南川高志(2013)『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店
現代的観点からすれば、特定の民族にこだわらない寛大な措置と見えるかもしれないが、そもそもローマ人は「民族」という考え方を19世紀以降のような特殊な意味で理解していなかった。皇帝たちは彼らの実力を認め、重用した。「特別の事情」でもない限り、彼らを退ける理由はなかったのである。(本書 p.156)
ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか1600年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである。(本書 p.207)
ローマ帝国は紀元前3世紀から5世紀後半(476年)にかけてローマを中心に強大な力を誇った帝国である。その領地は現在のスペイン、イギリス、ドイツ、ギリシャ、トルコ、そして北アフリカにまで及ぶ。北欧などの一部を除いて、全欧州を手中に入れていた。
本書はローマ帝国が栄華を極めてから衰退していく過程を分かりやすく描いている。ローマ帝国はイタリアを統一したローマ人たちが領地をどんどん広げていった。
その際、彼らが行った方法は地元有力者と「共犯関係」を持つことだった。地元有力者をローマ軍に入れることにより、彼らをローマ人として扱ったのだ。いざというときローマ軍として戦ってくれたらいいだけだから、平時は割りと自由だった。軍隊は国境警備をせず、国境区域(ゾーン)を設けて、そこでの商取引を自由にさせた。
ローマ帝国で高い地位といえば、文官、武官や元老院議員がいる。当初、血統主義でエリートの地位が受け継がれていたが、家系が途絶えるとイタリアや属領の地方から有能な者をエリートに登用した。そんな空気があったからこそ、偏狭の地のドナウなどでも有能な者があればエリートに登用された。もともとローマ人でなかった者が司令官や皇帝になり、生まれながらのローマ人を率いた。
それほど、栄華を極めたローマ帝国は寛容だった。
ローマ帝国が斜陽を迎えたのは4世紀後半である。東からフン族の流入し、その地に住んでいたゴート人が隣接するローマ帝国の地方武官に助けを求める。迎え入れるほうは彼らに食料を提供するどころか、高値で売りつけ、こともあろうにゴート人の司令官の殺害まで企てる。ローマ人の対応に怒りを覚えたゴート人が、フン族とともにローマに攻め入った。そのとき、同時にブリテン島など他の地方でも蛮族の襲来を受け、対応しきれなくなったローマ帝国は一気に崩れてしまう。
本書を読む限り、ローマ帝国の自壊には多くの偶然が重なっていたようだ。皇帝の地位をめぐる内紛、東や北から偶然の同時多発的な蛮族の来襲。歴史にイフはないが、どれも少しずつタイミングがずれていれば対応できたかも知れない。
本書では自壊の原因の一つに寛容さの喪失を挙げる。かつてはローマ人として扱われた辺境の地の人たちも、ローマ人と同じ言葉を話し、格好をした。しかし後年、ローマ人として扱われても蛮族の格好をしたまま町を歩く人々が増えた。そこから、よそ者への目が厳しくなり、蛮族とローマ人の軋轢が深まっていった。筆者はこの軋轢こそが、ローマ帝国自壊への引き金になったと見る。
しかし、ここで疑問が出てくる。なぜ軋轢が生じたのか。辺境の人たちがローマ人の格好をしなくなったのは、ローマにそこまでの威光を感じなくなったからに違いない。なぜそこまで威光が落ちたのか。そこにローマ帝国自壊の序章があるのではないか。史料的な限界があるとはいえ、気になった。