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正倉院の拝観が従五位以上に限られていた頃

桑原武夫(1958)『この人々』文藝春秋新社

彼(筆者註:西堀栄三郎)のお母さんは出産日、二階で急に産気づかれ、下におりようとした階段の半ばで彼が生まれ、下まで転げ落ちたが全く負傷しなかったというのは事実である。(本書 p.28)

湯川秀樹君や朝永振一郎君は教授であるかぎり(学長はべつ)、何べんノーベル賞をとっても、死ぬまで月給で私を追いぬくことはできないのである。私の方が卒業年次が早いからだ。(本書 p.108)

京都学派の中心人物である桑原武夫のエッセイ集だ。題名にそぐわず、人々との思い出は主に前半で語られ、後半では大学論や日ソ交渉、共産主義についての簡単な論考などが収録されている。

現代から見ると日ソ交渉や共産主義などは完全に過去の話になってしまっているため、特に見るべきところはない。また、美人観の調査などは祇園の芸者が好きだと全近代的、欧米の女優が好きだと近代的だ措定して、どの職種がどれだけ近代的かを測っている。中身も調査の方法も、あまりにも素朴で現代の感覚からはズレている。それが許容された時代もあった。また大学教員の給料の安さを嘆き、自分は月給4万円だと講演で話した。聞いていた人々に月給2万円以上ある人は2、3人しかいなかった。こんなズレが許容された時代なのだ。

本書で面白いのはやはり人々のエピソードだ。第一次南極観測隊に参加し、越冬隊長の任についた西堀栄三郎の母は出産日、二階で産気づいて降りようとした階段の半ばで栄三郎を産み、転げ落ちた栄三郎は怪我一つしなかったというエピソードや、湯川秀樹の弟、貝塚茂樹はスポーツマンタイプで怒ったり泣いたりした姿を見たことがない、四十年以上付き合っても分析しきれない人物だったなど、興味深い話題が並んでいる。

同時に、当時の感覚がわかる話もある。大学論については、今は欧米に追いつけ追い越せとなっているが、当時の著者の意見は、日本は欧米ほどの先進国ではないのだから、欧米と同程度を目指さなくてもよいというものだ。後進国ではないが中進国ぐらいだから、身の丈にあった施策を取りなさいといっている。今は失った感覚だ。

さてタイトルのお話。昭和4年、桑原が大学を出て第三高等学校(三高)の講師になったとき、教員室の黒板に「正倉院拝観希望の方は事務室まで」と書いてあった。事務室に行くと「拝観資格は従五位以上ですよ」とにべもない答え。そこにたまたま通りかかった当時の校長、森外三郎が「右ノ者高等官ニ非ルモ美術文芸研究殊更熱心ナルニ付」から始まる「正倉院特別拝観願」という文章を宮内大臣宛に一筆書いてくれた。一週間後、宮内省から許可証が届いた。そんな、末席の講師までにも面倒をみる校長が率いた第三高等学校の雰囲気を伝えている。かつてのエリート校の雰囲気が分かる、貴重で秀逸なエッセイだ。

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知りすぎることの良否を知らない人類

野崎まど(2013)『know』早川書房

「(前略)学者の方からは非難される行為なのかもしれませんが、保管庫は思想そのものが違うのです。保管庫の思想とは”現物を、変化なく残すこと”です。古事記の冒頭にも記されていますが、記録という行為には必ず誤りが生まれます。複製からも再編からもエラーを取り除くことはできません。最初に作られたものを、最初の形のまま残す。守るために外部との接触を断つ。それが保管庫の思想なのです。(後略)」(本書p.265)

2014年のSF大賞にノミネートされた本書は、2081年の京都を舞台に「知る」ことをキーワードに展開していく物語だ。

その頃の京都は超情報化対策として、人造の脳葉「電子葉」の移植が義務化されている。また、街中の道路や建築物も情報材でできている。だからすべての人がタグ付けされ、ありとあらゆる情報がすぐに取り出せるようになっている。この社会インフラを作ったのが京都大学の研究者、道終・常イチ。彼はひと通りのことをやり終えると姿を消した。情報庁の官僚、御野・連レルは恩師である道終・常イチの後を追うべく、情報庁の官僚となって高度な機密にアクセスできる権限を得る。道終・常イチがコードに埋めたミスが自分へのメッセージだったことに気づいた彼は14年越しに暗号を解いた。

そこにいたのは14歳の少女だった。

翌日から、少女との不思議な4日間が始まる。「電子葉」をつけた二人は京都の禅寺・神護寺や京都御所など、「情報化」されてない場所に行き、「情報化」されてない知識を得る。森羅万象の知識を得るのは、あることを知るための手段に過ぎなかった…

情報をどう処理するかは、情報化社会を生きる我々にとって大きな課題だ。web2.0やビッグデータといった言葉が流行ったが、結局情報を上手に使いこなせていない。情報を使うとはどういうことか、自らの処理量を上回る情報を手に入れて何をするのか。情報とのつきあいかたを考えるにも本書の視点は参考になる。

同様に京都を舞台にした人工(知)脳の話としては鳥羽新の『密閉都市のトリニティ』があるが、こちらのほうがあっさりして読みやすい。まずは本書を読むのがオススメだ。

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世界的な知性が歴史の転換点に直面したら

カール・マルクス著 植村邦彦訳(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界指摘事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。(本書 p.15)

分割地農民の間には局地的な関連しか存在せず、彼らの利害の同一性が、彼らの間に連帯も、国民的結合も、政治的組織も生み出さないかぎりでは、彼らは階級を形成しない。だから彼らは、自分たちの階級利害を、議会を通してであれ、国民公会を通してであれ、自分自身の名前で主張することができない。彼らは自らを代表することができず、代表されなければならない。(本書 p.178)

マルクスのジャーナリスティックな本としては有名な本書は、ジャーナリスティックな側面と思想的な側面で高い評価を受けている点で異色の本だ。

古典に秀で、ヘーゲルなどの哲学を読み込んでいたマルクスがフランスの政変に際して書いた評論である。弱冠30歳で目の当たりにしたクーデターを論じた本が150年を経た今でも読み続けられている。人によって様々な読みを可能にしており、古典的名著の定石を踏んでいる。

本書の評価は様々だ。おそらく最も有名な2箇所が上記で引用した部分だろう。マルクスは全編を通じて、なぜルイ・ボナパルトがクーデターを成功させたのか、その社会的、制度的条件や当時の情勢などを、時には深読みではないかと思うぐらいの深慮でもって分析する。資本論で見られる、ひとつの現象をひたすら深く考えぬくマルクスの姿勢が出ている。上記に引用した箇所も深読みではあるが、正鵠を射た分析を行っている。

今回紹介した平凡社版では巻末の解説を柄谷行人が書いている。60年ごとにやってくる「抑圧されたものの回帰」を読み解くには、1870年代の空気を知る必要があり、マルクスによって書かれた本書は非常に有用だと述べている。1990年代という時代を分析する手がかりとしても重宝されていたことが分かる。

サイードが引用し、レヴィ=ストロースが知的刺激を受けるために毎日数ページずつ読んでいたという本書を通して、数百年に一人の天才の早熟も理解できる。

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大学教授も気楽じゃない

今野浩(2013)『工学部ヒラノ教授』新潮社

どこでもそうだが、私立大学の場合は、1人の教官が面倒を見る学生数は国立の約3倍、講義負担も2倍以上である。国際水準の研究者を目指す者にとって重要な事は、研究時間が確保されることである。(本書 p.24)

企業に勤める友人に比べると、工学部平教授の給与は少ない。東工大を停年で辞めた時のヒラノ教授の給与は1000万円少々、つまり35歳の駆け出し判事の3分の2、30歳の銀行マンと同じレベルである。(本書 p.218)

筆者は東大卒業後、民間に勤めてから筑波大から東工大を経て中央大と渡り歩いてきた工学系研究者だ。文系教授の大学暮らしを描いた『文学部唯野教授』の向こうを張って理系教授の暮らしを描いたのが本書だ。

工学出身の人の対応を見ていると文科系出身の自分との違いに驚くことがある。彼らは忙しいにもかかわらず、まず仕事を断らない。こちらが勘ぐってしまうぐらい、仲間を褒め称える。本書を読んでその謎が氷解した。「工学部の教え七ヶ条」を読むと納得。七ヶ条にしたがって動く、という行動原理だけではなく、ヒラノ教授は更に一歩進んで、それぞれの条項がなぜあるのか、どういう意味を含んでいるのかをわかりやすく解説してくれる。

工学の人たちが仕事を断らないのは、仕事を任せてくれる時点で信頼されている証であり、チームプレーの多い学問分野なので断らないほうが後々得策だから。仲間を褒め称えるのは、学生の場合はそんな研究をさせた教官が責任を問われるべきだし、研究者でも二流だって食っていける分野だからだ。一方で文科系は食っていくのは厳しいから、研究発表も厳しく見られる。膝を打つ名解答だ。

さらに進んで、現役の研究者にはありがたい(?)研究費申請の内幕や経費の使い方についてまで暴露している。申請書は丁寧な字で書いて最後まで埋めること、すでにやってしまった研究をこれからやるように装うこと、などだ。

ただ、一つ感心できなかったのは、開き直りが見られる点だ。単年度で使いきらないといけない国の予算の使い勝手の悪さを嘆いたり、業者への偽装発注を通した預け金が当時は当たり前だったなど、シャレにならない暴露まで書かれている。法や省令に触れるし、それなりの地位まで出世して学長から文部省(文科省)にまで顔が利くようになった著者なのだから、制度を設計している側に直接言って変える方向で取組めたはずだ。佐藤優のように詫びるでもなく、自らの非は棚に上げ、世間の関心を誘うのはフェアではない。

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生物の分類は科学を超えなきゃ成し得ない

池田清彦(1992)『分類という思想』新潮社

分類することは思想を語ることであり、歴史主義的な分類体系は、歴史主義者の思想にすぎない。生物の歴史を探る試みが立派な研究課題であることは認める。しかし、歴史で分類をしなければならないという思想はやはり本質的な意味で倒錯である他はない。(本書 p.144)

私が依拠する立場は極めて単純だ。分類はいずれにせよ、人間が行う営為の一つである、ということだ。すなわち、すべての分類は人為分類である。従って、すべての分類は本来的に恣意的なものである。(本書 p.214)

知的刺激に満ちた本だ。

分類が思想にすぎず、必ずしも我々の認識を反映させているとは限らないことを、生物の分類をもとに明らかにしている。

生物の分類の祖はアリストテレスだ。彼は歴史上初めて、動植物の分類を行った。続いて画期的な成果を上げたのが植物の分類の祖、リンネだ。彼の発明した二名法により、種や属といった階層が設定された。

そうした素朴な分類のうちはまだよかったのだが、生物学の研究が進むにつれて分類方法も複雑化してくる。ある者は形質的な特徴を元に、また別の者は進化の分岐を元に、生物の分類を試みた。

しかし、いずれも完璧な分類ではない。確かにDNAやミトコンドリアの親疎関係から「科学的」に分類をすることはできる。だけど我々の認識と合わない。カエルはイモリよりもドジョウと近い、といった結果が出てしまう。分類は我々の認識(コトバ)に合わせるために行うのに、認識と合わない分類に何の意味があるのか。

著者は我々の認識に合う分類を提案する。生物は動的平衡で時間とともに変化する(オタマジャクシは1ヶ月したらカエルになる)が、科学は変化しないもの(三角形は1か月後も三角形だ)を扱う。時間が作用する進化や分岐という概念を含んだ生物を、本来的に時間を語りえない科学を用いて分類する。不可能な命題に挑む著者が結論を出すところが本書の一番の見どころだ。

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オールマイティーなリーダーになるための導きの書

佐藤優(2014)『「知的野蛮人」になるための本棚』PHP研究所

私から見て、一番の「本読み」は、松岡正剛氏です。それから、斎藤美奈子、鹿島茂、立花隆、佐高信の各氏。こうした「本読み」の書いた読書についての本をきちんと読んだほうがいい。(本書 p.8)

図書館は使わないほうがいいと思います。お金はかかりますが、本は本屋で買うことです。(本書 p.15)

出世したかったら『読書の技法』、楽しい会社員生活を送りたければ『人に強くなる極意』を読めばいい。すると本書は?
『読書の技法』に近いですね。(本書 p.334)

『野蛮人の図書室』の改題、再編集。前後に対談が加わっているので、本書の位置がわかりやすくなった。

婚活、労働、そば、ビールからロシア情勢まで、様々の身近なテーマを理解するための導きの手として2冊の本を紹介していく。

本書の目的は「出世したかったら読むべし」と書いてあるとおり様々な出来事に対応できる力の付け方を教えることだ。それにはまず、本書に書いてある出来事を検証できる力をつけたらよい。

冒頭に書いてある本読みを見習うことについては賛成だが、初心者には少し雑だ。松岡正剛、立花隆、佐高信、斎藤美奈子、鹿島茂の5人は確かに本読みだが読み方が違う。読書量や出世のためだったら松岡や立花を読めばいいと思うが、本を読む楽しみを追求するなら鹿島や斎藤がおすすめだ。松岡や立花はすごいし圧倒されるけど冷静に読める。鹿島と斎藤はその熱意に引き込まれて面白そうな世界をもっと見たいと近寄ってしまう。そんな差がある。こうした説明をどこかで少ししておいたら親切に思う。

また、本書で著者は図書室の司書という役割で出ている。図書館は使わない方がいい、と言っておきながら。ここは本屋の店主にでも扮して「ということは…?」「この本も買って読みなさい、ということです」と言ってオチをつけたらよかったのに、と思ってしまった。

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特捜部に逮捕された二人が教える逆境を勝ち抜く方法

佐藤優・石川知裕(2014)『逆境を乗り越える技術』ワニブックス

佐藤
とにかくどこでプライドを捨てるかというと、住居で捨てないといけない。というのも、日本は異常に住居費が高くつくから。(本書 p.142)
佐藤
(前略)年収2000万円以上稼がなかったら、彼ら(東京地検特捜部)は来ません。あるいは政治家にならなきゃ来ません。
石川
本当にそのとおりですね。だいたい捕まる人というのは企業でも決まっていて、中枢のラインにいる人ですよ。これは仕事ができる人間だから捕まるわけで。もしくは目立つ人ですよね。
佐藤
年収300万円から500万円の間で、どこか郊外の小さな住宅から一時間半ぐらいかけて通勤している人間というのは、絶対捕まりませんから。
石川
でも、もし捕まったら、発想の転換をしないといけません。捕まったときは左遷されたりレールから外されたりします。(本書 p.79)
石川
何気ない発言も敏感になっていて、イラッとしたりするときがあるんですよ。それでも心の底では友達からの連絡を待っているものです。大切な友達が逆境に陥ったら、連絡をしてあげたほうがいいですね。(本書 p.240)

東京地検特捜部に逮捕された二人が語る逆境の乗り越え方。普通の人にはできない体験をして見事返り咲いた二人だからこそ、言葉に重みが出る。

東京地検特捜部や国税庁、公安委員会などにやられると、もう二度と前までのペースでは仕事ができなくなる。だけど潰されてはたまらないので、生き残る方法を考えないといけない。佐藤・石川の二人は局地戦で戦い、生き残る方法を編み出した。

石川は聴取のときにこっそり録音をして、調書と取り調べが違うことを明らかにし、無罪を勝ち取った。隠し録音をするというアドバイスは佐藤の入れ知恵によるものらしい。意外なところで二人はつながっていたのだ。

二人の話し合いは決して対岸の火事ではない。我々の身にも起こりうることだ。学校や職場の派閥争いに巻き込まれたり、そうでなくてもうつ病になってしまいそうな環境にさらされることだって、人生に何度か訪れる。そんな時にも冷静に自分の立ち位置を見つめ、どの部分なら勝てるか、どうやって今後生き延びることができるのかを考えるべきだ。

そんなとき友人が一番助けになると意気投合する二人。いざというとき強いのは人と人とのつながりだ。