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沖縄の多層な共同体を垣間見る

岸政彦・打越正行・上原健太郎・上間陽子(2020)『地元を生きる 沖縄的共同性の社会学』ナカニシヤ出版


地元を生きる―沖縄的共同性の社会学

多くの語り手から、沖縄普賢を使えないこと、家族や親せきにつながりは思われているほど強くはないこと、「三線を持ち出しカチャーシーをする」ような親族の集まりを経験したことがないこと、高校で進学校に進んだあとは、小中学校の地元の友だちとのつながりが徐々に断ち切られていくこと、模合に参加しているといっても単なる飲み会の口実のような「親睦模合」で、そこから生活資金や生業資金を調達することはないこと、沖縄社会に対するよくあるイメージのような生活を自分が送っていないということ、大学に入ってはじめて沖縄文化に目覚め、「習い事」として野村流などの古典的な沖縄芸能を意識的に習得することが語られた。

本書 p.67

監督はその場にいた島袋という沖組の従業員に「玉掛け技能講習」の修了者がいるかの確認をとった。島袋が講習を受講していないこと、そして現場監督に聞かれたので、本日の現場には有資格者がいないことを、彼は正直に答えた。(中略)島袋の班のしーじゃ(著者註:兄貴分)のよしきは作業が止まったことで激高し、島袋を呼び出し、釘の刺さったままの算木で彼の左腕をぶん殴った。島袋の腕からは血が流れていた。

本書 p.288

本書は本格的な社会学の専門書である。まず第一章で沖縄の失業率や平均給与等から見た、沖縄の経済状況と県内の不平等性について概観します。沖縄は資産の不平等性を表すジニ係数が高く、一部の者が多くの富を持っていること、経済としては製造業が極めて少なく、多くは第三次産業に偏っていることなどが紹介されます。

その後、第二章から沖縄の安定層(公務員、一流企業等のサラリーマン)、中間層(地元で居酒屋を経営する若者)、不安定層(建設業に従事する男性、性産業に従事する女性)の語りが語られます。

安定層は会社や役所勤めをしてから地元の友人たちとは距離ができ、沖縄らしい共同体に参加していません。南大東島から那覇に来た男性に至ってはよそ者はいつまでたってもよそ者だと、疎外感を感じています。その点は生まれ育った場所から就職等で違う地域に引っ越した内地の人間と変わらないのかもしれません。安定層については、沖縄でも内地でも大差ないのかもしれないように思いました。

その点、中間層は共同体を大事にします。調査者の上原の同級生が地元で居酒屋を立ち上げるに際してフィールドワークを行い、書き上げた章ですが、同級生たちはリアルの付き合いを優先させ、上原のLINEや電話などの連絡を後回しにします。それもそのはず、彼らは昼前から仕込みを始め、午前1~3時ごろに店を終え、そのあと飲みに行ったり同業者のお店に顔を出す、といったとてもハードな暮らしをしているのです。しかしそうやってハードながらも同業者という共同体の中で暮らすことで持ちつ持たれつの関係ができ、彼らは自らの居場所を作り上げていきます。

不安定層の暮らしはとても厳しいものがあります。建設現場に行くまでしてフィールドワークを行った打越が、泊まらせてもらっていた同僚のしーじゃ(兄貴分)からの深夜のお迎え(いうなればつかいっぱしり)の連絡に音を上げて共同研究者の上間の自宅に一泊させてもらうほど、大変な環境でした。この辺りは詳しくは『ヤンキーと地元』に詳しいですが、彼らは沖組という建設会社の中でお互いの収入や残金などを把握しつつ賭け事をしたり暴力を振るうなどして、うっとぅ(弟分)を搾取します。これまでは新しい不良たちが入ってくることで新しいうっとぅ(弟分)ができ、何年か我慢すれば自分がしーじゃ(兄貴分)になることもできました。しかし近年では新しい不良たちが少ないこと、沖組に入ってもうっとぅ(弟分)の取り合いが起きたり、若手がすぐ辞めてしまったりすることなどから、30代になっても深夜に使いっ走りをさせられるなど、理不尽な目にあい続けます。そんな境遇から抜け出そうと内地にキセツ(出稼ぎ)に行こうとしますが、しーじゃに説得させられて止められるなど、負の連鎖のような共同体から抜け出せません。

また、上間が描いた少女の語りは、複雑な家庭に育った少女が逃げ場所として年上の彼氏を作り、そこに居場所を見つけますが、別れてしまって自分の同級生と一緒に売春行為をして暮らします。打ち子(手配師)である同級生の男性と付き合いますがここでもまた別れ、最後は継母のところに帰っていきます。おそらくは家出をしてどういう暮らしをしていたか、ある程度見通しの立っている継母やキセツ(出稼ぎ)で内地に行っている父は彼女を受け入れます。

本書で描かれている安定層以外の暮らしは、沖縄が「ゆいまーる」(共同体)を作って相互扶助の関係で助け合っている島だという印象を覆すものです。不安定層の男性は暴力事件で警察のお世話になるなどして、地元の青年団からは距離を置かれ、用心棒としてしか声がかかりません。不安定層の女性は親族も公的扶助にも頼ることなく、同級生と暮らします。その関係が破綻したら、彼女たちは行き場がありません。

これは沖縄の一部の個人の特殊事情と見て取ることも、もちろん可能です。しかし沖縄が置かれた状況が、本土の同じような人たちよりも厳しい環境を作り出しています。ジニ係数が高い(貧富の差が激しい)こと、製造業が育たず、第三次産業の占める割合が大きいこと、建設業は結局は本土や米軍基地の下請けにならざるを得ないことなど、本土の人間として考えさえられます。

本書をどう咀嚼していいか、私はまだわかっていません。エピローグに岸が書いている「沖縄について書くときはナイチャーのくせに何が書けるんだろうといつも思います。」(本書 p.438)という言葉はその通りだと痛感します。私も沖縄について読むとき、ナイチャーとして何ができるんだろう、どう読めばいいんだろうと常に悩んでいます。

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沖縄をつい語りたくなる人のための本

沖縄独特のものを、外からのイメージやラベリングに還元するのでもなく、あるいはまた、植民地主義的に理想化して熱く語るのでもなく、ただ淡々と、事実としてそこにあるもの、歴史的に、社会的に、経済的に、そして「世俗的に」沖縄の独自性について語ることは、どうしたら可能になるだろか。

本書 p.78

この映画 (筆者註:映画「戦場ぬ止み」)にも、抗議船に乗る漁師と海上保安庁のゴムボートの職員が和やかに会話し、基地賛成派の漁師が抗議活動のテントに豪華な刺し身を差し入れするシーンが出てくる。(中略)三上智恵が言いたいことは、結局のところ、ここには人びとが暮らし、そこで生活をしている、ということなのだと思った。

本書 p.228

本書は沖縄を知るための入門書ではありません。著者の岸政彦が沖縄をフィールドに社会学の研究をしていくときにぶつかった壁について考えた文章です。沖縄を知り、沖縄に近づくためには、ナイチャー(内地の人間)はナイチャーであることを意識せざるを得ません。ナイチャーと意識してこそ、沖縄に近づけます。だけどそれだといつまでも、極めて近づいても、結局は外側にいることになります。

私たちは沖縄について語るとき、政治的立場を表明せずには語れません。基地賛成派、基地反対派、あるいは無関心とするか語りについて考え、当事者としての立場から距離を置くか。
「日本は沖縄にばかり基地の負担をさせている」
という語りの反論として
「沖縄には基地賛成派もいる。多様性を認めなければならない」
という意見も出てきます。それぞれ間違いではありません。沖縄を語るとき、私達は難しい局面に立たされます。沖縄は、日本の内部にある外部だからです。

本書は沖縄と本土の関係を考えながら、沖縄の歴史と変化と多様性を考えることの難しさを教えてくれます。また、それを通してマジョリティがマイノリティについて語る難しさをも痛感させてくれます。著者が書くように、昨今の学問ではマジョリティとマイノリティなどといった境界を乗り越えることに主眼が置かれていましたが、著者はあえて境界を意識することに主眼を置きます。長年、沖縄でフィールドワークをして実感した境界があるからかもしれません。

本書は沖縄の知識を身につけるための本ではありません。しかし、沖縄をもっと知ろうとする人たちが意識しておくべきこと、知っておくべきことが書かれています。著者の二十年以上に及ぶフィールドワークから得た「感覚」を、こうした形でまとめて読めるのはありがたいことだと思います。沖縄を知ろうとする人たちには、ぜひ手にとってもらいたい一冊です。