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朝日新聞の記者が迫った中国の内実

すでに7時間は過ぎていた。トイレに行くたびに取調官がついてくる。慣れているとはいえ、中国語での事情聴取は思った以上に神経をすり減らした。

本書 p.32

「落ち着いて聞いてほしい、将軍がなくなった。しかも数日前のようだ。」
(中略)いつも冷静な人物が焦っている。すぐに確認に走ると、2日前の12月17日朝に死去していたことが確認できた。
 12月19日正午、朝鮮中央放送が金正日の死去を伝える特別放送を流した。

本書 p.177

特に朝日新聞の中国報道について、「親中的」だという批判は根強い。1960年代の文化革命期に(中略)朝日新聞は当時の社長が「歴史の目撃者になるべきだ」として、追放されるような記事を書かないよう北京特派員に指示。当局に都合の悪いことは書かず、北京に残り続けた。

本書 p.238

朝日新聞記者だった著者が2000日にわたる中国特派員時代のうち、主にその成功談を書いたものです。最近は朝日新聞の記者だからと言って中国も手を緩めてはくれない様子がよくわかります。

しかし、著者は一般客に紛れるために鈍行列車に乗り、5つ以上の携帯電話を使い分け、時には変装をして取材に臨んだ結果、中国の奥深くに入ることができました。その結果、上にあるように金正日の死去は朝鮮中央放送の特別放送より前に知ることができました。アントニオ猪木ですら10分程度前にしか知らなかったというので、中国での情報網の太さが分かります。

北朝鮮の当時の指導者、金正日訪中をめぐる取材は執念とも言えます。北京国際空港で平壌発の北朝鮮国営高麗航空のタラップから降りてくる朝鮮労働党幹部(おそらく崔龍海か?)を確認し、過去の例から考えてその約2~4週間後に金正日が訪中すると踏みました。そしてまさに1か月後、金正日は訪中し、その幹部が下見したホテルに泊まりました。植え込みから撮影していた著者と共同通信のカメラマンは撮影後拘束され、写真の消去を命じられました。共同通信のカメラマンは何とか切り抜け、写真を報じ、2010年の新聞協会賞を受賞しました。

図們市外の中朝国境にある鉄条網

著者は北朝鮮の国境地帯に行っては十数メートルの距離で兵士を撮影し、銃を構えかけられたりなど、無礼にも見える取材をしています。しかし北朝鮮と中国の国境では韓国人や中国人が缶詰やカップ麺を投げ、それを取りに来る北朝鮮の人々を見て楽しむ「人間サファリツアー」をやっていることを苦々しく書いています。

あなたはすでに国境区域に入っています。自覚して国境の法規を遵守してください。

著者は本書末尾に新聞記者を続けるようなことを書いていますが、「週刊ダイヤモンド」に掲載する予定だった安倍晋三元首相へのインタビューを事前に見せるよう迫るなどし、退職目前に控えて1か月の停職処分となりました。今は青山学院大学の客員教授をしています。

本書は成功談の断片が多く、面白いですが、やはり同じ著者の『十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』のほうが断然面白く読めました。

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習近平にクーデター計画を教えたバイデン

柴田哲雄(2021)『諜報・謀略の中国現代史 国家安全省の指導者にみる権力闘争』朝日新聞出版

周(著者註:永康)ら「新四人組」のクーデター計画の概要は次のお様なものである。2012年の第18回党大会で、薄熙来を政治局常務委員に昇格させるとともに、周永康の後釜として中央政法委員会トップにも就任させる。薄熙来は中央政法委員会トップの権限を用いて、総書記の習近平の汚職を摘発する。そして14年に開催される中央委員会全体会議において投票により習近平を罷免し、代わって薄熙来を新総書記に選出する、その際の票のとりまとめ役には、中央委員会で過半数を占める胡錦涛派を動かし得る令計画が当たりというものだった。

本書 p.182

国家副主席だった習近平は訪米して副大統領のバイデンと会談した。朝日新聞によれば、その際、バイデンは「これは友人としてのアドバイスだ」と前置きしたうえで、王立軍が米国側にもたらしたくでたー計画の概要を、習近平に伝えたというのである。

本書 p.183

本書は中国の国内外のスパイ活動を取り仕切る公安省(中国語名称は公安部)の歴史と歴代大臣の経歴を掲載し、今後の動向まで見据えて書かれた本です。中国公安省について公開資料に基づいて書かれた本の一つの到達点ともいえるでしょう。

本書では中国共産党黎明期から現在に至るまで、公安活動に従事した幹部の経歴とその活動について詳細に書かれています。黎明期の活動のほうが詳しく書かれてあるのは公開資料が多いためでしょう。

本書では中国共産党や元公安省幹部たちが出した回想録を根拠んにしているほか、日本や海外のマスメディアの記事、そして法輪功や香港のメディアの記事を引用して書かれています。特に法輪功や香港のメディアの記事は玉石混淆であるため、どこまで信用していいかは分かりませんが、引用であげた周永康は生きた法輪功信者の臓器を摘出したなど、非人道的なことが書かれています。

ほかにも天安門事件での軍事制圧に賛成したか否かで政治生命が変わった例(賈春旺)、チベットやウイグルでの弾圧活動が評価されて中央で出世した例(陳全国)など、人の命を出世のワンステップぐらいにしかとらえていない例が多く、中国共産党官僚たちの感覚の恐ろしさを感じます。

耿恵昌(2007~16年公安大臣)などはたたき上げの公安大臣ですが、1951年生であり河北省出身であること、大学卒であること以外のプロフィールは伏せられました。これまでどういうことをしてきたかなぞの人物が大臣になったのです。そんな彼も周永康との不即不離の関係が問題視されたのか、習近平政権では退任を余儀なくされました。

中国の党官僚として出世するには能力はもちろんのこと、誰と仲良くするか(派閥)と仲良くしていた人の風向きが悪くなった時にどう対応するか(すぐに乗り換えるか否か)が大事なのだということがひしひしと伝わります。命までかかってくるのだから、高級官僚は必死になるはずです。

本書の著者はなぜか本書では書かれていませんが、おそらく愛知学院大学の研究者です。次に中国に行ったときは無事に済むのでしょうか。ここまで赤裸々に書いた本を出版したら、身の上を案じてしまいます。

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アメリカ政府から日本政府にクレームが入ったインテリジェンス報道

朝日新聞取材班(2014)『非情世界 恐るべき情報戦争の裏側』朝日新聞出版

米国は様々な情報機関の職員が複数のパスポートを持ち、観光客などの身分でしばしば訪朝して情報を集めている。いわゆるスパイで、諜報活動は映画の中だけの出来事ではない。日本のインテリジェンス関係者は「我々にはまねのできない芸当だ」と語る。(本書 p.80)

自衛隊関係者によれば、米軍も同時に数百キロ離れた海域から潜水艦の位置を把握、日本に情報を提供した。関係者は「海自の場合、近距離から数多くのソナーを使ったから発見できた。しかし、米軍のように離れた場所から潜水艦を見つける技術は今も日本にはない」と語る。(本書 p.187)

朝日新聞の牧野愛博、冨名腰隆、渡辺丘の記者3名の各国のインテリジェンスについての取材をまとめた書籍です。アメリカ、北朝鮮、中国、台湾、日本がそれぞれシリアや太平洋で行っているインテリジェンス活動を取り上げました。シリアのアサド政権が持っていると思われた生物兵器の査察について、オバマ大統領に取引を持ちかけたプーチン大統領はやはりインテリジェンスオフィサー出身だけあって、アメリカの重要さを理解した上で話を持ちかけています。

本書を読む限り、インテリジェンスの世界ではアメリカが圧勝、北朝鮮では防諜ではかなり強いことが分かります。

数百キロ離れた海域の潜水艦を探し当てるほどのソナーとエンジン音データベースを駆使する海軍、同盟国に対しても秘密にしたままの蒸気カタパルトやF-22のステルス技術を有する空軍、あえて電話をかけて声紋分析をして暗殺者を特定するCIAなど、アメリカのインテリジェンス能力は群を抜いています。日本は特定機密の保持ができないため、アメリカが分析した結果をもらうのみで生の情報はほとんど共有してもらえません。数少ない生情報は偵察衛星の写真です。しかし、こちらもアメリカ側が転送を自動設定をしているものの、設定を変えられたら情報が入ってこなくなります。だからといって特定機密保持法案が成立すれば情報共有をしてもらえるのかといえば、そうではありません。外交の世界はギブアンドテイクです。日本が情報を提供できないとアメリカはおそらく態度を変えません。インテリジェンスの世界はまさに情のない、非情世界なのです。

日本がアメリカに比べて多くの情報をとることができる数少ない国が北朝鮮です。しかし、2013年に処刑された張成沢の失脚の情報入手では韓国の情報機関に紙一重の差で負けてしまいます。北朝鮮は封鎖国家です。主要な施設や基地の間では無線をほとんど使わず、専用の光ファイバー回線で連絡しています。入国や国内移動も厳しく監視されているうえ、地下にも数千といわれる工場や基地などの施設があることから、人工衛星や電波、サイバー空間による情報入手には限界があります。しかし、たとえば金正日総書記死去のニュースは公式発表前に約30人の朝鮮労働党中央委員には連絡されました。そこに人脈があれば事前に情報はつかめました。しかし、日米韓のいずれも情報を入手できませんでした。人脈が大事なのですが、日本の場合、経済制裁以降、往来が途絶えてしまい、人脈は消えました。そのため、外務省ですらミスターXという政府の代表者とやり取りをしますが、空振りで終わってしまっています。

スパイ映画よりもヒリヒリとしたやり取りが行われるインテリジェンスの世界、その一部に光を当てた取材であり、公にしたという点で非常に価値のある本です。

本取材の結果、各国のインテリジェンス機関から記者はマークされることになります。「米国NSCの動きを報道されたことに激怒したホワイトハウスは、国務省を通じて日本外務省に厳重に抗議した。記事にはオバマ大統領とプーチン・ロシア大統領との秘密の会話など、日本政府が知りえない事実も含まれていた。」(本書 p.250)と、アメリカの不興を買ったことに始まり、韓国政府からは尾行され、北朝鮮政府では内部で敵対勢力の代表者として名指しされて入国ができなくなっています。また、記事が出てから何人かの情報源と連絡が取れなくなりました。それだけ本書の内容が真実に迫っているということでしょう。


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北京の永田町・中南海にある秘密の地下鉄

朝日新聞中国総局(2013)『紅の党 完全版』朝日新聞出版

薄熙来事件が中国の権力構造を解明する千載一遇の好機だという確信は、あった。ただ、これほど「第五世代」の人事がもつれ、指導部の混乱が表面化する未曽有の事態を招くとは、想像を超えていた。
(本書 p.11)

中国の政策決定にも関わる党関係者の一人は、今から約40年前の経験を明かす。
「中南海から人民大会堂まで、地下鉄に乗った」
(本書 pp.295-296)

薄熙来の失脚という切り口から中国の政治に切り込んだ本です。あの親中的な朝日新聞をしてもここまでしか無理だったかと思わせる箇所も多いです。

一般的には親中的なことで知られている朝日新聞ですが、やはり中国の政治の内部に切り込もうとすると厚いベールに阻まれます。たとえば共産党青年団への取材は、団員とのインタビューには成功したものの、彼らが具体的にどのような活動をしているかまでは踏み込めませんでした。

ただ、さすがは中国。公開されていない情報も人づてに聞いていくと意外な出口に突き当たることもあります。党幹部の親せきが経営している企業への突撃取材や労働教化所の写真、中南海と人民大会堂を結ぶ地下鉄の噂など、中国の新聞などでは語られない話も出てきて興味深く読めました。

最終的には取材団の目指した香港の新聞への引用までなされました。今後も、朝日新聞の中国報道には期待したいです。


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「一億総滑落社会」を変えるために政治家と語る

井手英策、佐藤優、前原誠司(2016)『分断社会ニッポン』東洋経済新報社

前原 まあちょっと愚痴になりますけれども、議員年金が2006年からなくなったんです。(中略)そうすると私は国民年金だけなんです。(中略)議員生活を終えても退職金はない。いったいどうやって生きていくかというのは、私にとっては切実な問題なんですよ。
佐藤 金持ちしか政治家になれないということになっちゃいますよね、逆に。(本書 p.107)

井手 (中略)誰ということはないですけど、明らかに金持ちのボンボンが「格差是正」と言ったらみんなシラッとしますよね。
佐藤 そう。「シャッター街をなくしましょう」って、お前のおやじが創った大会社が商店街を潰したんじゃないかというような話になったらダメなんですね。(本書 p.166)

 井手英策 慶應義塾大学教授、前原誠司 衆議院議員、佐藤優による、日本の現状をいかに良くしていくかをテーマにした鼎談本です。井手は各地を調べて、例えば富山県では女性が働きに出る率が高いが、それは三世代同居に支えられているからだといった、全国に活かせそうな地方の特色を述べています。ただ、三世代同居は今後永続的に維持が可能な制度ではないこと、正社員の配偶者は配偶者控除を受けられるのに派遣社員の夫婦は配偶者控除を受けられないなど、現状の問題点も鋭く指摘します。

 三人とも、減税一辺倒ではなくて、有効活用するのだというアピールをして税をもらえば納税者も納得するのではないか、という議論を多くしています。今後の人口減を前にして、経済成長が見込みづらいとなれば、教育無償化等で充実させ、地域や共同体で助け合って暮らしていく。そうした社会にしていくのが政治の役割であると具体例を出して語っています。前原誠司という政治家が入っているからこそ、議論に真剣味も現実味も増しています。少しは政治を信じていいのかも、と思える本です。

 前原議員は八ッ場ダムの中止から再開で批判されましたが、ダム全体の見直しをして無駄を減らしたことなど、実績はあるのに有権者からは厳しい批判を浴びたなど、政治の厳しさを覗かせる発言をしています。一方で

「国民、特に政治に翻弄され続けてきた長野含め地元の皆さんには、心からお詫びを申し上げたい」(本書 p.197、太字は筆者)

と、県と書くべきところを誤変換している。電子書籍ならしれっと訂正されるのだろうけど、ちゃんと証拠が残るのは紙のいいところですね。

 前原誠司は京大法学部時代、高坂正堯(こうさかまさたか)ゼミに所属していました。弟(*1)の高坂節三 日本漢字能力検定協会理事長・代表理事は同協会の汚職事件(刑事・民事でそれぞれ裁判になった)があったとき非常勤理事でしたが、責任を取るどころか、いつの間にかトップに就任しています。そんな同氏は東京都教育委員在任中にまえはら誠司東京後援会の代表を勤めており、これは地方教育行政法違反であることが指摘されています(罰則規定はない)(*3)。

 清濁併せ呑むのが政治、私達有権者がしっかり見て、意見を言い、判断しなくてはいけません。

 冒頭の引用の「おやじが創った大会社」は某イ○ンのことを言っているのかなと思いました。

*1 【解答乱麻】日本漢字能力検定協会代表理事・高坂節三(産経新聞)
http://www.sankei.com/life/news/140823/lif1408230011-n1.html
*2 財団法人日本漢字能力検定協会について(池坊保子ブログ)
http://yasukoikenobo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-8d56.html
*3 第177回国会 文部科学委員会 第11号(平成23年5月20日(金曜日))
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009617720110520011.htm

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資本論を知らないピケティ

池上彰、佐藤優(2015)『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』朝日新聞出版

日本も、教育と生涯給与がリンクするアメリカ型のシステムになってきた。これによる社会的なストレスがどうなるかというシミュレーションをきちんとしておかないと、大変なことが起こるかもしれない。(本書 p.44)

『資本論』は、理解するのに1年かかる。それには特定の読み方を押し付けるのではなく、論理的に正しい読み方をすることが必要なんです。(中略)しかしそこで一回その方法を身につけてしまうと、これは華道や茶道、あるいは外国語能力と一緒で、一生使って運用できる。(本書 p.141)

希望の資本論 ― 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか

不安な時代だからこそ『資本論』を読みなおす。

『資本論』はソ連の崩壊で共産圏がなくなった今、無価値になったのではありません。逆に今こそ、共産主義者というレッテルをはられず、虚心坦懐に『資本論』と向き合える時代なのです。

現代社会は全世界的に格差が増えています。賃金が上がり派遣社員が増えているということは、正社員の収入は増える一方、100円均一や吉野家などを使えば派遣社員も安い給料でもどうにか暮らしていける世の中になっているということです。しかし、結婚や子育てとなるとお金がかかります。経済の格差が教育の格差へとつながり、階層が固定化されます。そこでたまった鬱憤は、いつか何らかの形で発散されるはずです。それが、ISだったり新興宗教だったりします。

そんな不幸な時代だからこそ、『資本論』が役に立ちます。

『資本論』を読むと、資本主義経済の限界が見えます。そして自分はその中でどのような位置にいるか、全体の潮流に巻き込まれないためにはどうすればいいのかを判断する力が、『資本論』によって身につきます。生きづらい世の中を少し突き放して見ることで、巻き込まれないようにする。そういう人を少しずつ増やしていって社会を変えていければ、世の中がましになりそうです。

巻末には『21世紀の資本』の著者、ピケティと佐藤優の対談が収録されています。ピケティは『資本論』について「読むのはとても苦痛です」と語るほど、マルクスについては重要視していません。彼は多くのデータを集め、誤りがあったら修正していく形で現代社会の経済を明らかにし、格差是正を政治に求めます。政治で格差が解決できるはず。彼はあくまでも理性を信頼します。

一方、『資本論』はあくまでも労働者を生かさぬように殺さぬようにするのが資本家だと指摘します。理性を信じるかどうか。ここがマルクスとピケティの大きな違いと言えそうです。

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冒険上手な怠け者

森見登美彦(2013)『聖なる怠け者の冒険』朝日新聞出版

 記者は「あなたを何と呼べばよろしいですか?」と訊ねた。
怪人は胸を張ってこたえた。
「『ぽんぽこ仮面』と呼ばれることを希望する」
(本書 p.16)

2014年本屋大賞ノミネート作で、森見登美彦3年ぶりの長篇小説だ。舞台はやっぱり京都。怠け者が昼寝をしながら解決していく大冒険のお話だ。

ある日、京都の町に人助け専門の怪人が現れた。迷子の子供を助け、老人の荷物を持ってあげる、等身大の心優しさがある四畳半的怪人だ。その名を八兵衛明神の使い、ぽんぽこ仮面という。

ぽんぽこ仮面が突如、後継者として白羽の矢を立てたのが「人間である前に怠け者である」と堂々宣言し、土日は寝て過ごすことに忙しい小和田君だ。継げと迫るぽんぽこ仮面、面倒だと逃げる小和田君。

二人がたまたま入った無間蕎麦。一心不乱に蕎麦をすする客がぽんぽこ仮面を歓待してくれた。と思ったのもつかの間、店主が彼を捕まえにかかる。組み伏せて聞くと店主は命じられたのだという。命じたのは下鴨幽水荘というアパートを本拠地とする秘密結社だった。一人で彼らに敢然と立ち向かうぽんぽこ仮面、正義の味方よろしく組み伏せて聞くには「俺たちも命じられたのだ」。命令を発した閨房調査団、京都の商店街の人々みんながいっせいにぽんぽこ仮面を捕まえにかかる。「俺たちもこんなことしたくない」「命じられたから仕方ない」と口々にいいながら。指揮命令系統は複雑で何重にも絡み合い、重なりあう。本当の命令者は誰なのか。いったい何のために正義の味方ぽんぽこ仮面を狙うのか。窮地を見た小和田君は、内なる怠け者と折り合いをつけながらのっそりと立ち上がる…

本書は宵山の土曜日の一日の出来事を書いている。『有頂天家族』や『宵山万華鏡』と登場人物が重なり合う。神様と人間がともに暮らしている京都で、神様と人間の距離が一番近くなる祇園祭。人間らしい人間に神のような人間、人間のような神、そして人間以前に怠け者である小和田君。カオスな登場人物たちが混濁した世界を織り成していく。それを見た世界一怠け者の探偵である浦本探偵は「潮が充ちた」と評する。言いえて妙である。

筋金入りの怠け者と筋金入りの正義の味方。人から神に近づくと、ふしぎな世界が見えてくるのかもしれない。

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君には権力と対峙してまで守るべきものはあるか?

高橋和巳(1993)『邪宗門』朝日新聞出版

他者の犠牲にはならぬまでも、他者の苦悶を自分の心の痛みとして意識する存在でなければ、あらゆる理想主義的な計画は無意味なのだ。そして千葉潔は窮極のところ、それを信じることができなかったのだ。(本書下巻 p.270)

祈祷とは何か。それは愁嘆でも慰藉でもなく、僅かに残る可能性を、乾坤一擲、我がものとすべき法力を呼びさまそうとするものであるはずだ。祈祷は自己の宿命を断ち切り、歴史に非連続な局面を加える最後の手段である。(本書下巻 p.388)

「そう、その委任ということだ、つらいのは。君がね、この教団の開祖であり教祖であるのなら、いや率直に言ってしまえば、君が救霊会の人々と同じ信仰を持っているのなら、その委任には倫理性がある。だが……」 「マルクスもレーニンももともとプロレタリアートではなかったよ」(本書下巻 p.349)

芥川龍之介ではなく、高橋和己の邪宗門。これは京都府北部にある宗教「大本」が戦前に政府から受けた弾圧をもとに書かれた小説である。史実に基づくとはいえ、戦後の世直し運動などはフィクションらしいので、あくまでもそのあたりは誤解なきよう。

大本をモデルとしたひのもと救霊会は京都府北部の神部盆地に本部を構える新興宗教だ。家族の絆を第一に重んじ、ついで信徒の絆を重んじる。家族や教団など、小さな共同体の中での個人と個人のつながりに重きを置いている。そのため、個人の幸福を犠牲にして為政者の考えを実現させる国家とは折り合いが悪い。

新聞や機関誌を発行し、独自の工場まで持ち、信徒百万人を数えたひのもと救霊会に脅威を感じた国は言いがかりともいえる弾圧を加える。地元警察と特高警察が教祖をはじめとする幹部を逮捕し、本部を打ち壊してしまう。

散り散りになった信徒たちは、ある者は神部に残り、ある者は四国の巡礼に出かけ、ある者は大都市に出て個人単位でひっそりと布教活動を行った。救霊会の関東と九州の地方支部はそれぞれ独立を宣言し、国の御用宗教となって生き延びる道を選ぶ。しかし戦後、すべての価値観が逆転した。治安維持法違反として弾圧されていた救霊会だったが、法律自体が無効になったため、ほかの地方にある新興宗教や労働組合と手をとり、ここぞとばかりに巻き返しを図る…。

本書の中心は千葉潔という一人の少年だ。東北地方出身の彼は昭和の飢饉の際に親を失い、母親の肉を食べて生き延びた。母親が信じていた救霊会に保護を求め、孤児として幹部たちの寵愛を受けながら育つ。常に救霊会の中心部とつかず離れずの位置にいるのだが、幼少時に親を食べた彼は人間の浅ましい本性を知り、人間の美しさを認めえなくなっている。人間の美しさを称揚する救霊会の中心部にいて働きを期待され、彼もそれに応えようとするが、限界に突き当たる。

ネットの一部では、これはブラコン小説だとも評されている。この評も的を射ていて、結局はすべて身近な人への愛をいろいろな形で表しているのだ。宗教の教義や共産党革命にかかる思想的な描写には著者の知識が十分に発揮されていると同時に、インテリ独特の弱さや宗教人の強さも描かれている。冷戦当時に左翼インテリが主導する革命の危うさを描いた著者の感覚はどこで培われたのだろう。


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