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沖縄のヤンキー本がクラウドファンディングで出版

社長にとって自らの会社を守ることは、家族だけでなく、地元の後輩たちの生活を守ることでもあった。そのために彼は、米軍基地との共存も選択肢の一つとしてあげ、地元の人間の生活を軽視する基地反対派、そしてその象徴としての公務員を批判した。

(本書 p.76)

現在の沖縄の下層の若者の場合、キセツ(出稼ぎ)に行っても、技術を身につける機会も、人脈を培う機会も、ほとんど得られなかった。

(本書 p.237)

クラウドファンディングで出版された社会学の専門書です。沖縄の国道58号線に夜な夜な繰り出していた暴走族と彼らを見物しに来た若者(ヤンキー)たちに取材を重ね、彼ら彼女らの暮らしを描き出した労作です。暴走族の調査の名著『暴走族のエスノグラフィ』を思い出しました。

暴走族のようなヤンキーの集団には厳しい上下関係と掟があります。そして暴走するにもバイクの改造費や罰金など、お金が要ります。本書に出てくる沖縄のヤンキーたちは中学を出るとしーじゃ(先輩)のつてを頼りに建設会社で働きます。

辛い肉体労働に加え、マニュアルもなく、ただ先輩の見様見真似で仕事を学んでいきます。先輩も自らの意を汲んで動いてくれるうっとぅ(後輩)を重宝します。そうしたしーじゃとうっとぅ(先輩と後輩)の関係が、職場だけではなく休日まで続き、一緒にビーチパーティーに行ったりキャバクラに行ったりするなど、関わり合いは何十年も続きます。先輩は後輩を便利に使い、後輩は先輩に守られる。お互い持ちつ持たれつで地元から離れられなくなる様子を描き出します。

一方、そんな地元が嫌になって飛び出る若者もいます。ある者はキャバクラ店を開き、ある者は内地にキセツ(出稼ぎ)に行きます。キャバクラも地元の同業者と警察のガサ入れや覆面パトカーのナンバー、クスリに手を出した女の子の情報までも共有して経営を続けます。内地に行った若者も山奥の工場の前にあるスロット屋でお金を使い果たすなど、経済的に厳しい状況からはなかなか抜け出せません。

建設現場の日給が6~8千円、キャバクラの店長も月収が20~30万円と知り、厳しい世界だと改めて思いました。

そうした彼らの中に入り、建設現場で働き、時にはハンマーや桟木で殴られ、使いっぱしりをしながら話を聞き、共感を示し続けた著者の研究にかける情熱には舌を巻きます。反戦反基地ではない、私達の知らない沖縄の側面が見えてきます。

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1ヶ月以上太平洋を漂流した漁師をとりまくノンフィクション

「船では年よりから奴隷のようにこきつかわれ」、「カネなんか一銭も見たことがない」「昭和だったのに明治時代のような生活」だったという。

本書 p.200

突然、はじまった衝撃的な告白に、私は自分の予定調和がこわされたときに特有の当惑を感じた。いったいこの人は何を言い出だすのだ。

本書 p.372

1994年3月17日、フィリピン・ゼネラルサントス市近くの海で漁師が救命筏を発見しました。中には日本人船長とフィリピン人船員、9人の漁師が衰弱した状態で乗っていました。船長だった本村実は沖縄県宮古島市の漁師でした。彼らは太平洋を37日間も漂流していました。

どうしてもその話が気になった著者は、沖縄まで行き、本村のインタビューを試みます。しかし、電話口に出た妻から「十年ほど前から行方不明になっているんです」という衝撃の言葉を聞かされます。 漂流して助けられた本村は8年間船に乗らなかったものの、その後乗った船でまた行方不明になったのです。

この顛末になにか引っかかるものを感じた筆者は、本村の生まれ故郷である宮古島市佐良浜の漁師に話を聞き、実際に向かいます。佐良浜には神殿を彷彿とさせる白亜のコンクリート造りの家が所狭しと並んでいました。これも遠洋漁業の恩恵です。 戦前からカツオ漁業を生業とし、戦後はマグロ漁船に活躍の場を移した佐良浜の人たちにとって、遠洋漁業に出るのは当たり前のことでした。

江戸時代から続いていた沿岸漁業が水中メガネの発明により追込漁に、そして戦前のカツオ漁、戦後のマグロ漁へと続いていきます。教員が1%、役場勤めが1%、残りは漁師、水は海辺の井戸に汲みに行くといった貧しい漁村にとって、選択肢はそれしかありませんでした。そこには私たち陸の民と違う感覚を持ち、ルールで生きる海の民たちの世界がありました。

漂流をした本村の親戚縁者はもとより、出身の沖縄や仲間由紀恵の祖父(彼女の父はマグロ漁師だったそうです)を含む池間島の漁業に詳しい人たち、さらには本村の乗っていた船会社の社長、本村と一緒に漂流をしていたフィリピン人漁師のほか、救助した側のフィリピンの漁師にまで話を聞きます。冒頭の引用で示したとおり、著者はある種の面白いストーリーを組み立てて話を進めがちなきらいはありますが、軌道修正しつつ、ぐいぐいと事件の姿に迫っていきます。少しずつ明らかになる海の民たちの感覚には驚かされました。

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現代的でもあるファシズム

佐藤 片や、ファシズムは出自や民族、人種は問いません。そこにファシストと民族主義者や人種主義者の違いがあります。

(本書 p.65)

片山 (前略)明治国家体制では、ヒトラーのように天皇は演説もしなければ具体的命令も滅多にしない。ここに同じ束ねる原理でも大きな相違があります。

(本書 p.109)

佐藤優と『未完のファシズム』の著者、片山杜秀の対談本です。二人の対談は『平成史』に続くものです。

ファシズムはイタリアのムッソリーニが第二次大戦中に敷いた体制で、同じ枢軸国だったナチスドイツと同様、独裁体制であったと思われがちです。しかし、両者には決定的な違いがありました。

ヒトラーは人種主義を掲げ、アーリア人種以外は劣っており、ユダヤ人はこの世から抹殺しなければいけない、という排除の思想が働いていました。一方、ムッソリーニが提唱したファシズムはイタリアに協力するものならイタリア人であり、国家のためにみんなで束になって協力していこうという体制でした。排除ではなく、包摂し、束ねていく発想です。

一方の日本はどうだったのでしょう。国内の体制的には行政、司法、立法が独立して存在していました、内閣と同時に枢密院があり、内閣の決定を枢密院が覆すこともできました。内閣には各省庁の調整機能を求められました。そうしたばらばらの状況をまとめたのは、天皇でした。ペリー来航の折、まだ国内は幕府を始めとする各大名が群雄割拠する時代でした。ここでもう一度戦国時代を初めて、大きな将軍を決めても良かったのでしょうが、そんな隙に西洋から入ってこられます。だからたまたま、天皇を使って統治し始めたわけです。しかし、天皇がなにか大きな権力を奮って、それの責任を問わされたり、第二の徳川が現れたりしないよう、天皇は下から上がってきた議題の説明を受け、「あっそう」と返すだけにしていました。こうしたやり方が、日本的な未完のファシズムといえると思います。

ファシズムは危機のときに発生しがちです。ろくに議論せずに勧めていく姿勢がファシズムです。「この道しかない」という発想はファシズム的です。

しかしファシズムは弱者も包摂します。国のために頑張るものが国民なのですから、強いものが弱いものを支え、自分たちの力の限り国を支えるべきだ、という発想です。国民は多いほうが強いですし、排外主義的になると束が細ります。

本書でファシズムへの理解が深まることは間違いありません。

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現代沖縄の裏社会

こうした猥雑な空気をはらんだ街に引き込まれたのは、私が地方都市の場末の歓楽街で生まれ育ったせいもあっただろう。そしてもう一つ、それまで」自分の中で醸成してきた沖縄のイメージが揺らぎ始めたことによる、静かで深い衝撃も大きかったと思う。

(本書 p.13)

戦争未亡人たちが、生活を維持するために米兵相手に売春をしてドルを稼ぐという現実は、当時の沖縄の人々なら誰しもが認識していることで、さきの新聞にあるような「頽落」やら「風紀の乱れ」ではないことは、警察もメディアもわかりきっていたはずだ。

(本書 p.217)

沖縄で「恥部」とまで言われた売春地帯を記録したノンフィクションです。沖縄ではそうした地帯は特殊飲食店街、通称「特飲街」と呼ばれてきました。昭和33年に売春禁止法が施行されましたが、沖縄は復帰前だったため、本土と足並みは合いませんでした。

沖縄にあった特飲街は吉原、真栄原新町、そしてアギムヤーと呼ばれる松島でした。特に松島特飲街はネット上に情報がほとんどありません。米軍基地ホワイトビーチの近くらしいのですが、現在では住宅街となっているそうです。ネットではわからない情報が載っている、貴重なルポでもあります。

沖縄では第二次大戦中、県民の4人に1人は犠牲になったといわれる沖縄戦ですべてを失った人たちのうち、家族のため、自らの身体を売って稼ぐしか道のなかった女性もいました。当時、戦争未亡人に対する補償はないに等しかったためです。米軍に攻め入られ、占領された島々の経済は米軍によって支えられたのです。

米軍内部での風紀が厳しくなると、沖縄や本土の観光客を相手にするようになりました。そして沖縄だけでなく、遠くは北海道の女性まで流れてくるようになります。本書はそうした変化や女性の流れてくるルートの解明に、警察や歓楽街の人たちはもちろん、裏社会の人にまでアプローチして迫っています。

しかし、時代は売春を許さなくなってきました。2010年代に入ってから人権意識等の高まりを受け、特飲街は「浄化:されていきます。その先頭にたったのが、警察と婦人団体でした。女性の生業を女性が浄化していったのです。

幻の映画「モトシンカカランヌー」(元金かからない者=売春婦)で「十九の春」を歌っている女性、アケミを探し歩く章は推理小説を読むような展開です。沖縄復帰前に撮られた映画に出てきた女性を探すため、細いつながりを何本も使って筆者は撮影地や撮影者、アケミを知っている人たちを訪ね歩きます。


モトシンカカランヌー(一部)

本書のタイトルで『東京アンダーグラウンド』を思い出す人も多いと思う。あちらはプロレスから裏社会、テキヤなどを政治経済に絡ませていたが、本書のメインは売春だ。それ以上は個人単位でかかわっているから深く把握しがたいらしい。本当に表に出てこない「アンダーグラウンド」の世界に肉薄した本です。米軍と女性といった一枚岩では解決できない問題を提示され、考えさせられてしまいます。おそらく答えは出ないのでしょう。現実を前に、考え続けるしかありません。

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知れば「おそロシア」も怖くない?

池上 「おそロシア」という言葉がありますよね。よくわからなかったり、怖かったりというのが、日本人のロシアに対する一般的なイメージだと思います。
(中略)
佐藤 (東京大学名誉教授の和田春樹先生が仰っています。日本人にとってのロシアには、常に二つの顔があると。一つ目の顔は「先生としてのロシア」。(中略)そしてもう一つ、同時にある顔が「軍事的な驚異としてのロシア」。

(本書 pp.64-65)

佐藤 (中略)今、「反知性主義」という言葉をよく聞きますが、ソ連共産党書記長には凡庸な人物が選ばれるのが常でした。日本的に言うと偏差値五〇前後の人しかならないようにしていたんです。

(本書 p.149)

ふしぎな国、ロシアについて外務省ロシアスクールに属していたエキスパートである佐藤優とジャーナリストの池上彰が対談形式で読者にわかりやすく謎解きをしていきます。

崩壊して住みづらかったと思われがちなソ連ですが、世界に良い影響ももたらしました。冷戦当時は資本主義国にとって共産主義国は脅威だったため、共産革命が起きないように社会保障が充実しました。また、特に宇宙開発では世界をリードし続けています。人工衛星も有人宇宙飛行もソ連が世界初でしたし、未だに宇宙ステーションに定期的にロケットを打ち上げているのはソユーズだけです。また、ポリオの生ワクチンもソ連が開発しました。その他、五カ年計画といった複数年で国家政策を作る方式も効果を発揮したため、多くの国で取り入れられました。

いっぽう、共産主義国特有の罪もありました。一つが労働時間です。国民は就職先を選べず、国によって就職先を割り当てられる「強制労働」をさせられていました。一方、実質的な労働時間は3時間だったそうです。中央官庁や党中央委員会の官僚は長時間勤務をしていましたが、特に給料が高いわけでもありませんでした。ただ、腐っていない卵が買えるといった特権はありました。お金による格差がない分、行列に並ぶ時間の格差がありました。

北方領土交渉やトランプのロシア疑惑など、ロシアは国際政治でも一筋縄で行かない相手です。専門家の佐藤をしてもわからないのが、ポロニウムを使ったスパイ暗殺事件です。なぜ核物質を使ってまでスパイを使ったのかも、イギリスが騒ぎ立てた理由も不明だといいます。そういう点が「おそロシア」という印象を強めているのかもしれません。

つくづくふしぎな国ですが、佐藤も池上も70年台の東側の暮らしは豊かだったといいます。実際に東欧諸国を回った佐藤も、70年台の東ドイツの暮らしを再現した博物館に行った池上も、同じ意見を述べています。本だけでなく、実際に行く大切さが伝わるエピソードです。

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ローマ法王に米を食べさせたスーパー公務員の町おこし

「本当においしい物、いい物を直売所で売りましょうよ。まずい物はJAさんに渡してください」

本書 p.157

それをあなたたちは、紙切れ1枚とまんじゅうだけ持ってきて1000万円出せと。総会屋でもしないことを自分たちがやっているのが、おわかりになりますか?

本書 p.195

辞令を受けたんです。この時まで5年半、私はずっと臨時職員だったのです。35歳でようやく公務員になれた。認めてもらえたんです。うれしかった!

本書 p.203

ローマ法王に米を食べさせた男、石川県羽咋市職員の高野誠鮮さんのしごとの話です。一時期、羽咋市はUFOで有名になりましたが、それを仕込んだのがこの高野さんです。市の古文書でUFOらしき記述を見つけ、国に事業を申請、認めてもらったらしがらみがあってハコモノを作ることにはなったけど、展示品はNASAから100年間無償で借り、宇宙飛行士の講演会も行いました。結果、羽咋市には2000万円の黒字が残りました。その功績が認められ、正規の市役所職員になります。もちろん、行動するけど失敗もします。UFOで町おこしをするからU. F. O.を作っている日清食品に行き、協賛金のお願いを申し出たところ、「総会屋でもそんなことしない」とけんもほろろに断られました。

どうやってこんな公務員が生まれたか? 高野さんはその名前から分かる通り、お坊さんです。日蓮宗のお寺の子でしたが、地元の高校を出たあと、大正大学で僧侶になる勉強をしながらマスコミ業界で仕事をし始めました。しかし、お兄さんが家を継がないことになりました。日蓮宗ではお寺は宗派のもので個人のものでないため、お父さんがお坊さんをやめると露頭に迷います。しかも500年も続くお寺です。後を継ぐため、羽咋市に帰ってきました。だけど檀家は100件、そんなお寺にお坊さんは2人もいらないということで、何かの仕事を探し、見つけたのが市役所の臨時職員の仕事でした。

公務員になってから、上司と対立して農業関係の部署に左遷されます。しかしそこで左遷ととらえず、一所懸命農業振興を考えます。幸いなことに、羽咋市には良質のお米がありました。しかし地元の人達はPR方法も知りません。年収70万円で後継者もおらず、ただ限界集落担っているのを黙ってみているだけでした。

そこで各地に米をPRしたほか、メディアにも定期的に発信し、さらには若い人や大学生を呼ぶ取り組みも行いました。周りを巻き込んでなにかやろう、という雰囲気を作っていきます。もちろん、小さな集落だから閉鎖的な人もいます。仏壇があるのに大学生を呼べない、失敗したら誰が責任を取るんだなどなど。とことん話し合い、やってみるか…と潮目が変わった頃合いを見て動き出すのは人と向き合う仕事である僧侶をされてきただけあります。その他、対立してしまうJAとは事前に話を通しておくなど、細やかな配慮も忘れません。

市長には「明日東京に行っていただくことになりました」と言って翌日の予定をすべてキャンセルさせ、副市長には「県庁ではこんなやり方通用しない」と注意されるなど、手続きと前例踏襲を重んじる役所では破天荒ではありますが、フットワーク軽く仕事をしていきます。これも当初から、今の過疎化は役所のこれまでのやり方が間違っていたせいだ、これまでのやり方を踏襲していてはいいことができない、と旧知の市長に伝え、事後承諾を了承させていた結果です。

結果、ローマ法王に羽咋市神子原地区のお米を献上したり、自身の手がけた農産物をフランスのミシュランに載ったレストランや東京の有名デパートが扱うに至ります。破天荒な仕事のやり方が影響してか、役所ではあまり出世しなかったようです。ここまで地域振興をし、地域の人々の信頼を得て、いくつかの大学の客員教授やメディアにも取り上げられたのにもかかわらず。このあたりが役所の限界なのかな、と思わされます。

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北朝鮮に7年間抑留された日本人船長

腹を決めた。
「命令したのは私だ」
紅粉は切り出した。この一言ですべてが決まった。
「私が機関長に命令した。彼に責任はない。頼むから、ほかの三人と一緒に日本に返してやってくれ。頼む……

(本書 p.41)

「北朝鮮は官僚主義なんです。誰も責任を取りません。私が脱走すれば、軍の上司が責任を取らされます。私が南浦港から密航すれば、警備兵が責任を追及されます。しかし、誰も責任を取らないとなれば、第三者の悪人を仕立て上げる以外に方法がないでしょう。それが富士山丸の船長たちだったんです」

(本書 p.256)

日本と北朝鮮の間にある人権問題として一番に挙げられるのが拉致事件です。戦後から2000年代までを中心に北朝鮮が工作のため日本中から日本人を拉致しました。ある者はスパイ養成の日本語教師に、ある者は戸籍はそのままで北朝鮮から来た人と入れ替わるなど、浸透工作は多岐に及びます。一連の拉致事件の一部を北朝鮮が認めたのは2000年の小泉訪朝でした。ただ、その前に北朝鮮によって不当に拘束された日本人がいました。一人は日本海側で漁をしていたら海難事故(を装って?)で北朝鮮に保護され、そのまま現地に暮らすことになった寺越武志さん、もう二人が本書で出てくる紅粉勇船長と栗浦好雄機関長です。1983年から1990年まで7年間、北朝鮮で抑留されていました。釈放の条件として北朝鮮を悪く言わないこと、言うと家族が交通事故にあうかもしれないなどと脅されましたが、船長が阪神・淡路大震災を経験し、死んだら残らないのだから死ぬ前に記録を残そうとした結果、書かれたのが本書です。

1983年当時、日本と北朝鮮の間に国交はなくても、貿易はありました。その一つ、はまぐりを始めとする魚介類の輸出入を行っていた船が、紅粉船長や栗浦機関長の乗る富士汽船の第十八富士山丸です。

1983年11月3日、北朝鮮の南浦からはまぐりを積んで帰国する途中、密航者を発見します。李英男と名乗るその男は山口県で入管に引き渡されました。入管の考えは当初、四日市ではまぐりをおろした富士山丸に密航者を送り返してもらう予定でした。そのため、富士山丸は当初予定になかった北朝鮮への渡航のため、新たな貿易契約をします。しかし取り調べが長引いたことから、密航者なしで北朝鮮に行くことになりました。その事情は朝鮮総連関係者にも一筆書いてもらい、最善を期しました。しかし北朝鮮につくと北朝鮮の公民を不法に日本に連れて行ったかどで逮捕、勾留されます。同じく捕まった一等航海士、機関士、コック長は船長が罪をかぶったので釈放されました。船長と機関長だけが7年間抑留されます。罪状認否すらない裁判で二人は労働教化刑15年に処せられ、強制収容所に入れられました。持病を持つ二人でしたが、幸いに強制労働はさせられず、強制収容所では仲良くなった看守からアヒルの卵をもらったり、畑を耕して暮らします。

いっぽう、残された人々も奔走します。家族は当時朝鮮労働党と友党関係にあった社会党の代議士に働きかけ、年に何度かあった議員の訪朝団に望みを託します。土井たか子が金日成に会ったとき、事前には断られていた二人の話を持ち出し、政府間対話の緒を掴みます。その頃には署名活動などで世論も大きく動いていたことが功を奏しました。中曽根首相が中国の胡耀邦国家主席に協力を依頼、訪朝団も働きかけるなど大きく動きました。また国際情勢もラングーン事件以来かけていた制裁の解除、米国の対北朝鮮政策の変更、中国、ソ連の韓国への接近などもあり、大きく動きます。結果、二人は最終的に金丸・金日成会談で釈放が決定されました。

7年の間に紅粉船長の父は亡くなり、富士汽船は破産、社長は心労がたたって寝たきりになりました。また、根拠のない噂レベルの話ではありますが、自民党副総裁まで務めた金丸もこのときに北朝鮮に接近しすぎたため米国の信頼を失い、失脚します。その後、失意のうちに亡くなりました。官僚主義国家におけるたった二人の勾留が、多くの人の人生を変えました。一方、特例的な措置で日本に亡命した李英男と名乗っていた閔洪九は窃盗などで前科を重ねつつ結婚、子供を持って日本で暮らし続けます。

本書では北朝鮮との問題が起きた場合のルートとして外務省は5つ考えていたと明らかにされています。当時は通常の外交ルートのほか、議員連盟などを通じた働きかけが可能だったのです。一方、強い制裁を実施している今はそうした交流がありません。交流を狭めてまで制裁するのも、ある程度の交流を残して制裁を緩和するのも、どちらも一長一短です。表の外交ルートで行うのが筋ですが、一筋縄でいかないのが国際政治だと改めて知らされます。

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向坂逸郎訳とされる『資本論』を本当に訳したマルキシストの自伝

われわれの同級会は「大正十三年一高文甲会」と称し、和田貞一という非常にまめな世話役がいるために、最も集まりの良い同級会である。(中略)集まりは良くても、向陵時代の楽しさが味わえるなどと思ったら大間違いで、じじいばかりの集まりなど面白くもなんともない。お互いにまだ生きていることを確認し合うだけのことである。

(本書 p.38)

保谷村閑居のころからよく家事の世話をしてくれ、そのころ東京の洋裁学校の教師をしていた篠田クニに、入籍手続きをして大連にくるようにと手紙を出した。翌十五年四月、彼女はやってきた。埠頭に出迎えた私の第一声は、金はいくら持ってきたか、だったと彼女はいまでもそう言っている。そんなさもしいことを言った覚えはないのだが、彼女が飽くまでそう聞いたと言うからにはそう言ったのだろう。これが今日まで四十年余り苦楽を共にしてきた妻である。

(本書 p.148)

碁盤が二つ置いてあって、私は出勤するとその前に腰を下ろした。とっかえひっかえ相手がやってきて、昼食抜きで例の賭け碁を戦わせた。退勤時刻になると、正業に就いているだれかから電話がかかってきて、一緒に出かけた。あるとき幹部の一人に、部付とはなんという社費の無駄使いか、とあからさまに言ったら、遊んでいるように見えていてもいざというときに役に立つのだ、という答えが返ってきた。平時でさえ役に立たないから部付になっているような者が、いざ一大事というときに果たして役立つものかどうか甚だ疑問に思った(後略)。

(本書 p.150)

最初の申し合わせの前半の「交替訳」というのはいつしか自然消滅して、「下訳」という名の「全訳」を私がやり、向坂はその原稿かまたは校正刷に目を通すだけ、ということになってしまった。そして「印税二等分」という最初の約束の後半だけが厳然として残った。

(本書 p.194)

数日後に私は今年十月限りで印税受領権を放棄する旨の手紙を出した。向坂からは、それでけっこう、という簡単な返事がきた。そして、その年十月初めのある朝、大新聞朝刊の二面の下五段ぶち抜きで、マルクス『資本論』百年記念、向坂逸郎訳z『資本論』全四冊、という巨大な活字が私の目に飛び込んだ。

(本書 p.302)

佐藤優がどこかでこの本が面白いと褒めていました。確かにおもしろい。賢い人の自伝は細かいところまで覚えていてさすがだなあと感心します。最後の腕力での喧嘩まで覚えているなんて。

80歳の著者が実名でいいことも悪いことも飄々と書いた交遊録です。なぜ実名で書けたか? おそらくこれが著者の遺言だったらからでしょう。本書を出版後、著者は家を引き払って妻とともに全国放浪の旅に出ます。大阪のホテルに泊まったのを最後に、足取りは途絶えました。未だに消息はわかっていません。本書には「鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった」(本書 p371)と書いてあるので、あるいは実行したのかも知れません。

能力ある自由人の生き方を体現した筆者は、独学で一高、東大を出て満鉄調査部に勤め、戦後は九大や法政大の教授を勤めただけあって、頭がいい。頭のいい人の回顧録はよくここまでの記憶力があるなあ、と嘆息します。本人の飄々とした性格もあるのか、ユーモアのある文体で語られていて、飽きません。エリート校に入っただけあって、知り合いも後の大物が出てきます。一学年上には手塚富雄(ドイツ文学者、東大教授)や当時から学力や知識がずば抜けていた石田英一郎(文化人類学者、病気で休学したので卒業は同年)などがいます。

著者の岡崎次郎は明治37(1904)年6月に北海道庁職員の次男として生まれます(当然、長男の名前は太郎、三男は三郎)。父は板垣退助に払い下げた国有地を3年間開拓しなかったから規則通り没収し、職を追われます。その後、東京市役所に職を得ました。その後、転勤で名古屋に移り、著者は読書は好きだけど無味乾燥な教科書を読むのは嫌いだったので進学せずに済む方法はないかと考え、南洋拓殖少年団(ミクロネシアの農園で働く青少年)に応募しようと考えました。しかし家族の猛反対にあい、親に「学校に行くなら一番良い学校に行け」と言われ、第一高等学校に進学します。

人生で一番楽しかった高校生活を過ごた後は、東京帝国大学文学部哲学及び哲学史科に進学、卒業します。しかし、当時は就職難で仕事が見つからなかったため、経済学部に再入学、卒業します。卒業後は翻訳などをして食いつないでいたところ、寮の同室だった橋本乙次の紹介で東亜経済調査局にいる小森新一を紹介されました。それが縁で東亜経済調査局に就職し、調べ物をしたり碁を打ったり盛り場に行ったりと楽しい日々を過ごします。昭和12年~13年には思想弾圧で『マルクス伝』を訳していた著者も逮捕されます。娑婆に復帰してから、調査局は満鉄に復帰しており、大連行きを打診され、そのまま満鉄調査部に異動します。大連でも異動になった北京でもそこでも碁を打つなど楽しい日々を過ごします。終戦を北京で迎え、たまたま会った高校の同級生、石田英一郎と協力して引き上げ準備をドタバタやり、得体の知れない軍人に社屋を明渡したり、いくつかの所持品を憲兵に没収されたりしながら日本に帰国します。

帰国後、九州大学や法政大学の教師をする一方、翻訳も続けました。特に有名なのは『資本論』でしょう。向坂からの依頼で彼のやっていたマルクス『資本論』の訳を手伝うことになります。「下訳」と言われてもほぼ全訳したのに、向坂訳として岩波から出版されています。その後、著者は改めて大月書店から新訳を出そうとしていたところ、向坂に裏切り行為だと指摘され、それまでもらっていた印税をもらわないようにする約束をしました。その途端、岩波がマルクス『資本論』セットを発売します。著者は悔しい思いをしますが、もうどうしようもありません。

大学紛争盛んな頃、暴力を行う学生に警察を介入させず、キャンパスを追い出されて開いた教授会で学生運動の対処について話し合う法政大学に嫌気が差し、職を辞します。このあたりの記述が原因となったようで、本書は法政大学出版社からの出版を拒否されました。その後はまた翻訳をしてお金を稼いでいきます。職を転々としたことと生来の性格から、あまり貯金がなかったようで、晩年まで翻訳等で稼ぎます。そして最後は夫婦で失踪します。こういう人生もあるのか、と驚くばかりです。

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街の語学者 三上章の一生

今西(筆者註:錦司)は生前「わしに進化論をはじめて教えたのは三上やで」と言っていた。三高時代の今西に進化論の手ほどきをしたのは、古今東西の主要著作に親しみ博覧強記で知られた三上章だった。

本書 p.93

三上はこの論文に相当の自信を持っていた。それで、すくなくとも古語、雑誌『コトバ』に載るすべての論文から「主語」という言葉は消えて無くなるに違いない、と本気で信じていたそうである。-「次の号から、いや印刷に間に合わないということもあろうから(!)次の次の号から」そうなるだろうと。

本書 p.160
「象は鼻が長い」で有名な三上章の一生を描いた本です。丹念に取材をして、三上章の人生を、生まれから死去まで追っています。また、くろしお出版の会長や実妹・茂子など生前の三上章と交遊のあった人たちにも会って話を聞き、エピソードに肉付けをしています。

三上章は1903年1月26日に広島県高田郡甲立村に生まれました。三上家はもともと武家で、三上の生まれた明治の時代は豪農でした。大叔父(母方祖母の弟)の義夫は数学者で和算を世界に紹介した科学史家として有名です。

幼い頃は病弱で病に臥せっていたこともありましたが、広島市内の中学校に入学するとスポーツを通じて健康になりました。小さな頃から読み書きや計算に優れていましたが、数学では気に食わない問題が出ると白紙で提出したり、xyzと書くところをセスンと書くなど、反骨精神のある子だったようです。その調子で主席で入学した山口高校を退学し、数学が得意だった御神は三高理科甲類に入学します。三高では今西錦司と同級生、桑原武夫の1年上にあたります。卒業後は当日の受験拒否騒動などありながらも、叔父義夫の勧めで東大建築学科に進学します。当時は文系では食えず、関東大震災後の東京では建築の仕事はいくらでもありました。

卒業後は台湾総督府で技師として働くもすぐに退職し、内地に帰ります。しかし仕事をせねばなりません。戦前は数学教師として朝鮮に赴任しました。1935年には広島に帰国、1938年からは大阪の高校で教鞭をとります。数学教師をしながら、日本語文法の研究をし続けました。金田一春彦の勧めもあって本を出版し、佐久間鼎の支えもあって東洋大学で文学博士号を取得します。そのおかげで武庫川女子大学、大谷女子大学で教鞭をとることになりました。

私生活では結婚せず、母フサ、妹茂子と3人で暮らします。しばらくは健康に過ごしていたようですが、戦前からすっていたタバコ(一番きついゴールデンバット)のほか睡眠薬ヴェロナールも常用し、また躁うつ病をわずらうなど、順風満帆とは行きませんでした。大谷女子大学では時間に正確なことでも有名で、始業前にドアの外で待って、ベルが鳴ったら入ってくる。またベルが鳴ったら話の途中でも切り上げる。だから「とは言」とだけ言って帰り、次の授業では「えない」から始まる。といった一種異様な有様を呈しました。

才能は恵まれた三上が自らの健康と引き換えにしてささげた文法研究が生前は正当な評価を受けなかったのは残念なことです。しかし生誕100周年の2003年には三上章フェスタが開かれる(余談だが、このフェスタに妹茂子は大阪から駆けつけ、久間鼎の次男均にお礼を伝えた)など、ある程度の地位は持ってきたように思えます。大きな業績の裏側では、三上の私生活を支えた母や妹、そして出版社や一部の学者の力があったことを教えてくれる本です。

惜しむらくはその偉大さを伝え切れていない点です。著者は日本語を教える過程で三上文法のすばらしさに気づいたそうなのですが、そうならば従来の文法(著者があげている橋本文法など)を取り上げ、比較検討して優位性を示してほしかったと思いました。

また、エピソードが足らないからか、ある年代の時代背景を描くのに世界や日本の出来事と「三上はどういう気持ちでいただろう」などの著者の感想がやたら入ります。そのため三上と周りの人のエピソードが散漫になってしまっています。歴史上の出来事や感想はできるだけ控えて書いた方が伝わったのではないかと思います。本人の人となりを伝えるという点では関口存男の周りの人が死後に思い出を語った『関口存男の生涯と業績』や斎藤秀三郎を知っている人に丹念に取材をしてエピソードを集めた『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』の方が人となりが伝わります。本人の学習ノートも見せてもらったほか、「雑談の名手だった」というエピソードも聞いたのですから、研究に対する真摯な姿勢、鬼気迫る様子などもおそらく伝え聞いたのではなかったかと思います。三上がどのような姿勢で研究をしていたのか、ぜひ知りたかったです。

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2019年1月の金正恩訪中記念映画解説

2019年1月7日から10日にかけて、北朝鮮の金正恩 国務委員会委員長が中国を訪問、習近平 国家主席と会談しました。その訪中のようすが北朝鮮国営メディアである朝鮮中央放送で流れました。以下ではその詳細を見ていきたいと思います。

1月7日午後

00:04
タイトル「朝鮮労働党委員長であらせられ朝鮮民主主義人民共和国国務委員会委員長であらせられるわが党と国家、軍隊の最高領導者金正恩同志におかれては中華人民共和国を訪問なさった 主体108(2019).1.7-10」
00:39
左に見える赤いビル、広いプラットフォームから、出発駅はおそらく龍城(リョンソン)駅です。
00:47
金永南首相(右端)をはじめとする幹部たちがお出迎えのために待機しています。午後とはいえ、寒い中、大変です。後ろで脚立に乗って望遠レンズを構えているカメラマンが女性です。北朝鮮公式メディアのカメラマンはたいてい男性なので珍しいです。
01:15
金正恩・李雪主夫妻が駅に入ってきて、見送りの幹部たちに挨拶をします。
02:40
幹部たちが深々とお辞儀をする中、専用列車の開け放った扉から手を振る将軍様。照明がすごい。
02:47
手を振る将軍様の右後ろにいるのが妹の金与正という報道もありました。
03:00
最後尾あたりにある車両、妙にゴツゴツしています。通信機器が載っているのでしょうか。今回の訪問には李洙墉、金英哲、朴泰成、李容浩、努光鉄、李一煥(部長)、崔東明(部長)を始めとする人々が同行しました。

1月8日

04:13
丹東駅に到着、宋濤 中国共産党対外連絡部長の出迎えを受けます。左端の花束を金正恩から受け取るために待機している金与正も見えます。
04:43
列車内で会談をします。いわく「和気あいあいとした雰囲気」で行われたそうです。
06:23
現地時間1月8日午前10時半、北京に到着しました。映像では午前11時頃到着したようです。
06:40
北京駅で王滬寧 中国共産党中央政治局委員と蔡奇 北京市党委員会書記が出迎えます。その後、天安門の前にある長安街を通って釣魚台迎賓館に移動します。
09:10
宿泊先となる釣魚台迎賓館で王滬寧 中国共産党中央政治局委員と蔡奇 北京市党委員会書記、宋濤 中国共産党対外連絡部長が出迎えます。前二者は北京駅で、宋濤は未明に丹東駅で出迎えています。どうやって先回りしたんでしょう? 丹東からは高速鉄道や飛行機を使えば先回りできますが。
10:27
8日午後5時半、習近平・彭麗媛が人民大会堂にて金正恩・李雪主夫妻を出迎えます。
12:17
金正恩と習近平がそれぞれの政権幹部たちに挨拶をします。習近平は他の幹部とは片手で握手しましたが、金与正とだけは両手で握手をしています。重要人物であることが伺えます。
13:46
儀仗隊の閲兵式が人民大会堂の中で行われました。冒頭に国旗に一礼した習近平、金正恩の両国指導者。
15:42
首脳会談の様子です。北朝鮮側は金正恩、李洙墉、金英哲、李容浩が、中国側は習近平、王滬寧、丁薛祥、楊潔チ、王毅、宋濤が参加しました。
23:28
習近平の主催で歓迎式典が開催されました。場所は人民大会堂です。
34:25
習近平、金正恩が挨拶のスピーチを行い、出し物がありました。宴も酣のうちに終了しました。最後に金正恩は習近平に一礼します。礼儀正しいですね。

1月9日

35:22
午前、漢方薬製造企業である北京同仁堂のため、宿舎である釣魚台迎賓館を出発します。お出迎えに来たのは王滬寧と宋濤。
36:28
漢方薬製造企業である北京同仁堂を見学します。製造方法や経営状況についての説明を受けたようです。
38:11
満足して帰ります。帽子をとって挨拶をします。出口には目隠しのテントが張ってあります。
39:00
一度、宿舎である釣魚台迎賓館に戻ります。スタッフに挨拶をして、再度出発します。
39:40
北京飯店に行き、習近平と最後の首脳会談を行います。首脳会談のあとは午茶(アフタヌーンティー)を楽しみました。「家庭的な雰囲気」の中、行われたそうです。
43:09
午後3時、北京駅から帰途に就きます。お見送りには王滬寧 中国共産党中央政治局委員と蔡奇 北京市党委員会書記、宋濤 中国共産党対外連絡部長が来ました。将軍様の隣で顔を出す存在感のある女性は通訳(おそらく)です。

1月10日

43:36
深夜、丹東駅に到着し、列車内で宋濤 中国共産党対外連絡部長や鉄道部幹部と会談を行います。車内で習近平に宛てた親書を宋濤に渡します。北京から丹東まで高速鉄道でも6時間ほどかかるので、客車ならもっと夜遅くになったでしょう。北京駅で見送ったのにさらに国境まで見送りに来た宋濤は大変だったと思います。
44:33
お互い抱き合ってお別れです。また会うことを約束します。感動的なシーンです。金正恩の右奥には金与正の姿も見えます。6号車が専用車である可能性が一番高いですね。
45:29
行きとは違い、帰りは平壌駅に到着します。駅には「敬愛する最高領導者金正恩同志万歳!」というスローガンがかかっています。
48:00
午後3時、列車が到着します。金永南を始めとする幹部たちの出迎えを受けます。老人は口が臭いから手で覆うように、という指導を守る幹部も散見されます。
48:30
専用車で平壌駅を出発します。これにて、一連の中国訪問は終わりました。