資本論を知らないピケティ


池上彰、佐藤優(2015)『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』朝日新聞出版

日本も、教育と生涯給与がリンクするアメリカ型のシステムになってきた。これによる社会的なストレスがどうなるかというシミュレーションをきちんとしておかないと、大変なことが起こるかもしれない。(本書 p.44)

『資本論』は、理解するのに1年かかる。それには特定の読み方を押し付けるのではなく、論理的に正しい読み方をすることが必要なんです。(中略)しかしそこで一回その方法を身につけてしまうと、これは華道や茶道、あるいは外国語能力と一緒で、一生使って運用できる。(本書 p.141)

希望の資本論 ― 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか

不安な時代だからこそ『資本論』を読みなおす。

『資本論』はソ連の崩壊で共産圏がなくなった今、無価値になったのではありません。逆に今こそ、共産主義者というレッテルをはられず、虚心坦懐に『資本論』と向き合える時代なのです。

現代社会は全世界的に格差が増えています。賃金が上がり派遣社員が増えているということは、正社員の収入は増える一方、100円均一や吉野家などを使えば派遣社員も安い給料でもどうにか暮らしていける世の中になっているということです。しかし、結婚や子育てとなるとお金がかかります。経済の格差が教育の格差へとつながり、階層が固定化されます。そこでたまった鬱憤は、いつか何らかの形で発散されるはずです。それが、ISだったり新興宗教だったりします。

そんな不幸な時代だからこそ、『資本論』が役に立ちます。

『資本論』を読むと、資本主義経済の限界が見えます。そして自分はその中でどのような位置にいるか、全体の潮流に巻き込まれないためにはどうすればいいのかを判断する力が、『資本論』によって身につきます。生きづらい世の中を少し突き放して見ることで、巻き込まれないようにする。そういう人を少しずつ増やしていって社会を変えていければ、世の中がましになりそうです。

巻末には『21世紀の資本』の著者、ピケティと佐藤優の対談が収録されています。ピケティは『資本論』について「読むのはとても苦痛です」と語るほど、マルクスについては重要視していません。彼は多くのデータを集め、誤りがあったら修正していく形で現代社会の経済を明らかにし、格差是正を政治に求めます。政治で格差が解決できるはず。彼はあくまでも理性を信頼します。

一方、『資本論』はあくまでも労働者を生かさぬように殺さぬようにするのが資本家だと指摘します。理性を信じるかどうか。ここがマルクスとピケティの大きな違いと言えそうです。


オートポイエーシスの入門はこれで決まり


山下和也(2010)『オートポイエーシス論入門』ミネルヴァ書房

オートポイエーシス・システムとは自分の環境の一部を加工して、自分の構成素として産出するシステムに他ならない。(本書 p.33)

オートポイエーシスではシステムの状態が一定に保たれるとは限らず、不可逆な変化が起きることもありうる。たとえば、成長するオタマジャクシとカエルや、芋虫とさなぎと蝶の同一性を示すのがこの理論である。(本書 p.38)

一時期もてはやされたオートポイエーシスが分かりやすく解説されている。ルーマン、マトゥラーナ、河本の3氏の主張を整理し、それぞれの利点と欠点、論理的な齟齬を明らかにして、オートポイエーシスを確実に理解できるよう書かれている。

結局、オートポイエーシスとは何かというと

  • 環境を構成素に変える仕組み
  • 自分の状態を自律的に決める
  • 環境に影響されない(=閉じた領域にある)
  • 直接は観察できない
  • 止めたら再起動できない

といったもので、具体的には生物、意識システムおよび社会システムが想定されている。

 生物は引用にもある通り、オタマジャクシがカエルになっても、息をしてものを食べて個体を維持していることには変わりはない。その個体維持のシステムをオートポイエーシスという。社会も同様で、構成員が変わっても社会とは個々人の関わりとその集合だから、全体としては維持される。意識は生体内のシステムだから少し難しいが、光の束という環境からりんごや文字といった構成素を見出すのは、そこに認識システムがあるからだ。

 言語も同じくオートポイエーシスと言えて「言語とは意味コードに対する記号体系」(本書 p.231)と定義することで二項対立や言語の変化なども説明できる。一方、エンジンなどは一度止めても再起動できること、操縦されない限りは自分の状態を決められないことから、オートポイエーシスではなくアロポイエーシスと言われる。逆に言うと、生物が関わっているものこそがオートポイエーシスといえるのかもしれない。

 環境に対する見方がアフォーダンスとは逆になってて、アフォーダンスを見つける仕組みがオートポイエーシスなのだという。アフォーダンスもオートポイエーシスも、応用範囲がとても広くてつかみ所のない理論だ。実際に使うときはピンポイントに限るのが現実的なようだ。


200ページでウィトゲンシュタインの歩みをつかむ


永井均(1995)『ウィトゲンシュタイン入門』筑摩書房

私は、私自身が読者とウィトゲンシュタインをつなぐ梯子となることを願ったのである。もちろんその梯子は、昇りきった後は投げ捨てられるべき梯子にすぎない。(本書 p.8)

ウィトゲンシュタインの難解な哲学を理解するための第一歩に適した書。主な業績である『論理哲学論考』や『哲学探究』のみならず、『青色本』、『数学の基礎」、『確実性の問題』など、その他の業績にも配慮して、それぞれの本の特徴や思考の足跡などを明らかにしている。できるだけ簡明に書かれてあり、理解しやすい。

『論考』ではかの有名な言葉、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen)の通り、言語の限界、すなわち世界の限界を示したとされている。その中で世界は現実に表現されているところのものであり、夢や希望、嘘などのナンセンス(現実に現れていない言語表現、例えば「ピンクの象」や「猛然と眠る色のない緑」など)は対象となっていなかった。

では、ウィトゲンシュタインはそれらの分析を諦めたのか? 20世紀最大の哲学者である彼だから、もちろんこの問題に気づいていた。だからこそ、彼はまずは『青本』で、そしてさらに『探求』で発展させた形で言語ゲームという概念を持ちだし、すべての言語表現とそのルールについての分析を試みた。すなわち、ルールは違っても、我々はその適用方法に縛られているということだ。

たとえば、ある民族で「出会っても挨拶をしない」というルールがあるとする。そのルールは欧米や日本のルールとはもちろん違う。しかし西洋や日本の人々も彼らのどういうルールに従っているか理解できるし、彼らのルールに(ある程度は)従うことも可能だ。我々が多言語の文法に従うことが可能なように。

結局、人間である以上、その「ルールの適用方法」は同じになる。ルールは違っても、その従い方は同じだというメタルールの存在に気づいたところが、彼の天才たるゆえんだろう。

本書はそんなウィトゲンシュタインの思考の足跡のみならず、彼の人生のエピソードを踏まえて、どんな背景でそのような思考が生み出されたのかを語っている。200ページ強で20世紀最大の哲学者の思考と人生の概略がつかめる。大変お得な書といえる。


知りすぎることの良否を知らない人類


野崎まど(2013)『know』早川書房

「(前略)学者の方からは非難される行為なのかもしれませんが、保管庫は思想そのものが違うのです。保管庫の思想とは”現物を、変化なく残すこと”です。古事記の冒頭にも記されていますが、記録という行為には必ず誤りが生まれます。複製からも再編からもエラーを取り除くことはできません。最初に作られたものを、最初の形のまま残す。守るために外部との接触を断つ。それが保管庫の思想なのです。(後略)」(本書p.265)

2014年のSF大賞にノミネートされた本書は、2081年の京都を舞台に「知る」ことをキーワードに展開していく物語だ。

その頃の京都は超情報化対策として、人造の脳葉「電子葉」の移植が義務化されている。また、街中の道路や建築物も情報材でできている。だからすべての人がタグ付けされ、ありとあらゆる情報がすぐに取り出せるようになっている。この社会インフラを作ったのが京都大学の研究者、道終・常イチ。彼はひと通りのことをやり終えると姿を消した。情報庁の官僚、御野・連レルは恩師である道終・常イチの後を追うべく、情報庁の官僚となって高度な機密にアクセスできる権限を得る。道終・常イチがコードに埋めたミスが自分へのメッセージだったことに気づいた彼は14年越しに暗号を解いた。

そこにいたのは14歳の少女だった。

翌日から、少女との不思議な4日間が始まる。「電子葉」をつけた二人は京都の禅寺・神護寺や京都御所など、「情報化」されてない場所に行き、「情報化」されてない知識を得る。森羅万象の知識を得るのは、あることを知るための手段に過ぎなかった…

情報をどう処理するかは、情報化社会を生きる我々にとって大きな課題だ。web2.0やビッグデータといった言葉が流行ったが、結局情報を上手に使いこなせていない。情報を使うとはどういうことか、自らの処理量を上回る情報を手に入れて何をするのか。情報とのつきあいかたを考えるにも本書の視点は参考になる。

同様に京都を舞台にした人工(知)脳の話としては鳥羽新の『密閉都市のトリニティ』があるが、こちらのほうがあっさりして読みやすい。まずは本書を読むのがオススメだ。


労働理論の総まとめ


今村仁司(1981)『労働のオントロギーフランス現代思想の底流』勁草書房

認識といえども人間が社会関係の中でおこなうひとつの世界獲得形式であるというのがマルクスの基本的な立場である。いいかえれば、認識は人間が世界とかかわる社会活動の一領域である以上、認識活動は社会的実践過程の一局面でしかない。社会的行為の基礎概念をわれわれは労働とよぶ。したがって認識は基礎的労働を構成する一モメントとなる。(本書 p.24)

多くの唯物論者たちは、「生産」活動を唯物論的世界観の基礎だと主張してきたが、実際には、かれらはイダリスムの基礎概念を称揚してきたにすぎない。「生産」(超越、対象化、客観化……)こそイデアリスムのエレメントであるから、観念論的世界観の根拠づけを「生産」に求めるイデアリスト(例えばヘーゲル)の主張は、きわめて正当である。唯物論者たちは、観念論者たちと「生産」概念の争奪戦をくりかえしてきたわけであるが、原理的にいってその勝負の結末は眼に見えている。言うまでもなく、唯物論者たちの負けだ。(本書 p.219)

今村仁司の訃報では、代表的な著書として挙げられていた『労働のオントロギー』。僕は『暴力のオントロギー』や『儀礼のオントロギー』などは読んだものの、本書は読んだことがなかった。いや、読んだことがなかったのではなくて、一度読もうとして、最初のアルチュセールのところで挫折したのだ。文庫で出た『アルチュセール全哲学』を上滑りながら読み終え、数年のスパンを開けて本書をひも解いた。働いている人には読んでもらいたい本だ。

本書の構成は、最初にマルクスの労働のフランスでの研究概況を見るため、ルイ・アルチュセール、コルネリウス・カストリアディス、ミシェル・アンリの思想について概観し、その問題点を克服していく。それで三章を使い、第四章からはそれらの批判を加え、問題点の克服を試みる。社会をもろもろの生産活動としてみる(本書 p.201)アルチュセール、線形の変化をする「生産」と非線形の変化をする「創造」の一半を明らかにしたカストリアディス、超越の根拠としてライプニッツのモナド的な生を持ってきたが、モナドゆえに社会的関係をとりこぼしかけているアンリ。彼らの理論を継承しつつ、どうくみ上げていくかを今村は課題としているが、中でもアンリの非対象化の導入を称賛している。

すなわち、フーリエの言うように労働には「いやな労働」(travail repugnant, industrie repugnante)と「楽しい労働」(travail atttrayant, industrie attractive)があり、前者は分業を行う対象化活動だが、後者は分業を廃棄した非対象化活動である。すなわち「異質性を同質化する活動ではなく、異質な諸活動を異質なままに実現する根拠としての活動」(本書 p.258)である。そこではアソシアシオンという社会的つながりが求められる。すなわち、生産されるモノ(対象)ではなく、つながるコトが第一となり、それこそが快の源泉となるのである。

今村仁司も翻訳にかかわった『ドイツ・イデオロギー(抄訳)』で妙に印象に残った「朝には狩りをし、午すぎには魚をとり、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」という「悪名高い箇所」(本書 p.249)も本書では引用がされ、そこまで批判するものではない、という見方が呈示されている。このころから、今村はブレていない。

哲学もしなければ経済学者でもない我々が本書を読んで身につけるべきは、「いやな労働」と「楽しい労働」の比率をいかに変えていくかということ。前者の量を減らすのは努力だけでは限界がある。それでは後者を増やすことを考えればいいのではないか。人間とは周りとかかわって生きていく生物なのだから、そのかかわりを大事にして、分業を廃棄してその人らしさを発揮(全体的個人の表出)し、生きていくように、すなわちプラスを増やしてマイナスを凌駕していくようにするのも一つではないか。

言うことはもっともだけど、実践は難しいよなあ、と思う。難しいといって匙を投げずに努力しよう。


これで分かる『論理哲学論考』


ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 著/木村洋平 訳・注解(2010)『『論理哲学論考』対訳・注解書』 社会評論社

注 4.114 『論考』の哲学は、「思考の空間」を「言語の空間」に置き換えて、そこで、有意味な命題と無意味な命題の間に境界線を引くことによって、施行できる領域を確定する。
(本書 p.135)

7 語りえないことについて人は沈黙する。
7 Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
(本書 pp.358-360)

この訳者は1983年生で、本書を出したのが27歳のとき、さらにこれより前に訳本を出しているから、もっと若くデビューしたことになる。

ドイツ語と日本語の対訳なので、日本語で意味の取りづらい箇所があれば、ドイツ語で何となく大意をつかんで分かった気になることも可能である。

また、左ページにある対訳に対応する形で、右ページには注解が入る場合には入る。

本書の成果の一つは、言語で表現できる境界を確定させたことである。すなわち、言語に表現できるものはともかく、言語で表現できないものについては沈黙せざるを得ないのだ。

それは例えば「AはBよりCだ」という形式を示すことは出来ても、その意味が述べられないような事態が該当する。(2.172)

例えば楕円を写し取るのに真四角の桝目で観測するか、正三角形の升目で観測するかで、元となった楕円は同じなのに、写し取られた形が変わる。そうした形については示せるものの、語り得ない。

ヴィトゲンシュタインは自分の構築した体系のなかでは完全に透徹した論理を貫いている。本書は短いし、与えたインパクトは大きいし、それにドイツ語だといまやProject Gutenbergで無料で読める。そういう意味では読んでおいて損はない。


宗教の栄華と退潮を見る


アーネスト・ゲルナー著/宮治美江子, 堀内正樹, 田中哲也訳(1991)『イスラム社会』紀伊國屋書店

急速な職業移動と技術革新が特殊な諸共同体の平和的共存を困難または不可能とした近代的状況下では、これらの共同体のそれぞれが自分自身の国家を獲得または創設しようと試みる。言い換えれば、民族主義が支配的になる。(常軌を逸した悲劇的なケースであるレバノンにおいてのみ、諸共同体は不安定な力の均衡によってどの共同体にも属していない政治体制の下で共存し続けることを強いられている。(後略))(本書 p.140)

カダフィによるスンナ(筆者註:コーランとは対照的に、法典化された伝承)の停止や削減はウラマーの地位と権威を大いに減少させ、またある意味ではそれはウラマー階級の解職であった。(中略)日々のスンニー主義は、その秩序や冷静さ、それを優先的に受け入れてくれる態度がある時、それを人民のアヘンと呼ぶことはほとんどできない。すなわちそれは市民たちを守る市民憲章に非常に近いものであり、そこではウラマーたちはその法委員会のような存在であった。しかしカダフィの極端な厳格主義は市民からそうした防衛手段を奪った。(本書 p.149)

だからどの部族もムスリムとしての立場を示す必要があるし、いかなる場合にもそれを示したいと望むわけである。ところが彼らはコーランに関する学識でそれを示すことはできない。文盲だから。(本書 p.264)

佐藤優をして「獄中で読んだ学術書の中でそりが合うのはアーネスト・ゲルナーだけだった。(中略)マグレブのムスリム社会をイブン・ハルドゥーン[1332-1406]の交代史観とヒューム[1711-76]の「振り子理論」を用いて見事に分析している。この方法論も極めてユニークで、まさに自分の頭で考えている」(佐藤優(2010)『獄中記』 岩波書店. p.434)と言わしめた。

僕は仕事でムスリムと関わるので読んだ。しかしこれまで行ったことがあるイスラム圏も、仕事で関わりのある国、すなわちマレーシアだけだ。この本の射程は訳者あとがきに書いてあるとおり、オスマントルコには適用しづらいものの、一概にマグレブ(地中海沿岸)じゃないからといって適用できないと決めつけるのは性急らしい。ただ、東南アジアでは合わないのではないか。

基本的な枠組みとしては、マグレブを例にとったイスラム社会においては、都会の定住民と田舎の遊牧民に分けられ、前者は文字を読むことができて聖天に直接アクセスすることができるのに対し、後者は文盲で聖典へのアクセスは仲介者を必要とする。そして前者は聖典の読みを研究するウラマーと遊牧民の攻撃から守ってくれる政府を必要とし、後者は仲介者としてのスーフィーがいて別途クランの長がいればいいだけの組織で、特段政府のようなものを必要としない。

こうした二項対立的な構図は、おそらくは西はマグレブ地方から、東はトライバルエリアのあるパキスタンまでのものだろう。スリランカやインドネシア、マレーシアといった国々では該当しないのではないだろうか。

イブン・ハルドゥーンの社会学とヒュームの振り子理論、それに加えてケインズやエドマンド・リーチといった大家の理論を縦横無尽に使いこなしてイスラム社会を分析するアーネスト・ゲルナーの頭のキレは、まさに快刀乱麻を断つ具合だ。原著書初出年が1981年と30年前、もちろん執筆時に使ったデータはそれ以前のものだから、アラブの春のジャスミン革命でチュニジアは政権交代が行われ、リビアのカダフィは殺害されてしまった。そうした社会情勢の違いはあっても、やはり本書は、まだイスラム社会を理解する上では多くの示唆を与えてくれる。

スーフィズム(神秘主義)については井筒俊彦の本から知っていたが、実際は田舎の部族が頼るもので、土着の信仰とないまぜになったものだ、という見方は知らなかった。大変勉強になった。

上記引用の、文盲だからという箇所についてだけど、イスラム社会は声の文化なのではないか。マレーシアでも決まった時間にはモスクからアザーンが朗々と聞こえてくるし、井筒俊彦の回顧録にもそういう話が出てくる。本書でもp.290にアルジェリアのスーフィー(イスラム神秘主義者)コーランの九割を覚えたというエピソードが出てくる。解釈や伝承を捨象して、原典に忠実な姿勢をしめすには、頭の中にあるコーランを引用すればいいのだけれど、そのあたりの説明がないのがもどかしい。(もっとも、オングの『声の文化と文字の文化』の出版は本書の翌年、1982年だから仕方ないとも言えるのだけど。)

惜しむらくは、原著書の題名がMuslim Societyだったのだが、本書では(出版当時の)日本の事情を考慮して『イスラム社会』と訳出された。今ではムスリム社会でも通じるだろう。ここ十数年でイスラムもずいぶん人口に膾炙した。そのほか、原住民と書いていたり(Aborigineだったらまだしも、Indigenous Peopleは、今は先住民という。中国語では原住民と言うけれど。)、諸刃の剣と諸刃の刃と、両方の書き方が混在していたりと、少し急いだような箇所が見られるところだ。


暴力の根源をさぐる


ソレル, ジョルジュ著/ 今村仁司・塚原史 訳(2007)『暴力論』(上下巻)岩波書店

知事たちは、蜂起派の暴力(ヴィオランス)に対して合法的武力(フォルス)を発動せざるを得なくなることを恐れて、雇用者側に譲歩を強いるよう圧力をかける。(中略)知事は労使双方を脅して、巧みに合意へと導くために、警察力の行使を調整するのである。(本書上巻 p.118)

強制力(フォルス)は、少数派によって統治される、ある社会秩序の組織を強制することを目的とするが、他方、暴力(ヴィオランス)はこの秩序の破壊をめざすものだといえるだろう。ブルジョワジーは、近代初頭以来、強制力(フォルス)を行使してきたが、プロレタリアートは、今や、ブルジョワジーに対して、そして国家に対して暴力(ヴィオランス)で反撃している。(本書下巻 pp.53-54)

労働に比例してただちに手に入る個人的報酬がなくても、おのずから現れてくる最良のものへの努力は、絶えざる進歩を世の中に保証するひそかな美徳である。(本書下巻 p.196)

すぐれた生物学的記述を得るために、人間の諸集団が提供する豊富な資料を利用した後で、人間たちについての観察を利用して組み立てられたが、博物学の必要に合わせようとする過程で明らかに変更を加えられた定式を、社会学者の流儀にならって、再び社会哲学に導入する権利など存在するだろうか。そうした定式は有機的生命体には適切に応用できるとしても、われわれの本性中、もっとも高貴な特権だと万人が認めるものを消去することで、人間活動の概念を奇妙なまでに歪曲してしまった。(本書下巻 pp.208-209)

晦渋な文章である。

今村仁司の『暴力のオントロギー』を読んで以来、ずっと気になっていたソレルの『暴力論』。やっと読むことができた。このあとはベンヤミンの『暴力論批判』か、あるいはサン・シモン主義を勉強すればいいのかしら。

訳者の塚原があとがきで書いている通り

今村さんは、以前から「暴力、労働、ユートピア」を研究の主要な柱としており、『暴力のオントロギー』や『排除の構造』などの仕事で、彼自身の暴力論の構築を試みていたから(以下略)
(本書下巻 p.308)

ということで、本書を今村の仕事との類似性を求めて読むと、毛色の違いに驚く。

本書はマルクスの理想を現実にするための手段を探ったものと言える。彼はそのための唯一にして最も効果的な手段がゼネストであると述べる。これが上下巻ともに一貫した主張なのであるが、如何せん当時の欧州の事情を踏まえつつ、晦渋な文章と格闘しないといけないので、読みづらい書となっている。これは訳が悪いのではなく、原文もそもそもからして晦渋らしく、それを忠実に訳したらしい。まさに誠実な醜女。

ソレルのいう暴力(ヴィオランス)とは、ゼネストのような下から上へ向かう力のことであって、上から下へ向かう抑圧のために使われる力である強制力(フォルス)と区別した。そしの上で今やその暴力(ヴィオランス)を抑え込むほどの力(フォルス)のない支配層を、こちらの立ちまわり方次第で追い出し、よりよい社会を作ろうと呼び掛ける。

少数の支配層が自分たちのために政治を行っている現状をゼネストにより打破し、労働者の組合(革命的サンディカリスト)が国家を運営する。彼らは少数の支配層よりも多くの人民の利益を代表するから、よりよい大衆のための社会ができるはずだ。マルクスのドイツイデオロギーに書かれていた話を思い出させる、ここに論理的破綻はない。

上部の命令によるのではなく、末端の兵士は自らの栄達のために戦闘をする。それと同じく理想の社会のため、革命闘争に参加せよと呼び掛けるソレルのやり方は、おそらく最も効果的なものだろう。語られた理想論をより現実に適用しやすいよう調整していく努力は、とくに上記引用の最後の部分(「付論1 統一性と多様性」より)に書いてある通り、単に統一を目指せばいいのではなく、現実を見てそれに合うように理論構築をしていこうとする姿勢は、現代性を失わない。

論理的にも整合性がとれ、現実に合うように理論を構築していった社会主義者たちがいたなかで、なぜソ連は崩壊したのか。理想や理論よりも強力な、人を想定外の方向に動かす何かが、現実には存在したのだろう。


パースを知るための第一歩


有馬道子(2001)『パースの思想』岩波書店

このようにソシュールの記号論が「コードとメッセージの記号論」として、歴史的、社会的体系の中の価値としての恣意的な記号をあつかうものであるのに対して、パースの記号論は無現の「意味作用の記号論」として、身体的経験的に自然とつながりつつ社会的論理と場(コンテクスト)に開かれた対象を指し示す記号をあつかうものとなっており、新陳代謝的にたえず更新される「場の記号論」「解釈の記号論」となっている。(本書 p.60-61)

ある私の友人は、高熱の後、聴力をすっかり失ってしまった。この不幸な出来事の起こる前、彼はとても音楽が好きであった。(中略)その後でもよい演奏者が弾くときには、彼はいつでもピアノのそばにいることを好んだのであった。そこで私は彼に言った。結局のところ、すこしは聴こえるんだね、と。すると彼は、ぜんぜん聞こえないさ-でも全身で音楽を感じることができるんだ、と答えた。私は驚いて叫んだ。(中略)同様に、死んで肉体の意識がなくなると、私たちはそれまで違った何かと混同していた生き生きとした霊的意識(spiritual consciousness)をそれまでもずっともっていたことにすぐ気づくことになるだろう。(CP. 7. 577)(本書 p.103)

この段階におけるアラヤ識を井筒俊彦(1983年)は「言語アラヤ識」と呼んでいる(こうした見方を、パースの「シネキズム」およびデリダの「差延」や「痕跡」と比較してみるのも興味深い。これらの間に本質的な相違はみられないからである)。(本書 p.191)

パースの話をするときには今でも本書が引用されることが多いので、避けて通れない本となっている。パースの思想を知るにはまとまりもよく、分量も短く、読みやすい本だと思う。パースの思想のみならず、その西洋思想(おもに言語学)上の位置づけを素描し、ソシュールとの関係はもちろん、チョムスキーやヤコブソン、ボアズやサピア、ウォーフにつながる系譜まで紹介しているあたりは、小山亘の『記号の系譜』の簡略版ともいえ、非常に見通しがいい。また後半になると井筒俊彦の『意識と本質』を引いており、補論には老荘の思想について書いているあたり、東洋思想との比較まで試みた、大変意欲的な書である。

パースの記号論は言語学のみならず、人間世界のすべてに適用できる視野の広い思想である。その点はソシュールよりも断然応用が利く。ソシュールがアナグラムに走って世界を変えようとしていたが、パースは自身の苦しい生活の中で得た神秘体験を通して、世界を解釈した。そして、それを説明し得るようなモデル(アブダクション)を作り上げたのだった。その点、同じ慧眼を持った学者とは言え、言語の能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)に着目したソシュールと比べると根性が違う。

上記の系譜に連なるボアズ、サピア、ウォーフがパースと共通している点は、言語に出てくるものと、そこに直接的には出てこないが、出る過程に影響を与える文化的な形があったという点だ。これについて著者は精神的中間体を仮定したフンボルトや、語りえぬものについては沈黙せざるを得ないという形で言語の限界を示したヴィトゲンシュタインにも言及している。

そうすると当然言語アラヤ識の話になってくるんだけど、やっぱりこうなると井筒俊彦以外に拠って立つところは無い。早い話が彼の著作を読めばいいのだけど、かなり骨が折れる。えらくざっくり言うとすべての言語表現の発動のきっかけとなる種子(しゅうじ)として、アラヤ識の中に言語アラヤ識というのがあり、その発動過程、発露の仕方は文化に影響されるということを言っているのだけど、唯識ではそもそもアラヤ識にある種子を取り払う修行をしているので、その存在を認めるだけの思想よりも、対応方法まで考えるあたり、(いいのか悪いのかは別にして)一歩進んでいるよなぁ、と思う。

仏教の話が出たついでに言っておくと、本書においてライプニッツの話の中で、過去と現在の2点を仮定したとき、その間に挿入できる点は無限にあることから、過去と現在は連なりであって断絶は無い、という話があったが、同じ無限の点を挿入できるからと言っても、それが連なりであるとは限らず、水は一瞬にして醤油のような他の物質にもなりかねない、と考えているアビダルマも、やっぱり深く考えてるなぁ、と思った。

こうした東洋と西洋の思想の違いに目を向けさせてくれる、非常に示唆に富む本だった。


東洋的存在論アビダルマ


櫻部建, 上山春平(2010)[1996] 『仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>』角川学芸出版

植山 (註:唯識では)スヴァバーヴァ(註:体)はもう認めないのですか。
服部 認めません。
櫻部 そのスヴァバーヴァの否定は歴史的順序からいえばまず中観がやるわけです。
上山 中観のほうが唯識よりも先ですか。
櫻部 そうです。中観はもっぱらその点で説一切有部を攻撃するのですね。説一切有部のようにスヴァバーヴァとしてのダルマのあり方を主張するとすれば、中観派の考え方からすると、それはどうしても諸行無常ということにはならないわけです。
上山 「法体恒有」ということは否定されるわけですね。
櫻部 法体というスヴァバーヴァの存在を否定するわけです。だからダルマはニフ・スヴァバーヴァ(無自性)で「空」だというのです。
上山 その上に立って唯識が再構成しているのですね。その再構成するほうには中観はあまり熱を入れてないわけですか。
服部 中観はもっぱら否定するほうです。アビダルマの客観的な分析の立場を批判して、主体的立場を恢復することに中観の歴史的課題があったのだと思います。
(本書 pp.252-253)

修行の世界では「唯識三年、倶舎八年」といわれるくらいのもの、じっくり取り組むしかなさそうだ。

一読して得られる所はただただアビダルマの難解さだった。最初の読みとしては、こういう世界もあるんだと思うしかない。

本書の構成は最初にアビダルマの体系が語られ、次に上に引いた対話、そして最後にアビダルマの周辺の開設となっている。難解で、なんでこういう細かいところまで考え込んだのか、ここまで来ると細分化のための再分化じゃないのかと思えてくるアビダルマの体系を一読し終えて、解説を読むとその謎が氷解する。

結局、アビダルマはエッセンスを大事にすべきで、細分化しすぎているきらいがあるので、そこにはあまり価値がないようだ。

アビダルマとはブッダの教えのことで、ブッダの死後数百年たってから編纂されたもの。結局何が書かれてあるかというと、人生の苦から解放されるためには、煩悩を消滅させた、涅槃の境地に入らなくてはならない。それでこそ苦の連続である生の繰り返し(輪廻)からも解放される。そのためには正しい修行をせねばならない。どういう手順をとり、どうやったら涅槃の境地にいけるのか。それの指南書がアビダルマである。

最初の部分を読んだ後、それに続く解説と対話が、もやもやとした謎をすっきりと解いてくれて、面白かった。因縁が必ずしもいつでも成立するとは限らないこと(だから、目の前にある水も連続して存在しているのではなく、一瞬前の因によって生じた果であるから、これからずっと水であり続ける保証はない)、現在のほか、過去と未来をそ呈することによって無限の変化の連続を設定し、それによって諸行無常を説明している。こうした三種の時間の連続という分析方法についてベルクソンの哲学との類似性が指摘されていたり、一度できた体系を壊して、また再構築するという西洋哲学(思想)にもあった振り子運動が仏教でも生じていたりして、興味深い。

いろは歌も要約すれば「すべてのものは変わる。変わるのを見ていくのが楽しい」という、こうした仏教(インド)に由来するものの見方が現れているらしい。認識の分析には、なぜ仏教が広まったのか、その理由が分かるくらい魅力的な思想が広がっていた。