この人々の態度はきわめて温和で、ひかえめであった。注意ぶかく、好奇心がないわけではないが、われわれがくり返してすすめたあとでなければ、決して近づいて見ようとはしなかった。好奇心にかられて我を忘れるような行動ははしたないことだ、という上品な自己抑制を身に着けているためと思われる。
(本書 p.109)
とはいえ、琉球は貿易船の航路とは外れた位置にあり、その物産には何の価値もない。(中略)近い将来にこの島をふたたび訪れる者があろうとは思えないのだが。
(本書 p.287)
1816年にアルセスト号、ライラ号という2隻の船で琉球を訪れたイギリス人航海士たちの記録です。西欧に琉球の具体的な姿を初めて伝えた記録といえます(本書解説より)。シルクロードや朝貢貿易がありながら、琉球と西欧の直接的な接触は19世紀までなかったのが驚きです。
マクスウェル艦長たちは北京で皇帝に謁見をしようとしましたができずに終わり、広東から中国人通訳を一人連れて、朝鮮半島と琉球を経て、マラッカ海峡からヨーロッパに帰ります。結局、現在のインドネシアあたりで船は沈没し、別の船に助けられて帰ることになりました。その際に琉球で採った貴重な標本等も失われてしまいました。この航海記が残ったのは僥倖と言えます。
朝鮮半島では現地の人から冷たい対応を受けますが、琉球では一転、心のこもった扱いを受けて、一同は感激します。釣り糸を垂らすと先に魚を結わえてくれる漁民たち、船に乗り込むも、礼節を持って対応する人々、様々な階層の人たちとの交流がリアルに描かれています。
当初はなぜ琉球に来たのか、何をしに来たのか、と訝しがられますが、船の修理と補給のためと言って納得させ、地図や海図の作成を行うあたりは、さすが船乗りと思います。現代人の感覚からするとあまりにもズケズケと入って行きます。しかし琉球も外交上手で、丁寧に献上品を持って扱うし、病人には医者をよこしたりします。
疫病やトラブル防止のためか、頑なに上陸を認めない琉球側と病人のために上陸して休息を取りたい、願わくば王に謁見したいと要請するイギリス側の駆け引き、同時に深まっていく友好関係が見どころです。
交流が深まるに連れて、琉球側の役人がブロークンな英語を覚え、イギリス側もうちなーぐちを覚えたため、英琉間の通訳が行われています。当たり前といえば当たり前ですが、その様子に新鮮さを覚えました。