朝日カルチャーセンターで行った連続講義に大幅な加筆を行って上梓したものである。

現代は危機の時代である。これを前提に、危機の時代をどう把握し、どう生きていくかを考える。

アベノミクスによる物価や株価の上昇はぱっと見るといい傾向に思える。だけど株式は所詮擬制資本。単なるデータであり実態ではない。物価上昇も目標は2%となっているが、一方で賃金は2%も上昇しない。名目上の賃金は上がっても、それ以上に物価が上がるのだから可処分所得は減っていき、圧倒的大多数の暮らしはどんどん貧しくなる。

少し考えたら簡単に分かるアベノミクスの限界。だけどそれに気づかないのか気づかないフリをしているのか、政権支持率は高い。そこに佐藤は反知性主義があるという。

反知性主義を「ふわっとした民意」と言い換えて上手に乗ったのが橋下徹だ。今の日本ではそうした傾向があちこちに見られる。

この傾向を推し進めると、日本は貧しくなり知力も下がり、戦争しやすい国、仕掛けられやすい国になっていく。明らかに我々のためにならない政策を行っている政権を我々は支持している。

生きづらい時代だからこそ耐えて知力をつけていくしかない、というのは、悲しいけども唯一の希望だ。

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欧米を植民地化しなかった中国

ジャレド・ダイアモンド(2012)『銃・病原菌・鉄(下)1万3000年にわたる人類史の謎』草思社

なぜ中国人は、バスコ・ダ・ガマの三隻の船が喜望峰を東にまわって東南アジアを植民地化し始める前に、ヨーロッパを植民地化しなかったのだろうか。なぜ中国人は、太平洋を渡って、アメリカ西海岸を植民地化しなかったのだろうか。言い換えれば、なぜ中国は、自分たちより遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまったのだろうか。(本書 p.379)

文庫 銃・病原菌・鉄 (下) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)

上巻に続く下巻である。本書は2000年代にベストセラーとなり、有名どころでは松岡正剛の千夜千冊でも紹介されている。

人類の歴史を振り返ったとき、誰が覇権を握っていたか。それは食料を握っていた人たちだ。栽培可能な穀物のある土地で、野生種を栽培種に変えていき、農業生産を行う。すると単位面積当たりの人口が増え、余裕ができて、学問や軍事に費やせる。組織的に行動する事が可能となった人々は、よその土地に進出する。

この繰り返しである。

必要条件はいくつかある。重い荷物や高速な移動が可能になる大型哺乳動物、知識の蓄積が可能になる文字などだ。だけど、文字があったからといって、大型哺乳動物がいたからといって、必ずしも進出に成功するとは限らない。

例えば南米では大型哺乳動物であるラマがいたし、文字も発明されていた。だけど家畜も農業生産が可能な植物も少なかったためあまり技術が発達せず、そうこうしているうちにスペインに攻め入られた。

欧米は文字を持ち、家畜も植物も数種類持ち、さらに人口密度が高かったため病原菌に対する免疫をも持っていた。だからあちこちの土地に進出し得た。

では冒頭の質問。なぜ中国は進出し得なかったのか。その理由は、巨大な官僚国家だったからだ。だから一度海禁(鎖国政策)を決めると、全土がそれに従ってしまう。一方、ヨーロッパには多くの国があった。そのためコロンブスの航海の申し出に対し、一国が断ってもコロンブスはまた別の国に話を持って行ったらよかった。現に、スペインは彼の話に乗って援助をしている。

どの時代でも多様性こそが可能性を結実させる。多様な条件の組み合わせで、新たな世界が切り開ける。

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第三者が世界を救う

佐藤優(2015)『世界史の極意』NHK出版新書

宗教である以上、誰もが無意識であれナショナリズムを自らのうちに抱えている。その暴走を阻止するために、私たちは歴史には複数の見方があることを学ばなければいけないのです。(本書 p.163)

したがって、宗教的価値観を中心とした結びつきには、民族やナショナリズムを越えていくベクトルがあることが認識できます。(本書 p.221)

世界史の極意 (NHK出版新書 451)

佐藤優が今を生きるビジネスパーソンに歴史を分かりやすく教える本。外務省で勤務して自らがキリスト者である著者は、宗教や国際問題を語るにふさわしいプロ中のプロだ。

現代社会はグローバル化が行き着いた先として、一種の危機に瀕している。その危機とは、戦争の可能性だ。

ウクライナやイスラム国を見ても分かる通り、世界には戦争の種があちこちで見えるし、紛争は現在進行形で起こっている。おそらく、これからそう遠くない未来の間には世界大戦は発生しない。だけど世界のどこかで継続して紛争が起きている状態が続くと予想される。これからは戦争をさせない社会(世界)を作ることが鍵となってくる。本書はそのために必要な知識を授ける。

著者はまず第一章で世界全体の傾向を見て、そこから帝国主義と宗教問題に焦点を絞る。第二章で帝国主義的傾向が強くなること、第三章で宗教問題について語る。いずれにせよ問題は、世界を第三者の視点で見ることで解決に近づく。帝国には帝国と植民地の視点から、宗教には他宗教の視点から見ることで、全体を把握して解決のいとぐちの可能性を見出す。

世の中の問題は賢い人が一気に解決するのではない。一人ひとりの理解の深化で少しずつ解決へと近づくのだ。

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気候のいいカリフォルニアで農耕が誕生しなかった理由

ジャレド・ダイアモンド(2012)『銃・病原菌・鉄(上)1万3000年にわたる人類史の謎』草思社

なぜインカ人は、ヨーロッパ人が耐性をもたない疫病に対する免疫を持ち合わせるようにならなかったのか。なぜ、大海を航海できる船を建造するようにならなかったのか。(本書 pp.147-148)

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)

一時、一躍話題になった本書はやっぱり面白い。なぜこんなに面白いのか。それはおそらく以下の点を全て網羅しているからだろう。

  • 身近な疑問を出発点にしている
  • 歴史を俯瞰している
  • 誰もが知っている出来事を扱っている

そもそも歴史を俯瞰して描いた本はだいたいにして面白いのに、それが「人類」の、「1万3000年」に渡る「全地球的な規模」の話だと面白くなるに決まっている。わかっているけどできないことをやってのけたから著者はすごいのだ。なぜヨーロッパ人は世界を跳梁跋扈し、あちこちの先住民を奴隷にしたのか。これは著者がニューギニアであったヤリという青年との会話から着想した疑問である。その疑問を25年かけて解いた著者の努力と誠意に脱帽だ。

人類は他の動物達と同じく、おそらくは狩猟採集民として生きていた。だけどある段階から農耕民へと移り変わる。それは農耕する方が安定的な食料が手に入るから。という簡単な話ではない。確かに単位面積当たり収穫できるカロリーは高い。だけど当時は野生動物もいっぱいいた。動物たちが取れなくなったことと、栽培するに都合がいい植物種がいたから、メソポタミアで農耕が始まり、品種改良も始まった。

現に地球上でメソポタミアよりも農耕するに環境がいい東オーストラリア、チリ、カリフォルニアではすべての条件を満たしていないから農耕民は誕生しなかった。

たまたま誕生した農耕民が、政治機構を育て、世界各地へと散らばっていった。ヨーロッパ人の覇権は偶然得た所与の条件によるものだった。

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580人が東京駅で大乱闘を繰り広げた昭和の左翼運動

立花隆(1975)『中核VS革マル(下)』講談社

あらゆる権力の退廃は、思想・信仰の自由を踏みにじるところからはじまる。そして、権力による思想・信仰の自由の圧殺は、必ず革命思想・革命信仰の自由の圧殺からはじまる。それと同様に、あらゆる革命の退廃は、反革命思想・反革命信仰の自由の圧殺からはじまる。(本書 p.199)

中核VS革マル(下) (講談社文庫)

前回紹介したものの続きである。

大衆運動を大々的に行う中核派、一方で組織づくりをする革マル。中核派は活動家が逮捕されて次第に力を失うとともに、革マルが組織づくりを終えて力をつけていく。次第に革マルが優勢になっていく。角材から鉄パイプ、バールに塩酸と次第に暴力がエスカレートしていった。だかある時期から、また中核派が盛り返す。これは暴力の方法に両者の思想の違いが現れたためだ。

中核派は国家権力への武力対決という発想で軍事組織づくりを行った。「職業軍隊中央武装勢力プラス国民皆兵の発想にたっている」(本書 p.151)一方、革マル派国家権力に武装対決するために作った軍事組織ではない。特殊な党派闘争専用の組織だった。だから終盤において全党をあげて戦った中核派が盛り返してきたのだ。

激しい戦闘中には、もちろん「誤爆」もあった。1974年9月5日、中核派は赤坂見附駅で在日朝鮮人女性(21歳)の顔と頭を狙い撃ちし、二週間以上の重傷を負わせた。当初は知らぬ存ぜぬを通していたが、事件後6日経ってから、機関紙にお詫びの文章を出した。在日団体の猛抗議があったことを伺わせるエピソードだ。

冒頭のお話は1973年12月23日、芝公園で集会をして東京駅までデモをしてきた中核派500人を革マル派武装部隊80人が襲った。結果5名重傷2名重体となった。この他、地方から状況すべく集まった全学連中央委員会メンバーを中核派が名古屋駅で迎え撃つなど、激しい戦闘が行われていた。当時は一般乗客にも影響が出ていたらしい。今となってはすっかり埋もれている史実だ。

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過激派が乗った電車を切り離して全員逮捕した静岡県警

立花隆(1975)『中核VS革マル(上)』講談社

ともかく、人間の発明した概念の中で、正義という概念ほど恐ろしいものはない。(本書 p.29)

同一組織内での意見のくいちがいは、議論、説得、妥協によってなんとか調整をはかっていくことができるが、いったん意見のちがう者同士が組織を割ってしまうと、両者の意見の相違は、とめどなく広がっていってしまう。(本書 p.86)

中核VS革マル(上) (講談社文庫)

日本の左翼運動の中で大きな役割を果たしてきた中核と革マルに焦点を当て、両者の抗争の理由を書いたのが本書だ。まだまだ内ゲバ激しい頃に書かれていたため、結論が書かれていないところも生々しい。当時の人たちにとっても、なぜ彼らが(同じ左翼の中で)内ゲバを行い、殺人までするのか知られていなかった。

1956年、日本で左翼運動を行ってきた者にとって衝撃的な事件が起きた。スターリン批判とハンガリー暴動である。労働者の祖国であるソビエトで、世界の共産党を指導する立場にあったソビエト共産党。そこで最高指導者として崇められていたスターリンが批判された。さらに労働者の天国のはずの社会主義国家ハンガリーで暴動がおき、武力で鎮圧されてしまった。加えて日本共産党もこれまでの武装闘争路線から穏健な路線に改めた。これまで信じていたものがガラガラと崩れ去った。

一部の人たちが、スターリンに批判されたトロツキーを読もうということで、日本トロツキスト連盟を組織した。これが中核・革マルの源流である。

その後、第四インターナショナルへの加盟の可否や産業別労働者委員会を中心とするか、地区党組織を中心に据えるかといった方針の違いから中核派と革マルに分裂した。

当初、人数で圧倒していた中核派は大衆運動に参加し、運動が高揚するに連れてどんどんと力をつけていった。一方、革マル派は大衆運動に参加するのが目的ではなく、革命を起こして労働者の国を建設するのが目的だという信念から、組織づくりに重点をおき、大きな運動を起こさなかった。そのため、数の上で劣勢に立たされるわ、中核派からは権力(警察)とつるんでいるから逮捕されないのだ、などと言われた。こうして止める者がいないまま少しずつ両者の軋轢が深まり、最初は角材だったものが鉄パイプ、爆弾へと血で血を洗う抗争になっていった。

冒頭の話は1968年6月8日のこと。1万2千人の左翼が結集して伊東警察署などを襲撃した。この闘争に参加するため、中核派が乗っていた電車が車輌ごと切り離されて、全員逮捕された。日本にも、45年前にそんな時代があったのだ。

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儲けより社会のためを考えた明治の経営者

鹿島 茂(2013)『渋沢栄一 下 論語篇』平凡社

渋沢が子供や孫などを実業界に進ませたがったのは、一族郎党で財閥を形成するためではなかった。(中略)息子や孫たちには、あくまで、経済界に入って自助努力で出世することを望んでいたのである。渋沢の願いは、実業界に一人でも多くの有能な人材をスカウトして、日本経済というパイを大きくすることだったのである。(本書 p.506)

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

上巻と合わせて、鹿島茂が十八年近くにわたって書き続けていたライフワーク、渋沢栄一の伝記の完結編だ。

渋沢は金儲けをしようと思えばいくらでも出来るような立場にいた。確かに金持ちにはなったが、自らのためではなく、社会のために使った。

その代表例として恵まれない孤児たちを育てる養育院の運営や、明らかに儲からないと思われる企業の経営に手を挙げるなど、火中の栗を拾うようなことをしている。どちらも民業で難しければ、当時は役所への転職も簡単だったし、渋沢程度の実績があれば政治家にもなれただろうに、そうはしなかった。あくまでも民間、実業界の立場を崩さなかった。

その裏にはやはり、フランスで見た民と官の平等な姿、若い時に受けた教養もなさそうな代官からの侮辱などがある。だからこそ、日本の実業界を強くすることで社会全体をよりよくしていこうという発想があった。まさにサン=シモン主義を地で行った。渋沢が自らを犠牲にしてまで民業を育てたお陰で、王子製紙や日本郵船など、いまも残る大企業が育った。渋沢がいたからこそ、今の日本の経済界があると言ってもいいだろう。国家全体を俯瞰してより良い方向に変えていこうとする視点は、明治の渋沢が持っていたのに、現代の経済人には見当たらない。

良書であるが難点も一つ。連載が長期間に及び、多方面にわたったせいか、上巻と比べるとトリビアルな話が多く、散漫な印象を受けた。


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商人から幕臣になった26歳

鹿島茂(2013)『渋沢栄一 上 算盤篇』文藝春秋

埼玉の農民の小倅が、代官に面罵されたのがきっかけで討幕運動に加わり、いったんは、高崎城を襲って横浜の居留地を焼き討ちにしようと試みたが、ひょんなきっかけで一橋家に仕える身となり、そこで出世して、兵制改革から財政改革までを手掛け、次の時代の到来に備えようとしていた矢先、突然、主君が徳川十五代将軍として就任したため、自らも幕府の役人となってしまう。(本書 p.131)

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

江戸末期に生まれて明治から大正、昭和にかけて活躍した経済人、渋沢栄一の自伝だ。鹿島茂による連載をまとめたものなので一回ずつ読み切りにしてある上に、文章も読みやすい。渋沢の足跡を学ぶには最適の本だろう。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄など、渋沢栄一が設立に関わった会社は500以上にもなると言われている。なぜそれほどできたのか?

渋沢は当時において資本主義の本質を理解していた、稀有な存在だったからだ。だから幕府も明治政府も渋沢を重用した。逆に渋沢がいなかったら今の日本の経済界は全く違っていたはずだ。

もともと、茨城県の豪農の家に生まれた渋沢は、若い頃から才覚があり、藍葉の仕入れや藍玉の販売で成功を収めた。ただ、商売一辺倒ではなく、幼少時より父から読書も授けられていたため、知識人ともいえる経済人だった。

江戸末期、尊王攘夷活動に失敗し、江戸遊学で知り合った一橋家に仕える。歴史の偶然から一橋慶喜が将軍になったため、渋沢もまた幕臣となる。当時、商人から武士への身分変更は全くできないわけではなかった。しかし誰もができたわけではない。渋沢は大出世した。

いよいよ開国も間近、パリ万国博覧会が開かれた。日本も招待されたため、幕府からは慶喜の弟である民部公子が留学も兼ねて行くことになった。民部公子の世話をしていた水戸藩の家来も何人か行くことになったが、旧来より保守的な土地、固陋な連中しかいないことを心配した将軍、慶喜の命で渋沢もパリ行きを命ぜられる。

パリで渋沢が見たのは、官と民が平等に交流している姿だった。当時の日本では渋沢家の当主であっても若い代官に偉そうにされ、商人は武士に頭を下げるのが常であった。官と民との関係はこうではならない。渋沢はパリでその思いを強くした。また、パリ万国博覧会でのサン=シモン主義(「パリ万博の壮観を再体験」を参照)にも感銘を受けた。産業発展は民衆への啓蒙も兼ねている。そうして利益を得るのみならず、産業を通して社会全体を良くしていかねばならないと開眼したのだった。

それがのちの日本での活躍につながる。

本書は渋沢の大活躍をあまり述べてはいない。むしろ大活躍の素地が形作られた背景を明らかにしている。渋沢の思想のバックグラウンドを知って、後編に続く。

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ソ連の崩壊を見た後輩とナチスの崩壊を見た先輩の対談

佐藤優(2014)『私が最も尊敬する外交官 ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六』講談社

沖縄密約問題の本質は、外務官僚が職業的良心に基づいて「やむをえない」と考え、行った確信犯的行為であるというところにある。従って、密約を結んだが、「そのようなものはない」と当時国民に対して嘘をついたことについて、外務官僚に良心の呵責はないのである。
 しかし、問題はその後だ。吉野は、密約を結んだということがわかる書類を公文書の形で、後世、吉野を含む外務官僚が、国民に対して嘘をついたことがわかるように残した。小賢しい外務官僚ならば、嘘をついた痕跡を消すことができる。しかし、吉野はそれをしなかった。(本書 p.277)

佐藤優による吉野文六氏(外務省アメリカ局長)への聞き取りで構成されたオーラルヒストリーだ。

本書のうち、多くは佐藤の文章と書籍からの引用になり、ピンポイントで吉野のオーラルヒストリーが入る。少ないながらもその口ぶりからは、偉ぶらない、真面目、正直といったエリート官僚とは思えない(?)吉野の人柄が伝わってくる。それは自らの実力に裏打ちされた自信があるからこそ持てる態度だ。

御年94歳の吉野の若い時の経験は、まさに近代史を地で行く。松本高校から東京帝国大学に入り、法律を学ぶ。その時、ノモンハンから帰ってきた友人から戦場の悲惨さを聞き、戦争には行きたくないと思う。だから高等文官試験(いまの国家公務員試験総合職)に受かってから、採用試験にも受かった裁判官、大蔵省、外務省のうち、3年間の兵役免除を受けながら語学が学べる外務省を選んだ。

しかし、それが運命の数奇なところ。日本から戦争をしているドイツに行くには、米国経由しかなかった。だから海路ハワイ経由でサンフランシスコに行き、アメリカ大陸を横断してワシントン、リスボンについてからドイツ領を避けるようにスイスからベルリンに入った。ドイツで3年間勉強してから大使館勤務になったが、その頃には戦況は悪化、ベルリンの日本大使館勤務の時にヒトラーは自殺し、リッペントロップ外相は逃亡、大島大使もドイツ南方の温泉地に疎開してしまった。

そんな中、ベルリンの大空襲で大使館も爆撃される。防空壕で一命を取り留めた大使館員たちは、直後にやってきたソ連兵に軟禁されながらも、日ソ中立条約があったために丁重に扱われ、劣悪な環境ながらも列車でモスクワ経由、シベリア鉄道で満州まで送り届けられた。

読んでるだけでもそのスケールの大きさに酔いしれる。当時、満州で室の高い諜報活動を行っていた領事や敵前逃亡のようなことをした大島大使など、本当の危機の時にその人の人間性がよく現れている。

当時、日本とドイツは手紙も届かず、電話も最後は通じなくなった。そんな環境下でつらかったはずなのに、そうしたことは言わないところにもまた、吉野の強さを感じる。

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レビュー 講談社ノンフィクション賞

無実の罪をかぶったまま満州に散った甘粕正彦

佐野眞一(2010)『甘粕正彦 乱心の曠野』新潮社

甘粕が「青年たちの娯楽は何ですか」と尋ねると、加藤完治の代理の者が「角力や柔道や剣道です」と答えた。すると甘粕はこれを否定して言下に言った。
「昼間農業をやって疲れた若者が、角力や柔道や剣道をやって何が娯楽になりますか。苦しい労働をした者には、楽しい遊びが娯楽になり、気分転換になるのです。だから世間では、碁や将棋や音楽、映画、演芸を娯楽というのです。人間の生活には楽しいものや美しいものがなければ長続きしません」(本書 pp.489-490)

大杉事件の真相は八十年以上秘匿された。それを思うとき、人を威圧して沈黙させる帝国の猛々しさと、事実を風化させ忘却させる歴史の残酷さを感じないわけにはいかない。(本書 pp.591)

甘粕正彦の生涯を追ったノンフィクションで、大杉事件の真相を解明したとして講談社ノンフィクション賞を受賞した。

大杉事件とは、アナーキストの大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)が関東大震災後の戒厳令が出ているさなかの東京で憲兵に連行され、そのまま殺された事件のことをいう。

当時、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉が東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長と共謀して殺害したとされた。しかし、上官の命令でなければ聞かない軍隊のこと。なぜ直属の上司でない甘粕からの命令に森が従ったのかは謎だった。

更に謎は残る。3年弱の刑期を終えて出てきた甘粕を出迎えたのは憲兵2人。そのまま家に帰るでもなく、軍の金で山形の温泉地に行き保養している。それだけではない。その後は軍から美術・音楽等の研究のためという名目で、2年間のフランス行きを許された。甘粕を出国させるため、東京憲兵隊特高課の少佐が係争中の日本郵船に早く船を出すよう直談判までしている。軍はまるで甘粕を厄介払いさせるように、性急に国外に追い立てた。

著者は周辺の者の証言などをたどって、甘粕が大杉事件の犯人でなく、軍の上層部が指揮した可能性が極めて高いこと、甘粕はそれを分かっていながらスケープゴートになったことを探り当てる。まさにノンフィクションの真髄だ。

満州に行った甘粕の人脈がまたすごい。陸軍士官学校卒業なので軍人には東條英機を始めとした知り合いは多く、加えて政府に勤務したことから役人だった岸信介や石原莞爾とも知り合う。また皇帝溥儀から側近としておきたいと言われるほど人望もあつかった。理事長となった満洲映画協会には李香蘭(山口淑子)、森繁久彌といった俳優の他、赤川次郎の父親の赤川孝一や内田吐夢、そして意外なことにジャーナリストの大宅壮一もいた。こうした人脈が戦後、「紅いコーリャン」などを撮影した中国の張芸謀(チャン・イーモウ)に繋がるというから驚きだ。「東洋のマタハリ」川島芳子も出入りし、皇帝溥儀の通訳を務めていた中島敦の叔父である中島比多吉、檀ふみの父で作家の檀一雄、後に東大総長になる矢内原忠雄も甘粕と縁があった。満洲映画協会はまるで梁山泊の様相を呈していた。

いちばん興味深かったのは甘粕の奥深い人間性だ。すぐに癇癪を起こし、人を怒鳴り散らす一方、アフターケアも忘れない。クビを切った部下の再就職を世話する、関東軍から来た召集令状を突き返すなど、面倒見の良さがあった。公人としては軍隊出身者らしく時に厳しく、テキパキと実務をこなした一方、私人としては子煩悩であり、教養もあった。組織の罪を被り、出獄後も軍の特務機関のような仕事をしていた甘粕には、底光りする魅力があったようだ。憲兵隊という国家主義的な甘粕が、経営難の立て直しのためとはいえ満映という左翼の多くいる組織を率いたのをみても、懐の深さが窺える。

甘粕は会う人間に酔って、その面貌を変化させているわけではない。厄介なことに、試されているのは甘粕を見る側の教養であり見識なのである。(本書 p.485)

この一文が戦争という奥深い歴史の澱を内奥に秘めた甘粕の性質を表している。


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