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言語活動の諸相を見る

ハイムズ, デル・唐須教光訳(1979)『ことばの民族誌』紀伊國屋書店

言語学における説明の目標は、人間の心の普遍的特質におかれ、現在の社会言語学的視点の興味や妥当性は拒否されているのである。
しかしながら、アメリカの言語学においては長期間にわたる強調の変化が起こっていて、社会学的なかかわりあいからの撤退の様相は、部分的で一時的である事が判明するかもしれないのである。(本書 p.109)

多くの人類学者と同様に、多くの言語学者は、人間のどの集団をとりあげても、文明の最高度の達成が本来的に不可能であるような集団はいないと考えている。(中略)発展途上国の教育相で、どの言語においても、どんなことでも言ったり、読んだりできるという考えの人はいないのである。時間と、お金と、意思があればそうでありうるということは、現実の状況を語っていることにはならないのである。(中略)テキストに見出される言語の機能に関する一般的な考察は、典型的には、言語の多様な素晴らしさという形で見出されるのだが、そんなものはくずにすぎない。(本書 p.264)

本書は下のリンクにもあるとおり、原題はFoundations in Sociolinguistics: An Ethnographic Approach(社会言語学の原理: 民族誌的アプローチ』)である。

問題意識としては、従来のアメリカの構造主義言語学と言われる学問では、あくまでも言語の体系(文法)を記述することに情熱を注いでいた。それは滅びゆくインディアン諸語の記録をとどめるという必要性からなされていたため、時代の要請であったともいえる。

その趨勢に加えて、戦後はチョムスキーの生成文法が出てきてしまった。上に引用した109ページの箇所は直前にチョムスキーを引用していて、敬意を払いつつも、ほかの方向性を呈示している。すなわち、言語の仕組みそのものの分析に深く分け入っていくのではなく、人と言語のかかわり、当該社会や集団内での言語の位置づけを考えるため、どのような状況において発話がされるのかを分析する必要があることを訴えたのだった。音素、音韻から形態素の分析を経て、談話文法へと分析の単位が拡大していくのは、これまた時代の要請だったともいえる。

本書が出た当時はラボフのニューヨークで調べたデパートの店員の言語の使い分けに関する調査がセンセーションを起こしていたこともあり、社会言語学が一気に注目を浴びていた時期で、まさにその分野が輝いて見えた時代だった。

言語学と隣接の社会科学の変換の過渡期としての「社会言語学」の全盛を見る見込みはあるのだろうか。私の考えでは、その可能性は非常に微妙である。(本書 p.267)

一応これは、日本においてはひとまずの成功を収めたと言っていいだろう。しかしいまだに、文脈と発話のかかわりについては難しいからか、モヤッとしたところで終っている。そもそも文脈とはいろいろな次元が考えられるし、日本語の母語話者でさえも「空気が読めない」と言われることがあるくらい適切な選択が難しいものなのだ。それを参与観察している外部の者にどれだけ分析できるのか。この点がいまだ乗り越えられていない。その点において、本書のいう人と言語のかかわりの探求は、いまだ十分現代的価値を持つのだ。

本書で面白かったのは、『史的言語学における比較の方法』を書いたメイエには手厳しい評価を与えていた点だ。

ある学者の言語区域は、彼の言語のいくつかに彼が伝達的に参加できることを意味しないこともある(偉大なフランスの言語学者のメイエは多くの言語が読めるけれども、フランス語以外の言語は話したり書いたりしたことがないと言われている)し(以下略)(本書 p.73)

比較言語学者だったから、英独はできてあたりまえ、希羅も書けて話せたと思うのだけど。

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史的言語学を担保する厳密性

メイエ, アントワヌ著 泉井久之助訳(1979[1977])『史的言語学における比較の方法』みすず書房

言語地理学は各々の語、各々の形のもつ歴史が、それぞれ特異性をもつことを特に明らかにした点において功績があった。これらの特異性はそれぞれの言語の体系的な全体のなかにその位置をもつものである。この全体のなかにそれらを置くことを忘れて、単に孤立的にのみ見る人は、反対に全体ばかり眼を注ぐのみであって、併せてこれらの全体を構成する特殊事実の各々を十分に正確な批判を持って研究することを知らない言語研究者にもまさって、大きい誤謬をおかすことになるであろう。(本書 p.123)

要するに、守旧の力に乏しく、変化に向う勢力が強い。今日以降、英語は英国と合衆国とで、それぞれ異なる進展の道を辿るであろうことは極めて自然である。
世界における英語の運命をあとづけるのは、ことに教えられるところが多いことと思われる。(本書 p.193)

本書は比較言語学の泰斗であったフランス人言語学者、アントワヌ・メイエの主著である。主に扱われているのは史的言語学(=歴史言語学・比較言語学)において、どのような方法論を持って厳密に祖語を再建(Reconstruction、再構とも)してゆくかについてである。

言語地理学でジリエロンの方言周圏論という成果があるフランスでも、同市年情な広がりを持たない部分もある。それはやはり交通手段によるもので、実は同心円的な分布ではないものの、周圏論の枠組みで語ることができるのだ、というあたり、当時のフランス人にとっては眼から鱗だったはずだ。

「ただひとりの言主では、その地方弁全体を代表する上に、田w賞とも不適当なところがあるのを免れない。手続きは粗大であり、およそにとどまるといわなければならない。しかし唯一可能な方法としては、これしかないのである」(本書 p.110)

と正直に吐露しているあたり、著者への信頼が置ける。この点をどう克服するかと言うと、そこは信頼できる調査者があちこちに行って言主を選ぶしかないのである。これでぎりぎり「雑多な調査者の個性による歪みを考慮する必要がない」(本書 p.111)のだ。

また、よく見落としがちな借用についても

「一個の与えられた言語の形態法の体系が、相異なる二つの言語の形態体系の混合に由来すると考えかねればならないような場合に、われわれはいまだ遭遇したことがない。」(本書 pp.139-140)

と述べている。借用語という意識がある限り、違う言語だという意識が生き続けるからである。

著者が一貫して述べているのは、個別言語・方言へのミクロな探求と同時に、全体の中での位置づけを慎重に行うためのマクロな目配りである。現在の日本での言語学の趨勢を見る限り、比較言語学や類型論のような、細部をみつつ全体の位置づけを考える学問は下火である。しかし英語や中国語といった大言語だけが言語ではなく、そしてそれらの大言語も誕生から今まで、そして未来永劫大言語であるとは限らない。言語とは何か、言語と人とはどうかかわるか。この言語学のテーマを改めて顧みることができる点で、本書の持つ意義は大きい。