カテゴリー
レビュー

ソ連の雪山で男女9人が不可解な死を遂げた事件の原因は…

ドニー・アイカー(著) 安原和見(訳)(2018)『死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』河出書房新社

澄んだ青灰色の目をひたと私に向けて、彼は言った。「あなたの国には、未解決の謎はひとつもないのですか」。(本書 p.102)

その日、私服姿の数人の男が、葬儀ではなく参列者を注意深く観察していたのを見たと彼は言っている。「まちがいなくKGBだった。あの日の葬儀を監視するために配置冴えていたんだよ」。(本書 p.234)

  • ソ連の冬山で
  • 氷点下30度の中
  • 大学生男女9人のトレッキングチーム全員が死亡
  • 一部は裸足、一部は薄着
  • 争った形跡無し
  • ソ連当局は「未知の附加香料」が原因と結論

これだけ条件が揃えば、いろいろと詮索したくなるのは仕方ありません。西側の人間にとって、ソ連は未だにロマンの詰まった国です。雪崩、殺人、脱獄囚の襲撃、熊、隕石による大爆発。さまざまな推測が出たものの、真相は闇の中…。

著者はアメリカ人ドキュメンタリー映像作家です。2010年ごろ、たまたま別の仕事をしていて耳にした話が、このディアトロフ峠事件でした。それ以来、彼はこの事件が気になって仕方なくなりました。オンラインで読める資料はあらかた読み尽くし、真相を知りたいという欲望が芽生えます。

調べたところ、ディアトロフ財団という組織に行き当たりました。この事件を風化させないための組織です。早速連絡を取り、理事長と話をします。

「この事件の真相を知りたいなら、ロシアにいらっしゃらなくてはならないでしょう」

そのメールを受けて、彼はロシアに行くことになります。ロシア語はほぼできません。簡単な会話集だけを携えて、彼は単身ロシアに向かいます。現地で資料を読み込み、トレッキングチームのリーダーであったディアトロフの妹や、途中でトレッキングから抜けたユーリ・ユーディン(2013年没)など、事件の関係者にインタビューをしてディアトロフたち9人の足取りを明らかにしていきます。本書に掲載されたトレッキングチームの写真を見るにつけ、彼らがどこにでもいそうな明るい大学生であり、まさかこの数日後に全員死亡という悲劇に見舞われるとは思えません。おそらく家族にとっては、「不可抗力」という原因も含めて、とてもつらかったことでしょう。

ロシアで調べた結果、資料からも証言からもディアトロフたちは熟練したトレッキングチームであったこと、装備も十分であったことから、技術的な問題は見受けられませんでした。それなのに、明らかに命の危険があることはわかっていながら、なぜ全員が薄着で、あるものは裸足でテントからマイナス30度の雪山に出て行ったのか。誰かが彼らを銃で脅しながら外に出したという説もあります。しかし、熟練したトレッキングチームが挑む山にそんな犯罪者がいる確率も低く、また、テントの中からナイフで切り裂かれた痕があることも説明が付きません。

最後に著者は一つの仮説を導きます。おそらく、現段階ではもっとも説得力のあると思われる仮説です。確かに説得力があり、まさに「不可抗力」ともいえます。ただ、その仮説を実証してはいません。おそらく実証するには被験者が必要で、おそらくまた被害が出るでしょう。おそらくは最も可能性が高いと思いつつも、現段階では実証できない仮説を提示したままです。本事件はいまも読者に謎を投げかけ続けています。

カテゴリー
レビュー

アメリカ政府から日本政府にクレームが入ったインテリジェンス報道

朝日新聞取材班(2014)『非情世界 恐るべき情報戦争の裏側』朝日新聞出版

米国は様々な情報機関の職員が複数のパスポートを持ち、観光客などの身分でしばしば訪朝して情報を集めている。いわゆるスパイで、諜報活動は映画の中だけの出来事ではない。日本のインテリジェンス関係者は「我々にはまねのできない芸当だ」と語る。(本書 p.80)

自衛隊関係者によれば、米軍も同時に数百キロ離れた海域から潜水艦の位置を把握、日本に情報を提供した。関係者は「海自の場合、近距離から数多くのソナーを使ったから発見できた。しかし、米軍のように離れた場所から潜水艦を見つける技術は今も日本にはない」と語る。(本書 p.187)

朝日新聞の牧野愛博、冨名腰隆、渡辺丘の記者3名の各国のインテリジェンスについての取材をまとめた書籍です。アメリカ、北朝鮮、中国、台湾、日本がそれぞれシリアや太平洋で行っているインテリジェンス活動を取り上げました。シリアのアサド政権が持っていると思われた生物兵器の査察について、オバマ大統領に取引を持ちかけたプーチン大統領はやはりインテリジェンスオフィサー出身だけあって、アメリカの重要さを理解した上で話を持ちかけています。

本書を読む限り、インテリジェンスの世界ではアメリカが圧勝、北朝鮮では防諜ではかなり強いことが分かります。

数百キロ離れた海域の潜水艦を探し当てるほどのソナーとエンジン音データベースを駆使する海軍、同盟国に対しても秘密にしたままの蒸気カタパルトやF-22のステルス技術を有する空軍、あえて電話をかけて声紋分析をして暗殺者を特定するCIAなど、アメリカのインテリジェンス能力は群を抜いています。日本は特定機密の保持ができないため、アメリカが分析した結果をもらうのみで生の情報はほとんど共有してもらえません。数少ない生情報は偵察衛星の写真です。しかし、こちらもアメリカ側が転送を自動設定をしているものの、設定を変えられたら情報が入ってこなくなります。だからといって特定機密保持法案が成立すれば情報共有をしてもらえるのかといえば、そうではありません。外交の世界はギブアンドテイクです。日本が情報を提供できないとアメリカはおそらく態度を変えません。インテリジェンスの世界はまさに情のない、非情世界なのです。

日本がアメリカに比べて多くの情報をとることができる数少ない国が北朝鮮です。しかし、2013年に処刑された張成沢の失脚の情報入手では韓国の情報機関に紙一重の差で負けてしまいます。北朝鮮は封鎖国家です。主要な施設や基地の間では無線をほとんど使わず、専用の光ファイバー回線で連絡しています。入国や国内移動も厳しく監視されているうえ、地下にも数千といわれる工場や基地などの施設があることから、人工衛星や電波、サイバー空間による情報入手には限界があります。しかし、たとえば金正日総書記死去のニュースは公式発表前に約30人の朝鮮労働党中央委員には連絡されました。そこに人脈があれば事前に情報はつかめました。しかし、日米韓のいずれも情報を入手できませんでした。人脈が大事なのですが、日本の場合、経済制裁以降、往来が途絶えてしまい、人脈は消えました。そのため、外務省ですらミスターXという政府の代表者とやり取りをしますが、空振りで終わってしまっています。

スパイ映画よりもヒリヒリとしたやり取りが行われるインテリジェンスの世界、その一部に光を当てた取材であり、公にしたという点で非常に価値のある本です。

本取材の結果、各国のインテリジェンス機関から記者はマークされることになります。「米国NSCの動きを報道されたことに激怒したホワイトハウスは、国務省を通じて日本外務省に厳重に抗議した。記事にはオバマ大統領とプーチン・ロシア大統領との秘密の会話など、日本政府が知りえない事実も含まれていた。」(本書 p.250)と、アメリカの不興を買ったことに始まり、韓国政府からは尾行され、北朝鮮政府では内部で敵対勢力の代表者として名指しされて入国ができなくなっています。また、記事が出てから何人かの情報源と連絡が取れなくなりました。それだけ本書の内容が真実に迫っているということでしょう。


カテゴリー
レビュー

特高警察以来の伝統技術でロシアのスパイを尾行する

竹内明(2009)『ドキュメント秘匿捜査 警視庁公安部スパイハンターの344日』講談社

完全秘匿による徒歩追尾を命じられたスパイハンターたちは、対象の前方に「先行要員」を配置して、同方向に歩かせる。この先行要員はまったく振り向くことなく、対象の呼吸や足音、摩擦音で進行方向を予測して前方を歩き続けなくてはならない。(本書 p.154)

昨日まで身分を秘して闇に溶け込んでスパイを追いかけていた人間が、腰に拳銃をぶら下げて自転車で管内を駆けずり回るのである。当直勤務になると自転車泥棒の職質検挙で署の成績向上のために奮闘することにもなる。(本書 p.280)

2000年9月7日、東京都港区浜松町のダイニングバーで幹部自衛官、森島祐一(仮名)がロシアの情報機関であるロシア連邦軍参謀本部情報部(GRU)のボガチョンコフに書類袋を手渡した直後、15名ほどの合同捜査本部員が二人の身柄を拘束しました。森島はその場で逮捕、ボガチョンコフは外交特権で逮捕されず、任意同行を拒否して2日後にアエロフロート便で成田からモスクワに緊急帰国しました。

本書では警察庁、警視庁と神奈川県警の連係プレーによるロシアのスパイ捜査を取材に基づいて細かく描いています。森島は息子が白血病になり、地上勤務を希望します。治療費と新興宗教へのお布施代、それに実家の自己破産もあって、生活には余裕がありません。食事は2日に1回、千円食べ放題のランチでおなかを満たす日々でした。業務面では防衛大学校で修士課程に在籍し、ロシアの専門家として訓練を積んでいきます。その際に、どうしてもロシア軍に関する資料がほしい。たまたま安全保障関連のフォーラムで知り合ったロシア大使館の駐在武官に、資料の提供を依頼します。一方、ロシア側からは自衛隊の内部資料を依頼されます。結果、森島は内部資料を渡してしまいますが、ロシア側から提供されたのは日本でも手に入る雑誌でした。

本書では裁判で明らかになったもののほかに、森島は実は多くの機密書類を渡していたこと、ロシア側のスパイとの接触、現金の受け渡し方法のほか、それをオモテ(堂々と)とウラ(ばれないように)の2班に分かれて追う警察側の姿も描き出しています。鮮やかな筆致でサスペンス映画のように実際の事件を生々しく描いており、ぐいぐいと引き込まれていきます。

現場では職人技でスパイを尾行するものの、そこはお役所、人事異動もあれば省庁間の利害の対立もあります。職人技を引き継ぐよりはジェネラリストの育成を目指す人事異動、逮捕しようと思っても、日露首脳会談の前にはしこりを作るのを嫌がって待ったをかける警察庁、外務省。どこからか捜査情報が漏れて記者が嗅ぎ回ったり、逮捕前にスパイに帰国される。様々な困難を乗り越えて、特高警察以来の技術に磨きをかけ、秘匿操作は行われます。

警察庁に待ったをかけた外務省については、以下のような記述もありました。

まもなく、視線の先には秘匿追尾対象の外務省職員が出てくるだろう。外務省の建物から巨体を左右に揺らしながら出てくる男の姿は得体の知れぬ迫力がある。(中略)森島祐一の判決尾翌日、スパイハンターたちは、スミルノフと鈴木宗男、そしてこの巨体の外務省職員が、港区内の高級しゃぶしゃぶ料理店に入っていくのを確認した。(本書 p.282)

外務省職員は追尾されることもあるようで、以下のように書いている人もいます。

佐藤 ときどき、失敗して、尻尾を見せる公安の人たちもいます。寄ってきた公安の人に、「追尾発覚、現場離脱ですね」と私は耳元で囁いたことがあります。(副島隆彦、佐藤優(2017)『世界政治 裏側の真実』日本文芸社 p.170



カテゴリー
レビュー

ハニートラップから透視、盗聴まで、各国の諜報を垣間見る

植田樹(2015)『諜報の現代史 政治行動としての情報戦争』彩流社

警視庁公安部はこの男はKGBとSVRの諜報部員であり、三〇年以上にわたって日本人になりすましてスパイ活動を続けていたと推定しているが、本名も詳しい素性も分からずじまいだった。(中略)また、名前を騙られた黒羽一郎さんの消息不明の事情や彼とスパイとの接点なども分からなかった。(本書 p.258)

東西冷戦下で核戦争の悪夢に苛まれる米ソの首脳の間で、彼(筆者注:赤いユダヤ人商人ことアーマンド・ハマー)は相手の真意を非公式に伝えることで互いの疑心暗鬼を払うホットラインのような役割を演じていたとも言える。(本書 p.298)

主にロシアの諜報活動に焦点を当てた本です。筆者は1940年生、東京外大ロシア科を出てNHK入局、モスクワ、ニューデリー、ワルシャワ、テヘラン特派員として勤務しました。モスクワでは「ソ連の遠隔透視の研究情報を入手しようとした」(本書 p.274)として追放された「ロスアンゼルス・タイムズ」特派員と同じアパートに住んでいました。そのため、ロシアの諜報活動の話が多いです。

ロシアのスパイといえばアメリカで逮捕されたあと「美人すぎるスパイ」として有名になり、ロシアに送還されたアンナ・チャップマンが有名です。彼女は美人すぎるというほどではありませんでした。スパイにとっては目立ちすぎると活動に支障をきたすからです。

ロシアがソ連時代からアメリカを始めとする西側諸国で軍事、科学技術情報を盗んでばかりいるという印象を持っていましたが、それに負けないぐらい西側諸国もソ連時代から東側で活動していました。中にはド・ゴール大統領の友人でも会った在ロシアフランス大使館のデジャン大使がハニートラップに引っかかり、大統領に親ロシア的な政策を助言するなど、現実世界にも大きな影響を及ぼしました。結局、このハニートラップ作戦に関わったKGB幹部、ユーリー・コロトコフがイギリスの情報機関に寝返って本件を暴露するまで、フランス側は気づきませんでした。

そのほか、ウィリー・ブラント西ベルリン市長にも、KGBは手を伸ばしました。第二次大戦中に自分をかくまってくれた老医師が東ベルリンから電話をかけ、「自分の息子を助けてほしい」と頼んできました。ブラントは息子と名乗る男と妻を助け、自らが所属するドイツ社会民主党の党員として仕事を斡旋しました。彼らは有能な活動家として頭角を現し、ブラントが西ドイツの首相に就任するとすべての機密書類を見る権限を持ちました。そうした書類はマイクロフィルムに写され、タバコに入れて西ベルリン市内のタバコ屋の親父(KGBの連絡部員)からロシアに渡っていました。この事件では西ドイツのみならず、同盟国の欧米各国の対ソ連政策が筒抜けになりました。東ドイツの別の諜報部員が捕まって、芋づる式に検挙されたものの、最高機密まですべて筒抜けだったのは西側の失態でした。

現代においてはこれほどわかりやすい諜報は少なく、インターネットや電波傍受などを中心とする情報戦になってきています。しかし筆者は「どこの国や組織でも、極めて重要な機密はコンピューターや電話、無線、Eメールなどでは記録あるいは伝達しない。当事者が口頭か、メモだけで直接、伝達する守秘の伝統は残っている」(本書 p.381)と改めて警告します。


カテゴリー
レビュー

江沢民国家主席の司令でアメリカ大統領選に献金していたFBIのスパイ

デイヴィッド・ワイズ 著 石川 京子 訳(2012)『中国スパイ秘録 米中情報戦の真実』原書房

捜査局の電子機器技術者たちは今なお非公開の超高性能技術を用いてる領事館の盗聴に成功した。(本書 p.31)

荷物を回収し、中を開けて調べ、彼に気づかれないように中身を元通りに戻すのに必要な時間、ダレスで飛行機を遅らせた。(本書 p.279)

中国の恐るべき諜報活動が明らかにされるノンフィクションです。

パーラーメイドと呼ばれた中国系アメリカ人のカトリーナ・レオンはFBIのスパイとして中国側にある程度の情報を流し、逆に中国側から機密情報を取る仕事をしていました。その間、FBIの担当官だったビル・クリーブランドとJ・J・スミスとは不倫関係を結びます。レオンはJ・Jが家に来ている間、彼のバッグから書類を抜き出してコピーし、中国側に流していました。二重スパイだったのです。功績が認められ、中国に行くと江沢民国家主席を始めとする国家主席、国家安全部長(諜報組織のトップ)と面会をするようになります。逆に中国側からは大統領の選挙キャンペーン時、共和党のパパブッシュに献金を通じた応援を依頼されています。もちろん、お金は中国政府持ち。その頃から、アメリカの大統領選には外国政府の陰がちらついていました。

中国のスパイは中国系アメリカ人のみならず、脇の甘いアメリカ人を使ってあちこちに浸透しています。特に90年代までの中国はロスアラモス研究所やリバモア研究所で核兵器の技術開発をしている科学者から情報を盗み、自国の核兵器開発費を抑えることに成功したようです。

一方のFBIもむざむざ見過ごしてはいません。裁判所の許可を得て容疑者の家には盗聴器とビデオカメラをセットして監視します。また、中国の政府専用機(中国国際航空のB747)にも盗聴器を仕掛けます。いい作戦に思えましたが、盗聴器が仕掛けられることを予想していた中国政府が調査し、最新の盗聴器が中国側の手に渡ってしまいました。

著者はニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの記者で、本書のために150人以上から500回以上のインタビューを重ねました。その中には諜報活動を行った者やFBIまで、多岐にわたります。当時はまだインターネット上のやり取りが少なかった時代です。当時、まだまだ発展した大国とは言えなかった中国とアメリカの間で、このようなスパイ合戦が繰り広げられていたのです。今ではもっと凄絶なやり取りになっていることが予想されます。ただ、実情が明らかになる日は当分来ないかもしれません。

本書の冒頭にはカトリーナ・レオンとJ・Jが二人揃っている写真が掲載されています。ワシントン・ポストに撮られたものです。なんと厚顔無恥にもまあ、と思えます。


カテゴリー
レビュー

人民を扇動する北朝鮮文学の内情

金柱聖(2018)『跳べない蛙 北朝鮮「洗脳文学」の実体』双葉社

美人娘たちが手に持っていた大学ノートを差し出してきた。なんと、そこには『人間の証明』がびっしりと書き写されていた。(本書 p.229)

私はもうこれ以上、あの国に住む気にはなれなかった。一度見てしまった外の世界の誘惑に、勝てるはずなどない。(本書 p.260)

在日朝鮮人として生まれ、総連幹部の祖父を持つ著者が「故郷」である朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)に帰国し、文学者になった顛末とその裏事情を書いた本です。

北朝鮮への帰国船でついた人たちは、まず招待所で教育を受けます。一定期間の教育(と順応)を経て、各都市に割り振られます。みんな平壌を希望しますが、現実はそう甘くはありません。しかし総連幹部を祖父に持つ著者は幸いなことに平壌に住むことができました。しかし総連幹部は在日、日本の資本主義の影響を受けた、潜在的スパイとみなされ、割を食う場面も多くあります。

北朝鮮の文学には以下のジャンルがあります。

  1. 1号形象物
  2. 抗日パルチザン物
  3. 戦争物
  4. 歴史物
  5. 現実物
  6. 南朝鮮物
  7. 海外物

著者は在日を主人公とした文学、すなわち7番目のジャンルを担当していました。その他のジャンルを書くのは自由でしたが、金一族を題材にした1号形象物だけは限られたエリート作家にしか書くことが許されませんでした。

著者はエリート文学者の登竜門である金亨稷師範大学の作家養成班に入ろうとします。2年半に一度巡ってくるそのチャンスのため、朝鮮労働党員になり、編集者に賄賂を渡して文学雑誌に作品を掲載してもらい、文学賞まで獲得した結果、二度推薦されました。しかし、入学はかないませんでした。そこには在日という見えない天井がありました。

引用部分にある森村誠一『人間の証明』のエピソードは貴重です。100部図書といわれる作家たちだけが参考にできる外国文学の訳本です。それをまわし読みしている人たちがいること、地方の党幹部に貸したらその娘と友達が手書きで大学ノートに書き写していたエピソードが出てきます。

手書きで本を写すという中世の教会や南方熊楠を髣髴とさせる営みを、1990年代に北朝鮮のエスタブリッシュメントに近い上流階級の娘さんが行っていた。貴重な証言です。

もう一つ驚いたのは総連幹部だった祖父ですら、当時の北朝鮮の内情を知らなかったこと。どうせ日本円は使えなくなるからと日本で北朝鮮ウォンに両替するよう、帰国者に言いまわったところ、北朝鮮公式レートで両替するより日本円をそのまま持ち帰って外貨ショップや闇両替で使うほうが経済的だったのでした。

カテゴリー
レビュー

雑炊の時代、平成を振り返る。

佐藤優、片山杜秀(2018)『平成史』小学館

片山 不況のなかで育った若者たちは騙されていたと気づいたんでしょうね。自由だ、自由だ、と言われて、実は捨てられているのだと。(本書 p.30)

佐藤 (中略)政治でもメディアでも情報は皇居を中心にして半径5キロ以内に集中している。『そこまで言って委員会』はそこから外れて独立している面白い存在です。(本書 p.176)

本書はタイトルで半藤一利『昭和史』を思い出させます。バブル崩壊で始まり、何度かの自然災害とテロとの戦いを経て憲政史上初の天皇生前退位で幕を閉じる(予定の)平成について語り尽くした対談です。内政、外交から東京タラレバ娘シン・ゴジラに至るまで、硬軟合わせた話題で対話が進んでいきます。

平成は何が起きるかわからない雑炊のような時代、あるいはポストモダン的なパッチワークの時代です。特に政治では世界的に独裁的な傾向が強くなりました。日本も例外ではありません。「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍政権は、文面通りに読めば「脱アメリカ」なのかと思いきやトランプ政権とは蜜月の関係にあります。小泉政権以降、こうしたその場の勢いでふわっと乗り切る傾向が強まりました。それは反知性主義の拡大であり、裏返していうと橋下大阪府知事やなんとかチルドレンと呼ばれる大した哲学のない、やりたいことのない政治家が増えたことにも繋がります。

二人がたびたび指摘しているのは、中間団体の消滅です。かつては労働組合などが力を持っていて、国家と個人を取り結ぶ中間団体に働きかけることで民意を選挙結果に反映させることができました。しかし公社の解体などを経て、いまや国政に影響を与える中間団体は創価学会だけになりました。そのため、マスコミや世間の空気で選挙結果が大きく左右されることになりました。そうした空気をくみとってか、手続きのかかる民主主義から劇場型政治へと変わっていきました。

二人は、平成は昭和の遺産を食いつぶし、豊かだったが幸せかどうかはわからない時代だったと結論づけます。食いつぶすことしかしなかった時代の、次の時代は何かを生み出さねば右肩下がりになります。困難な時代だからこそ、冷静に、時間をある程度かけて今後の練らねばいけません。個人レベルでは、そうした次代を見据えて生き抜く方法を考えないといけません。

本書で語られていないもう一つの大きなできごとは2度あった全日空機ハイジャック事件とネオ麦茶こと西鉄バスジャック事件でしょう。前者で警察にSAT(特殊急襲部隊)があること、後者ではバスの窓の幅にちょうど合うはしごが準備されたことから、バスジャックを想定した訓練を行っていることが明らかになりました。その後、通信傍受法などができて、日本の警察のテロ対策も着々と進みます。結果、中核派や日本赤軍の大物を検挙するに至りましたが、同時に息苦しい社会となっていきました。これもオウム真理教や911、イスラム国などとの文脈で語られていい事件だったと思います。


カテゴリー
レビュー

不安定な時代だからこそ読もう:村上春樹『ノルウェイの森』

村上春樹(2004)『ノルウェイの森』講談社

「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」(本書上巻 p.155)

「だって私これまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問すると混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれかだったわ。」(本書下巻 p.65)

僕は大学生が出てくる小説が好きだ。

彼らは未熟で、将来に対するぼんやりとした不安があって、人間関係に悩み、答えの出ない問いをめぐってぐるぐるしている。未熟ながらも一所懸命にもがいている。そんな大学生の出てくる小説が好きだ。

本作も間違いなく、そんなまじめな大学生の出てくる小説です。主人公の大学一年生、ワタナベは直子と緑という二人の女の子を目の前にして悩みます。緑とならすぐ付き合えるのですが、ワタナベが愛しているのは直子で、直子との間には複雑な事情があって簡単には解決できません。

そうやって一人で解決できないことをめぐって、いろんな人に話を聞き、いろんな人を巻き込んでぐるぐると悩み、もがきます。そんな中、すっと手を差し伸べてくれるのが同じ寮に住んでいる先輩(おそらく東大法学部から外務省キャリアという設定)の永沢さんです。

「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

永沢さんは同情せずに、自分の力を100%出し切って、それでダメだったらそのとき考えればよいといいます。彼には多くの問題の原因と対応策が見えているのでしょう。それが見えないワタナベがもどかしく、だけどどこか他人に対して冷めているワタナベに親近感を持ちます。

一方、ワタナベはそんな永沢さんの良さを理解しているものの、心を許しているとは言えません。私がワタナベに惹かれるのも、永沢さんよりはワタナベに近いからでしょう。世の中の多くの人は永沢さんほど頭脳明晰でもなければ、自らの力に自信があるわけでもありません。

だから、不安定な足場の上で必死にバランスを取ろうとしてもがいているワタナベに共感するのです。不安定であるからこそ、よく考え、行動する大切さを彼は教えてくれます。これは先行きの見えない現代にも通じる部分といえます。私はとても共感を覚えました。

ちなみに本作品で有名になった新宿にあるジャズバー、DUGが出てくる箇所は下巻のp.47「紀伊國屋の裏手の地下にあるDUGに入ってウォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ」とp.150「DUGに着いたとき、緑はすでにカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた」の2か所です。

都電の駅から寮まで徒歩で帰る描写がありますが、早稲田の駅から和敬塾までは遠いなあ、と思いました。



カテゴリー
レビュー 谷崎潤一郎賞

二つの世界が交わっていく: 世界の終りとハードボイルドワンダーランド

村上春樹(2010)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮社

いずれにせよ、老人が指摘したように、この街にとって僕は弱く不安定な存在なのだ・どれだけ注意してもしすぎるということはない。(本書上巻 p.298)

私はこの世界から消え去りたくはなかった。目を閉じると私は自分の心の揺らぎをはっきりと感じとることができた。それは哀しみや孤独感を超えた、私自身の存在を根底から揺り動かすような深く大きなうねりだった。(本書下巻 p.393)

物語は二つの話が別々に進んでいきます。ある数字をある数字に変換する計算士という仕事をしている私が、ライバルである記号士による謀略、抗争に巻き込まれていく話が一つ、もう一つは城壁で囲まれたふしぎな街に連れてこられ、影を切り離されて夢読みという動物の頭蓋骨からそれが持っている記憶を読んでいく仕事をする私の話です。これら二つの話が、やがて一つの世界に交わっていき…。

本書では村上春樹の独特の世界観、知らず知らずのうちに不思議な世界に巻き込まれていくという筋書きが成立しています。計算士の私はあるクライアントの仕事を請けおって以来、記号士との抗争に巻き込まれてしまい、自らの力では抗しがたい運命に巻き込まれて行きます。

ふしぎな街に入って影を切り離された私はなぜここに来たかわかりませんが、夢読みという仕事を任され、街の人々と交流を広げていき、街独特のルールに従って生きていきます。こちらもまた、自らでは抗しがたい運命の中で生きていきます。

しかし、どちらの世界の主人公も運命に流されるままでは終わりません。どうにかして自らの希望が持てるほうに持って行こうともがきます。もがく中で、どちらも自分にとって大切なものが何か分かっていきます。それぞれの世界(あるいは宇宙)において、自分にとって大切なものが何かを改めて考えさせる物語、と言っていいかもしれません。

本書、私の高校の国語教師がお勧めしていました。また、職場の同僚の村上主義者も一番好きなのは本書と言っていました。しかし、私はダンス・ダンス・ダンスの方が好きです。



カテゴリー
レビュー

現代史の最重要人物:トウ小平

エズラ.F・ヴォーゲル著、橋爪大三郎(聞き手)(2015)『トウ小平』講談社

指導者が、なるべく多くの人びとの意見を聞いて、決めるわけです。意見が正しいと思えば、そのようにやる。そうじゃないと、自分の判断で方向を決める。(本書 p.196)

全国の秩序を守るために、ときどきひとを犠牲にしなくちゃならない。というロジックの犠牲者が、天安門の学生である。そういう考えだと、私は思う。(本書 p.207)

 エズラ・ヴォーゲルが大著を記しました。それが『現代中国の父 トウ小平(上)』『現代中国の父 トウ小平(下)』です。今回はその大著を紹介する対談です。

対談が豪華です。エズラ・ヴォーゲルの相手は『はじめての構造主義 (講談社現代新書)』でも知られている橋爪大三郎です。

鄧小平は第二世代の指導者といわれます。第一世代が建国の父、毛沢東。第二世代が鄧小平です。そして第三世代から江沢民、胡錦濤、習近平と続いて行きます。ただ、中国の国家主席は毛沢東と江沢民の間に劉少奇、李先念、楊尚昆がいます。また、中国共産党中央委員会主席も毛沢東、華国鋒、胡耀邦の3人がいます。鄧小平はどちらにも就いていません。

ではなぜ鄧小平が第二世代と呼ばれるのでしょう?

まず、中国では共産党がすべてを支配します。まず国があり、いずれかの党が運営するのではなく、まず党があり、党が国を運営します。そのため、党が何よりも優先され、党のトップ(総書記)が国のトップ(国務院総理)を指導します。

当時、党主席だった華国鋒は鄧小平によって権限を剥奪されてました。そして中央書記処総書記の職を設置します。中央委員会主席が党の最高指導者、中央書記処総書記が党の日常業務の最高責任者という運営にしました。そして鄧小平の信頼厚い胡耀邦が就任、再び党首と党の日常業務の最高責任者が分離する体制となります。

追い詰められた華国鋒は党書記を辞任、代わりに胡耀邦が党主席に就任、鄧小平は党中央軍事委員会主席に就任して人民解放軍(これまた国ではなく党の軍隊)のトップに就きます。一方で国の方には鄧小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任していました。こうして鄧小平体制を確立しました。

現在は党総書記、国家主席、軍事委員会主席の三つの役職を担うと中国の名実ともにトップになったといわれます。