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心身二元論の根源

デカルト, ルネ(谷川多佳子訳)(2007)『方法序説』岩波書店

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(本書 p.46)

したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(本書 p.47)

最近(といってもここ数十年だけど)、デカルト的心身二元論を克服すべく、いろいろな学者が頭をひねっている。古くは井筒俊彦の『意味の深みへ』にも見られるし、近年ではIngold, Tim (2000) The perception of the environment: essays on livelihood, dwelling and skill. Routledge.にも見られる。もっとも、前者も後者もデカルトを批判しているのではなく、欧州に古くからはびこるこうした二元論を克服しようとしている。

Je pence donc je suis. (羅: Cogito ergo sum) はやたら有名な言葉だけど、その真意は本書を読んで初めて知った。

デカルトはまずすべてを疑うところから始めた。そして一から新たな真理の体系を作り出していこうと考えた。そして、これまで他人が証明し、正しいと学んだことをすべていったん保留し、もう一度自分で確かめていこうと決めた。

たとえば、いまいるこの世界について考えてみる。たとえば夢の中では、我々は夢だと気づかない。夢の中の世界を、まるで現実の世界のように感じる。でも、夢の世界は現実じゃない。逆に、現実のように感じられるこの世界も、夢のようにはかないものかもしれない。

そうして周りのものをすべてを疑って、疑って、疑い続けても、唯一疑いえないものが残る。それは「考えている自分がここにいる」という事実である。この宇宙と別の宇宙を考えることもできるし、自分のいない世界を考えることもできる。でも、考える自分のいない世界を考えることはできない。

だからデカルトは、それを哲学の原理の一つとすることにした。すなわち、身体は疑うことができても、考える自分(心)は疑うことができない、ということで、ここに心身二元論が明確にうち立てられている。

デカルトにとっての真理の探究とは、すなわち神によってつくられた自然法則の発見にあったようだ。真理を発見しない限りわかっていない人間は不完全な存在で、逆にそうした真理を世界にちりばめた神こそ、完全な存在である。こうした考え方が非常に欧州っぽい。後年、ニーチェが神を殺すことによって、この前提は覆される。

心身二元論、動物と人間との区別、そうしたものが100ページ程度の本書に明快に述べられている。アプローチの違いはあれども、真理の探究という学問の志向自体は変わってない。