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580人が東京駅で大乱闘を繰り広げた昭和の左翼運動

立花隆(1975)『中核VS革マル(下)』講談社

あらゆる権力の退廃は、思想・信仰の自由を踏みにじるところからはじまる。そして、権力による思想・信仰の自由の圧殺は、必ず革命思想・革命信仰の自由の圧殺からはじまる。それと同様に、あらゆる革命の退廃は、反革命思想・反革命信仰の自由の圧殺からはじまる。(本書 p.199)

中核VS革マル(下) (講談社文庫)

前回紹介したものの続きである。

大衆運動を大々的に行う中核派、一方で組織づくりをする革マル。中核派は活動家が逮捕されて次第に力を失うとともに、革マルが組織づくりを終えて力をつけていく。次第に革マルが優勢になっていく。角材から鉄パイプ、バールに塩酸と次第に暴力がエスカレートしていった。だかある時期から、また中核派が盛り返す。これは暴力の方法に両者の思想の違いが現れたためだ。

中核派は国家権力への武力対決という発想で軍事組織づくりを行った。「職業軍隊中央武装勢力プラス国民皆兵の発想にたっている」(本書 p.151)一方、革マル派国家権力に武装対決するために作った軍事組織ではない。特殊な党派闘争専用の組織だった。だから終盤において全党をあげて戦った中核派が盛り返してきたのだ。

激しい戦闘中には、もちろん「誤爆」もあった。1974年9月5日、中核派は赤坂見附駅で在日朝鮮人女性(21歳)の顔と頭を狙い撃ちし、二週間以上の重傷を負わせた。当初は知らぬ存ぜぬを通していたが、事件後6日経ってから、機関紙にお詫びの文章を出した。在日団体の猛抗議があったことを伺わせるエピソードだ。

冒頭のお話は1973年12月23日、芝公園で集会をして東京駅までデモをしてきた中核派500人を革マル派武装部隊80人が襲った。結果5名重傷2名重体となった。この他、地方から状況すべく集まった全学連中央委員会メンバーを中核派が名古屋駅で迎え撃つなど、激しい戦闘が行われていた。当時は一般乗客にも影響が出ていたらしい。今となってはすっかり埋もれている史実だ。

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過激派が乗った電車を切り離して全員逮捕した静岡県警

立花隆(1975)『中核VS革マル(上)』講談社

ともかく、人間の発明した概念の中で、正義という概念ほど恐ろしいものはない。(本書 p.29)

同一組織内での意見のくいちがいは、議論、説得、妥協によってなんとか調整をはかっていくことができるが、いったん意見のちがう者同士が組織を割ってしまうと、両者の意見の相違は、とめどなく広がっていってしまう。(本書 p.86)

中核VS革マル(上) (講談社文庫)

日本の左翼運動の中で大きな役割を果たしてきた中核と革マルに焦点を当て、両者の抗争の理由を書いたのが本書だ。まだまだ内ゲバ激しい頃に書かれていたため、結論が書かれていないところも生々しい。当時の人たちにとっても、なぜ彼らが(同じ左翼の中で)内ゲバを行い、殺人までするのか知られていなかった。

1956年、日本で左翼運動を行ってきた者にとって衝撃的な事件が起きた。スターリン批判とハンガリー暴動である。労働者の祖国であるソビエトで、世界の共産党を指導する立場にあったソビエト共産党。そこで最高指導者として崇められていたスターリンが批判された。さらに労働者の天国のはずの社会主義国家ハンガリーで暴動がおき、武力で鎮圧されてしまった。加えて日本共産党もこれまでの武装闘争路線から穏健な路線に改めた。これまで信じていたものがガラガラと崩れ去った。

一部の人たちが、スターリンに批判されたトロツキーを読もうということで、日本トロツキスト連盟を組織した。これが中核・革マルの源流である。

その後、第四インターナショナルへの加盟の可否や産業別労働者委員会を中心とするか、地区党組織を中心に据えるかといった方針の違いから中核派と革マルに分裂した。

当初、人数で圧倒していた中核派は大衆運動に参加し、運動が高揚するに連れてどんどんと力をつけていった。一方、革マル派は大衆運動に参加するのが目的ではなく、革命を起こして労働者の国を建設するのが目的だという信念から、組織づくりに重点をおき、大きな運動を起こさなかった。そのため、数の上で劣勢に立たされるわ、中核派からは権力(警察)とつるんでいるから逮捕されないのだ、などと言われた。こうして止める者がいないまま少しずつ両者の軋轢が深まり、最初は角材だったものが鉄パイプ、爆弾へと血で血を洗う抗争になっていった。

冒頭の話は1968年6月8日のこと。1万2千人の左翼が結集して伊東警察署などを襲撃した。この闘争に参加するため、中核派が乗っていた電車が車輌ごと切り離されて、全員逮捕された。日本にも、45年前にそんな時代があったのだ。