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世界的な知性が歴史の転換点に直面したら

カール・マルクス著 植村邦彦訳(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界指摘事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。(本書 p.15)

分割地農民の間には局地的な関連しか存在せず、彼らの利害の同一性が、彼らの間に連帯も、国民的結合も、政治的組織も生み出さないかぎりでは、彼らは階級を形成しない。だから彼らは、自分たちの階級利害を、議会を通してであれ、国民公会を通してであれ、自分自身の名前で主張することができない。彼らは自らを代表することができず、代表されなければならない。(本書 p.178)

マルクスのジャーナリスティックな本としては有名な本書は、ジャーナリスティックな側面と思想的な側面で高い評価を受けている点で異色の本だ。

古典に秀で、ヘーゲルなどの哲学を読み込んでいたマルクスがフランスの政変に際して書いた評論である。弱冠30歳で目の当たりにしたクーデターを論じた本が150年を経た今でも読み続けられている。人によって様々な読みを可能にしており、古典的名著の定石を踏んでいる。

本書の評価は様々だ。おそらく最も有名な2箇所が上記で引用した部分だろう。マルクスは全編を通じて、なぜルイ・ボナパルトがクーデターを成功させたのか、その社会的、制度的条件や当時の情勢などを、時には深読みではないかと思うぐらいの深慮でもって分析する。資本論で見られる、ひとつの現象をひたすら深く考えぬくマルクスの姿勢が出ている。上記に引用した箇所も深読みではあるが、正鵠を射た分析を行っている。

今回紹介した平凡社版では巻末の解説を柄谷行人が書いている。60年ごとにやってくる「抑圧されたものの回帰」を読み解くには、1870年代の空気を知る必要があり、マルクスによって書かれた本書は非常に有用だと述べている。1990年代という時代を分析する手がかりとしても重宝されていたことが分かる。

サイードが引用し、レヴィ=ストロースが知的刺激を受けるために毎日数ページずつ読んでいたという本書を通して、数百年に一人の天才の早熟も理解できる。

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腰かけのつもりの仕事を極めて第一人者になった話

小塚昌彦(2013)『ぼくのつくった書体の話』グラフィック社

最終面接で将来の希望を聞かれた際に、私が迷わず「新聞記者になりたい」と言ったところ、面接官であった工務局長が「君にとって工務局は腰かけのつもりか?」。それに対して躊躇もなく「ハイ」と答えたものです。(本書 p.15)

世界の中で少し立ち後れていた国々と、タイプフェイスをつくりづらい構造の文字を持つ国々がほぼ一致していたことは、示唆深い現象だといえるかもしれません。(本書 p.144)

Illustratorでテキストを書くときデフォルトで選択される日本語フォント、小塚ゴシック。その開発者の自伝だ。淡々と自分の生い立ちから仕事のことを語っていく中で、徐々にその中で気づいたことが思想となってフォントへと反映されていく過程が描かれる。

単なるはやりのグラフィックデザイナーかと思ったらそうではない。毎日新聞に活版印刷時代から在籍し、金属で活字を作っていた職人だ。金属の活字から写植、タイポグラフィと変遷の激しい印刷技術の第一線で活躍していた人なのだ。しかも入社のきっかけが父が亡くなって大黒柱として働かなくてはいけなかったからだ。進学校の中でただ一人就職した負い目を感じながらの上京だった。

毎日新聞の工務局に配属され、活字を作る仕事をし始めてから、面白さに気づいて没頭する。戦時中の資材に制限のあった頃のまま引き継がれていた小さい活字を読みやすい大きなものに変えたり、従前の毛筆時代の活字から硬筆(鉛筆、ボールペン)の時代に合うような活字を作る。Illustratorなどに入っている小塚ゴシック、小塚明朝は横書き時代に合ったフォントだ。ただ受け継いだ伝統を守っていくのではなく、時代にそぐう字を開発し、提供する柔軟な姿勢には頭がさがる。職人気質の世界で育ったのに、どうしてそんな柔軟性が備わったのだろう。

本書を読んでいると活字づくりの様々な試みをしていて、毎日新聞も余裕があったのだと感じられる。朝毎読と呼ばれるだけあったのだ。Adobeに移ってからは四半期ごとの決算なのでフォントづくりのような長期のプロジェクトは危ない橋をわたっていると感じることもあったという。活字やフォントを作るには時間とお金がかかるのだ。

実はこれまで小塚ゴシックとは違うフォントを選んでいた。新ゴが好きだったから。だけどその新ゴも小塚さんが作ったと聞いて、結局ぼくは巨人の手のひらの上で踊っていただけであることを悟った。フォントの海は果てしなく広い。

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レビュー 河合隼雄学芸賞

台所を通して国民を作り変えたナチス

藤原辰史(2012)『ナチスのキッチン-「食べること」の環境史』水声社

しばしば食文化研究者は、レシピを実際の食生活を反映する史料として用いるが、これは危険な作業といわざるをえない。むしろ、人びとの未来の食生活の理想を表わしている、といえるからである。(本書 p.262)

健康的な兵士と、それを生む母を量産するためには、食を通じて国民の健康を管理しなくてはならない。(本書 p.292)

しかも、身体によい食事をとるのは、自分の長寿のためではなく、皮肉なことに、兵士として戦場に短い命をささげるためである。(本書 p.304)

第1回河合隼雄学芸賞を受賞した本書は第一次大戦後から第二次大戦にいたるドイツの台所の歴史を扱った労作だ。

カバーにはヒトラーの写真を前に横一列に並ぶ軍人と「ベルリンは今日、アイントプフの日(Berlin isst heute sein Eintopfgericht)」と書かれた横断幕の前でスープをすする人々が写っている。

この写真はいったい何なのか?

これはナチスが奨励した、みんなでアイントプフ(ごった煮)を食べる会の風景だ。

ナチスは「正しい食事」を設定し、ドイツ国民の食事を型にはめた。引用したとおり、健康的な兵士をつくり、それを生む母を量産するために、食べることを統制した。

19世紀までは各家庭が暖房兼調理場のかまどで料理を作っていたが、まずは調理の効率化のため、暖房と調理を切り離した。キッチンの誕生だ。さらにキッチンの効率化を図った。できるだけ小さく、できるだけ効率よく使えるようにコンパクトなサイズで収納も多く取った。だが、これは決して家庭労働を楽にしなかった。できることが増えるとすることも増えるのだ。おりしもドイツでは使用人が解放され、一般家庭の主婦にかかる労働負荷が増えた。

そこでレシピが誕生した。レシピを通しておいしくて効率のいい料理方法を教え始めた。当時広がったラジオも活用し、全土にレシピを広めた。

そこで冒頭の写真のような場面が出てくる。政府の推奨する料理(アイントプフというごった煮)をみんなで食べる。安価で栄養価の高い料理をみんなで食べて、浮いたお金は募金に回し、社会福祉へと役立てる。

これは階級をなくし、全国民を「民族共同体」としてつなぎとめる効果があった。まさにナチスの政策の極地だ。

恐ろしい話のように聞こえるが、決して他人事ではない。ナチスが広めた「健康的な料理」の系譜は、回りまわって現代を生きる我々にも引き継がれている。糖質ダイエット、低カロリーの食事など、現代を生きる我々もまだ、栄養成分やカロリーといった栄養学の呪縛から解放されていない。

ただ、筆者は台所をめぐる暗い歴史に二つの希望を見出す。すなわち、現代では「意識的に」無視されている残飯と、食堂だ。残飯を「食べる場」へつなげることで循環型社会を作り出すこと、それと大勢で食事を取る場を設けて「作る側」と「食べる側」の垣根を取っ払い、新たな人と人との係わり合いを生成する可能性を開くこと。この二つに、明るい未来が宿るのではないか、と提言する。その可能性に期待したい。

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知の格闘技としての名画

高階秀爾(1986)『名画を見る眼』岩波書店

このような新古典主義の「理想美」の美学に対し、ロマン派は、はっきりと人間ひとりひとりの感受性を重んじた「個性美」の世界を対置させた。「美」とは、万人に共通な唯一絶対のものではなく、人によってさまざまに変化し得るものだという考え方である。(中略)万人に共通するものではなく、逆に万人にはなくて自己にのみ秘められているものを追求し、発掘することが、芸術の目的となったのである。(本書 pp.144-145)

従来の絵画表現をすっかり変えてしまう近代絵画の革命は、マネによって幕を開けられることとなるので、クールベは、思想的には急進派であったが、画家としては、ルネッサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派閥であった。(本書 p.172)

芸術は難しい。芸術家に「どのように見ればいいのですか?」と聞いたところで「皆さんがお好きなよう見ればいいんですよ、フフンッ」と返されて、はあそうですかというしかなくモヤモヤ。そんな感じで取り付く島もない芸術を分かりやすく解説してくれる。

解説の裏側には美術史と当時の風俗、それに画家たちの伝記まで読み込んだ知識がさらりと織り込まれている。一級の解説をポケットに入れて持ち運べる喜び。まさに開眼させてくれる書だ。

たとえばラファエロの「小椅子の聖母」。サーチエンジンで調べればいくつでも画像が出てくる有名な作品だ。何も知らずに見ると普通の写実的な絵画だ。しかし著者の目を通すと奥行きが出てくる。まずは衣装の色。キリスト教の図像学では聖母は聖母愛を象徴する赤と真実を象徴する青をまとって描かれる。だからその絵でも赤い上衣と青いマントが描かれる。さらにひざの上のイエスの服を黄色にすることで、赤青黄の色の三原色を配置し安定感を出している。加えて妙に不安定な聖母の姿勢。低い右ひざにイエスをのせて左ひざをあげる不安定な姿勢をしている。この不安定な姿勢こそ、聖母からイエスの顔、左ひざという視線の流れと聖母の肩から右腕、イエスの体といったそれぞれの形を組み合わせて安定感を出すために必要なのだ。その不安定な左ひざを隠すために、あえて右奥にヨハネを配置し、不自然さを打ち消している。

名画とは画家の鑑賞者に対する挑戦であり、鑑賞者の画家に対する挑戦である。絵画は数百年のときを経ても繰り広げられる知の格闘技であり、カンヴァスはその場を提供してくれる舞台なのだ。

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幸せになるには資本の呪縛から逃げよ

鎌倉孝夫, 佐藤優(2013)『はじめてのマルクス』金曜日

佐藤 ですから、自己実現なんていうのは、労働力が商品化されている体制の下ではないんですよね。あえて言うならば、資本家の自己実現はある。しかし、労働者の自己実現は絶対にないんですよ。(本書 p.73)
鎌倉 ぼくも資本主義の終焉期ととらえてよいと思うが、それをどう終わりにするかは現実的に難しい。(本書 pp.101-102)

鎌倉孝夫 埼玉大学名誉教授と佐藤優 元外務省主任分析官の、マルクスにまつわる対談。話は主に『資本論』を軸に語られる。はじめてのマルクス、と銘打っているが『資本論』について多少は知らないと着いていけない。

本書の話のキモは簡単だ。サブプライムローンやワーキングプアなどが増えた現在は、まさに資本主義の終焉期に入っている。では、これからどうやって資本主義とは違う社会を作っていくか。一つは社会主義なんだけど、もはや現実的ではない。資本の暴力性を乗り越えるためには、どういう可能性があるのか。二人の碩学が意見を交わし、現実的な解答を導き出そうとする。

焼き鳥屋で飲み食いしたのに、原価20円ぐらいの紙きれでそれが払えると考えるのはイデオロギーだ、株でお金が増えると考えるのもイデオロギーだ。イデオロギーとは一種の政治的見解だ。必ずしも真実ではない。資本の呪縛から逃れられないために、人は紙幣をありがたがり、法律を学び、お金で関係を築こうとする。

原点に立ち返ろう。貨幣の誕生以前は物々交換が行われていた。そこでは貨幣が存在せず、モノとモノを介した人々のかかわりが構築されていた。しかし、大都市に住んで小さな共同体が崩壊した結果、地縁血縁で結びついていた人々が貨幣や資本を介して人とかかわりを築くようになる。この転倒がすべての不幸の始まりだ。労働者は資本家に搾取され続ける。資本をもたない労働者は資本家に労働と時間を提供し、資本家は労働者が再生産(子孫を産むこと)できるようにお金と余暇を与える。暴力的収奪からは、労働者である限り逃れられない。しかし、ワーキングプアなどで再生産が出来なくなってしまった今は、末期的状態なのだ。

これを解決する方法は一つ。資本を介したかかわりより前のあり方に立ち返るのみ。人と人との、資本を介さない(でもモノは介す)なまのかかわり。ソ連崩壊時の年率2500%のハイパーインフレでも人々が生き残れたのは、資本以外にも人々を結びつける回路があったからだ。

沖縄には模合(もあい、本土の無尽講や頼母子講)が残っているので、そうした回路があるのだろう。日本ではどのような形で人と人との資本を介さないかかわり方が築けるのか。そして今の私たちに出来ることは何か。二人の碩学は対談を通して、考えるきっかけを与えてくれる。

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歴史をつくった負け組みたち

山口昌男(2005)『「敗者」の精神史〈上・下〉』岩波書店

覚馬も結局は、公の世界に足を突っ込む権威高官の地位に身を置かないという意味では、敗者の立場を貫いたと言えるのかもしれない。覚馬なくば、京都は学問の府の位置を獲得することなく、影の薄い第二の奈良というにとどまったかも知れない。このような覚馬に対して与えられたのは、従五位という位であった。(本書上 p.319)

薩長閥を中心に原型が形成された、近代日本の単一階層分化社会による学歴・政治・経済の堅い組織が行きづまりを見せている今日、薩長閥的官僚機構から排除されるか、一歩外に出た人士が形成したネットワークは、人は何をもって他人とつながるかという点で示唆するものが極めて大きいと言わなければならないだろう。(本書下 pp.442-443)

歴史に残る負け組みたちの話である。もともとユリイカに連載されていたものだけあって、学術書っぽくはない。しかし、ここにこそ山口昌男の博覧強記ぶりがいかんなく発揮されている。

本書の言う敗者とは、明治維新後に賊軍となった幕府側の人たちを指す。政治的な配慮から、彼らは明治新政府で重用されず、公的に活躍する場は与えられなかった。

しかしそこは幕臣、優秀な人材も多かった。戊辰戦争で負けた会津藩出身の山本覚馬は同志社を作ったし、静岡に逃げた徳川家臣の一人、渋沢栄一は近代日本の土台を作った。

学問のヒエラルキーをつくる近代科学とは相いれない、学問の曼荼羅を形成する本草学をはじめとする江戸的学問を推し進めて、鳥居龍蔵や柳田国男に疎ましがられた山中共古など、公ではない私の世界で、政財界ではなく市井で存在感を示した人たちが多くいた。

実力ある人は一つの世界で重用されなくても、別の世界で活躍の場が見つかる。そして、ネットでつながった今こそ、あらたな活躍の方法があるのではないだろうか。著者は明治維新後に敗者がもう一つの日本をつくったのに、なぜ戦後はそれが起きなかったかいぶかしがるが、それは当然、明治維新では国内に勝者と敗者ができたが、第二次大戦では一億総敗者だったから、国内でヒエラルキーができなかったのだ。逆に格差社会の今こそ、負け組の巻き返しを図るタイミングだと言える。

この本の特徴として、引用が多いのが気になるが、ほとんどが古書店でしか手に入らない本からのものゆえ、それもやむなしなのかな。

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国境線が無いまま700年。大国家ローマ帝国が30年で自壊した理由とは?

南川高志(2013)『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店

現代的観点からすれば、特定の民族にこだわらない寛大な措置と見えるかもしれないが、そもそもローマ人は「民族」という考え方を19世紀以降のような特殊な意味で理解していなかった。皇帝たちは彼らの実力を認め、重用した。「特別の事情」でもない限り、彼らを退ける理由はなかったのである。(本書 p.156)

ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか1600年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである。(本書 p.207)

ローマ帝国は紀元前3世紀から5世紀後半(476年)にかけてローマを中心に強大な力を誇った帝国である。その領地は現在のスペイン、イギリス、ドイツ、ギリシャ、トルコ、そして北アフリカにまで及ぶ。北欧などの一部を除いて、全欧州を手中に入れていた。

本書はローマ帝国が栄華を極めてから衰退していく過程を分かりやすく描いている。ローマ帝国はイタリアを統一したローマ人たちが領地をどんどん広げていった。

その際、彼らが行った方法は地元有力者と「共犯関係」を持つことだった。地元有力者をローマ軍に入れることにより、彼らをローマ人として扱ったのだ。いざというときローマ軍として戦ってくれたらいいだけだから、平時は割りと自由だった。軍隊は国境警備をせず、国境区域(ゾーン)を設けて、そこでの商取引を自由にさせた。

ローマ帝国で高い地位といえば、文官、武官や元老院議員がいる。当初、血統主義でエリートの地位が受け継がれていたが、家系が途絶えるとイタリアや属領の地方から有能な者をエリートに登用した。そんな空気があったからこそ、偏狭の地のドナウなどでも有能な者があればエリートに登用された。もともとローマ人でなかった者が司令官や皇帝になり、生まれながらのローマ人を率いた。

それほど、栄華を極めたローマ帝国は寛容だった。

ローマ帝国が斜陽を迎えたのは4世紀後半である。東からフン族の流入し、その地に住んでいたゴート人が隣接するローマ帝国の地方武官に助けを求める。迎え入れるほうは彼らに食料を提供するどころか、高値で売りつけ、こともあろうにゴート人の司令官の殺害まで企てる。ローマ人の対応に怒りを覚えたゴート人が、フン族とともにローマに攻め入った。そのとき、同時にブリテン島など他の地方でも蛮族の襲来を受け、対応しきれなくなったローマ帝国は一気に崩れてしまう。

本書を読む限り、ローマ帝国の自壊には多くの偶然が重なっていたようだ。皇帝の地位をめぐる内紛、東や北から偶然の同時多発的な蛮族の来襲。歴史にイフはないが、どれも少しずつタイミングがずれていれば対応できたかも知れない。

本書では自壊の原因の一つに寛容さの喪失を挙げる。かつてはローマ人として扱われた辺境の地の人たちも、ローマ人と同じ言葉を話し、格好をした。しかし後年、ローマ人として扱われても蛮族の格好をしたまま町を歩く人々が増えた。そこから、よそ者への目が厳しくなり、蛮族とローマ人の軋轢が深まっていった。筆者はこの軋轢こそが、ローマ帝国自壊への引き金になったと見る。

しかし、ここで疑問が出てくる。なぜ軋轢が生じたのか。辺境の人たちがローマ人の格好をしなくなったのは、ローマにそこまでの威光を感じなくなったからに違いない。なぜそこまで威光が落ちたのか。そこにローマ帝国自壊の序章があるのではないか。史料的な限界があるとはいえ、気になった。

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メディアが世界を変えていく

フリードリヒ キットラー著, 石光泰夫, 石光輝子(2006)『グラモフォン・フィルム・タイプライター』筑摩書房

拍節とリズムをともなった(近代ヨーロッパの言語では韻も含む)抒情詩の起源には、口承文化という条件の下での技術的な問題とその解決ということが横たわっていた。(中略)こうした必要性がすべて消滅したのは、技術を用いて音響を保存することができるようになってからである。(本書上巻 p.193)

映画は人生を痕跡保存(証拠保全)に変えてしまう。ゲーテ時代に、真実が詩(文学)によって教養になり下がったようなものだ。だがメディアは冷酷だから芸術のように美化してはくれない。(本書下巻 p.55)

『銃・鉄・病原菌』に先立つ、三名詞タイトルシリーズの嚆矢。メディア論と言えば本書、マクルーハンの後継者と言えば本書と紹介されるぐらい有名な本。ただ、長い。必要以上に長い。

中身については面白い部分もある。グラモフォン(蓄音器)を使うことで人間は生の音データをすべて記録できるようになった。これまでは文字を書くしかなかったのに、その必要が無くなった。その音を遠くに飛ばすため無線機が発明された。大体こういう発明は軍事技術と相場が決まっているもので、当初は暗号通信に使おうとした。だけど無線機は暗号通信に向かなくて、遠く離れたところに声を伝えられることはできても、みんなが傍受してしまう。これを逆手にとってラジオが広まった。

フィルムに関しても同じで、生の動きを切り取って、再現して見せるフィルムができたというのに、結局人々はグラモフォンの技術と合わせて何を作ったかというと、前時代に作られた文学作品を映画にすることだった。

タイプライターについても同様で、当初は盲人が手紙を書くために医師が発明したものが、違う使われ方をしていった。目の悪かったニーチェあたりがまず使い始め、タイピストという職業が生まれ、世界が爆発的に「書くこと」に目覚めた。この結果、DSP(デジタル・シグナル・プロセッシング)が開始され、コンピュータの開発へと至った。

いつの時代も、メディアは発明者の目的通りに使われない。人々が使いたい手法で、かつ最大限の効用をもって、その真価を発揮する。

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番地と地番の違い、知ってる?

今尾恵介(2004)『住所と地名の大研究』新潮社

晴れ渡った秋空なのに、役人は外へ出るのではなく机上の地図を前に考える。よーし、この古臭くてわかりにくい町に、整然とした丁目や番地をつけてやろう、と。地図を前にした都市計画担当者は、もう王様の気分である。私はこのマチに秩序を与えるのだ。しかし机上で考えられた番号は、しばしば不便を引き起こす。

本書 p.251

なぜ住所はかくも複雑なのか。なぜ外国の住所はわかりやすいのか。そしてなぜ網走には番外地があるのか。こうした「なぜ」に答えをくれるのが本書だ。著者の住所と地名に対する情熱には恐れ入る。

これまで地名については、北海道のアイヌ語源の地名など言語学の分野で研究されてきた。それは人々がどのような意味をこめて地名を名づけたのかを研究しており、都市や国家といった体制(または権威)の地名の扱い方については扱ってこなかった。いや、言語学の範囲外だから扱えない。

本書はその空白を埋める労作だ。幕藩体制化の地名が明治の地租改正でどのように変えられたか、現代にいたるまでの変遷を明らかにしていく。その中で「欧米の住所表示は分かりやすい」といううわさが本当か試しに欧米に飛んで調査をし、なぜ日本と欧米でそのような違いが生じたのかを検討する。 日本の住所も一筋縄ではいかない。京都の独特の地名表示や同じ碁盤の目の都市である札幌の住所表示、なぜか番地の数が大きい長野県、番地の番号の振り方が独特な青森県十和田市、住居表示が独特な山形県東根市、激烈な町名変更が起きた名古屋市。総務省(旧自治省)は全国で統一的な運用を図ろうとするも、そうは行かないのが現実だ。規則と現実の折り合いをつけた結果、各地で例外が生じた。

その例外に、人間くさいドラマがある。

画一を目指す役人と、愛着と地域のつながりを町名に結びつける住人とのやり取りが、町名の変遷に現れている。最後は著者も自ら住んでいた日野市の字「下田」を残すべく奮闘努力するが、あえなく隣接する字「万願寺」に吸収されてしまう。が、同じく吸収されるはずだった字「石田」は当時のNHK大河ドラマ「新撰組!」で地元出身の土方歳三が注目されるからという高度な政治的判断で一転存続を許されることになる。地名には複雑な力学が絡む。出来る限り古い地名を大事にしよう、という著者の姿勢にはちょっと着いていけないところもあるが(言語学だと言葉が変わるのは当然のことだから)、違う世界が垣間見られて大変勉強になる。

欧米の住所表示をほめつつも、ぼくが知る限り2点の取りこぼしがある。1点は台湾の住所だ。著者も指摘してるとおり、台湾は日本統治時代につけられた日本的な地名を消すために、新たな地名がつけられた。そのため、全国の都市に中山路や中正路が生まれた。民権など、古くからの地名とは関係のない名称がつけられた。これは問題ではないのか。あともう1点は要望。バンコクの住所表示も分かりやすいことで有名なのでぜひ取り上げてほしかった。世界各地の北朝鮮大使館に行くのを趣味としている僕にとって、バンコクほど簡単にいけるところはなかった。タクシーの運転手さんに住所を見せたら迷わず着いた。

さて冒頭の問いの答え。番地と地番はともに土地につけられた番号で、ある一定の区画を区別するときに使う。番地は土地の上にある建物について、どこどこに所在するというときに使う。地番は土地そのものを示すときに使い、特に不動産取引などで使われる。これに加えて日本では住居表示という住まいを示すものもあり、三つのレイヤーがかぶさっている。あと、番外地は実は無番地と呼ばれるもので、民法上持ち主のいない土地(国有地)のことだ。だから刑務所、自衛隊基地や四ッ谷駅(これは江戸城の外堀だったから)なども無番地ってわけなのだ。(関連リンク:東京にある無番地(デイリーポータルZ))

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レビュー 芥川賞

沖縄から離れない影

大城立裕(2011)『カクテルパーティ』岩波書店

やっぱり卑怯だ」小川氏が叫んだ。「そのような話にそらして、いま当面の話題からにげようとしている」 「そうですね」孫氏は、ほとんど涙ぐみながら、「ただ、あなたがたが当然考えるべくして考えてなかったことを言ったのだということも事実です。もちろん私が正しかったとはいいません」(本書 p.211)

亀甲墓、棒兵隊、ニライカナイの街、カクテル・パーティとその戯曲編の5部構成の、沖縄を舞台とした短編集。筆者も沖縄人なので、沖縄文学である。前半から後半にかけて、戦中から戦後へと時代は下っていくが、それでもなお沖縄戦や軍隊といった問題がずっと横たわる。はじめの2本は鉄の暴風雨といわれた沖縄戦のさなかの話で、名士といわれた人に野菜泥棒をさせたり、無辜の市民の犠牲を望む軍隊など、極限状態にまで追い込む戦争の無情さを描いている。

一番の見所は芥川賞を受賞したカクテル・パーティだろう。舞台は一見平和そうに見えるカクテル・パーティ。そこに中国語を話す仲間として軍属の米国人に中国人とともに招待された日本人。本人がカクテル・パーティに楽しく出席している間、娘は裏座敷を貸していた米国人とドライブに行き、襲われる。不公平な法の下、男は犯人を裁くため告訴を決意する。いっぽうで友好的なカクテル・パーティを行いながらも、やはりそこには乗り越えられない壁がある。40年以上前の小説だが、その壁はいまでも沖縄に存在し続ける。国、民族、法律、友人と複雑に絡まり合う関わり合いにどう折り合いを見つけていくのかは、読者にも一考を迫られる。