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必要な喧嘩には必ず勝て

佐高信, 佐藤優(2014)『喧嘩の勝ち方―喧嘩に負けないための五つのルール』光文社

佐高 佐藤さんね、これは私もびっくりしたけども、経済界では社長になっても満足しない人が、結構いるんですよね。昔取材したある企業トップが本音として言ってたけども、社長になったら次は会長、会長になったら、またなんとか鉄鋼連盟みたいな業界団体の会長とかになりたいって言うんだよね。
佐藤 最終的には経団連会長。
佐高 そう、それと勲章ね。
(本書 pp.36-37)

佐高 (前略)やっぱりある種喧嘩っていうのは、自分が勝者だと思っている人に対して売るわけですよね。
佐藤 そうです。喧嘩は強い者に対してぐんと出るんです。弱い者に対するのは喧嘩って言わないでイジメって言います。
(本書 p.207)

評論家の佐高信と佐藤優の対談。喧嘩とは何か、何のためにするかに始まる。でも勝てる喧嘩しかしてはいけない。となるとどうすれば喧嘩に勝てるのか。実例を元に本書でも喧嘩を繰り広げていく。

喧嘩をするにも作法がいる。一つは同じ価値基準を持っていること。話が通じ合わない相手とは喧嘩ができない。そういう人にからまれたら逃げるしかない。話の通じる相手で、ほうっておいたら影響が大きすぎる場合、これは喧嘩をすべきである。だから本書では猪瀬直樹(当時は東京都知事)や曾野綾子に喧嘩を売っている。そのときも、引用の通り相手の研究を行って、作法にのっとるのが肝要だ。その喧嘩は周りも見ているから。

かつて文章で喧嘩を売ったのに上から圧力をかけてきた政治家、アンフェアなことをした政治家などは実名を挙げて断罪されている。政治家の発言を「喧嘩」という切り口でアプローチしていくと、戦争を起こすかもしれない喧嘩を無意識的にやっている猪瀬直樹、猪瀬と同じ反知性主義だけど戦争を起こすまでにいたってない橋下徹、喧嘩してるフリの石原慎太郎など、それぞれのスタンスが見えてくる。

喧嘩はしてはならないものではない。言論の自由がある以上は自分と違う意見の人が出てきたら大きな声で質せるのが「風通しのいい社会」だ。同調圧力で「喧嘩のないのがいい社会」といった反喧嘩主義的平和は息苦しい社会なのだ。闊達な対話を通してよりよい社会にしていくために喧嘩のできる社会にすることが必要なのだ。

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苦手な人とも上手に付き合うコツがある。

佐藤優(2013)『人に強くなる極意』青春出版社

僕の感覚では、ビジネス上のそのような飾らない関係は、通常の業務なら40歳前後のベテランになれば社内外に20人~30人くらいはできると思います。(本書 p.93)

外国から証人を呼ぶための経費や弁護士費用などで、ざっと2000万円はかかりました。この費用は税控除にならないので、実質的には4000万円以上捻出しなければならない。同志社大学時代の旧友たちのカンパもあり大いに助かりましたが、かなりの額を塀から出た後の著作活動d捻出しなければならなかったのです。(本書 p.186)

いわずと知れた佐藤優が連載したものをまとめた本。外務省でソ連・ロシアとの外交交渉を行ったほか、東京地検に起訴されて検察官との交渉まで行ったという貴重な経験を持つ筆者のノウハウが詰まった本。筆者は人生でなかなか経験できないことは小説を読むことで疑似体験することを勧める。ソ連崩壊という百年に一度ぐらいの歴史的事件に立ち会い、特捜に狙い撃ちされた筆者の経験に基づくエッセンスが詰まった本書も、それと同じぐらい有用だ。880円で手に入るノウハウは、それ以上の価値を持つ。

人が生きていく上で他者とかかわらざるを得ない。組織で働くにしてもフリーで働くにしても、そこには相手がいる。気の合う相手ばかりならいいが、決してそうではない。友人関係なら気の合わない人と付き合わなくてもすむが、仕事だと気が合わなくても(お互いがそう思っていたとしても)付き合わざるを得ないことがある。合わないんだから仕方ない、では解決にならない。なぜ合わないのか。なぜそう思うのか。相手と自分を分析して合わない理由やその原因が見えてくる。

もう一つ、近年の「断る力」ブームに対して筆者は「断らない力」を勧める。特に若手から中堅のうちは断らずにいろいろと試してみたほうがいい、それは上司や周りが見ているから、と。そこから人間関係が広がり、世界が広がり、ダイナミックな人生に漕ぎ出すことができるのだ、と筆者は説く。

本書の根幹はここなのだ。合わない、無理と思考停止に陥らないで、どんな状況でも落ち着いて距離を置いて自分とその周りを見渡す。そこで自分にとって、自分の将来にとっていい方向になるように舵取りをする。合わない人ともなぜ合わないか考える。多くの仕事も断らずに、分量や難易度を考える。実際に仕事に追われていると大変難しいし、ぼく自身もそれはできているとは言いがたい。

忙しいときに本書を読もう。なぜ忙しいのか、忙しさには意味があるのか。本書は周りを冷静に見つめなおし、自分の仕事を考えるきっかけになる。

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異様な知性が生まれた理由

佐藤優(2014)『先生と私』幻冬舎

2日後、団地の集会場で行われた告別式には、数百人が集まった。(中略)僕は、心の片隅で「ライバルがいなくなってほっとした」と思った。「何てことを思っているんだ」と僕はその気持ちをすぐに心の底に押し込んだ。そして、この気持ちは僕の心の底で、澱になった。(本書 p.201)

「(前略)大人の社会は利用、被利用が基本だ。利用価値がない人間は切り捨てられえるか、ぞんざいな取り扱いを受ける。お父さんが優君に技術者になってほしいと思ったのは、手に職があれば、他人から軽く見られずに給料を稼ぐことができるからだ」(本書 p.232)

本書は外務省を偽計業務妨害で追われた佐藤優の少年期~青年前半期の自伝で、次に出る『十五の夏』の前編という位置づけだ。『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』以来、国家や民族、マルクス主義や歴史について異様ともいえる知性を披瀝し続けてきた佐藤優がライフワーク的に書き続けている自伝の一部だ。

優少年は電気技師の父と、沖縄県久米島出身で看護学校で学んだ母の間に生まれる。本書のカバーはその母との久米島でのツーショットだ。両親は高等教育を受けていないし、戦争があって事情が許さなかった。だから優少年にはいろいろと学んでほしいと思っている。だけど教育熱心という感じではない。むしろ優少年の好奇心を伸ばす形でサポートをする。アマチュア無線がほしいといえば無線の講習会に送り、機械も買ってあげる。自分たちの手に余る質問をしてくるようになったら、清水の舞台から飛び降りる気持ちで百科事典を買う。いろんな世界を見せるために返還前の沖縄や尼崎にいる社会党の市会議員をやっている叔父の家に送ったりする。

小学校のときに肝機能の低下で半年ほど学校を休んだ優少年は、学校の勉強に遅れてしまうのではと心配する。だからみんなに追いつくために塾に入る。入った塾で教え方のうまい国語の先生と算数の先生に会ってから興味の幅が劇的に広がる。小説の読み方や少し背伸びをして哲学書を読むことも覚えた。塾の先生に質問をすると、先生たちは学び方の手ほどきをしてくれる。読むべき本や非ユークリッド幾何学の数学の世界、学生紛争や社会主義について、優少年の質問に一生懸命答える形で答える。優少年はさらに興味を伸ばす。

好奇心の強い少年とその一歩先を照らす先生や両親との化学反応で佐藤優という知性が形作られたのがよく分かる。物怖じしない知的好奇心が旺盛な少年の周りに、実力を伸ばす力のある大人が集まったのか。そんな環境だから彼の実力が伸びたのか。鶏と卵の関係だ。

学問の世界を面白く伝える教師、キリスト教の考え方を教えてくれる牧師、いろんな世界を見せようと北海道旅行やソ連・東欧の旅行へと送り出してくれる両親。優少年の興味の一歩先を照らすと同時に、いろんな選択肢を見せてさらに自分たちのオススメを示す。こう書くとamazonみたいだけど、決定的に違うのはオススメする側が自分たちの経験や考え方を元に、その理由を優少年に分かる形で伝える努力をしている。大人たちは主に以下のようなことを伝える。

  • 自分の実力から見て難しいことに挑戦しないと実力は伸びない
  • いろんな可能性を残す形で進路を決めたほうがいい
  • 本は順序だてて読まないといけない

もう少し若いときに知っておきたかった。今からでも使えるところは使いたい。

筆者はもう40年近く前のことなのに、当時の会話や食べたものまでよく覚えている。記憶力のよさは生まれつきだ。加えて中学生当時から4時間ほどの睡眠で満足できていたのだから舌を巻く。時間の使い方のうまさも、もって生まれたものも大きく影響していると感じた。

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幸せになるには資本の呪縛から逃げよ

鎌倉孝夫, 佐藤優(2013)『はじめてのマルクス』金曜日

佐藤 ですから、自己実現なんていうのは、労働力が商品化されている体制の下ではないんですよね。あえて言うならば、資本家の自己実現はある。しかし、労働者の自己実現は絶対にないんですよ。(本書 p.73)
鎌倉 ぼくも資本主義の終焉期ととらえてよいと思うが、それをどう終わりにするかは現実的に難しい。(本書 pp.101-102)

鎌倉孝夫 埼玉大学名誉教授と佐藤優 元外務省主任分析官の、マルクスにまつわる対談。話は主に『資本論』を軸に語られる。はじめてのマルクス、と銘打っているが『資本論』について多少は知らないと着いていけない。

本書の話のキモは簡単だ。サブプライムローンやワーキングプアなどが増えた現在は、まさに資本主義の終焉期に入っている。では、これからどうやって資本主義とは違う社会を作っていくか。一つは社会主義なんだけど、もはや現実的ではない。資本の暴力性を乗り越えるためには、どういう可能性があるのか。二人の碩学が意見を交わし、現実的な解答を導き出そうとする。

焼き鳥屋で飲み食いしたのに、原価20円ぐらいの紙きれでそれが払えると考えるのはイデオロギーだ、株でお金が増えると考えるのもイデオロギーだ。イデオロギーとは一種の政治的見解だ。必ずしも真実ではない。資本の呪縛から逃れられないために、人は紙幣をありがたがり、法律を学び、お金で関係を築こうとする。

原点に立ち返ろう。貨幣の誕生以前は物々交換が行われていた。そこでは貨幣が存在せず、モノとモノを介した人々のかかわりが構築されていた。しかし、大都市に住んで小さな共同体が崩壊した結果、地縁血縁で結びついていた人々が貨幣や資本を介して人とかかわりを築くようになる。この転倒がすべての不幸の始まりだ。労働者は資本家に搾取され続ける。資本をもたない労働者は資本家に労働と時間を提供し、資本家は労働者が再生産(子孫を産むこと)できるようにお金と余暇を与える。暴力的収奪からは、労働者である限り逃れられない。しかし、ワーキングプアなどで再生産が出来なくなってしまった今は、末期的状態なのだ。

これを解決する方法は一つ。資本を介したかかわりより前のあり方に立ち返るのみ。人と人との、資本を介さない(でもモノは介す)なまのかかわり。ソ連崩壊時の年率2500%のハイパーインフレでも人々が生き残れたのは、資本以外にも人々を結びつける回路があったからだ。

沖縄には模合(もあい、本土の無尽講や頼母子講)が残っているので、そうした回路があるのだろう。日本ではどのような形で人と人との資本を介さないかかわり方が築けるのか。そして今の私たちに出来ることは何か。二人の碩学は対談を通して、考えるきっかけを与えてくれる。

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竹林に行くと美女がいる?

森見登美彦(2010)『美女と竹林』光文社

登美彦氏は腕組みをして考えていたが、「何でもいいから書いてみろ。この世にあるもので、やみくもに好きなものを書いてみろ」と自分に言い聞かせた。そして、まるで書き初めをするかのように背を伸ばし、厳粛にボールペンを握って、手帳に大きく書いてみた。

「美女と竹林」
(本書 pp.11-12)

こうして無理から始まった連載は、やみくもに始まっただけあって迷走する。

たまたま職場の同僚の鍵屋さんが持っていた竹林は手付かずで、手入れされるのを待っている。そこに竹林を美女と同じぐらい愛してやまない登美彦氏が現れる。

登美彦氏の夢は遠大だ。竹林から切り出した竹で門松や竹とんぼを売り、たけのこで稼ぐ。将来は竹林が再注目される時代がやってきて、登美彦氏の竹林事業は大成功。弁護士を目指す友人の明石氏に顧問となってもらい、MBC(森見バンブーカンパニー)を設立する。

まずは手始めに手付かずの竹林の手入れから、となるのだが、そこにも困難が立ちはだかる。登美彦氏は勤め人である。土日しか休みがない。加えて作家である。土日は執筆でつぶれる。すべての仕事が計画通りに終われば竹林の手入れも出来るのだが、計画は往々にして遅れる。さらに天気や体力といった副次的要素にも左右される。

本書を読んでいると、登美彦氏の周りにはすばらしい友人がいる。「竹林の手入れをしよう」とメールして「ええよ」とすぐ返信する弁護士を目指している友人の明石氏、竹林を貸してくれた鍵屋さん、連載と竹林への興味のためにやってくる出版社の人々。みんな、力みすぎない登美彦氏のふしぎな魅力に絡めとられて巻き込まれる。つい読み進めてしまう読者もご他聞にもれず。

果たして登美彦氏の野望は達成できるのか。それ以前に本書の結末はうまく結べるのか。二つの意味でハラハラさせられる、少しゆるい作品。疲れた日にはこれを読もう。元気が出たら竹林に行こう。そこには美女がいるかもしれない。美女と竹林、このタイトルの謎は本書で明らかにされる。すると竹林に美女がいるかも、と思えてくる。