鈴木俊幸(2007)『江戸の読書熱 自学する読者と書籍流通』平凡社
普通のことはあっという間に忘れ去られてしまう。際だった特色を有する思想が盛られている書籍でもなく、多くの門弟を擁して学派を形成したよう人間の著作でもない。普通の人々の日常的な需要に応えて普通に襲蔵されていたこの書籍については、おそらく普通であったがゆえに、これまで諸学の認知が僅少でまとまった研究は存在していない。普通のことは論じにくく、歴史から普通のことが漏れてしまっている。(本書 p.12)
師の手ほどきを受けるべき「読書」「素読」を独習ででも自らに課して、より高次の自己を獲得しようとした人間が少なからぬ数として登場してきており、彼らを市場として業が成り立つような世の中の情勢であったとみなすことができよう。(本書 p.242)
18世紀の末頃に全国各地で本屋が誕生しました。彼らはどのような本を売り、どのように本を仕入れていたのか。今でいう取次と小売のような関係があったことは想像に難くありませんが、実際はどうだったのか、私達は知りません。
本書では長野県(信州)を例にとって、地元の大きな本屋を中心とした本の流通経路、そして著作権という概念のない時代のベストセラーの出版、販売方法などが古典籍から明らかにされていきます。
この手の、大衆に受け入れられた本は稀覯書でもなく、供給量も多いため、古本のマーケットでも安く取引されています。その点では、思ったより安上がりで出来た歴史研究と言えるかもしれません。
江戸時代に売れたのは膝栗毛のような滑稽本、それから四書五経の解説本と位置づけられる経典余師といった書籍でした。主に江戸で爆発的に売れたあと、それぞれの地方へと伝播していきます。江戸の大きな書店からそれぞれの地方の大きな書店へと販売され、地方の大きな書店から小さな村落の書店へと流通していきました。
しかし、売れたものは誰だって自分で売りたいもの。経典余師といった解説本は自ら出版する本屋まで現れました。様々な版が入り乱れ、テレビ・ラジオ・ネットのない時代、まさに紙メディアの百花繚乱の様相を呈していたようです。
これほどまでに広がった読書熱。これも全て農民まで読み書き算盤ができた寺子屋式教育法のお陰です。だからこそ、明治維新後の急激な近代化にも混乱がありながらついていくことができました。江戸の読書熱に、近代の萌芽が読み取れます。