藤森照信(1986)『建築探偵の冒険 東京篇』筑摩書房
「こないだ古本屋で買った建材メーカーのカタログに、使用例として聖蹟記念館って変な楕円形の建物が載ってたでしょ。あれ、場所がわかんなかったけど、色々考えたら京王線の聖蹟桜ヶ丘の駅と何か関係ありそうなんだ。ちょっと探しに行かない」
痛いところを衝いてくる。あれなら私だって行きたい。娘よ許せ!(本書 p.10)ブザーを押すと、使用人らしい人物が出てきて、こちらの申し出を当然ながらハネつける。こんな申し込みをいちいち聞いていてはお金持ちの身がもたないから当り前の反応だが、こちらとしても、このまま夕暮れの土手を引き下がっては探偵の誇りがもたない。
さっき、丘を遠回りしたのが役に立った。敷地の東の斜面は小川で周りの田んぼと切り離されているから、ここだけ塀が作ってない。田んぼの畦道づたいに歩いてから川を渡り、斜面をはい上れば、敷地の中にはいることができたはず。(中略)
しばらくしのんだあと、首筋のあたりに殺気を覚えてふり返ると、芝生の向うの端にさっきの使用人が現れた。手に太いヒモを持ち、その先にはデカイ犬がいる。建物は好きだが、犬は嫌いだ。両者は同時に相手に気づいた。(本書 pp.16-17)たとえば、一つ論文を書こうと思ってある西洋館を見に行くと、まず未知の物件と遭遇するんだという高揚感があり、その高揚感で眺めるアプローチ風景の新鮮さがあり、そして実物を見た時の勝手な印象があり、さらに勧められるまま古いソファーに腰を沈めるときの肌ざわりがあり、最後に、対座した持ち主の口から飛び出してくる逸話の面白さがある。このように、日がな一日、見たり聞いたり触ったりしながら建物と一緒の時間を過すのだが、その全体験のうち学術論文という形で掬える部分はごく少量で、五感が味わった現場ならではの興奮も家にまつわる逸話もほとんど落ちこぼれてしまう。まあそれでも最初のうちは、<アカデミックということはそういうことナンダ>と頭で決めていたが、しかしそのうち、目玉と肉体が納得しなくなってしまった。(本書 p.325)
文句なしに面白い! こちらもサントリー学芸賞受賞作。建築探偵となった藤森センセイが東京都内のあちこちの建築を見て回るノンフィクション。いま、彼のようなやり方で見て回りと、確実に通報されて国家権力の御厄介になる。女子大構内への入り方も指南されているが、この程度のやり方だと、今ではすっかりガードマンに追い払われてしまう。世知辛い世の中になったと思う。が、この藤森さんは上記の犬に追いかけまわされた話や、そっと忍びこんで建物を楽しんでいたら、室内から悲鳴が聞こえてきたという話(そりゃあ、裏庭に知らない人がいたらびっくりするよね)があって、かなりヤバイことをしているなあと、今の感覚をもってすれば、思う。
この本は、読んでいる時もうっすら疑問を感じていたが、いわゆる専門書、学術書の類ではない。これは上記の引用(本書のあとがきにあたる)にご本人が書かれている通り、論文やアカデミックな業績からは抜け落ちてしまう、見過ごすには惜しいものを集めたものだと言える。そのため、文章は読みやすいし、タッチは軽い。いま、人類学ではそうしたフィールドワークで抜け落ちてしまう生の面白さをどうアカデミックな形で回収していくかが問題になっているけど、こうしたアカデミックからは距離を置いた形で、一般への啓蒙や楽しい読み物という形で残す方法もひとつの道であることを、本書は示している。
子供より古書が大事と思っている鹿島茂をはじめ、やっぱり学者は子供を放ってでも自分のテーマを追ってしまう。このすべてを打ち込む姿勢に、私のような読者は笑いとともに引き込まれてしまう。
本書はバブル期に至るまでの時期に行われた調査の記録であり、不審火があった後にすぐに不動産屋がやってきて、ぜひビルにしましょう、と言いだすとか、そうした今では見られなくなった行いが書かれている。この例からもわかるとおり、当時建築探偵が歩いて記した箇所は、もうほとんど残ってないようだ。東洋キネマも、神田界隈の看板建築も、そして東京駅ですらいまは工事中になってしまった。
もう少し本書を早く知っておけば。東京建築ツアーを、ぜひ楽しみたかった。