人と機械のかかわり方を通して見えてくるタイらしさ


森田敦郎(2012)『野生のエンジニアリング -タイ中小企業における人とモノの人類学-』世界思想社

タイに移動した機械の多くは新しい環境で出会った要素と安定した関係を築くことができず、その動作は不安定化した。だが、この不安定さは、人々との間に新たな関係を作り出す生成的なものでもあった。奇妙な動作に対処するために何人もの人がコンバインにつきっきりになったように、不安定化した機械は人々の行為を誘発していったのである。(本書 pp.186-187)

本を読んでなかったわけじゃないけど久々の投稿。

この本は前々から気になっていた。やっと読めた。HONZにもレビューがある。

筆者の問題意識は明確だ。タイにやってきた日本企業の技術者は、タイの技術者に技術を教えるとき、彼らが図面を引き直さずに、現物をその場で改造し始めることに驚いた。図面を引き直した方が明らかに効率的で、この失敗を今後生かせるのに。彼らは一体何を考えているのか。

実務に即した疑問から調査は始まった。

タイで見たものは、日本とは違う機械の捉え方だった。機械は動けばいい、動かなければ動くようにすればいい。やり方は使う者が決める。

だからこそ、ブランドが生まれず、多くのメーカーが同じような製品を出す。同じように動き、同じように改造できる機械が求められているから。

当然、新たな機械が持ち込まれると、不具合が起きる。冒頭の引用は日本のコンバインをタイの田んぼに持ち込んだ時の例だ。動かすと草が絡む。ちゃんと動くようにするにはどうすればいいか。

もちろん、機械の改良はエンジニアが手掛けるけど、使うのは農民で、使う場所は農地だから、農民の意見が十分に取り入れられる。動かない機械をめぐって、エンジニアと農民に新たな関係が生成される。

モノに着目しながらも、関係の生成に着目したのが本書の見どころだろう。

エンジンむき出しで手作りフレームのイーテンを見ると、本当にメーカーの思いつかない使われ方をしているのが分かる。

かつて読んだ『差異とつながりの民族誌』、『道は、ひらける』や『王国の鉄路』とは違ったタイが見えてくる。


鉄道に隠された政治的意図を読みほどく


柿崎一郎(2010)『王国の鉄路 -タイ鉄道の歴史』京都大学学術出版会

彼(サリット)は高規格道路を「開発」の象徴と絶賛したのに対し、鉄道に対しては非常に冷淡な態度を取り、バンコク市内の鉄道を軒並み撤去しようと画策したのですが、なぜかこのスパンブリー線については完成にこだわりを見せたのです。(本書 p.254)

ホープウェル計画は、正確にはバンコク高速道路・鉄道建設計画という名称で、香港のホープウェル社がバンコク市内の国鉄の在来線を高架化し、合わせて高速道路と都市鉄道を建設するという壮大な計画をBOT方式で行いたいとタイ側に打診してきたのが起源でした。この計画では、在来線の鉄道用地を使用して、三線化した在来線と都市鉄道を中層、高速道路を上層とする二重の高架線を建設し、高架下は商店や一般道路に活用する予定でした。(中略)北線と東線沿いに高架橋の橋脚が並び始めたものの建設は大幅に遅れ、更に1997年の経済危機によって、計画は完全に頓挫してしまいました。政府は1998年12月のアジア大会までの完成をデッドラインとしたものの、この時点でも完工率はわずか19%だったことから、1997年9月に免許を取り消しました。残った橋脚は「バンコクのストーンヘンジ」と揶揄されることとなり、今日でも北線沿いにその残骸を晒しています。(本書 pp.317-319)

タイの鉄道の歴史的変遷を周辺の東南アジア諸国と比べつつ追っている本書では、タイだけではなく、東南アジアの鉄道事情を俯瞰することができる。この夏休み、ぼくはバンコクに行ったのだけども、その時に初めて鉄道を大いに利用して抱いた謎が解けた。

バンコクのスワンナブーム空港についてエアポートリンクに乗ると、国鉄東線と合流するあたりで眼下に大きな鉄道工場が広がる。ここにはJR西日本から送られたと思しき12系と見られる客車も留置されているものの、熱帯の旺盛な生命力には勝てないようで、蔦に覆われ、放置されたままとなっている。何も動いている風はなかったので、単なる留置線なのかと思っていたら、これは国鉄マッカサン工場らしい。全く関係ないが、帰りにホテルからエアポートリンクのマッカサン駅に行こうとタクシーに乗って、下手なタイ語で「マッカサン駅まで」と伝えたら国鉄東線のマッカサンまで連れて行かれ、「違う違う、ペッチャブリー駅(地下鉄)に近いマッカサン」と伝えたのに、なぜかラッチャプラロップ駅に連れて行かれたのも、今となってはいい思い出である。地元の人にとってのマッカサンはやっぱり国鉄らしい。

夏にはフアランポーン駅からノーンカイ経由でラオスのタナレン駅まで乗ったのだけど、その際に気になっていたバンコクから北に少し行ったところにある橋脚も、新線計画かと思ったら、上記のとおりホープウェル計画の残骸だと知った。著者は、あとがきで書いている通り、鉄道好きなこともあって、かゆい所に手が届く。いまでは2両のディーゼルカーの運転となっているタナレンまでの国際鉄道も、かつてはノーンカイ行きの客車列車の一部が行っていたなんて、知らなかった。それを写真付きで掲載してあるんだから、著者の鉄道好きのホンモノさを感じる。

また、タイの鉄道史についても丁寧に追ってあり、とくに戦時中の国際鉄道網の発展などは興味深い。現在タイの国際鉄道網は南のマレーシアと北のラオスとしかつながっていない。しかもラオスは東北線の終着駅、ノーンカイから10kmほど伸びただけで、10分ほどでタナレンに着く。しかし戦前、軍用列車を運行する必要があった際には、日本軍の尽力により、ビルマまでの鉄道網も持っており、あと少しでプノンペンまでも伸びるところだった。今よりも国際鉄道網という点については、充実していたのだ。その後、ビルマの軍事独裁、ラオスの社会主義化、カンボジアはポルポトの恐怖政治等、地域の情勢もあって、国際鉄道網は分断されてしまった。そして今頃また、国際鉄道網への機運が高まっている。歴史は繰り返すのだ。

黎明期には北部の平定や発展促進を目指し、政治的意味合いを持って建設された鉄道も、次第に貨物や人の輸送といった経済的側面が考慮されるようになる。そしていま、また国際鉄道網に見られるような政治要素がまた出てきた。中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ビルマと鉄道網はつながるのだろうか。中国の出方がかぎを握る。

また、かつては米や豚を中心としていた貨物輸送も、道路網の整備によって車にとって代わり、今では専用車で量がはける石油やセメントが中心になった。また、行商をする短距離客よりも長距離客中心にシフトしていったという変遷から、時間軸に沿ってタイの人たちの暮らしの移り変わりを垣間見ることができる。場所こそ違うが、北河大次郎の『近代都市パリの誕生 ―― 鉄道・メトロ時代の熱狂』も一緒に読むと、鉄道をめぐる人々のかけひきそのものの面白さに、つい魅了されてしまう。

今後の課題としては、渋滞がひどいバンコクにどのような都市鉄道網が整備されるのか、そして遅延が常態化している上にきわめて安い運賃水準となっている国鉄が赤字体質からどうやって抜け出すのか。その点にかかっている。

本書でのもう一つの驚きは、鉄道の撮影が禁止されているビルマの鉄道の写真があること(許可があれば撮影可らしい)。こうした分野の先行研究はあまりないものの、それをまとめてしかも博士論文にした筆者の苦労が、見事に結実している。


一途で開ける可能性


石井米雄(2003)『道は、ひらける-タイ研究の50年』めこん

 出発点は小林英夫であり、先生に導かれたソシュールである。そこから社会的事実としての言語の分析学を知り、更に青年期の宗教遍歴の総括としての宗教社会学を学んだ。タイの社会史に興味を持つうちに、資料上の必要からタイの法制史を学ぶはめになる。歴史資料を扱うのだから、歴史学の基本であるテキストクリティークの勉強も必要となった。一見支離滅裂に見える。しかし主観的には、これらの間に一分の隙間もない。
これらを結んでいるのはなにか? なにが私を精神分裂の危機から救っているのか? すべてはタイである。研究の、と言ってはおこがましいかもしれないほど興味の尽きないタイがすべてである。すべてがタイに始まり、タイに終わる。それはなぜか? タイから離れられなくなったからである。なぜ離れられないのか。(中略)みんなに義理があるからである。彼らのひとりびとりの顔が、私をタイから離さないのである。(本書 pp.187-188)

高卒にして京都大学の教授から、最終的には文化功労者にまでなった石井米雄の自叙伝。

こういう評価の仕方をすると、大人になってからの努力で功なり名を遂げた人物のように思いがちだが、本書を読むとその見方が間違いだということを思い知る。

早稲田の時代は好きなことをやっていたようだけれども、東京外大への入試にあっさり合格しているし、15人の枠に1500人が受けた(100倍!)試験を突破してノンキャリアとは言え、外務省の専門職員として採用される。教科書を丸暗記、と簡単に書いてあるがおそらく著者はもともと努力をすればできる人だったのではないか。石井米雄といい佐藤優といい、たまに異色のノンキャリアが誕生するところをみると、外務省は人材豊富なんだなと思わせる。

もちろん、努力もしている。

研究者が10時間を研究のために使えるとしたら、自分はおそらく30分くらいしか割くことはできないであろう。それでも、その30分を積み重ねれば、塵も積もれば山となるたとえのように、研究者でありつづけることができるかもしれない。(本書 p.177)

こうした努力と縁とが実を結んだ結果が、押しも押されもせぬタイ研究の大家となった裏にあることを理解すべきだろう。

注目したのは著者の語学遍歴のすごさ。

旧制中学から早稲田第一高等学院の理科に進学したとき、理科にも関わらず語学に興味を持って授業での英語とドイツ語のほか、ドイツ人の個人教室に通ってドイツ語を学んだ。旧制高校が新制の早稲田大学になったとき、文学部に転部してラテン語を学んだが、その際に先生がフランス語を引き合いに出して困ったから同じクラスの仏文科の学生からフランス語の手ほどきを受けた。その直後、文学部の英文科から仏文科へと転科する。2年目からはギリシャ語を受けると同時に、あのソシュール言語学の紹介者である小林英夫(当時東工大教授)から言語学とイタリア語の手ほどきを受ける。しばらくして「あまり人のやっていないアジアの言語をやったらどうだ」(p.35)という小林の一言でマレー語をやったあたりから、アジアとの縁が始まる。東京外大の徳永康元(ハンガリー語)を紹介してもらって相談したところ、シャム語の松山納を紹介してもらう。そしてタイ語とタイにはまっていく。

著者44歳のときにはロンドンへの研究留学が認められてロンドン大学でビルマ語とカンボジア語を学ぶ。熱意さえあれば40の手習いでも言語を学び続けることができるという証左になるこのエピソードに、ぼくは大いに勇気づけられた。そのロンドンで見つけたタイに派遣されていた修道士の文献を読む際に、若い時に習得したラテン語が大いに役に立ったというのは、文系研究者にとっての古典語の重要性を教えてくれる。

今の時代、言語学を学ぶ大学院生でもそこまでのポリグロット(多言語話者)はいない。そもそも複数言語を学ぶのは、著者も目指していた通り比較言語学を専攻する際に必要となるからで、いまのような比較言語学が主流を占めなくなってしまった状態だと、ポリグロットが減るのも当然である。だからこのエピソードをみると古き良き時代の話だと思って感慨にふけってしまった。

本書で最も興味をひかれたのは出家をめぐるやり取りと(当時は外国人が出家をするのは非常に珍しかった)、その出家がタイでの人脈形成やほかの人々との関わりに大いに役立ったという点だ。文化人類学者かくあるべし、と思わせるくだりである。

よく大学院生が受ける質問に「なぜそれをやろうと思ったの?」というのがあるが、研究のフィールド選びなんてのは、畢竟、縁とたまたまによるものだという、冒頭で引いた著者の発言は簡単だけど深い。

この本は職場の人から借りた。彼は仕事で著者と関わりがあったらしく、「石井先生」と呼んでいた。ぼくにとっては歴史上の人なので、先生という敬称をつけるなんていうおこがましいことはできない。生前の著者は人見知りっぽいところがあった、と聞いたけど、そういう関わりがあった彼を羨ましく思った。


柔軟な語られ方をする民族、ジェンダー


速水洋子(2009)『差異とつながりの民族誌 北タイ山地カレン社会の民族とジェンダー』世界思想社

人の命は、この世とあの世とを行き来すると考え、この世での死は、あの世での新たな誕生を意味し、逆にこの世での誕生はあの世では死を意味する。乳幼児の場合、この世だけではなく、あの世にも両親がおり、あの世から子供を呼び続けるのだと言う。(本書 p.173)

差異は権力関係の中から構築され、またその基盤ともなるが、その一方でつながり、関係性を築く契機でもある。(本書 p.284)

グローバル化へ向かう中で、タイの女性に向けられた他者化のまなざしが、内なる他者に対して繰り返されている。すなわち、先進国からタイへ向けられるまなざしの彼方に山地民族がいる。(本書 p.284)

本書は題名のとおり、タイ北部のカレン族の村をフィールドとした民族誌である。民族という枠と、ジェンダー/セクシュアリティという軸で、人たちの生き方を分析している。

特に結婚などの儀礼を中心に、男女がどのような役割を担い、その儀礼をどう行っていくか。そしてこと結婚に関しては、民族の違いがどのように語られるか。また子供たちがどうやって大人の男女に成長していき、大人がどう自らの子供時代を振り返るか、という点からカレンの人たちの民族やジェンダー/セクシュアリティとのつきあい方について迫っている。

現在、民族という概念の再検討が問題になっている中で、彼らの語りに注目して民族がどう語られ、どう扱われるかを見ている点が、興味深かった。結婚については、カレンはカレンの、他の民族は他の民族のやり方があるので、異民族と結婚したカレンが結婚する際には、本来はカレンの結婚式を行うべきだが、それが「花婿が北タイ人だから」という理由である程度、妥協される。その北タイ人でさえ、「あの人はカレンの村出身だし、カレンだから」という理由で結婚が認められている。

そうやって民族が語られ、民族の文脈との関わりでジェンダーが語られ、儀礼のやり方が決められる。これは非常にダイナミックでおもしろい。

松村(2008)は全く違う分野の(といっても同じ文化人類学だが)民族誌だが、そこでも様々な参照枠をその都度その都度参照し、土地や商いをやっているエチオピアの人々の例が出されている。近代科学の公準の一つである経済性の観点から見たら、いくつもの参照枠があるのは科学的ではない。だけど、おそらく一つの参照枠を使い続けるといつか破綻し、その破綻が集団に危機をもたらすと言うことをわかっているからこそ、様々な土地で未だにいくつもの参照枠を使うという事例が残っているのだと思う。

こうした「参照枠のブリコラージュ」は本当に興味深い。

本書を読んで、つい20~30年前までタイにも「日本との距離を想像することも難しかった」(本書 p.309)場所があったことも初めて知った。