カテゴリー
レビュー

グラフもアートも同じ技術で読みとける

吉岡友治(2021)『ヴィジュアルを読みとく技術-グラフからアートまでを言語化する』筑摩書房

このような理解の仕方は、別に文字情報やスポーツに限らない。メディアが変わっても、人間の理解である限り、たいして方法が変化するものではない。

本書 p.24

20世紀以降のアートは、それが置かれた環境・文脈に大きく依存する。(中略)それが美術館に置かれればちゃんと「美術作品」になるということを示したのはフランスのアーティスト、マルセル・デュシャンだった。

本書 p.171

本書では技術さえあれば何でも読みとけるという前提に立ち、ビジュアルに焦点を当ててその実例を取り上げています。私たちも日々、技術をもっていろいろなものを楽しんでいます。それは音楽で会ったり、文学作品であったり、スポーツであったりします。いずれも文脈を知れば知るほど楽しめます。具体的にはアーティストの個性やスポーツのルールなどです。

本書でメインとなるビジュアルについても同様です。紹介されるのは早稲田大学MBAの入試問題から藤田嗣治の「アッツ島玉砕の図」、モンドリアン「コンポジション No.10」まで、多岐にわたっています。

藤田嗣治の絵画はこれまでフランスの画壇で珍しい人(東洋人)扱いされていた藤田が、日本の画壇で「珍しい人」という偏見がなくなった状況下できちんと評価されたことに喜んだ話が紹介されます。そうした文脈を知ると、フランスで裸婦像を多く描いた藤田がなぜ戦争の図を描いたのか、少しは理解できます。

モンドリアンの図も、ヨーロッパで木の絵などを描いていたモンドリアンが抽象的な表現を求めた極地がこのコンポジション No.10であること、ヨーロッパからアメリカにわたってみると結果的にはコンポジション No.10のような直線的な建物(ビル)ばかりであったことなどが紹介されます。ヨーロッパで極めようとしていた抽象画が、移住したアメリカにはそこら中にあったというのは皮肉です。

本書はそうした読みとき方を紹介した後、男女の会話形式でこれまでのおさらいをします。その会話を読み直すことでさらに理解が深まります。

本書の著者は東京大学文学部社会学科を卒業後、シカゴ大学大学院で芸術を学びました。代々木ゼミナール講師を経て、現在はインターネット講座の校長だそうです。著者曰く、シカゴ大学での授業が役に立ったといいます。シカゴ美術館に日参し、好きな芸術作品のどこがおもしろいのかを言語化し、クラスメートに伝えていくという授業での経験が本書を生み出しました。

本書はアイデアから書籍化に至るまで20年以上かかったそうです。確かに導入から基礎、応用に至るまで新書とは思えない濃さで繰り広げられる話はとても楽しく、一気呵成に読み終えることができました。

カテゴリー
レビュー

世界を生き抜くための知識

佐藤優、岡部伸(2021)『賢慮の世界史 国民の知力が国を守る』PHP研究所

岡部 (中略)ルームサービスでボルシチを食べていたら、いつの間にか靴と服を着たまま寝てしまった。翌朝、目覚めてから驚き、パスポートは残っているのに、財布を調べるとドル札だけが抜かれている。ドアにはチェーンロックをかけていたはずで、何が起きたのかと思い、佐藤さんがモスクワに来られた折に相談しました。

本書 p.16

佐藤 (中略)あの人たちも仕事ですから、無駄なことはしない。物取りを装うわかりやすいかたちで警告を与えたのは、おそらく「会ってはいけない人間に会っている」「とってはいけない情報を入手した」「立ち入り禁止の場所に入った」という三つのいずれかに抵触したからでしょう。

本書 p.15

本書は作家で元外交官の佐藤優と産経新聞のモスクワとロンドンの支局長を務めた岡部伸の対談風共著です。対談風と書いたのは決して対談ではなく、直前の論考を受け継ぐ形でもう一方が論考をつなげているからです。

二人の話はまずは世界情勢の生々しさを伝えるところから始まります。上記の岡部のエピソードなどはまさにその典型例で、佐藤優もあまり詳細には書いていませんが、身体がしびれる薬を飲まされた経験があるようです。外交官や新聞記者といった情報戦の真っただ中にいる精鋭には常に身の危険が伴います。

また、岡部がロンドンに駐在していたことから、英国のEU脱退や諜報活動についても話が及びます。岡部は以下のように述べます。

大陸では事前に広範囲に規制をかけるのが原則であり、英米では原則を共有したうえで規制を限りなく少なくする。両者は水と油で、いずれイギリスはEUから抜け出す運命にあると以前から見ていました。

本書 p.101

あとからでは何とでもいえますが、それでも岡部の見方は慧眼です。そして団結を示すはずのEUがコロナ禍で見せたのは、いずれの国も自国ファーストであるという生々しい現実でした。医療崩壊が起きていたイタリアを救ったのは、一帯一路で良好な関係にある中国でした。

中国、ロシアといった帝国主義的な国家が大きな存在感を示す一方、トランプ政権の誕生で混乱をきたしてしまったアメリカの存在感は相対的に小さくなりました。日本は日米同盟がある以上、アメリカとの関係を強化するのが与件です。

将来的にこれからも日本が世界の中で生き抜いていくためには、現在の教育レベルを維持し、底上げしていくしかありません。岡部は自らの息子が通っていた英国のパブリックスクールを礼賛しますが、それが成り立つのは階級社会であるからだと佐藤は指摘します。そしてぱぷりっくスクールをまねた日本の中高一貫校に入るのも、比較的裕福な家の子息たちであることも指摘します。日本は階級社会ではありませんが、徐々に階級の固定化が進んでいるのは、残念でもあります。

カテゴリー
レビュー

沖縄の多層な共同体を垣間見る

岸政彦・打越正行・上原健太郎・上間陽子(2020)『地元を生きる 沖縄的共同性の社会学』ナカニシヤ出版


地元を生きる―沖縄的共同性の社会学

多くの語り手から、沖縄普賢を使えないこと、家族や親せきにつながりは思われているほど強くはないこと、「三線を持ち出しカチャーシーをする」ような親族の集まりを経験したことがないこと、高校で進学校に進んだあとは、小中学校の地元の友だちとのつながりが徐々に断ち切られていくこと、模合に参加しているといっても単なる飲み会の口実のような「親睦模合」で、そこから生活資金や生業資金を調達することはないこと、沖縄社会に対するよくあるイメージのような生活を自分が送っていないということ、大学に入ってはじめて沖縄文化に目覚め、「習い事」として野村流などの古典的な沖縄芸能を意識的に習得することが語られた。

本書 p.67

監督はその場にいた島袋という沖組の従業員に「玉掛け技能講習」の修了者がいるかの確認をとった。島袋が講習を受講していないこと、そして現場監督に聞かれたので、本日の現場には有資格者がいないことを、彼は正直に答えた。(中略)島袋の班のしーじゃ(著者註:兄貴分)のよしきは作業が止まったことで激高し、島袋を呼び出し、釘の刺さったままの算木で彼の左腕をぶん殴った。島袋の腕からは血が流れていた。

本書 p.288

本書は本格的な社会学の専門書である。まず第一章で沖縄の失業率や平均給与等から見た、沖縄の経済状況と県内の不平等性について概観します。沖縄は資産の不平等性を表すジニ係数が高く、一部の者が多くの富を持っていること、経済としては製造業が極めて少なく、多くは第三次産業に偏っていることなどが紹介されます。

その後、第二章から沖縄の安定層(公務員、一流企業等のサラリーマン)、中間層(地元で居酒屋を経営する若者)、不安定層(建設業に従事する男性、性産業に従事する女性)の語りが語られます。

安定層は会社や役所勤めをしてから地元の友人たちとは距離ができ、沖縄らしい共同体に参加していません。南大東島から那覇に来た男性に至ってはよそ者はいつまでたってもよそ者だと、疎外感を感じています。その点は生まれ育った場所から就職等で違う地域に引っ越した内地の人間と変わらないのかもしれません。安定層については、沖縄でも内地でも大差ないのかもしれないように思いました。

その点、中間層は共同体を大事にします。調査者の上原の同級生が地元で居酒屋を立ち上げるに際してフィールドワークを行い、書き上げた章ですが、同級生たちはリアルの付き合いを優先させ、上原のLINEや電話などの連絡を後回しにします。それもそのはず、彼らは昼前から仕込みを始め、午前1~3時ごろに店を終え、そのあと飲みに行ったり同業者のお店に顔を出す、といったとてもハードな暮らしをしているのです。しかしそうやってハードながらも同業者という共同体の中で暮らすことで持ちつ持たれつの関係ができ、彼らは自らの居場所を作り上げていきます。

不安定層の暮らしはとても厳しいものがあります。建設現場に行くまでしてフィールドワークを行った打越が、泊まらせてもらっていた同僚のしーじゃ(兄貴分)からの深夜のお迎え(いうなればつかいっぱしり)の連絡に音を上げて共同研究者の上間の自宅に一泊させてもらうほど、大変な環境でした。この辺りは詳しくは『ヤンキーと地元』に詳しいですが、彼らは沖組という建設会社の中でお互いの収入や残金などを把握しつつ賭け事をしたり暴力を振るうなどして、うっとぅ(弟分)を搾取します。これまでは新しい不良たちが入ってくることで新しいうっとぅ(弟分)ができ、何年か我慢すれば自分がしーじゃ(兄貴分)になることもできました。しかし近年では新しい不良たちが少ないこと、沖組に入ってもうっとぅ(弟分)の取り合いが起きたり、若手がすぐ辞めてしまったりすることなどから、30代になっても深夜に使いっ走りをさせられるなど、理不尽な目にあい続けます。そんな境遇から抜け出そうと内地にキセツ(出稼ぎ)に行こうとしますが、しーじゃに説得させられて止められるなど、負の連鎖のような共同体から抜け出せません。

また、上間が描いた少女の語りは、複雑な家庭に育った少女が逃げ場所として年上の彼氏を作り、そこに居場所を見つけますが、別れてしまって自分の同級生と一緒に売春行為をして暮らします。打ち子(手配師)である同級生の男性と付き合いますがここでもまた別れ、最後は継母のところに帰っていきます。おそらくは家出をしてどういう暮らしをしていたか、ある程度見通しの立っている継母やキセツ(出稼ぎ)で内地に行っている父は彼女を受け入れます。

本書で描かれている安定層以外の暮らしは、沖縄が「ゆいまーる」(共同体)を作って相互扶助の関係で助け合っている島だという印象を覆すものです。不安定層の男性は暴力事件で警察のお世話になるなどして、地元の青年団からは距離を置かれ、用心棒としてしか声がかかりません。不安定層の女性は親族も公的扶助にも頼ることなく、同級生と暮らします。その関係が破綻したら、彼女たちは行き場がありません。

これは沖縄の一部の個人の特殊事情と見て取ることも、もちろん可能です。しかし沖縄が置かれた状況が、本土の同じような人たちよりも厳しい環境を作り出しています。ジニ係数が高い(貧富の差が激しい)こと、製造業が育たず、第三次産業の占める割合が大きいこと、建設業は結局は本土や米軍基地の下請けにならざるを得ないことなど、本土の人間として考えさえられます。

本書をどう咀嚼していいか、私はまだわかっていません。エピローグに岸が書いている「沖縄について書くときはナイチャーのくせに何が書けるんだろうといつも思います。」(本書 p.438)という言葉はその通りだと痛感します。私も沖縄について読むとき、ナイチャーとして何ができるんだろう、どう読めばいいんだろうと常に悩んでいます。