千野栄一(1999)『ことばの樹海』青土社
ある言語には数詞が五までしかないというと、そんな未開な、とくる。(中略)〇と一しかない野蛮(?)な言語が、コンピューターの言語であるというのは何としても皮肉なことである。(本書 p.77)
文化を発展させていくために必要である多様性が、一つの言語が消えるたびに失われていくのである。もしこのことの意味がよく理解できたなら、次の世紀に行うべき言語学の作業はなにであるかはおのずから明白で、言語の死滅を防ぎきれないとすれば、せめてその姿を書きとどめておくことである。(本書 p.249)
言語学界きっての名文家であった千野栄一のエッセイ集。言語の多様性、いろんな言葉に興味を持っている人にはぜひお勧めの本。
このころの言語学者は危機言語(消滅の危機にひんした言語)に興味を持ち始め、まずはそれらを記述することが大事だと喧伝した。しかしポスドクの失業問題が明らかになると、就職率の問題から言語屋は大体英語か日本語か第二言語習得(教育)に逃げてしまい、本当に根性のある者か何も考えてない蛮勇のある者しか、危機言語の世界に飛びこんだ若者はいない。
確かに言語の多様性を記述するのは大事だけど、未開の言語でヘーゲルが翻訳できるか、と言われたら、必要があればできるようになる、と書いてあるのだから、未開の言語が消えたとしても、人は必要があれば既存の言語から所与の環境で行きぬくように作り替えていけるはずだ、という強弁も出したくなる。
本当は人の言語は多様で、その中に色々な叡智が集積されており、それを共時的、通時的にみることによって言語の何たるかに肉薄できるかもしれない、という点がポイントなのに、そこを押し出し切れていない。
言語を含む生活を変えて人間たるものの本質を変えようとしたコメンスキーに着目したり、二十一世紀に言語学の課題になる分野に言及したりと、その慧眼には恐れ入る。
指摘されている通り、ピジンやクレオールとともに、言語の分裂は記録されたが、コイネーにおける方言レベル以外では言語の同化は記録されていないというのは勉強になった。研究したいと思った。