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会社で生き延びるに意外と使える旧日本軍のマニュアル

佐藤優(2017)『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』講談社

読みたくないのに読ませてもだめです。そういう人は出世しませんから時間の無駄です。だから、やる気のない人を相手にしない方がいい。人生は短いですから。(本書 pp.277-278)

いま、日本の内外にはさまざまな危機が取り巻いています。このクライシスを乗り越えるためにも、着実に力をつけることが求められているのです。(本書 p.282)

 会社は教養で生き抜けます。逆に言うと、教養を使わないと生きづらい社会が会社だということです。よほどの零細企業や個人事業主出ない限り、会社には仲間がいます。その中では比較的波長の合う人、合わない人が出てきます。自分が教養をつけてしなやかになる(思考の柔軟性を持つ)とともに、波長の合う人と上手に付き合っていくのが生き抜くコツです。

 本書で佐藤は独断専行、宗教、論理学、地政学、資本主義、日本史、数学がビジネスパーソンが生き抜くにあたって必要な牙だとしています。具体的には以下の見出しをつけて身につけるべき教養をあげています。

  1. 旧日本陸軍マニュアルに学ぶ仕事術
  2. 世界のエリートの思考法を理解するための宗教入門
  3. 論理の崩れを見抜く力をいかに鍛えるか
  4. 地政学を知ることで、激動する国際情勢がわかる
  5. 資本主義という世の中のカラクリをつかむ
  6. これだけは知っておきたい日本近現代史
  7. エリートの数学力低下という危機
  8. 本をいかに選び、いかに読むか……

興味深いのは一番初めに独断専行の研究として旧日本軍のマニュアルを持ってきたことでしょう。負けた軍隊のマニュアルなんて、何の役に立つの? と思われるかもしれません。ここで使われているのは陸軍のエリートに向けて書かれた『統帥綱領』ではなく、兵卒に向けて書かれた『作戦要務令』です。後者では戦況に応じて撤退をすることまでもマニュアル化されていました。一方、「死して虜囚の辱めを受けず」をよしとした戦陣訓を大事にした陸軍のエリートたちは柔軟な思考ができず、撤退の指示ができませんでした。

『作戦要務令』で興味深いのは独断専行を認めていることです。独断専行はある程度、上司の信頼という後ろ盾がないとやりづらい。だけど独断専行という形を取って上司の思いつかないこと、上司が踏ん切りつかないことをするのは、軍隊のような年功序列で硬直した組織が柔軟化するには必要だったのです。

だからといって準備もなしに独断専行をするのは危険です。大体、上司は「うまくやれ」と言って、できた時は「よくやった」と手柄を取り上げ、できなかった時は「なぜ指示通りに動かなかった」とこちらに責任を擦り付ける形で叱責します。そして独断専行をした人はトカゲのしっぽきりにあってしまいます。

そうならないために、うまくいかなかったときはその原因を突き止め、上手に上司に責任を押し付けることが大事だと佐藤は指摘します。結局、仕事をするにあたっては常に冷静な判断をすることが一番大事なようです。

その他の項目は宗教に代表される人々を魅惑する論理、論理学、国際情勢、数学、読書は仕事に役立つとなんとなくわかります。日本史については、過去のパターンを知れば、現代起きている事象のパターンがわかります。佐藤は歴史に二分法を入れて時流に乗った人物として小泉純一郎、田中真紀子、そして小池百合子をあげています。歴史に学ぶと、現代から近未来が見えてきます。

なお、『作戦要務令』は以下の国会図書館のサイトで画像として読めます。
http://iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&any=作戦要務令&op_id=1&display=&mediatype=6


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二人とも、ただものではあらない。

村上春樹、川上未映子(2017)『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社

僕はただそれを「イデア」と名づけただけで、本当のイデアというか、プラトンのイデアとは無関係です。ただイデアという言葉を借りただけ。言葉の響きが好きだったから。だいたい騎士団長が「あたしはイデアだ」と自ら名乗っただけのことですよね。彼が本物のイデアかどうか、そんなことは誰にもわからない。(本書 p.155)

-やっぱりわたしなんかも文体でしたよね。『乳と卵』という小説にかんしても文体のことしか言われないぐらいの感じだった。
村上 あれ、文体のことしか言うことないよ。(本書 p.229)

 前回、村上春樹『騎士団長殺し』について私もレビューを書きました。長々と、イデアとメタファーの説明をつけて。

 だけどどうしたことでしょう、本書で筆者から、本当はイデアもメタファーも響きがいいだけで、通常使われている意味とは全く関係ないといわれるではありませんか! 私はてっきり巷で使われている意味で使われているのだと受け止めました。そして対談相手の川上も。村上の答えを聞いて「イデアっていったら、イデアでしょう。わたし、おさらいしてきたのに……」と嘆いています。その気持ち、よくわかります。

 こんなことが開陳されるインタビュー、最初の方は村上春樹の答えが少なく、川上未映子が話している場面が多いです。芥川賞作家とはいえ、昔から村上ファンの川上さん、空回りしてないかな。ちょっと空気の読めない人なのかな、と心配になるぐらい。だけど回を重ねることに二人が打ち解けていて、会話も滑らかに進みます。周到な準備のおかげでしょう。

 話は『騎士団長殺し』にとどまらず、過去の小説やほかの作品、小説そのものや書き方、女性観、死生観にまで及びます。フェミニストの川上はなぜ村上春樹の作品では女性が性的な役割を担わされているのか、と切り込みます。村上はあまり意識したことがなかった、と答えます。

 村上春樹は小説を一日10枚書く間、ほぼ無意識的に話を内面からすくい上げている印象があります。このシーンが何のメタファーかも考えず、物語の赴くままに。そして何度も校正をして仕上げます。きわめて個人的な作品ですが、それが世界的に支持されるのだから、人としての大事な共通項(川上は「地下二階」と表現しています)を描いているのでしょう。

 ただ、本人は安心していません。いつ本が売れなくなるか分からない。そうなったら青山にジャズバーでも開きたい、と自由に発言しています。それはそれで楽しそう。

 最後はお互い関西弁まで飛び出すほど盛り上がった対談、読んでいても楽しいです。惜しむらくは二人の対談の様子の写真が帯にしかないことです。もっと見たかったと思います。


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騎士団長殺し-イデアとメタファーで世界を描き変える

村上春樹(2017)『騎士団長殺し』新潮社

「(前略)あたしはただのイデアだ。霊というものは基本的に神通自在なものであるが、あたしはそうじゃない。いろんな制限を受けて存在している」(本書第1部 p.352)

「どんなものごとにも明るい側面がある。どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いてる」(本書第2部 p.90)

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 いつでも話題作になる村上春樹の最新作です。

 物語は肖像画家である主人公の男性が美大時代の友人から紹介された家で、その家の前の住人で友人の父でもある雨田具彦の絵「騎士団長殺し」を屋根裏で発見したことから始まります。ある日、午前2時、どこからともなく鈴の音が聞こえます。その音は家の敷地内にある祠の裏から聞こえ…。

 あとはいつものパターンです。男は穴に入りたがるし、男女はセックスするし、主人公は理屈では説明できないけどすべきことをしていきます。

 主人公の「私」はイデアとメタファーを手がかりに、目の前に立ちはだかる問題を解決しようと試みます。

 イデアとメタファーってなんでしょう?

 イデアは私たちが認識に使う枠です。プラトンの哲学でよく出てきます。たとえば、私たちはダックスフントを見ても、マルチーズを見ても、柴犬を見ても、彼らを「犬」と認識します。おそらく、ダックスフントとマルチーズと柴犬の間にある共通点を見つけて、彼らを「犬」と認識します。その共通点をイデアといいます。ダックスフントは犬のイデアを持っているから、犬と認識できるのです。一方、アライグマは犬のイデアを持っていないから、犬とは認識されません。犬のイデアは私たちの頭の中にありますし、実際の犬も持っているものでしょうが、犬のイデアそのものが目に見えるわけではありません。

 メタファーは隠喩です。「還暦は人生の夏だ」、「彼は糸の切れた凧だ」のような使い方をします。「○○のような」といい方をせずに表現する比喩です。

 よく考えると、現実のモノゴトはイデアのメタファーといえるかもしれません。マルチーズは犬のイデアのメタファーです。あるいは一連の出来事はいいこと/よくないことのメタファーかもしれません。

 では、主人公の「私」が描いていた肖像画は、イデアなのでしょうか。それともメタファーなのでしょうか。不思議な体験を経て、「私」の描く絵は一層深みを増しますが、また一方で自身への力不足も痛感しています。彼の描く肖像画はイデアでもあり、メタファーでもあるのでしょう。

 しかしそれは私たちも同じです。相手の考えていることを、メタファーを通じてイデアに肉薄する。あるいは私たちの考えであるイデアをメタファーを用いて伝えています。そうして人とのかかわり方や世界への向き合い方、あるいは世界そのものを変えていきます。

 なお、雨田具彦のモデルはおそらく、熊谷守一でしょう。「「気が散るから」という理由で文化勲章の受章は断ったが」(本書第1部 p.82)という記述があります。画家で文化勲章を断ったのは熊谷守一しかいません。仙人然とした雰囲気と大きな鼻が、なんとなく雨田具彦を彷彿とさせますね。



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自由に死ねない江沢民

峯村健司(2015)『十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』小学館

芹が歌った「四季の歌」は中国でも流行し、胡は日本語で歌えるほどの大ファンなのだそうだ。(本書 p.154)

(江沢民は)終始ご機嫌な様子で、「日本館は大変よろしい」と日本語でおっしゃっていました。(本書 p.161)

「全国から数十人の若くて健康な軍人の血液を集めて総入れ替えもしました。軍内には江氏の影響力が根強く、亡くなってもらっては困る幹部がそれだけいますから」(本書 p.193)

「周永康らの摘発の話を聞いた江沢民があわてて習に電話をかけて『刑事責任は重すぎるので、寛大な処分にしてあげてほしい』とお願いしたそうです。すると信じられないことに習は何も答えずに一方的に電話を切ったのだそうです」(本書 pp.284-285)

中国では人類最大の権力闘争が行われています。

8600万人の党員を誇る中国共産党は世界最大の官僚組織で、党官僚のトップになれれば国、党、軍のトップになることを意味します。政治家がトップを務める民主主義国家とは違いますね。

しかも、決定プロセスは一切が非公表、会議が行われたことすら公にされません。情報公開とチェックを根幹とする民主主義国家とは違いますね。

そうした秘密のベールに阻まれた中国政治を、ボーン・上田賞を受賞した記者が明らかにしていきます。ハーバード大学に留学していた習近平の一人娘に突撃取材したほか、中国政府高官の愛人たちが住むアメリカの「二号村」にも行くなど、米中を駆け巡って取材を重ねます。

中でも注目は習近平が国家主席に選ばれた経緯を明らかにした点です。熾烈な権力闘争の末、習近平は漁夫の利で国家主席の座を射止めました。能力、実績ともに李国強の方が勝っていたにもかかわらず。多くの業績を上げた李国強はその分、敵も多かったのです。一方、目立った業績はないものの、部下の話をよく聞く習近平には敵が少なかったことが一因とされました。

しかし、それも要素の一つです。江沢民、胡錦濤といった過去の国家主席たちを中心とする派閥争い、薄熙来を首謀者とする新中国(1949年の共産党政権成立以降)最大規模のクーデター計画など、さまざまな要因が絡んでいたことを、地道な取材で明らかにしていきます。現在、そして習近平一人が強大な権力を持つようになりました。著者は派閥争いも無くなり、また一人に全権が集中する現状が逆に危険なのでは、と警鐘を鳴らします。

一方で、私たちの知らない指導部の一面も明らかにされます。江沢民は日本語がかなり上手で歌も歌えること、胡錦濤は1984年10月に3000人の日本人青年を中国に招いた事業の責任者だったことなど、彼らは意外な形で日本とつながりがあったことは初めて知りました。

また、中国の汚職は桁違いで、後ろ盾を失うと困る人が大勢出ます。そのため、現在90歳を超えて定期的に危篤説の出る江沢民も(2017年も出ましたが人民日報にある軍高官の葬式への参加者として名前が出て公式には打ち消されました)、自由には死ねません。血液を全部入れ替える延命措置をされます。そうしないと、困る人が続出するようです。元最高指導者ですら自由のない様子に、中国の現状が垣間見えます。


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科挙はカンニング・贈収賄・幽霊まで勢ぞろい

宮崎市定(1963)『科挙 中国の試験地獄』中央公論新社

「年は幾つだ」
「名簿には三十歳と書いてあるはずですが、本当は五十四歳になります」
「何回試験を受けたか」
「二十歳の時に受けはじめて今度で二十何回になります」
「どうしてそんなに長く合格できなかったか」
「どうも文章がまずいのでいつも落第ばかりしていました」
(本書 p.94)

「亡霊なら出てこい」
というと、
「出て行ってもいいが、決して私の姿に驚きなさるな」
とよくよく念をおしてから、この亡霊が目に前に姿を現わした。それは青い顔から血がしたたる、見るもすさまじい形相である。
(本書 p.111)

中国の科挙はとてつもなく難しい試験で、一生かけても無理な人が続出した。私たちはそう思い込んでいます。

確かにシビアだったようで、根を詰めすぎて精神に変調をきたし、夜通し続く試験で幽霊と遭遇した人たちの話も多くあります。逆に善行をして恩返しをしてもらった人もいます。カンニング、試験場内での答案代筆業、贈収賄、神や幽霊など、何でもありの試験でした。

しかし、1300年続いた科挙の初めのころは、貴族の力をそぐために王は多くの官僚を必要としました。そのため、科挙の試験も比較的緩かったそうです。もっとも、時代が下ってくるとやっぱり競争率が上がります。しかしよく考えると、30代で受かると若い方、などと言われる試験の浪人を養えるだけの財力がある一家です。もともと、選ばれた人たちのための試験だったようです。

現に田舎の試験を受けた後、都会に出て試験を受けなくてはいけません。受かるたびに謝礼や振る舞いをしなくてはならず、その出費は多大なものに及びます。最終的に官僚になればいいとしても、なれなかったら大損です。だけどそこは中国、何度もある試験の途中まで受かった人は官僚の秘書をやったり、塾講師をやったりして生きていく方法もあります。ただ、そもそも財力のある人たちばかりなので、そんな心配はあまりしていないようですが。

結局、この熾烈な競争は、現在の中国にも受け継がれているように見えます。中国の高考(大学入試)はまさに地方から都市まで試験を受けに行く、科挙そのものです。トップの受験生は科挙のトップの人と同じく状元と呼ばれ、公表されます。そして李克強は状元でした。まだ試験エリートが統治する国です。試験エリートではない人が統治する日本と、どちらがいいかは考えものですが。


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北京の永田町・中南海にある秘密の地下鉄

朝日新聞中国総局(2013)『紅の党 完全版』朝日新聞出版

薄熙来事件が中国の権力構造を解明する千載一遇の好機だという確信は、あった。ただ、これほど「第五世代」の人事がもつれ、指導部の混乱が表面化する未曽有の事態を招くとは、想像を超えていた。
(本書 p.11)

中国の政策決定にも関わる党関係者の一人は、今から約40年前の経験を明かす。
「中南海から人民大会堂まで、地下鉄に乗った」
(本書 pp.295-296)

薄熙来の失脚という切り口から中国の政治に切り込んだ本です。あの親中的な朝日新聞をしてもここまでしか無理だったかと思わせる箇所も多いです。

一般的には親中的なことで知られている朝日新聞ですが、やはり中国の政治の内部に切り込もうとすると厚いベールに阻まれます。たとえば共産党青年団への取材は、団員とのインタビューには成功したものの、彼らが具体的にどのような活動をしているかまでは踏み込めませんでした。

ただ、さすがは中国。公開されていない情報も人づてに聞いていくと意外な出口に突き当たることもあります。党幹部の親せきが経営している企業への突撃取材や労働教化所の写真、中南海と人民大会堂を結ぶ地下鉄の噂など、中国の新聞などでは語られない話も出てきて興味深く読めました。

最終的には取材団の目指した香港の新聞への引用までなされました。今後も、朝日新聞の中国報道には期待したいです。


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中国人は快楽に向かう?

竹内実(2009)『中国という世界-人・風土・近代』岩波書店

-チュウゴクはどうなるのですか。
たしかに、興味のある問題である。
ひとから質問されるまでもない。自分でもすぐには答えが見つからない大きな疑問で、自縄自縛になる。問題を設定するもの難しい。
(本書 p.3)

初代のイギリス領事、バルフォアは、「条約」が締結されると、とり急ぎ上海に赴いたが、ホテルなどあるはずはない。県城内に家を借りて住むうち、知らない他人が入りこみ、好寄の眼をかがやかせて、自分の一挙一動を見守るのに気が付いた。
家主の姚(タオ)という広東人が、入場料をとって見せ物にしていたのだった。
(本書 p.162)

中国を知るための入門書です。比較的薄くて読みやすいですが、これまで中国を全く知らなかった人も、中国を何度か行ったことがある人も、学ぶところのある本になっています。

著者は本書の中で中国の向かう先は「快楽」であると述べています。集団で旅行してポーズを決めて写真を撮る、爆買いをする、といった中国人の一側面を考えても、集団で楽しく過ごすという側面から考えたら彼らの思考様式が理解できるかもしれません。それが、周りにとっていいかどうかはさておいて。

翻ると日本はどうでしょうか。団体旅行も減りました。みんなで騒ぐことも、中国と比べて少ないように感じます。もう一つの対立軸として、「快適」が見いだせるかもしれません。

日本は「快適」な国です。ネットも自由だし、高速の自動改札やテレビゲーム、ウォシュレットが開発されたのも日本です。宅配サービスも早いし、アニメや漫画などのサブカルもすそ野が広いです。いずれもみんなで楽しさを共有するものというより、個々人のストレスを軽減する、一人で楽しむものです。大勢で快楽を共有するとともに、個人の快適を追及する方向に行っているのではないでしょうか。

中国は快楽に向かう、という考え方は確かに一つの見方だと思いました。

私も中国に赴任するときに買いました。


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考えも反省もない日本陸軍のエリートたち

半藤一利(1998)『ノモンハンの夏』文藝春秋

服部や辻が敵の戦力を判定するのに大きな努力をした形跡は全くない。ともかく、ソ蒙軍の後方基地からは七五〇キロメートル余も離れている。不毛の砂漠地帯をこえて長大な兵站を維持するのは不可能である、と自分たちの兵站常識だけで甘く考えている。
(本書 p.140)

すでに関東軍司令部の問責は六月の越境爆撃のさいの天皇の言葉により既定の方針であるが、しかし関東軍の面目を考慮してのびのびにしてきている。親ごころというものである。それを関東軍の頭に血をのぼらせた連中はまるで理解しようともしない。
(本書 p.233)

誰もが名前だけは聞いたことがあるノモンハンの戦いを、証言や資料に基づいて描いた本です。ノモンハンの戦いは、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』でも重要な出来事になりますね。のちに村上はその現場にも訪れています。

それほど有名なノモンハンの戦いですが、私たちの多くは場所すら知らないのではないでしょうか。当時の満州国とモンゴルの国境、何の地下資源もない草原です。川を勝手に国境線と決めていた満州国と、川の数キロ満州国側まで自国領だと思っていたモンゴル側の認識の違いから起こった小競り合いが、大きな戦に発展しました。

形の上は満州とモンゴルの戦いですが、実質は日本とソ連の代理戦争でした。日本軍の戦力逐次投入戦略に比べ、ギリギリまで待って戦力をため込んだソ連・蒙古軍。この違いが雌雄を決しました。

日本側の資料によったため、日本側への言及が多くなるのは仕方ないですが、当時、関東軍で指揮を担当した辻や服部といった参謀たちの、先見性や現状把握力のなさには驚きます。まさに資料もなく、思い込みや希望的観測で行き当たりばったりの作戦を組み立てていきます。それに振り回され、草原に散っていった兵隊たちやその家族の気持ちを考えるとやり切れません。

天皇も努力をしますが、内閣で決まったことには反対しないという慣例があったため、限界がありました。それをいいことに、陸軍は戦を進めます。

しかしグラスノスチの後、ソ連軍にも大打撃を与えていたことがわかりました。外国人記者をして「地下資源があるのか」と言わしめた戦は、結局お互いのメンツの張り合いで終わりました。戦争のむなしさを伝える一冊です。





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稼いでも稼いでも楽にならない現状を変えるには

河上肇、佐藤優(2016)『貧乏物語 現代語訳』講談社

一九八〇年代前半、「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)では明石家さんまらが「貧乏」をネタにすることができた。しかし、いま、テレビで「あなた貧乏人?」と突っ込むのは禁句に近い。
(本書 p.9)

機械が最も盛んに利用されている西洋の先進諸国において、-この物語のはじめでお話ししたように-貧乏人が非常にたくさんいるというのは、いかにも不思議なことです。
(本書 p.111)

第一次世界大戦のころに書かれた本のリメイク版です。前後に佐藤優による解説がついています。しかし内容は今の時代に読んでも古さを感じません。

河上はイギリスの例を挙げ、なぜあれほどの先進国で貧乏人が多くいるのかと疑問を投げかけます。貧乏人は一日に必要なカロリーを得ることすらできない、「貧乏線」以下の状況で暮らしています。

河上は金持ちが無駄遣いをやめ、余ったお金で社会の人に役立つお金の使い方をすれば貧乏人は減るといいます。嗜好品を求めるから嗜好品工場ばかり増えるけど、それを減らして生活必需品の工場が増えるようなお金の使い方をしなさいと述べます。ひとえに、金持ちの人間性を頼りにした性善説です。

しかし、現実はそうはうまくいきません。金持ちは貧乏人のためにお金を使うことはほとんどありません。そのため、再分配はやはり国家や自治体などの役割になってきます。100年たっても経済格差も格差の解決が難しいことも、時と場所を超えた真理として響いてきます。

状況が良くなったのは、革命の危険があるから貧乏をなくそうとしていた冷戦時代という特別な時期だけでした。「稼ぐに追いつく貧乏なし」が通じたのは、その時代でした。しかし、今は稼いでも稼いでも我が暮らし楽にならざり、の時代が再来しています。性善説で金持ちの人間性に任せるか、性悪説で政府の再分配機能を強化するか。もはや座視できません。私たちの選択が迫られています。


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日本のエリート教育の一端を垣間見る

上杉志成(2014)『京都大学人気講義 サイエンスの発想法』祥伝社

宗教の力も強いです。しかし、宗教の弱さは、「信心深い人しか説得できない」ということです。サイエンスでは、自分のことを嫌いだと思っている人でさえも説得することができます。(本書 p.56)

どんなアイデアでも、斬新なアイデアはなかなか万人に受け入れてもらえません。それはなぜでしょうか? 新しいからです。万人は古い方法に慣れているからです。アイデアを改良し、批判に対処し、他の人が抱える問題を新しいアイデアで実際に克服してみせることで、他の人たちに受け入れられるものになるのです。(本書 p.183)

 京都大学の上杉志成(もとなり)教授のアイデアの発想法を伝授する授業をもとにしたのが、この本です。上杉教授は1967年生。1990年に京都大学を卒業、95年に博士号を取得後、ハーバード大学を経てテキサス州のベイラー医科大学で准教授になります。そして大学卒業後15年、38歳の若さで京都大学教授になりました。

 経歴だけを見るとエリート中のエリートに見えますが、影にはやはり努力があります。寝ても覚めてもメモを傍らにおき、いつ何時でも思いついたアイデアをメモする習慣をつけています。そのアイデア力を用いて、非ネイティブという不利な環境にもかかわらず、米国で任期のない研究職ポストを得ました。

 専門の化学を舞台に、毎週学生たちに実験計画を書かせる形式で授業は進んでいきます。その中でいいアイデアは紹介され、同様のアイデアを用いて実績を出した人たちの話を紹介していきます。しばしば、ノーベル賞受賞者の実績が紹介されます。そうやって学生たちにノーベル賞クラスの業績も身近なものであることを教えているのでしょう。また、口酸っぱく自らの才能は人のために活かしなさい、決して悪用しないようにと伝えています。講義の端々に、エリート教育の一片が垣間見えます。おそらく、実際の授業ではもっと生々しい話やもっと面白い脱線が行われているのでしょう。京都大学の学生たちが羨ましくなってきます。

 引用で一箇所、物申したい箇所があります。サイエンスは宗教を凌駕するという箇所です。サイエンスも宗教も、人々が信じている体系という意味では同じです。私達が知っているサイエンスはユークリッド幾何学、ニュートン物理学の世界でしかありません。非ユークリッド幾何学や相対性理論をやっている人たちから見ると、古臭い枠組みで考えているなあ、と思われるでしょう。今やサイエンスの世界では、iPS細胞を使って精子や卵子を作り出すことができます。しかし、それらを使った臨床実験は倫理的な問題をクリアせねばなりません。キリスト教、特にカトリックの国々ではこの障壁はとても高いはずです。たとえ人類を救うと分かっていても、自由な実験の許可を出すには至っていません。未だにサイエンスは宗教を凌駕できないのです。今、私達が使っているサイエンスの歴史は数百年です。数千年続いた宗教に、サイエンスはまだ勝てません。

 なお、上杉教授はedXという無料オンライン授業も提供しています。

関連リンク:Chemistry of Life (edX)

紹介ビデオ



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