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東洋的存在論アビダルマ

櫻部建, 上山春平(2010)[1996] 『仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>』角川学芸出版

植山 (註:唯識では)スヴァバーヴァ(註:体)はもう認めないのですか。
服部 認めません。
櫻部 そのスヴァバーヴァの否定は歴史的順序からいえばまず中観がやるわけです。
上山 中観のほうが唯識よりも先ですか。
櫻部 そうです。中観はもっぱらその点で説一切有部を攻撃するのですね。説一切有部のようにスヴァバーヴァとしてのダルマのあり方を主張するとすれば、中観派の考え方からすると、それはどうしても諸行無常ということにはならないわけです。
上山 「法体恒有」ということは否定されるわけですね。
櫻部 法体というスヴァバーヴァの存在を否定するわけです。だからダルマはニフ・スヴァバーヴァ(無自性)で「空」だというのです。
上山 その上に立って唯識が再構成しているのですね。その再構成するほうには中観はあまり熱を入れてないわけですか。
服部 中観はもっぱら否定するほうです。アビダルマの客観的な分析の立場を批判して、主体的立場を恢復することに中観の歴史的課題があったのだと思います。
(本書 pp.252-253)

修行の世界では「唯識三年、倶舎八年」といわれるくらいのもの、じっくり取り組むしかなさそうだ。

一読して得られる所はただただアビダルマの難解さだった。最初の読みとしては、こういう世界もあるんだと思うしかない。

本書の構成は最初にアビダルマの体系が語られ、次に上に引いた対話、そして最後にアビダルマの周辺の開設となっている。難解で、なんでこういう細かいところまで考え込んだのか、ここまで来ると細分化のための再分化じゃないのかと思えてくるアビダルマの体系を一読し終えて、解説を読むとその謎が氷解する。

結局、アビダルマはエッセンスを大事にすべきで、細分化しすぎているきらいがあるので、そこにはあまり価値がないようだ。

アビダルマとはブッダの教えのことで、ブッダの死後数百年たってから編纂されたもの。結局何が書かれてあるかというと、人生の苦から解放されるためには、煩悩を消滅させた、涅槃の境地に入らなくてはならない。それでこそ苦の連続である生の繰り返し(輪廻)からも解放される。そのためには正しい修行をせねばならない。どういう手順をとり、どうやったら涅槃の境地にいけるのか。それの指南書がアビダルマである。

最初の部分を読んだ後、それに続く解説と対話が、もやもやとした謎をすっきりと解いてくれて、面白かった。因縁が必ずしもいつでも成立するとは限らないこと(だから、目の前にある水も連続して存在しているのではなく、一瞬前の因によって生じた果であるから、これからずっと水であり続ける保証はない)、現在のほか、過去と未来をそ呈することによって無限の変化の連続を設定し、それによって諸行無常を説明している。こうした三種の時間の連続という分析方法についてベルクソンの哲学との類似性が指摘されていたり、一度できた体系を壊して、また再構築するという西洋哲学(思想)にもあった振り子運動が仏教でも生じていたりして、興味深い。

いろは歌も要約すれば「すべてのものは変わる。変わるのを見ていくのが楽しい」という、こうした仏教(インド)に由来するものの見方が現れているらしい。認識の分析には、なぜ仏教が広まったのか、その理由が分かるくらい魅力的な思想が広がっていた。

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心身二元論の根源

デカルト, ルネ(谷川多佳子訳)(2007)『方法序説』岩波書店

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(本書 p.46)

したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(本書 p.47)

最近(といってもここ数十年だけど)、デカルト的心身二元論を克服すべく、いろいろな学者が頭をひねっている。古くは井筒俊彦の『意味の深みへ』にも見られるし、近年ではIngold, Tim (2000) The perception of the environment: essays on livelihood, dwelling and skill. Routledge.にも見られる。もっとも、前者も後者もデカルトを批判しているのではなく、欧州に古くからはびこるこうした二元論を克服しようとしている。

Je pence donc je suis. (羅: Cogito ergo sum) はやたら有名な言葉だけど、その真意は本書を読んで初めて知った。

デカルトはまずすべてを疑うところから始めた。そして一から新たな真理の体系を作り出していこうと考えた。そして、これまで他人が証明し、正しいと学んだことをすべていったん保留し、もう一度自分で確かめていこうと決めた。

たとえば、いまいるこの世界について考えてみる。たとえば夢の中では、我々は夢だと気づかない。夢の中の世界を、まるで現実の世界のように感じる。でも、夢の世界は現実じゃない。逆に、現実のように感じられるこの世界も、夢のようにはかないものかもしれない。

そうして周りのものをすべてを疑って、疑って、疑い続けても、唯一疑いえないものが残る。それは「考えている自分がここにいる」という事実である。この宇宙と別の宇宙を考えることもできるし、自分のいない世界を考えることもできる。でも、考える自分のいない世界を考えることはできない。

だからデカルトは、それを哲学の原理の一つとすることにした。すなわち、身体は疑うことができても、考える自分(心)は疑うことができない、ということで、ここに心身二元論が明確にうち立てられている。

デカルトにとっての真理の探究とは、すなわち神によってつくられた自然法則の発見にあったようだ。真理を発見しない限りわかっていない人間は不完全な存在で、逆にそうした真理を世界にちりばめた神こそ、完全な存在である。こうした考え方が非常に欧州っぽい。後年、ニーチェが神を殺すことによって、この前提は覆される。

心身二元論、動物と人間との区別、そうしたものが100ページ程度の本書に明快に述べられている。アプローチの違いはあれども、真理の探究という学問の志向自体は変わってない。