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保釈後も友情は続く-外務省のラスプーチンのそれから

本書は佐藤優が第38回 大宅壮一ノンフィクション賞と第5回 新潮ドキュメント賞を受賞した『自壊する帝国』の続編といえる自伝です。

著者は『自壊する帝国』の主人公であり友人であるアレクサンドル・ユリエビッチ・カザコフと保釈後に邂逅します。その過程を『自壊する帝国』を読まなくても本書を読んだだけでわかるように書いてあります。

佐藤優は最高裁で有罪判決を受けた後、保釈金を払って出所し、埼玉県の母のところに身を寄せます。その後、結婚して国立に住まいを移し、古本屋で1日千円を限度に本を買うことにして暮らします。

当時、外務省の後輩に「真実」を書き残す目的で書いた原稿を、たまたま外務省時代に知り合った編集者に見せたところ、商業出版として成り立つといわれ、『国家の罠』を上梓します。その後、『自壊する帝国』も上梓し、押しも押されもせぬ作家になります。

そんなある日、NHKの記者から電話がかかってきます。サンクトペテルブルクでサーシャと一緒にいる、との電話でした。残念ながら原稿を書いていて電話をすぐには受け取れなかった筆者は、サーシャの携帯番号を教えてもらい、久々に話し合います。

佐藤優はまだ保釈中の身で海外に行けませんでした。そのため、サーシャを日本に招待します。サーシャは日本で、靖国神社と広島に行きたいと希望します。そこでサーシャと佐藤優の、敗戦国における戦没者追悼について話し合います。

現在、サーシャはロシアでも有名なプーチンのブレインになっているようで、テレビにも毎週出演しているようです。サーシャの近影は以下のリンクにあります。

КАЗАКОВ Александр Юрьевич

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サントリー学芸賞 レビュー

西野カナはギャル演歌

輪島裕介(2010)『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社

小柳ルミ子や春日八郎においては、五木が「公認されざる”差別された”現実」の権利回復として提示した「演歌」は、「公認された」国民的な文化財として扱われているように見えます。(本書 p.300)

繰り返しますが、それゆえに「演歌」は「日本的・伝統的」な音楽ではない、と主張することは私の本意ではありません。本書で強調してきたのは、「演歌」とは、「過去のレコード歌謡」を一定の仕方で選択的に包摂するための言説装置、つまり「日本的・伝統的な大衆音楽」というものを作り出すための「語り方」であり「仕掛け」であった、ということです。(本書 p318)

あくまでも強調したいのは、現在の「歌謡曲」なるものが、それが「現役」であった時とは全く異なる文化的な位置に置かれ、全く別のステータスを獲得しつつある、ということです。(本書 pp.339-340)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

演歌とは日本の心を歌っているジャンルで、古くからある歌を指す。

そう思っていた時期が私にもありました(本書を読むまで)。

本書は演歌の概念がどのように作られていったかを明らかにすべく、多くの資料を縦横無尽に使って戦後の音楽シーンを丁寧に明らかにしていきます。

たとえば、美空ひばりなんて今では歌の神様のごとく扱われていますが、デビュー当時はあんな幼い子なのに大人の歌を歌うなんてやりすぎだ、と白眼視されていました。世間とは勝手なものです。

演歌も同じです。今では日本の心を歌い上げる伝統的な歌、といった位置づけがされていますが、その歴史はたかだか戦後数十年のことに過ぎません。現に春日八郎や北島三郎はデビュー当時、自らが「演歌歌手」だとは思ってもいませんでした。流行かを歌う歌手として活躍していました。

ではなぜ演歌が誕生したのか。もともとは演説の歌の略として使われ、社会批判の言説を生み出していたものが、演歌でした。しかし戦後、レコード産業やラジオ、テレビ、それにオリコンチャートといった様々なメディアが流行を作っていく過程で、次第に演歌の枠組みも作り上げられていきました。当初は男女のあれこれや生きる辛さ、暮らしの大変さ、アウトローの生き方などを歌っていた演歌は俗悪な文化だと知識人から批判されました。しかし安保闘争の前後で空気は一変します。

知的・文化的エリートが「遅れた」大衆の啓蒙を通じて文化的な「上昇」、つまり目標への接近を目指す、という行き方は根本的に転覆され、その逆に、既成左翼エリートが「克服」することを目指した「草の根的」「土着的」「情念的」な方向へ深く沈潜し、いわば「下降」することによって、真正な民衆の文化を獲得しよう、という行き方が、六〇年代安保以降の大衆文化に関する知的な語りの枠組みとなっていくのです。(本書pp.202-203)

ここで真正な民衆の文化を歌い上げているものこそ、演歌だと位置づけられました。本書は演歌をめぐる位置づけの過程を様々な資料を読み込んだ上で縦横無尽に使い、鮮やかに描出していきます。

現代の「歌謡曲」というジャンルもJ-POPとは違うものの位置づけがなされているため、似たような過程を経てまたある特定の位置づけをなされる可能性を指摘しています。その中で社会学者の鈴木謙介の言葉を引用し、加藤ミリヤや西野カナといった「ハッピーさから遠ざかるベクトル」を持つ楽曲を「ギャル演歌」と形容している、と紹介しています。なるほど、演歌は現代でも不滅です。

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沖縄がもっと力をつけるために

佐藤優(2014)『佐藤優の沖縄評論』光文社

現在、筆者が沖縄について勉強し、語り、書くことは、筆者自身の人生の意味を探求することと、かなり重なっているのである。(本書 p.210)

沖縄に対する構造化された政治的差別を放置しておくと、今後それが社会的、経済的差別に転化する危険がある。(本書 p.286)

佐藤優には沖縄の血が流れている。だからこそ、彼は琉球新報に連載を持ち、沖縄への思いを正直に吐露した。高邁な一般論ではない。新聞に掲載する以上、時勢にあった方法で、具体的にどう動けば沖縄の利益になるかを誠実に訴えている。

沖縄の大学に公務員養成講座を開講し、毎年数人を霞ヶ関に送り込めるような仕組みを作ること、普天間基地の県外移設に取り組もうとした鳩山由紀夫首相への沖縄の声の届け方、国会でなされた沖縄に関する答弁が持つ意味などなど、中央省庁で働いた経験のある筆者の視線から、一般の読者にもわかりやすい表現で現状を分析し、効果的な対応策を訴えている。首相に声を届けるには、年賀状などの手紙がいいなど、今すぐ役立つトリビアだ。

沖縄は左翼の島ではない。かつての琉球王国の時代から連綿と息づいている郷土愛を軸に考えるとわかりやすい。普天間基地移設問題を始めとする一連の日本国政府への異議申立ても、沖縄の人が自らの土地や人々を愛しているからこそ起こる。彼らは基地があるから反対しているのではない。(現実的ではないが)その広大な土地に米国人専用の民間空港や運河があったとしても反対するだろう。自らの土地が不当な形で奪取され、日本国内全体で考えても不釣り合いなまでの負担を強いられている。その現状に異議申立てをしているのだ。

沖縄の民意が反対している米軍基地が未だに移設されていない点に、沖縄には民主主義が適用されていないと見る筆者の指摘は鋭い。

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必要な喧嘩には必ず勝て

佐高信, 佐藤優(2014)『喧嘩の勝ち方―喧嘩に負けないための五つのルール』光文社

佐高 佐藤さんね、これは私もびっくりしたけども、経済界では社長になっても満足しない人が、結構いるんですよね。昔取材したある企業トップが本音として言ってたけども、社長になったら次は会長、会長になったら、またなんとか鉄鋼連盟みたいな業界団体の会長とかになりたいって言うんだよね。
佐藤 最終的には経団連会長。
佐高 そう、それと勲章ね。
(本書 pp.36-37)

佐高 (前略)やっぱりある種喧嘩っていうのは、自分が勝者だと思っている人に対して売るわけですよね。
佐藤 そうです。喧嘩は強い者に対してぐんと出るんです。弱い者に対するのは喧嘩って言わないでイジメって言います。
(本書 p.207)

評論家の佐高信と佐藤優の対談。喧嘩とは何か、何のためにするかに始まる。でも勝てる喧嘩しかしてはいけない。となるとどうすれば喧嘩に勝てるのか。実例を元に本書でも喧嘩を繰り広げていく。

喧嘩をするにも作法がいる。一つは同じ価値基準を持っていること。話が通じ合わない相手とは喧嘩ができない。そういう人にからまれたら逃げるしかない。話の通じる相手で、ほうっておいたら影響が大きすぎる場合、これは喧嘩をすべきである。だから本書では猪瀬直樹(当時は東京都知事)や曾野綾子に喧嘩を売っている。そのときも、引用の通り相手の研究を行って、作法にのっとるのが肝要だ。その喧嘩は周りも見ているから。

かつて文章で喧嘩を売ったのに上から圧力をかけてきた政治家、アンフェアなことをした政治家などは実名を挙げて断罪されている。政治家の発言を「喧嘩」という切り口でアプローチしていくと、戦争を起こすかもしれない喧嘩を無意識的にやっている猪瀬直樹、猪瀬と同じ反知性主義だけど戦争を起こすまでにいたってない橋下徹、喧嘩してるフリの石原慎太郎など、それぞれのスタンスが見えてくる。

喧嘩はしてはならないものではない。言論の自由がある以上は自分と違う意見の人が出てきたら大きな声で質せるのが「風通しのいい社会」だ。同調圧力で「喧嘩のないのがいい社会」といった反喧嘩主義的平和は息苦しい社会なのだ。闊達な対話を通してよりよい社会にしていくために喧嘩のできる社会にすることが必要なのだ。

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竹林に行くと美女がいる?

森見登美彦(2010)『美女と竹林』光文社

登美彦氏は腕組みをして考えていたが、「何でもいいから書いてみろ。この世にあるもので、やみくもに好きなものを書いてみろ」と自分に言い聞かせた。そして、まるで書き初めをするかのように背を伸ばし、厳粛にボールペンを握って、手帳に大きく書いてみた。

「美女と竹林」
(本書 pp.11-12)

こうして無理から始まった連載は、やみくもに始まっただけあって迷走する。

たまたま職場の同僚の鍵屋さんが持っていた竹林は手付かずで、手入れされるのを待っている。そこに竹林を美女と同じぐらい愛してやまない登美彦氏が現れる。

登美彦氏の夢は遠大だ。竹林から切り出した竹で門松や竹とんぼを売り、たけのこで稼ぐ。将来は竹林が再注目される時代がやってきて、登美彦氏の竹林事業は大成功。弁護士を目指す友人の明石氏に顧問となってもらい、MBC(森見バンブーカンパニー)を設立する。

まずは手始めに手付かずの竹林の手入れから、となるのだが、そこにも困難が立ちはだかる。登美彦氏は勤め人である。土日しか休みがない。加えて作家である。土日は執筆でつぶれる。すべての仕事が計画通りに終われば竹林の手入れも出来るのだが、計画は往々にして遅れる。さらに天気や体力といった副次的要素にも左右される。

本書を読んでいると、登美彦氏の周りにはすばらしい友人がいる。「竹林の手入れをしよう」とメールして「ええよ」とすぐ返信する弁護士を目指している友人の明石氏、竹林を貸してくれた鍵屋さん、連載と竹林への興味のためにやってくる出版社の人々。みんな、力みすぎない登美彦氏のふしぎな魅力に絡めとられて巻き込まれる。つい読み進めてしまう読者もご他聞にもれず。

果たして登美彦氏の野望は達成できるのか。それ以前に本書の結末はうまく結べるのか。二つの意味でハラハラさせられる、少しゆるい作品。疲れた日にはこれを読もう。元気が出たら竹林に行こう。そこには美女がいるかもしれない。美女と竹林、このタイトルの謎は本書で明らかにされる。すると竹林に美女がいるかも、と思えてくる。


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