池田清彦(1992)『分類という思想』新潮社
分類することは思想を語ることであり、歴史主義的な分類体系は、歴史主義者の思想にすぎない。生物の歴史を探る試みが立派な研究課題であることは認める。しかし、歴史で分類をしなければならないという思想はやはり本質的な意味で倒錯である他はない。(本書 p.144)
私が依拠する立場は極めて単純だ。分類はいずれにせよ、人間が行う営為の一つである、ということだ。すなわち、すべての分類は人為分類である。従って、すべての分類は本来的に恣意的なものである。(本書 p.214)
知的刺激に満ちた本だ。
分類が思想にすぎず、必ずしも我々の認識を反映させているとは限らないことを、生物の分類をもとに明らかにしている。
生物の分類の祖はアリストテレスだ。彼は歴史上初めて、動植物の分類を行った。続いて画期的な成果を上げたのが植物の分類の祖、リンネだ。彼の発明した二名法により、種や属といった階層が設定された。
そうした素朴な分類のうちはまだよかったのだが、生物学の研究が進むにつれて分類方法も複雑化してくる。ある者は形質的な特徴を元に、また別の者は進化の分岐を元に、生物の分類を試みた。
しかし、いずれも完璧な分類ではない。確かにDNAやミトコンドリアの親疎関係から「科学的」に分類をすることはできる。だけど我々の認識と合わない。カエルはイモリよりもドジョウと近い、といった結果が出てしまう。分類は我々の認識(コトバ)に合わせるために行うのに、認識と合わない分類に何の意味があるのか。
著者は我々の認識に合う分類を提案する。生物は動的平衡で時間とともに変化する(オタマジャクシは1ヶ月したらカエルになる)が、科学は変化しないもの(三角形は1か月後も三角形だ)を扱う。時間が作用する進化や分岐という概念を含んだ生物を、本来的に時間を語りえない科学を用いて分類する。不可能な命題に挑む著者が結論を出すところが本書の一番の見どころだ。