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日本語の起源はウラル・アルタイ語?

田中克彦(2021)『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』筑摩書房

大野さんの著書にはよくあることだが、その節の提唱者、発明者のことに触れられることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどんと話が進められるのである。だから大野さんの話はしろうと受けしやすいのである。

本書 p.156

日本語のように、「持っている」ではなくて「だれだれには~がある」という言い方をするきわめて多くの言語があり、ウラル・アルタイ語族のすべてがhaveではなく、「ある」という言い方を共有し、それが覆う地帯は、ユーラシアの半分以上を占める。

本書 p.186

御年88歳の言語学者、田中克彦の新書です。おそらくは口述筆記に典拠資料を加えたものだと思いますが、それにしてもこの年で新たな本を書くバイタリティは尊敬に値します。

本書で主なターゲットとなっているのは印欧語比較言語学です。印欧語の比較言語学はラテン語のような屈折語こそ発達した言語とし、中国語のような孤立語はまだ未発達な言語で、最終的には屈折語に行きつくという前提を持っています。印欧語の祖語の推定は音をもとにした再建で行っていきます。

これに対し、田中は異を唱えます。ウラル・アルタイ語が持つ特徴と、語族ではなくそうした特徴を共有する言語同盟こそがもっと注目されるべき、という意見です。

例えば上述の引用に書いたように、日本語をはじめとするウラル・アルタイ語やロシア語ではhaveにあたる動詞を印欧語ほど使いません。「私は辞書を持っている」ではなく「私には辞書がある」という言い方をします。こうしたものの考え方の共通点こそ、言葉の真相に潜む類縁性に迫る可能性があるのではないかと指摘します。

私もその点については賛成で、もっと累計論的立場から言葉を深く掘り下げていってもいいような気がしますが、日本の学界では日本語の起源の問題などはあまり論じられていないようです。

そもそも、田中は専攻したモンゴル語のほかにロシア語、留学したドイツ語、さらにエスペラントができますが、近年はここまでできる学者は少なくなってきています。それが類型論を語る人の少なさにもつながっている気がしてなりません。

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コセリウの考えを知るために

エウジェニオ・コセリウ著/田中克彦・かめいたかし訳(1981)『うつりゆくこそことばなれ』クロノス

構造主義は変化(改新の拡散)を転化(別の構造による構造の置き換え)と同一視し、古いのと新しいのとの二つの構造がならび存しているすべての中間段階を無視する。(本書 p.178)

ソシュールの中には、(中略)数々の矛盾ともめぐりあう。これらの矛盾は、かれの採った観点に起因するばかりではなく、かれの学説のいくつかの本質の側面からも生じてくるのである。すなわちa)いたずらに言語の状態と言語そのものとを同一視してしまったこと。b)言語を「出来上がった体系」、つまりエルゴンとする考え方、さらにc)言語をデュルケーム的な「大衆」というつかみようもない雲の上に追いやってしまったことである。それはプラトン主義を一まわり小ぶりにした亜流であり、これによって言語と具体的な言語活動との分離がもたらされた。(本書 pp.206-207)

ソシュールは、ラングはパロールを通じて変化するものだと教え、さらに、変化の初発の瞬間は「採用」だと見ている。それにもかかわらず、(中略)ラングの中には「状態と状態との間に生ずる変化の居場所はどこにもないのである。(本書 p.209)

共時態を無視することは、まさに時間の中に継起するところの言語を無視することになり、対象の外に立つことを意味するからである。部分は全体から、一段階は全過程から切り離すことができるのと同じ意味で、言語史の一時点は、他の時点を考慮することなく記述できる。しかし、全体の記述は部分を無視することはできないし、過程の記述は、その一つ一つの段階を無視することはできない。おなじくまた「体系化」の研究は、まさにこの体系化そのものの各瞬間を無視し得ない。(本書 p.230)

英語で論文を書かなかったせいか、英語圏ではあまり有名でないらしいコセリウの著書。日本では有名なはず。

本書は題名からわかるとおり、エネルゲイアとしての言語について焦点をあてたもの。すなわち、言語は完成された動かないものではなく、常に変わりつつあるものであるという、フンボルトのあの考え方を念頭に置いたものだ。

ソシュールやメイエといった有名な文法家たちの考え方を批判し、彼らの考え方の齟齬と、あるべき見方について論じられている。具体的には

  • ソシュールはラングを重要視したが、本来重要視されるべきはパロールとその集合体であるランガージュであること
  • ソシュールの提示した共時的と通時的な分け方は、あくまでも分析ためであって、言語がそのような二面性を持っているわけではないこと

である。

前者については最近のマクロは本当にあるのかという議論にも通じるし、実態として把握できるのは実際に話されている言語であり、言語の変化を決めるのはその言語の話者たち(ランガージュの担い手たち)であるという指摘はもっともである。

後者の視点は、とても面白い。これはトマス・クーンの『科学革命の構造』でも論じられていたけども、変化とはじわじわ起こるものではなく、ある時急に起こる。それは科学のパラダイムにしても、言語の構造にしても同じである。この点を指摘したコセリウは見事だし、やられた、と思った。

多くの言語学者は言語の変化をゆっくりと漸進的に行われると思っているのだが、それは実は違う。日本語も七つか八つの母音があったのが、いまの五つの母音になったのは、徐々に二つの母音が一つに融合していったのではない。おそらく六つの母音の体系が出現し(改新)、しばらくは六つの母音の体系と以前の体系が併存していたが、ある瞬間に大多数の話者が六つの母音の構造を選択し(拡散)、構造の変化が起こったのだろう。現にコセリウはヨーロッパの言語の音韻構造を持ち出して、その実例からこの理論を導き出す。しかし逆は必ずしも真ならず。たとえある時代のある言語で二つの母音が融合したからと言って、同じ二つの母音が存在する言語において、同じく融合するとは限らない。ただ、融合する可能性があると指摘できるだけだ。

そう考えると、結局比較言語学って何なんだろう。言語の変化の道筋を描いてきたけれど、それは単に可能性の指摘だった。やるべきはやはりサピアの言ったように、ドリフト、すなわち改新と選択の志向を探り当てることなのだろう。

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言語学が熱かった時代を振り返る

鈴木孝夫、田中克彦(2008)『言語学が輝いていた時代』岩波書店

(田中) (前略)だから、最近は人間の屑がやるのが言語学だとつくづく思う(笑)。自分の土壌を持っていないんだもの。(本書 p.203)

(鈴木) だからもっと言語学者に自殺する人が出ないと、言語学は本物じゃないのではないか。詩人や絵描き、小説家はしょっちゅう自殺するのに、言語学をやって自殺した人が少ないのはどういうわけだって。(本書 pp.229-230)

本書が最初に出たことは、単なる二人の対談による回顧録かと思っていたけども、その認識を新たにさせられた。確かに、二人の世代しか語れない学者(高津春繁、服部四郎、亀井孝、泉井久之助、井筒俊彦等)の話もあって、その話も大変興味深かった。

やっぱりお二人は激動の時代を生きてきただけあって、田中克彦のエスペラントの話や鈴木孝夫の井筒俊彦宅での書生時代の話など、とても興味深かった。当時は言語学は他の分野を引っ張って行った時代の香りみたいなのを持っていたはずで、言語学者のロマン・ヤコブソンが音韻論の分析に用いた二項対立という概念を持ってきたレヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で構造主義ブーム(?)をうちたてたりした時代だった。

そうした時代の香りを知っているこのお二人からしたら、現在の状況は歯がゆいのかもしれない。日本の歴史の中で幸福な(不幸な?)言語学科が雨後のタケノコのようにできた時代もあったのに、今はその割りを食って言語学をやる人はそこそこいるものの、なぜか他の学問を引っ張るようなところまで行っていない。それをどう解決していくかは、今の言語学徒の課題だと思う。

これを機に、クロポトキンの相互扶助論が読みたくなった。いつか読もう。