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サントリー学芸賞 レビュー

書の営みと試行錯誤の歴史

石川九楊(1990)『書の終焉 近代書史論』同朋社出版

実際にはこれまで一度たりとも真正面から近代書史が本当の意味で問われ、書かれたことなどなかったと言っても言いすぎではないように思う。(本書 p.5)

現代の書にとって可能なことは(中略)軟筆=毛筆の世界、その<筆触>を現在との同時性に近づけていくことではなかろうか。(本書 p.316)

久々にこのブログを更新する。

本書はこれまでほとんど顧みられてこなかった近代の書の歴史を構築することにある。書はその長い歴史を連ねてきたが、明治維新以降、近代に入ってからは急速に書史から姿を消す。その原因は、副島種臣や大久保利通といった政治家の書を傍流とし、あくまでも書家の書をメインストリームに置くという傾向にあったためだと著者は指摘する。

明治になってからというもの、変体仮名が小学校で教えられなくなったことにも遠因はあるが、硬筆やタイプライターの普及により、軟筆そのものが日本人にとってなじみの薄いものになってしまったことにも原因がある。

しかし、明治以降の書家の書にも、知られていないだけでみるべきところは多くある。あるいはみるべきところは多いのに、その見方のとっかかりを知らないため、何かなじみの薄いものになったという方がより適切かもしれない。

近代の書家も、書の新たな方向性を探るべく努力をしていた。構成された文字の要素たる字画を書くのではなく、書線を構成させることによって文字を生みだす方向に持って行ったり、あるいは文字そのものを素材として、筆蹟あるいは筆触を見せる方向に向かったり、はたまた文章そのものが醸し出す情感と文字を近づけてみたりと、様々な努力がなされている。

篆刻についても同様で、篆刻と言う限られた舞台の中で新たな方向性を探り、今はその限界にまで来て立ちすくんでいる。

本書ではそういった書や印の歴史と現在の(克服すべき)状況について、わかりやすく述べている。

個人的には日下部鳴鶴の大久保公神道碑が好きだけど、おそらく現代の書はそこには戻れず、新たな方向性を探るしかないのだろう。書はどういう方向に向かうのか、あるいはどういう書がこれからの世界を切り開くのか。

書に興味が持てるようになった。