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パースを知るための第一歩

有馬道子(2001)『パースの思想』岩波書店

このようにソシュールの記号論が「コードとメッセージの記号論」として、歴史的、社会的体系の中の価値としての恣意的な記号をあつかうものであるのに対して、パースの記号論は無現の「意味作用の記号論」として、身体的経験的に自然とつながりつつ社会的論理と場(コンテクスト)に開かれた対象を指し示す記号をあつかうものとなっており、新陳代謝的にたえず更新される「場の記号論」「解釈の記号論」となっている。(本書 p.60-61)

ある私の友人は、高熱の後、聴力をすっかり失ってしまった。この不幸な出来事の起こる前、彼はとても音楽が好きであった。(中略)その後でもよい演奏者が弾くときには、彼はいつでもピアノのそばにいることを好んだのであった。そこで私は彼に言った。結局のところ、すこしは聴こえるんだね、と。すると彼は、ぜんぜん聞こえないさ-でも全身で音楽を感じることができるんだ、と答えた。私は驚いて叫んだ。(中略)同様に、死んで肉体の意識がなくなると、私たちはそれまで違った何かと混同していた生き生きとした霊的意識(spiritual consciousness)をそれまでもずっともっていたことにすぐ気づくことになるだろう。(CP. 7. 577)(本書 p.103)

この段階におけるアラヤ識を井筒俊彦(1983年)は「言語アラヤ識」と呼んでいる(こうした見方を、パースの「シネキズム」およびデリダの「差延」や「痕跡」と比較してみるのも興味深い。これらの間に本質的な相違はみられないからである)。(本書 p.191)

パースの話をするときには今でも本書が引用されることが多いので、避けて通れない本となっている。パースの思想を知るにはまとまりもよく、分量も短く、読みやすい本だと思う。パースの思想のみならず、その西洋思想(おもに言語学)上の位置づけを素描し、ソシュールとの関係はもちろん、チョムスキーやヤコブソン、ボアズやサピア、ウォーフにつながる系譜まで紹介しているあたりは、小山亘の『記号の系譜』の簡略版ともいえ、非常に見通しがいい。また後半になると井筒俊彦の『意識と本質』を引いており、補論には老荘の思想について書いているあたり、東洋思想との比較まで試みた、大変意欲的な書である。

パースの記号論は言語学のみならず、人間世界のすべてに適用できる視野の広い思想である。その点はソシュールよりも断然応用が利く。ソシュールがアナグラムに走って世界を変えようとしていたが、パースは自身の苦しい生活の中で得た神秘体験を通して、世界を解釈した。そして、それを説明し得るようなモデル(アブダクション)を作り上げたのだった。その点、同じ慧眼を持った学者とは言え、言語の能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)に着目したソシュールと比べると根性が違う。

上記の系譜に連なるボアズ、サピア、ウォーフがパースと共通している点は、言語に出てくるものと、そこに直接的には出てこないが、出る過程に影響を与える文化的な形があったという点だ。これについて著者は精神的中間体を仮定したフンボルトや、語りえぬものについては沈黙せざるを得ないという形で言語の限界を示したヴィトゲンシュタインにも言及している。

そうすると当然言語アラヤ識の話になってくるんだけど、やっぱりこうなると井筒俊彦以外に拠って立つところは無い。早い話が彼の著作を読めばいいのだけど、かなり骨が折れる。えらくざっくり言うとすべての言語表現の発動のきっかけとなる種子(しゅうじ)として、アラヤ識の中に言語アラヤ識というのがあり、その発動過程、発露の仕方は文化に影響されるということを言っているのだけど、唯識ではそもそもアラヤ識にある種子を取り払う修行をしているので、その存在を認めるだけの思想よりも、対応方法まで考えるあたり、(いいのか悪いのかは別にして)一歩進んでいるよなぁ、と思う。

仏教の話が出たついでに言っておくと、本書においてライプニッツの話の中で、過去と現在の2点を仮定したとき、その間に挿入できる点は無限にあることから、過去と現在は連なりであって断絶は無い、という話があったが、同じ無限の点を挿入できるからと言っても、それが連なりであるとは限らず、水は一瞬にして醤油のような他の物質にもなりかねない、と考えているアビダルマも、やっぱり深く考えてるなぁ、と思った。

こうした東洋と西洋の思想の違いに目を向けさせてくれる、非常に示唆に富む本だった。