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サントリー学芸賞 レビュー

機械語と自然言語の包括的分析

田中久美子(2010)『記号と再帰 記号論の形式・プログラムの必然』東京大学出版会

二元論では使用は記号モデルの外に配置され、使用によって生成される記号の意味は記号系の全体論的価値を為した。一方の三元論では使用は記号モデルの内側に含められた。(中略)二元論では、記号はよその記号から呼ばれ、呼んだ記号がまた別の記号から呼ばれることを繰り返して記号過程が生成されたのに対し、三元論では、記号の解釈項を自身が呼び、解釈項がさらに記号を為すのでさらにその解釈項を呼び、というように記号過程が生成された。(本書 p.78)

構造的な記号系では意味が明示的ではないため、記号の意味はいつもある程度曖昧であり、他の記号との重なりもある。(中略)したがって、ある記号が一つ削除されたからといって、すべての系が動かなくなることはなく、同じとまではいかなくとも、補強を要しつつも何とか系全体が動き続ける。一方で構成的な記号系では、記号は投機的に導入されても最終的には明示的で曖昧性のない内容となるように導入されなければならない。(本書 p.183)

本書はプログラムに用いられるような機械語を通して、元来おもに自然言語の俎上でしか論じられてこなかった記号論の新たな世界を切り開いた。2010年度のサントリー学芸賞受賞作であるが、その評でも少しふれられているとおり、本書は従来の区切りからすると理系の本である。参考文献の書き方や論の進め方といったスタイルから、必要とされる基礎知識まで、理系の教育を受けてきた人のほうがすんなり読めるのではないかと思う。私のように、高校の数学の時間に教師が「私の時代はプログラムは無かったから…」と言ってそこは飛ばされて教わったような、浅学の身には少々荷が重い。

ただ、プログラムを知らなかったらまったく読めないというわけでもない。基本的な路線としては、関数がデータ構造に外在する関数型プログラミングと、内在するオブジェクト指向プログラミングの違いと二元論と三元論の違いをみて、その位置づけを探り、オブジェクト指向プログラミングと自然言語でよくおこなわれる再帰について分析を行うという形をとっている。前者は解釈方法が開示された開かれた系であり、後者は開示されていない閉じた系であることに差がある。

本書を読んでいる間、ずっと感じていたのが、プログラムで用いられる機械語は、自律的な変化を伴わない静的な言語なので、これまでの記号論(少なくともソシュールは)前提としてきた自然言語と同列で語っていいのか、という疑問であった。すなわち、サピアのいうドリフトが起きない言語、フンボルトのいうエネルゲイアとしての言語ではなく、エルゴンとしての言語を対象としているのではないかという疑問である。

しかし、上記の引用の個所でこの疑問は氷解した。ひとつに、ソシュールは言語研究はラングを対象とすると同時に、共時態と通時態の両方をみるようにと言っている。そうすれば、本書では取り急ぎ共時態の側面をみているということになるので、問題はない。エネルゲイアの問題については本書のかなり最後のほうで触れられるコンパイラの話や自動生成プログラムの話が関連するだろう。私にとってもっとも大きな収穫は、自然言語は閉じた系であるために、言語のルール(ラング)を共有している人々の間ですら解釈系が共有されず、相手の反応から相手の解釈系を勝手に解釈しているにすぎない。それが反射して自らのランガージュに跳ね返ってくるという再帰的な行為を行っているのだけれども、ここにエネルゲイアの源泉があり、ドリフトのトリガーがあるのだろう。

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読むと絵画の見方が変わる

バクサンドール, マイケル[篠塚二三男・石原宏・豊泉尚美・池上公平訳](1989)『ルネサンス絵画の社会史』平凡社

この本(筆者註:ヤコブス・デ・ケッソリス(1493)『チェスの書』)はチェスになぞえらえて社会階層を表した中世的なアレゴリーである。クイーン側のビショップのボーンは、このアレゴリーでは宿屋の主人で表される。そしてこの人物を見わけるための三つの手がかりのひとつが、勧誘の仕草である。「彼は右手を、勧誘する人のように伸ばす」。手のひらを少しあげ、指を扇状にやや下向きに開いている。(本書 pp.120-124)

フイリッポ・リッピの絵は豊富であると同時に多様性を持っているが、クアトロチェントの批評家たちが最も賞賛したのは、諸要素を効率的に使って多様性を持たせる絵画である。(中略)絵画における多様性の価値と、クアトロチェントのほかの文化の領域-すでにみたような天上的経験や文芸批評-との間には、きわめて密接な呼応関係がある。(本書 p.233)

大学院のときにとある教員が授業中に「これは名著です」と言って紹介していた本で、僕はずっと気になっていた。当然すぐに図書館に行って借りたが、やることが多くて読み始める前に返却期限が来てしまい、結局読めずじまい。今ではどうもなかなか手に入らない本っぽくて、買うのもままならないまま、数年が過ぎた。

本書はその評どおりの名著であった。おもに主眼が置かれるのはクアトロチェント(1400年代)に活躍した画家たちと、彼らの作品への人々のまなざしである。本書はまず絵画取引の話から入る。当時の画家が描いていた条件にアプローチする。すなわち、依頼主がどこに力点を置いて注文し、画家たちがどのようにそれにこたえたか、から始まる。当初は色に細かな注文が出ていたが、時代が下るにつれ、画家の技量に価値が置かれる。何で描くべきか、よりもどう描くべきか、が重視されるのだ。

絵を見る側も、それなりの階級の人たちはそれなりの知識と審美眼を持っており、画家たちはそれに如何に応えるかが腕の見せどころであった。それとともに、宗教画として描かれる場合は宗教画らしさ(ある一定のルール)も求められた。すなわち、聖書の物語から逸脱しないこと、過度な演出をしないことなどなどである。当時の文字が読めない大衆にとっては、宗教画こそキリスト教を理解するもの、聖書に代わるものであった。当然、宗教画への偶像崇拝も現れる。しかし教会側もそれをわかった上で、宗教画の教育上の必要性を理解し、画家たちに依頼し続ける。

聖書の物語が上の引用で引いたような15世紀の人たちの身振りを交えて描かれたのが、当時の絵画なのだ。それを理解するには当時の絵画と画家と依頼主の関係や鑑賞者の目の付けどころといったものを知ってこそ、深みに達することができる。多くの絵が挿入されており、大変読みやすく勉強になる本であった。

孫引きで申し訳ないが、下記の個所だけはあまりにもかわいそうだと思ったので最後に引用しておこう。

以前ナポリに駐在していたシエナの大使がいた。彼はいかにもシエナ人らしく非常に派手だった。一方アルフォンソ王はいつも黒い服を着ており、飾り留め金しかついてない帽子をかぶり、首に黄金の鎖をつけているだけだった。そして綿や絹の服をほとんど着なかった。ところが先の大使は非常に高価な金襴を身につけており、王の引見に出向くときはいつもこれを着こんでいた。(中略)ある日王は、小さく粗末な部屋に対し全員を招集して引見する手筈を整え、さらに家臣数人と相談し、ひしめきあいのなかで皆がシエナ大使を押し分けて進み、着ている錦をこするように示し合わせた。さてその当日になって、シエナ大使の錦の服はほかの大使たちばかりでなく王にまでこづかれ、こすられた。皆、部屋を出て錦の様子をみると笑い転げた。毛はまったくつぶれ、錦は深紅色になり、金がはげ落ちて黄色い絹が残るだけの見るも無残なぼろぎれになってしまったのである。シエナ大使が、すっかり台なしになった錦を着て部屋から出て行ったのを見とどけると、王も笑いを止めることができなかった。・・・
(本書 pp.34-35; この箇所はVespasiano da Bisticci, Vite di uomini illustri『名士列伝』, ed P.d’Ancona and E. Aeschlimann, Milano, 1951, p.60の引用とのこと)

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サントリー学芸賞 レビュー

近代化と誇りの折り合いでできたパリ

北河大次郎(2010)『近代都市パリの誕生-鉄道・メトロ時代の熱狂』河出書房新社

この平和と鉄道という一見奇異な組み合わせについても、サン・シモン主義者は大まじめに考えていた。つまり、鉄道の建設によって、これまで社会に存在していたさまざまな障害(地形、税関、城壁など)が取り除かれ、人、情報、モノの流れが活性化する。この流れが世界の新たな交流を生み出すことで、世界的な協同体をつくりだす気運が高まり、フランス革命以降の戦争と動乱の時代を新たな調和と平和の時代に移行することができる、というわけである。(本書 p.49)

この駅は、プラットフォームに屋根もつけない「桟橋』と呼ばれる簡易な施設であった。ちなみに、当時一般にフランスの鉄道停車場にはこの言葉が使われ、今使われる駅という言葉は舟運の拠点をさしていた。当時の交通上の重要度を反映してか、今とは言葉の使い方が逆だったのである。(本書 pp.82-83)

日本のように大量の人が整然とホーム上を移動することはフランスでは困難と判断され、シャトレ=レ・アール駅では中目黒駅(筆者註:約7m)の二・五倍のホーム幅が採用されている。(本書 p.226)

2010年、サントリー学芸賞を受賞した本なので、面白さはお墨付き。鹿島茂『馬車が買いたい!』と併せて読めば、当時のフランス(とくにパリ)の交通事情がよくわかる。フランス人は自らの国土、特にパリにかなりの誇りを持っていることを、この書を読んで初めて知った。

19世紀は英国と米国が鉄道を持っていた。もちろんフランスの技術者も両国に見学に行くが、そこはフランス人、単なる模倣はしない。彼らは理想的な秩序のためにモノづくりをするのであって、現場での工夫は苦手なのである。アメリカのような貧相な鉄道を持つのではなく、フランスにふさわしいものを目指す。そのため、運河と同じ発想でゆったりした規格の線路を敷いていく。もちろん、歴史的建造物の多いパリ中心部にターミナル駅を持ってくるなんて持ってのほかなのである。多少は不便でも郊外に置く。結果、方面ごとにおかれたターミナル駅のために地方から地方に行くにもパリを経由せねばならず、パリにとっては人が集まってきて便利であったが、一方でその混雑はひどくなるばかり。

結果、環状線を作ってすべてのターミナル駅に行けるようにしたけども、それは貨物中心でやっぱり人の流れは変わらない。そこで業を煮やしたパリ市がメトロ計画を立ち上げる。が、そこはやっぱりパリジャン、パリジェンヌ。一筋縄で賛成するわけではなく、侃侃諤諤と議論が交わされる。路線で既存の船会社や地元に利益誘導をしたがる議員との攻防があり、加えて高架か地下かでも一悶着起こる。結果的には今みてもわかるとおり、ほとんどが地下になったのだけど、その地下駅への入り口についてもパリらしさが求められた。難問山積の中、どうしても万博開催までには開通を目指したいパリ市。時間がない中、どこで折り合いをつけて、解決策を見出すのか。手に汗握る時間との戦いが行われる。

面白かったのが、芸術家の多いパリならではか、メトロ建設に際して出た様々な案である。鉄骨の高架にしようとか、上下3段にして上2段を旅客、下1段を貨物にしようとか、レールを使わない案としてタイヤ付の柱を並べて、その上の客車を押し出していく方法とか、いろいろと進歩的な案が出されるとともに、地下への抵抗から唯一許せるのは下水道に蒸気船を走らせて、何なら下水管の壁にフレスコ画まで描いたらいい、といった案まで。

パリの鉄道建設の紆余曲折を通して現れるのは、近代文明の便利さをただ受容するのではなく、歴史や誇りとの折り合いを探る歴史だった。

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分かりやすいアフォーダンス論

佐々木正人(2010)[2008] 『アフォーダンス入門』講談社

「光の集まりの束とその集合」として証明の事実を考えることで、ギブソンは、見るということが、一人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他のだれにも経験できないことだという常識を原理的に打ち破る道を開いた。(本書 p.95)

すべての光の集まりの束が埋めこんでいる構造はどれも、視覚がそこに何かを発見するための永続的な可能性として存在し続けている。(本書 p.97)

身体の制御の原型がこのようなものであると考えると、一つの事実があきらかになる。それは身体を制御するためには、筋も骨もいつも休みなく動き続けていなければならない、ということである。生きものの動きの制御はたえまなく動くことで達成されている。(本書 p.117)

アフォーダンス論については全く知らなかったので、勉強の足掛かりとして本書を読んだ。字も大きくていい本だ。

大学院時代にアフォーダンスにハマッている人がいて、何がこの人をしてそこまで魅惑させているのかと思っていたが、これを読んでひとつ思い当るところがあった。「光の集まりの束」であったり「振動の場」であったり「香りの場」であったり、場面の設定の仕方が光や音やにおいにあふれた魅惑的な場所に見えるのだ。

ただ、アフォーダンスはaffordからきていることでもわかるとおり、「~をすることが可能」であることを表す。この理論の誕生前の言語学において、すでに戦前の本で関口存男が『接続法の詳細』をはじめとした著書で展開した言語理論、意味形態論で彼は○○という語の用法についてよりも、人生にはかくかくしかじかの局面がある、その局面ではドイツ語ではどういうか、ということに重点を置いていた。その前者の視点こそアフォーダンスである。私は彼の言語理論に賛成で、言語学は個別の単語の使い方にこだわるのではなく、人生の局面においてどう表現するかに重点を置くべきである、すなわち、語のアフォーダンスよりも「考え方の筋道」に主眼を置くべきである、と考えている。

この理論の白眉はアフォーダンスを設定したことよりも、上記に引用した箇所にあるとおり、人間の身体をロボットのそれと同じような安定したもの(本書ではcoordinationとして紹介されている)ではなく、常にバランスがとれるように制御され続けているものである、と見抜いたことにある。静止している人間はstable(安定している)なのではなく、stabilizing(安定させている)なものなのである。そうして周囲の環境を認知しながら、こちらの姿勢もそれに合わせている。間断のない相互作用を見出したことに、アフォーダンス理論の可能性があると思われる。

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つい世界一周に出たくなる

VERNE, Jules. (2001), Voyage au centre de la terre, Le Libre de Poche

La malheureuse créature ne venait pas tendre sa main déformée ; elle se sauvait, au contraire, mais pas si vite que Hans ne l’eût saluée du « saellvertu » habituel.

— « Spetelsk, disait-il.
— Un lépreux ! » répétait mon oncle.

Un lépreux, répétait mon oncle.Et ce mot seul produisait son effet répulsif. Cette horrible affection de la lèpre est assez commune en Islande ; elle n’est pas contagieuse, mais héréditaire ; aussi le mariage est-il interdit à ces misérables.(本書 pp.97-99)

(そのみじめな生き物は変形した手を差し出さなかった。彼女は自力で生きているのだ。しかし逆に、ハンスはいつも「saellvertu」と呼んで嫌っていた。

「saellvertu」彼は言った
「ハンセン病だ!」おじさんは繰り返した。

ハンセン病、おじさんは繰り返した。そしてこの言葉自身が私に不快感を引き起こした。ハンセン病というこの恐ろしい病気は、アイスランドではとても一般的である。感染性はないが遺伝する。そしてこの悲劇の者同士の結婚は禁止されている。)

ご存じのとおり映画化までされたJules Verneの『地底旅行』。著作権が切れてしまっているのでwikisourceで全文が原文で読める。だから買う必要は必ずしもなかったのだけど。

ちょっと変な鉱物学者のおじさんがたまたま発見した文献でアイスランドに地底への穴があいていることを発見する。変なおじさんなので甥っ子を連れて本当にアイスランドまで行ってしまう。行ったら本当に穴があったので入っていく。するとそこには想像しなかった別世界が広がっており、見たこともないような動植物が繁栄していた。

途中、おじさんと甥っ子が離ればなれになってしまったり、嵐に遭ったりと冒険しながら、最後はどうやってこの世界から出るのか…というところで手に汗握る展開になる。

上に引用した箇所のようにハンセン病患者が渺漠とした世界の点景として描かれているあたり、時代を感じさせる。

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デパートという概念を発明した二人

鹿島茂(1991)『デパートを発明した夫婦』講談社

十九世紀前半までのフランスの商店では、入店自由の原則がなかったばかりか、出店自由の原則もなかった。つまり、いったん商店の敷居を跨いだら最後、何も商品を買わずに出てくることは許されなかったのである。(本書p.15)

極端な言い方をするなら、買いたいという欲望がいったん消費者の心に目覚めた以上、買うものはどんなものでもいいのだ。まず消費願望が先にあり、消費はその後にくるという消費資本主義の構造はまさにこの時点で生まれたのである。(本書p.70)

ブシコーが真に偉大だったのは、商業とは「商品による消費者の教育」であると見なしていたことである。(本書p.250)

著者本人がデパート大好きらしいので、その分気合いが入っている。19世紀のパリからどのようにしてデパートが誕生し、発展したのかを追っていった本。まさに題名通りデパートは出るべくして出てきたのではなく、1組の夫婦によって「発明」されたのだ。

田舎から出てきて丁稚を経てから独立したアリスティッド・ブシコーとその妻によって発明されたボン・マルシェ百貨店は正札販売、返品可能、宅配など、いまのデパートの販売体制の原型を作り出し、挙句の果てには御用記事まで新聞に掲載させた。

描かれるブシコーの戦略がまさに的を射ていて、次々に客が彼の手の上で踊らされるかのようにふるまう。正札販売、冷やかしOKというのも当時のパリでは画期的だったので人が来る、すると問屋を通さずに直接仕入れて大量購入、直接購入で原価を下げる、薄利多売路線をとる、日にちのたったものは価格を下げて販売する、といった販売戦略のほか、読書室やレストラン、清潔なトイレを設けるといった顧客満足の発想、売り場を担当させてその売り上げによって給与を変動させる、デパートの上に寮を作る、従業員専用楽団を作ってクラッシック音楽という教養を身につけさせるといった従業員教育まで、経営者としての彼の先手の打ち方はまさに顧客の心をつかむものだった。

変動の19~20世紀で似たようなエピゴーネンは出てきたものの、常にボン・マルシェ百貨店がその先陣を切っていられたのはなぜか。それはひとえに彼のスピードや演出まで含めた経営手腕にあったのだった。

これを現代に置き換えると、コストコやIKEAといった大規模な量販店、ショッピングモールに代表される複合商業施設が庶民の我々に「楽しみ」を与えてくれる場所となっている。これらがどこで発生したのか、あるいは誰の発明によるのか。そこにもまた、興味がわいた。