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レビュー

暴力の根源をさぐる

ソレル, ジョルジュ著/ 今村仁司・塚原史 訳(2007)『暴力論』(上下巻)岩波書店

知事たちは、蜂起派の暴力(ヴィオランス)に対して合法的武力(フォルス)を発動せざるを得なくなることを恐れて、雇用者側に譲歩を強いるよう圧力をかける。(中略)知事は労使双方を脅して、巧みに合意へと導くために、警察力の行使を調整するのである。(本書上巻 p.118)

強制力(フォルス)は、少数派によって統治される、ある社会秩序の組織を強制することを目的とするが、他方、暴力(ヴィオランス)はこの秩序の破壊をめざすものだといえるだろう。ブルジョワジーは、近代初頭以来、強制力(フォルス)を行使してきたが、プロレタリアートは、今や、ブルジョワジーに対して、そして国家に対して暴力(ヴィオランス)で反撃している。(本書下巻 pp.53-54)

労働に比例してただちに手に入る個人的報酬がなくても、おのずから現れてくる最良のものへの努力は、絶えざる進歩を世の中に保証するひそかな美徳である。(本書下巻 p.196)

すぐれた生物学的記述を得るために、人間の諸集団が提供する豊富な資料を利用した後で、人間たちについての観察を利用して組み立てられたが、博物学の必要に合わせようとする過程で明らかに変更を加えられた定式を、社会学者の流儀にならって、再び社会哲学に導入する権利など存在するだろうか。そうした定式は有機的生命体には適切に応用できるとしても、われわれの本性中、もっとも高貴な特権だと万人が認めるものを消去することで、人間活動の概念を奇妙なまでに歪曲してしまった。(本書下巻 pp.208-209)

晦渋な文章である。

今村仁司の『暴力のオントロギー』を読んで以来、ずっと気になっていたソレルの『暴力論』。やっと読むことができた。このあとはベンヤミンの『暴力論批判』か、あるいはサン・シモン主義を勉強すればいいのかしら。

訳者の塚原があとがきで書いている通り

今村さんは、以前から「暴力、労働、ユートピア」を研究の主要な柱としており、『暴力のオントロギー』や『排除の構造』などの仕事で、彼自身の暴力論の構築を試みていたから(以下略)
(本書下巻 p.308)

ということで、本書を今村の仕事との類似性を求めて読むと、毛色の違いに驚く。

本書はマルクスの理想を現実にするための手段を探ったものと言える。彼はそのための唯一にして最も効果的な手段がゼネストであると述べる。これが上下巻ともに一貫した主張なのであるが、如何せん当時の欧州の事情を踏まえつつ、晦渋な文章と格闘しないといけないので、読みづらい書となっている。これは訳が悪いのではなく、原文もそもそもからして晦渋らしく、それを忠実に訳したらしい。まさに誠実な醜女。

ソレルのいう暴力(ヴィオランス)とは、ゼネストのような下から上へ向かう力のことであって、上から下へ向かう抑圧のために使われる力である強制力(フォルス)と区別した。そしの上で今やその暴力(ヴィオランス)を抑え込むほどの力(フォルス)のない支配層を、こちらの立ちまわり方次第で追い出し、よりよい社会を作ろうと呼び掛ける。

少数の支配層が自分たちのために政治を行っている現状をゼネストにより打破し、労働者の組合(革命的サンディカリスト)が国家を運営する。彼らは少数の支配層よりも多くの人民の利益を代表するから、よりよい大衆のための社会ができるはずだ。マルクスのドイツイデオロギーに書かれていた話を思い出させる、ここに論理的破綻はない。

上部の命令によるのではなく、末端の兵士は自らの栄達のために戦闘をする。それと同じく理想の社会のため、革命闘争に参加せよと呼び掛けるソレルのやり方は、おそらく最も効果的なものだろう。語られた理想論をより現実に適用しやすいよう調整していく努力は、とくに上記引用の最後の部分(「付論1 統一性と多様性」より)に書いてある通り、単に統一を目指せばいいのではなく、現実を見てそれに合うように理論構築をしていこうとする姿勢は、現代性を失わない。

論理的にも整合性がとれ、現実に合うように理論を構築していった社会主義者たちがいたなかで、なぜソ連は崩壊したのか。理想や理論よりも強力な、人を想定外の方向に動かす何かが、現実には存在したのだろう。