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中国語でも美しい村上春樹のデビュー作

村上春樹著;賴明珠訳(2009)[1988]『聽風的歌』時報文化出版企業股份有

「嗯…你喜歡燉牛肉嗎?」
「喜歡.」
「我做好了,可是我一個人吃要一星期才吃得完,你要不要過來吃?」
「不錯啊.」
「OK,一個小時過來.如果遲到我就全部倒進垃圾桶噢,知道嗎?」
「可是……」
「我最討厭等人了,就這樣.」

(「うん…ビーフシチュー、好き?」
「好きだよ」
「私作ったの。でもね、もし一人で食べるとなると1週間くらいかかりそう。よかったら食べにくる?」
「いいね」
「OK、じゃあ1時間後に来て。もし遅れたら全部ゴミ箱に捨てるから。わかった?」
「でも……」
「私、人を待つのが一番いやなの」)
(本書 p.89)

「我常常想,如果能不麻煩任何人而活下去該多好.你覺得可以嗎?」
她這樣問.
「不曉得.」
「嘿,我有沒有給你添麻煩?」
「沒有哇.」
「到現在為止噢?」
「到現在為止還沒有.」

(「私はいつも思っているの、もし誰にも迷惑かけずに生きていけたらどれだけいいか、って。どう思う?」
彼女はこう聞いた。
「わからないね」
「ねえ、私はあなたに迷惑かけてる?」
「いいや」
「いまのところ?」
「うん、いまのところないよ」)
(本書 p.96)

このあたりの、彼女の不器用な性格に、ついつい惹かれた。

いわずと知れた村上春樹の『風の歌を聴け』の中国語版。台北で買った。日本語で読んだらあの美しさがわかるってのに、もったいないしあまのじゃくな話だ。

日本語のやつでこの個所がどうなっているか、調べてないからわからないけど、僕の表現力のイマイチさが明らかになった。

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レビュー 読売文学賞

適切さと美しさの間の悩み

米原万里(2010)[1998]『不実な美女か貞淑な醜女か』新潮社

通訳や言語の話を書いたエッセイ集。語学を生業にする人にとっては、とても面白く読める本。

著者の周りが特別なのかもしれないが、下ネタやダジャレがちりばめてあって楽しく読める。

通訳とは一言一句をすべて訳すのではなく、文意を伝えられればいいのだという点には目からうろこだった。日本の大学・大学院では一言一句もらさずに読むよう訓練されるので、驚きだった。もっとも、欧米ではもっとおおざっぱな読み方をするらしいことが、鈴木孝夫・田中克彦(2008)『対論 言語学が輝いていた時代』に書かれてある。

数年前のこと、耳を疑うような発言をした女性人気アナウンサーがいた。(中略)

「私たちは子供を国際人にしたいから、家では一切日本語をしゃべらないことにします。家ではすべて英語で話すようにする」

と自信満々に云いきったのだった。(中略)

自分の国を持たないで、自分の言語を持たないで、国際などあり得るのか。
(pp.279-280)

自身も帰国子女である著者のこの指摘は、大変興味深かった。

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言語学が熱かった時代を振り返る

鈴木孝夫、田中克彦(2008)『言語学が輝いていた時代』岩波書店

(田中) (前略)だから、最近は人間の屑がやるのが言語学だとつくづく思う(笑)。自分の土壌を持っていないんだもの。(本書 p.203)

(鈴木) だからもっと言語学者に自殺する人が出ないと、言語学は本物じゃないのではないか。詩人や絵描き、小説家はしょっちゅう自殺するのに、言語学をやって自殺した人が少ないのはどういうわけだって。(本書 pp.229-230)

本書が最初に出たことは、単なる二人の対談による回顧録かと思っていたけども、その認識を新たにさせられた。確かに、二人の世代しか語れない学者(高津春繁、服部四郎、亀井孝、泉井久之助、井筒俊彦等)の話もあって、その話も大変興味深かった。

やっぱりお二人は激動の時代を生きてきただけあって、田中克彦のエスペラントの話や鈴木孝夫の井筒俊彦宅での書生時代の話など、とても興味深かった。当時は言語学は他の分野を引っ張って行った時代の香りみたいなのを持っていたはずで、言語学者のロマン・ヤコブソンが音韻論の分析に用いた二項対立という概念を持ってきたレヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で構造主義ブーム(?)をうちたてたりした時代だった。

そうした時代の香りを知っているこのお二人からしたら、現在の状況は歯がゆいのかもしれない。日本の歴史の中で幸福な(不幸な?)言語学科が雨後のタケノコのようにできた時代もあったのに、今はその割りを食って言語学をやる人はそこそこいるものの、なぜか他の学問を引っ張るようなところまで行っていない。それをどう解決していくかは、今の言語学徒の課題だと思う。

これを機に、クロポトキンの相互扶助論が読みたくなった。いつか読もう。

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プロが教える外国語上達のコツ

千野栄一(1986)『外国語上達法』岩波書店

さて、中学、高校、大学と語学の習得に苦しみ抜いた私の方はどうなったであろうか。正直にいって、私はこれまで楽に外国語を習得したという経験は一度もない。現に今でも、苦しみながら新しい外国語に挑戦している。(本書 p.8)

考えてみると、英・独・ロシア・チェコ・スロバキアの五つの言語には翻訳されて活字になったものがあるし、外交官の語学養成機関である外務研修所で教えたことのある言語も、ロシア・チェコ・セルビア・ブルガリアの四つがあり、このほか大学では古代スラブ語を教えている。さらに辞書を引きながら自分の専攻の分野の本を読むのなら、フランス語、ポーランド語と、そのレパートリーは拡がっていく。(中略)しかし、何度も繰り返すようで恐縮だが、私は本当に語学が不得意なのである。(本書 p.11)

この本の著者は言わずと知れた言語学者、千野栄一である。最近では黒田龍之助などもそうだけど、スラブ系言語をやった人にはいろんな言語のできる人が多い。それぞれが近しい関係にあるので、一つをやれば後はさほど習得に困難が生じない、ということなんだろう(と言っても僕はスラブ系言語をまったく知らない)。そのため、千野栄一はあるいはポリグロットと言っても過言ではないと思う。

この本の中ではいろいろと述べられているが、語学上達に必要なのは辞書、学習書、教師であり、覚えるべきは語彙と文法とのことであった。独習者はいい教師に恵まれづらく、メジャー言語以外は日本語で書かれた学習書もないので、マイナー語をやるにもまずは英語やロシア語、中国語と言ったメジャー言語をやるしかない。

あと、一番大事なことが書かれてあった。それは「お金をかけること」。人間はとてもケチなので、お金をかけたら真剣になるということだ。だからシュリーマンは浮浪者に向かってヘブライ語を語りかけていたのか。

中身については啓蒙されることが多かったとともに、様々な言語学者のエピソードも面白い。もう全員が故人なので名前を挙げてもいいと思うが、S先生=木村彰一、H先生=高津春繁、R先生=河野六郎。この人たちはすごかったんだなあ、とまるで摩天楼を見上げる気持ちになった。

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サントリー学芸賞 レビュー

書の営みと試行錯誤の歴史

石川九楊(1990)『書の終焉 近代書史論』同朋社出版

実際にはこれまで一度たりとも真正面から近代書史が本当の意味で問われ、書かれたことなどなかったと言っても言いすぎではないように思う。(本書 p.5)

現代の書にとって可能なことは(中略)軟筆=毛筆の世界、その<筆触>を現在との同時性に近づけていくことではなかろうか。(本書 p.316)

久々にこのブログを更新する。

本書はこれまでほとんど顧みられてこなかった近代の書の歴史を構築することにある。書はその長い歴史を連ねてきたが、明治維新以降、近代に入ってからは急速に書史から姿を消す。その原因は、副島種臣や大久保利通といった政治家の書を傍流とし、あくまでも書家の書をメインストリームに置くという傾向にあったためだと著者は指摘する。

明治になってからというもの、変体仮名が小学校で教えられなくなったことにも遠因はあるが、硬筆やタイプライターの普及により、軟筆そのものが日本人にとってなじみの薄いものになってしまったことにも原因がある。

しかし、明治以降の書家の書にも、知られていないだけでみるべきところは多くある。あるいはみるべきところは多いのに、その見方のとっかかりを知らないため、何かなじみの薄いものになったという方がより適切かもしれない。

近代の書家も、書の新たな方向性を探るべく努力をしていた。構成された文字の要素たる字画を書くのではなく、書線を構成させることによって文字を生みだす方向に持って行ったり、あるいは文字そのものを素材として、筆蹟あるいは筆触を見せる方向に向かったり、はたまた文章そのものが醸し出す情感と文字を近づけてみたりと、様々な努力がなされている。

篆刻についても同様で、篆刻と言う限られた舞台の中で新たな方向性を探り、今はその限界にまで来て立ちすくんでいる。

本書ではそういった書や印の歴史と現在の(克服すべき)状況について、わかりやすく述べている。

個人的には日下部鳴鶴の大久保公神道碑が好きだけど、おそらく現代の書はそこには戻れず、新たな方向性を探るしかないのだろう。書はどういう方向に向かうのか、あるいはどういう書がこれからの世界を切り開くのか。

書に興味が持てるようになった。

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大きな物語崩壊後に成長するデータベース

東浩紀(2001)『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社

シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。(本書 p.140)

非常に有名な本。いわゆるサブカルチャーをする場合には非常に参考になる本。

かつては作品があれば作者が舞台とした世界があり、作者が書く(あるいは制作する)ものしか受け入れられなかった。一方、オタクと呼ばれる人たちは作者が書いたもののパロディ(あるいはオマージュ)として二次創作をおこない、それらも同様に受け入れられている。甚だしくは作者自身がパロディ作品を作ったりしている。彼らにとって大事なものなのは作者が舞台とした世界ではなく、作者の描いた要素(萌え要素)である。読者の喜ぶ要素を押さえていれば、それは受け入れられる。こうした状況を様々な材料からある要素を組み合わせて作るという点で、筆者はデータベース的であると分析する。

こうした考え方は非常に面白い。2000年代初頭にこの本が書かれているのだけれども、こういう視点から行われている分析というのはいまだにあまりないのではないかと思う。筆者はこれをポストモダン的社会の特徴であると述べているが、あるいはポストモダン的社会以外でも使えるのではないか。これは要素のブリコラージュで、データベース(大きな非物語)の中にあるそれぞれの要素を持ってきてくっつけて、作品(あるいは小さな物語)を作り出すという考え方は様々に応用できると思う。言語の分析においても、書かれたり話されたりしている言語(小さな物語)からその奥にある要素の海(大きな非物語)へのアプローチを行うという方向があってもよさそうだ。

ホンモノがなくなったポストモダン的時代での、非常に有力な社会分析のアプローチが本書では簡潔に、かつ興味深い形で呈示されている。

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柔軟な語られ方をする民族、ジェンダー

速水洋子(2009)『差異とつながりの民族誌 北タイ山地カレン社会の民族とジェンダー』世界思想社

人の命は、この世とあの世とを行き来すると考え、この世での死は、あの世での新たな誕生を意味し、逆にこの世での誕生はあの世では死を意味する。乳幼児の場合、この世だけではなく、あの世にも両親がおり、あの世から子供を呼び続けるのだと言う。(本書 p.173)

差異は権力関係の中から構築され、またその基盤ともなるが、その一方でつながり、関係性を築く契機でもある。(本書 p.284)

グローバル化へ向かう中で、タイの女性に向けられた他者化のまなざしが、内なる他者に対して繰り返されている。すなわち、先進国からタイへ向けられるまなざしの彼方に山地民族がいる。(本書 p.284)

本書は題名のとおり、タイ北部のカレン族の村をフィールドとした民族誌である。民族という枠と、ジェンダー/セクシュアリティという軸で、人たちの生き方を分析している。

特に結婚などの儀礼を中心に、男女がどのような役割を担い、その儀礼をどう行っていくか。そしてこと結婚に関しては、民族の違いがどのように語られるか。また子供たちがどうやって大人の男女に成長していき、大人がどう自らの子供時代を振り返るか、という点からカレンの人たちの民族やジェンダー/セクシュアリティとのつきあい方について迫っている。

現在、民族という概念の再検討が問題になっている中で、彼らの語りに注目して民族がどう語られ、どう扱われるかを見ている点が、興味深かった。結婚については、カレンはカレンの、他の民族は他の民族のやり方があるので、異民族と結婚したカレンが結婚する際には、本来はカレンの結婚式を行うべきだが、それが「花婿が北タイ人だから」という理由である程度、妥協される。その北タイ人でさえ、「あの人はカレンの村出身だし、カレンだから」という理由で結婚が認められている。

そうやって民族が語られ、民族の文脈との関わりでジェンダーが語られ、儀礼のやり方が決められる。これは非常にダイナミックでおもしろい。

松村(2008)は全く違う分野の(といっても同じ文化人類学だが)民族誌だが、そこでも様々な参照枠をその都度その都度参照し、土地や商いをやっているエチオピアの人々の例が出されている。近代科学の公準の一つである経済性の観点から見たら、いくつもの参照枠があるのは科学的ではない。だけど、おそらく一つの参照枠を使い続けるといつか破綻し、その破綻が集団に危機をもたらすと言うことをわかっているからこそ、様々な土地で未だにいくつもの参照枠を使うという事例が残っているのだと思う。

こうした「参照枠のブリコラージュ」は本当に興味深い。

本書を読んで、つい20~30年前までタイにも「日本との距離を想像することも難しかった」(本書 p.309)場所があったことも初めて知った。

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夢見の訓練を通して全てを悟る

カスタネダ, カルロス 青木保監修・名谷一郎訳(1993)『未知の次元-呪術師ドン・ファンとの対話-』講談社

 もうすっかりメスカリトの話は出てこなくなってしまった。カスタネダシリーズの第5弾。

 本書でドン・ファンは訓練の一端として、カスタネダに夢見の技術を教える。それはたまに手を見つめる、という訓練だった。手をみて、また別の対象をみて、それから目をまた手に戻す。それを繰り返す訓練をしていた。 これもカスタネダ関連の書籍ではよく言及される話なので、興味深かった。
 あとがきで青木保(文化庁長官)もすこし言及しているように、これはどちらかというと最初のフィールドワークっぽい作品から、明らかに文学っぽい作品へとシフトしている。そして、どうも真実味はないらしい。ということまで明らかにされている。

 だとしても、本書は読むに値する。なぜなら、ここですべての謎がわかるからだ。これまでの訓練の話も、師匠と恩人の話も、そして航空会社の支店に入ったらなぜか市場に出ていたというのも、すべてが一本の線で結ばれる。

 その答えはトナールとナワールにある。ドン・ファンにとっては世界はトナール(理性)の島であり、その島の配置を換えることが師の役割だという。ナワールはトナールの周りに控えているもので、これが理性以外の世界にあたる。カスタネダはずっとトナールの世界に籠絡され続けていたが、これまでの14年間に及ぶ修行で、ようやくトナールとナワールの両方を扱うことができた。

 ナワールの世界は楽しく、戻って来たくなくなるかもしれない。そこで戻ってくるにせよ、戻らないにせよ、それは戦士の選択である。とドン・ファンはいう。戻ってこれなかったら、もうそれはこの世では死んだことになる。彼がいつも死ぬ覚悟で臨めというのは、ここでも現れている。

 最後、カスタネダはナワールの世界に旅立つのだが、戻ってきたかどうか、その行方は杳としてしれない。

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呪術師になった後の世界

カスタネダ、カルロス 真崎義博訳(1974)『呪術師に成る-イクストランへの旅-』二見書房

「それがどんな決断かなんてことは問題じゃない」彼が言った。「どんなことだってほかのことより重大だとか、そうでないとかいうことはないんだからな。わからんのか? 死が狩人であるような世界では、決断に大小なぞないんだ。避けられない死の面前でする決断しかないんだよ」(p.74)

死というものを意識して、人生をどう生きるか。これがドン・ファンのいう戦士の生き方だ。つい人生が永遠であると勘違いしそうな我々だが、戦士は一瞬一瞬に命をかけて生きる。

本書はカスタネダシリーズの第3弾。主に「世界を止める」ということについて話が広げられていく。ここで言われている「世界を止める」というのは、いつもと違った見方をし始めたら、それを無理矢理理性で理解しようとせずに、そのままの世界を受け止め続ける、という意味らしい。

本書では、真っ暗な中を歩く(走る)方法として、中沢新一の『チベットのモーツァルト』に出てきた風の行者の話とそっくりな「力の足どり」というものが出てきた。これは非常に興味深い。人間の身体のふしぎさを感じる話だと思う。

そうして、ドン・ファンの指導によってどんどん新たな身体の地平を切り開いていくカスタネダの成長がおもしろい。

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心身二元論の根源

デカルト, ルネ(谷川多佳子訳)(2007)『方法序説』岩波書店

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(本書 p.46)

したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(本書 p.47)

最近(といってもここ数十年だけど)、デカルト的心身二元論を克服すべく、いろいろな学者が頭をひねっている。古くは井筒俊彦の『意味の深みへ』にも見られるし、近年ではIngold, Tim (2000) The perception of the environment: essays on livelihood, dwelling and skill. Routledge.にも見られる。もっとも、前者も後者もデカルトを批判しているのではなく、欧州に古くからはびこるこうした二元論を克服しようとしている。

Je pence donc je suis. (羅: Cogito ergo sum) はやたら有名な言葉だけど、その真意は本書を読んで初めて知った。

デカルトはまずすべてを疑うところから始めた。そして一から新たな真理の体系を作り出していこうと考えた。そして、これまで他人が証明し、正しいと学んだことをすべていったん保留し、もう一度自分で確かめていこうと決めた。

たとえば、いまいるこの世界について考えてみる。たとえば夢の中では、我々は夢だと気づかない。夢の中の世界を、まるで現実の世界のように感じる。でも、夢の世界は現実じゃない。逆に、現実のように感じられるこの世界も、夢のようにはかないものかもしれない。

そうして周りのものをすべてを疑って、疑って、疑い続けても、唯一疑いえないものが残る。それは「考えている自分がここにいる」という事実である。この宇宙と別の宇宙を考えることもできるし、自分のいない世界を考えることもできる。でも、考える自分のいない世界を考えることはできない。

だからデカルトは、それを哲学の原理の一つとすることにした。すなわち、身体は疑うことができても、考える自分(心)は疑うことができない、ということで、ここに心身二元論が明確にうち立てられている。

デカルトにとっての真理の探究とは、すなわち神によってつくられた自然法則の発見にあったようだ。真理を発見しない限りわかっていない人間は不完全な存在で、逆にそうした真理を世界にちりばめた神こそ、完全な存在である。こうした考え方が非常に欧州っぽい。後年、ニーチェが神を殺すことによって、この前提は覆される。

心身二元論、動物と人間との区別、そうしたものが100ページ程度の本書に明快に述べられている。アプローチの違いはあれども、真理の探究という学問の志向自体は変わってない。