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ローマ法王に米を食べさせたスーパー公務員の町おこし

「本当においしい物、いい物を直売所で売りましょうよ。まずい物はJAさんに渡してください」

本書 p.157

それをあなたたちは、紙切れ1枚とまんじゅうだけ持ってきて1000万円出せと。総会屋でもしないことを自分たちがやっているのが、おわかりになりますか?

本書 p.195

辞令を受けたんです。この時まで5年半、私はずっと臨時職員だったのです。35歳でようやく公務員になれた。認めてもらえたんです。うれしかった!

本書 p.203

ローマ法王に米を食べさせた男、石川県羽咋市職員の高野誠鮮さんのしごとの話です。一時期、羽咋市はUFOで有名になりましたが、それを仕込んだのがこの高野さんです。市の古文書でUFOらしき記述を見つけ、国に事業を申請、認めてもらったらしがらみがあってハコモノを作ることにはなったけど、展示品はNASAから100年間無償で借り、宇宙飛行士の講演会も行いました。結果、羽咋市には2000万円の黒字が残りました。その功績が認められ、正規の市役所職員になります。もちろん、行動するけど失敗もします。UFOで町おこしをするからU. F. O.を作っている日清食品に行き、協賛金のお願いを申し出たところ、「総会屋でもそんなことしない」とけんもほろろに断られました。

どうやってこんな公務員が生まれたか? 高野さんはその名前から分かる通り、お坊さんです。日蓮宗のお寺の子でしたが、地元の高校を出たあと、大正大学で僧侶になる勉強をしながらマスコミ業界で仕事をし始めました。しかし、お兄さんが家を継がないことになりました。日蓮宗ではお寺は宗派のもので個人のものでないため、お父さんがお坊さんをやめると露頭に迷います。しかも500年も続くお寺です。後を継ぐため、羽咋市に帰ってきました。だけど檀家は100件、そんなお寺にお坊さんは2人もいらないということで、何かの仕事を探し、見つけたのが市役所の臨時職員の仕事でした。

公務員になってから、上司と対立して農業関係の部署に左遷されます。しかしそこで左遷ととらえず、一所懸命農業振興を考えます。幸いなことに、羽咋市には良質のお米がありました。しかし地元の人達はPR方法も知りません。年収70万円で後継者もおらず、ただ限界集落担っているのを黙ってみているだけでした。

そこで各地に米をPRしたほか、メディアにも定期的に発信し、さらには若い人や大学生を呼ぶ取り組みも行いました。周りを巻き込んでなにかやろう、という雰囲気を作っていきます。もちろん、小さな集落だから閉鎖的な人もいます。仏壇があるのに大学生を呼べない、失敗したら誰が責任を取るんだなどなど。とことん話し合い、やってみるか…と潮目が変わった頃合いを見て動き出すのは人と向き合う仕事である僧侶をされてきただけあります。その他、対立してしまうJAとは事前に話を通しておくなど、細やかな配慮も忘れません。

市長には「明日東京に行っていただくことになりました」と言って翌日の予定をすべてキャンセルさせ、副市長には「県庁ではこんなやり方通用しない」と注意されるなど、手続きと前例踏襲を重んじる役所では破天荒ではありますが、フットワーク軽く仕事をしていきます。これも当初から、今の過疎化は役所のこれまでのやり方が間違っていたせいだ、これまでのやり方を踏襲していてはいいことができない、と旧知の市長に伝え、事後承諾を了承させていた結果です。

結果、ローマ法王に羽咋市神子原地区のお米を献上したり、自身の手がけた農産物をフランスのミシュランに載ったレストランや東京の有名デパートが扱うに至ります。破天荒な仕事のやり方が影響してか、役所ではあまり出世しなかったようです。ここまで地域振興をし、地域の人々の信頼を得て、いくつかの大学の客員教授やメディアにも取り上げられたのにもかかわらず。このあたりが役所の限界なのかな、と思わされます。

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北朝鮮に7年間抑留された日本人船長

腹を決めた。
「命令したのは私だ」
紅粉は切り出した。この一言ですべてが決まった。
「私が機関長に命令した。彼に責任はない。頼むから、ほかの三人と一緒に日本に返してやってくれ。頼む……

(本書 p.41)

「北朝鮮は官僚主義なんです。誰も責任を取りません。私が脱走すれば、軍の上司が責任を取らされます。私が南浦港から密航すれば、警備兵が責任を追及されます。しかし、誰も責任を取らないとなれば、第三者の悪人を仕立て上げる以外に方法がないでしょう。それが富士山丸の船長たちだったんです」

(本書 p.256)

日本と北朝鮮の間にある人権問題として一番に挙げられるのが拉致事件です。戦後から2000年代までを中心に北朝鮮が工作のため日本中から日本人を拉致しました。ある者はスパイ養成の日本語教師に、ある者は戸籍はそのままで北朝鮮から来た人と入れ替わるなど、浸透工作は多岐に及びます。一連の拉致事件の一部を北朝鮮が認めたのは2000年の小泉訪朝でした。ただ、その前に北朝鮮によって不当に拘束された日本人がいました。一人は日本海側で漁をしていたら海難事故(を装って?)で北朝鮮に保護され、そのまま現地に暮らすことになった寺越武志さん、もう二人が本書で出てくる紅粉勇船長と栗浦好雄機関長です。1983年から1990年まで7年間、北朝鮮で抑留されていました。釈放の条件として北朝鮮を悪く言わないこと、言うと家族が交通事故にあうかもしれないなどと脅されましたが、船長が阪神・淡路大震災を経験し、死んだら残らないのだから死ぬ前に記録を残そうとした結果、書かれたのが本書です。

1983年当時、日本と北朝鮮の間に国交はなくても、貿易はありました。その一つ、はまぐりを始めとする魚介類の輸出入を行っていた船が、紅粉船長や栗浦機関長の乗る富士汽船の第十八富士山丸です。

1983年11月3日、北朝鮮の南浦からはまぐりを積んで帰国する途中、密航者を発見します。李英男と名乗るその男は山口県で入管に引き渡されました。入管の考えは当初、四日市ではまぐりをおろした富士山丸に密航者を送り返してもらう予定でした。そのため、富士山丸は当初予定になかった北朝鮮への渡航のため、新たな貿易契約をします。しかし取り調べが長引いたことから、密航者なしで北朝鮮に行くことになりました。その事情は朝鮮総連関係者にも一筆書いてもらい、最善を期しました。しかし北朝鮮につくと北朝鮮の公民を不法に日本に連れて行ったかどで逮捕、勾留されます。同じく捕まった一等航海士、機関士、コック長は船長が罪をかぶったので釈放されました。船長と機関長だけが7年間抑留されます。罪状認否すらない裁判で二人は労働教化刑15年に処せられ、強制収容所に入れられました。持病を持つ二人でしたが、幸いに強制労働はさせられず、強制収容所では仲良くなった看守からアヒルの卵をもらったり、畑を耕して暮らします。

いっぽう、残された人々も奔走します。家族は当時朝鮮労働党と友党関係にあった社会党の代議士に働きかけ、年に何度かあった議員の訪朝団に望みを託します。土井たか子が金日成に会ったとき、事前には断られていた二人の話を持ち出し、政府間対話の緒を掴みます。その頃には署名活動などで世論も大きく動いていたことが功を奏しました。中曽根首相が中国の胡耀邦国家主席に協力を依頼、訪朝団も働きかけるなど大きく動きました。また国際情勢もラングーン事件以来かけていた制裁の解除、米国の対北朝鮮政策の変更、中国、ソ連の韓国への接近などもあり、大きく動きます。結果、二人は最終的に金丸・金日成会談で釈放が決定されました。

7年の間に紅粉船長の父は亡くなり、富士汽船は破産、社長は心労がたたって寝たきりになりました。また、根拠のない噂レベルの話ではありますが、自民党副総裁まで務めた金丸もこのときに北朝鮮に接近しすぎたため米国の信頼を失い、失脚します。その後、失意のうちに亡くなりました。官僚主義国家におけるたった二人の勾留が、多くの人の人生を変えました。一方、特例的な措置で日本に亡命した李英男と名乗っていた閔洪九は窃盗などで前科を重ねつつ結婚、子供を持って日本で暮らし続けます。

本書では北朝鮮との問題が起きた場合のルートとして外務省は5つ考えていたと明らかにされています。当時は通常の外交ルートのほか、議員連盟などを通じた働きかけが可能だったのです。一方、強い制裁を実施している今はそうした交流がありません。交流を狭めてまで制裁するのも、ある程度の交流を残して制裁を緩和するのも、どちらも一長一短です。表の外交ルートで行うのが筋ですが、一筋縄でいかないのが国際政治だと改めて知らされます。

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向坂逸郎訳とされる『資本論』を本当に訳したマルキシストの自伝

われわれの同級会は「大正十三年一高文甲会」と称し、和田貞一という非常にまめな世話役がいるために、最も集まりの良い同級会である。(中略)集まりは良くても、向陵時代の楽しさが味わえるなどと思ったら大間違いで、じじいばかりの集まりなど面白くもなんともない。お互いにまだ生きていることを確認し合うだけのことである。

(本書 p.38)

保谷村閑居のころからよく家事の世話をしてくれ、そのころ東京の洋裁学校の教師をしていた篠田クニに、入籍手続きをして大連にくるようにと手紙を出した。翌十五年四月、彼女はやってきた。埠頭に出迎えた私の第一声は、金はいくら持ってきたか、だったと彼女はいまでもそう言っている。そんなさもしいことを言った覚えはないのだが、彼女が飽くまでそう聞いたと言うからにはそう言ったのだろう。これが今日まで四十年余り苦楽を共にしてきた妻である。

(本書 p.148)

碁盤が二つ置いてあって、私は出勤するとその前に腰を下ろした。とっかえひっかえ相手がやってきて、昼食抜きで例の賭け碁を戦わせた。退勤時刻になると、正業に就いているだれかから電話がかかってきて、一緒に出かけた。あるとき幹部の一人に、部付とはなんという社費の無駄使いか、とあからさまに言ったら、遊んでいるように見えていてもいざというときに役に立つのだ、という答えが返ってきた。平時でさえ役に立たないから部付になっているような者が、いざ一大事というときに果たして役立つものかどうか甚だ疑問に思った(後略)。

(本書 p.150)

最初の申し合わせの前半の「交替訳」というのはいつしか自然消滅して、「下訳」という名の「全訳」を私がやり、向坂はその原稿かまたは校正刷に目を通すだけ、ということになってしまった。そして「印税二等分」という最初の約束の後半だけが厳然として残った。

(本書 p.194)

数日後に私は今年十月限りで印税受領権を放棄する旨の手紙を出した。向坂からは、それでけっこう、という簡単な返事がきた。そして、その年十月初めのある朝、大新聞朝刊の二面の下五段ぶち抜きで、マルクス『資本論』百年記念、向坂逸郎訳z『資本論』全四冊、という巨大な活字が私の目に飛び込んだ。

(本書 p.302)

佐藤優がどこかでこの本が面白いと褒めていました。確かにおもしろい。賢い人の自伝は細かいところまで覚えていてさすがだなあと感心します。最後の腕力での喧嘩まで覚えているなんて。

80歳の著者が実名でいいことも悪いことも飄々と書いた交遊録です。なぜ実名で書けたか? おそらくこれが著者の遺言だったらからでしょう。本書を出版後、著者は家を引き払って妻とともに全国放浪の旅に出ます。大阪のホテルに泊まったのを最後に、足取りは途絶えました。未だに消息はわかっていません。本書には「鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった」(本書 p371)と書いてあるので、あるいは実行したのかも知れません。

能力ある自由人の生き方を体現した筆者は、独学で一高、東大を出て満鉄調査部に勤め、戦後は九大や法政大の教授を勤めただけあって、頭がいい。頭のいい人の回顧録はよくここまでの記憶力があるなあ、と嘆息します。本人の飄々とした性格もあるのか、ユーモアのある文体で語られていて、飽きません。エリート校に入っただけあって、知り合いも後の大物が出てきます。一学年上には手塚富雄(ドイツ文学者、東大教授)や当時から学力や知識がずば抜けていた石田英一郎(文化人類学者、病気で休学したので卒業は同年)などがいます。

著者の岡崎次郎は明治37(1904)年6月に北海道庁職員の次男として生まれます(当然、長男の名前は太郎、三男は三郎)。父は板垣退助に払い下げた国有地を3年間開拓しなかったから規則通り没収し、職を追われます。その後、東京市役所に職を得ました。その後、転勤で名古屋に移り、著者は読書は好きだけど無味乾燥な教科書を読むのは嫌いだったので進学せずに済む方法はないかと考え、南洋拓殖少年団(ミクロネシアの農園で働く青少年)に応募しようと考えました。しかし家族の猛反対にあい、親に「学校に行くなら一番良い学校に行け」と言われ、第一高等学校に進学します。

人生で一番楽しかった高校生活を過ごた後は、東京帝国大学文学部哲学及び哲学史科に進学、卒業します。しかし、当時は就職難で仕事が見つからなかったため、経済学部に再入学、卒業します。卒業後は翻訳などをして食いつないでいたところ、寮の同室だった橋本乙次の紹介で東亜経済調査局にいる小森新一を紹介されました。それが縁で東亜経済調査局に就職し、調べ物をしたり碁を打ったり盛り場に行ったりと楽しい日々を過ごします。昭和12年~13年には思想弾圧で『マルクス伝』を訳していた著者も逮捕されます。娑婆に復帰してから、調査局は満鉄に復帰しており、大連行きを打診され、そのまま満鉄調査部に異動します。大連でも異動になった北京でもそこでも碁を打つなど楽しい日々を過ごします。終戦を北京で迎え、たまたま会った高校の同級生、石田英一郎と協力して引き上げ準備をドタバタやり、得体の知れない軍人に社屋を明渡したり、いくつかの所持品を憲兵に没収されたりしながら日本に帰国します。

帰国後、九州大学や法政大学の教師をする一方、翻訳も続けました。特に有名なのは『資本論』でしょう。向坂からの依頼で彼のやっていたマルクス『資本論』の訳を手伝うことになります。「下訳」と言われてもほぼ全訳したのに、向坂訳として岩波から出版されています。その後、著者は改めて大月書店から新訳を出そうとしていたところ、向坂に裏切り行為だと指摘され、それまでもらっていた印税をもらわないようにする約束をしました。その途端、岩波がマルクス『資本論』セットを発売します。著者は悔しい思いをしますが、もうどうしようもありません。

大学紛争盛んな頃、暴力を行う学生に警察を介入させず、キャンパスを追い出されて開いた教授会で学生運動の対処について話し合う法政大学に嫌気が差し、職を辞します。このあたりの記述が原因となったようで、本書は法政大学出版社からの出版を拒否されました。その後はまた翻訳をしてお金を稼いでいきます。職を転々としたことと生来の性格から、あまり貯金がなかったようで、晩年まで翻訳等で稼ぎます。そして最後は夫婦で失踪します。こういう人生もあるのか、と驚くばかりです。