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世界はドーダで満ちている!

鹿島茂(2007)『ドーダの近代史』朝日新聞社

ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、「ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。(本書 p.5)

普通の基準からすると、こうした人間はありえないような気がする。だが、私は語学教師の端くれなので知っている。兆民のような純粋の語学バカ、シニフィアン人間は実在すると。語学と言うのは、その才能がある人間にとって、生きていくことの支え、おのれの自尊心をくすぐる立派なドーダ・ポイントともなりうるのである。(本書 p.239)

最近仕事が忙しかったのもあって、すいすい読める本を探していた。たまたま、千夜千冊で紹介されていたのを読んで、これを読もうと思った。そこに書いてある通り「ドーダの超論理というのは、べつだん難しいものではない。学問でもないし、高遠なものでもない」のである。ただ分厚いので読みごたえはあるし、鹿島茂のこと、やっぱり読ませる。

本書は幕末の時代に跋扈したドーダさんたち、「マイッタか!」と相手に自慢したいがために、頑張ったり頑張らなかったり斜に構えたり死に物狂いになったりする人たちの系譜を紹介している。

僕は松岡正剛とは逆で、最初のころの陽ドーダよりも後半の陰ドーダ、内ドーダに興味を持った。中江兆民をシニフィアンの人(書いてあることよりも、外国語の響きにひかれて語学の上達を一身に願った人)と述べているあたり、語学者として大変共感を覚えた。そこがシニフィエの人へ転換したかどうかの真実性についてはともかくとして。基本的に三つ子の魂百までなので、シニフィアンの人はシニフィエへの転向を目指したとしても、やっぱり限界があるし、シニフィアンへの思いはそう簡単に断ち切れるものではないと思うから、ここは保留にしている。

しかし、兆民とルソーの思想的バックグラウンドを対比しだすあたりからは、鹿島茂らしい細かさを持ち出して来て、さすがだなあと思わせた。

最近の文脈に照らしてみると、絶望の国でも幸せに生きる若者たちは陰ドーダなんだろう。すなわちa×b=1の図式に於いて、a=内面、b=外見として、外見にお金をかけないし興味もないフリをして、bを減らした結果、自動的にaが上がる。すなわち「そんなことより内面さ」と斜に構える風潮、これが今はやりの内ドーダである。もはや消費を知らない世代な上に、将来に不安だらけだから仕方ない。

世の中にはいろんなドーダがあって、結局人はドーダに籠絡されつつ生きるしかない。では今の時代、どうやって幸せに生きるのか。本書に少し述べられていた、人のいいボンクラを上に据えて、徳のない秀才を輔弼に据える、というのが一つの可能性で或る気がする。

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司馬遼太郎の見た台湾

司馬遼太郎(2006)[1997]『台湾紀行』朝日新聞社

台湾に行く際の勉強のために買った。台湾の国や地域としての歴史というマクロの視点とともに、日本とのかかわりやその中で生きてきた個人というミクロの視点まで捉えて書かれている。李登輝総統(当時)との対談や、当時多くいた日本語話者、軍属経験者の話があって興味深く読めた。

もう台湾を旅行してもそういう人とかかわる機会は少なくなってしまった。だけど、鄭成功や霧社事件等いまだに読んで勉強になるところは多い。