「(前略)あなたが来るので日本語語源の英語について調べました。約五百ありましたね。地理的距離の割には多いと思います」
本書 p.170
英国にとって中世ラテン語は欠かすことのできない歴史の一部です。だから今回、辞書をつくった。経済的観点でプロジェクトを語ることに意味はないと思います。
本書 p.136
「文化に対する国家の考え方という点においてスケールの違いを感じます。日本の辞書づくりは私企業が事業としてやります。だから利益を出す必要がある。中世ラテン語の辞書は英国学士院によるプロジェクトですね。そうした体制がそもそも違います。日本では民間でやるのが伝統で、個人が意気に感じてやる。国語辞典の『言海』は、大槻文彦個人の著作、大漢和も『編』でなく『著』、諸橋轍次著です。一人の学者が最初から最後までやり遂げたんです。」
本書 p.215
本書は英国学士院が1913年に編集が始まり、2013年末に完成した『英国古文献における中世ラテン語辞書』(Dictionary of Medieval Latin from British Sources)の関係者を取材し、プロジェクトの開始から編集作業、完成までを取材しています。
ワードハンターと呼ばれる古い教会文書や公文書から単語を収集しては編集部に送り届けたボランティア、歴代編集者、英国学士院担当者、関連する辞書としてOEDや大修館書店の辞書担当者にまで取材する徹底ぶりです。
英国では学士院が国からお金をもらって辞書を編集しました。一方で日本では個人が出版社から依頼を受けて辞書を編集します。英国と違い、日本では採算を考えないと辞書は出せないのです。諸橋大漢和レベルになると話は違いますが、昨今の出版不況もあり、もう赤字覚悟で看板となる辞書を出そうという版元もないようです。
本書ではなぜ経済合理性がない辞書を英国人と英国自体が作り上げたのか、という問題意識のもとに取材が進められていきます。しかし、本来、国や大学が行う研究とは金になる「すぐに役立つ」というよりは「すぐに役立たない」けど「いつの日か役立つかもしれない」ものがメインであるべきではないでしょうか。
その点を考えると今回完成した中世ラテン語辞書は、百年かけて500ポンド(2023年9月段階のレートで9万2千円)で売るのですから、採算は取れません。しかし英国史研究者にとって必ず役立つものである、と断言できます。
著者には経済合理性を求める新自由主義的な考え方が見え隠れするほか、フランス語やスペイン語といったラテン語系の言語の知識、言語学の知識もなく、ワードハンターを言語収集者(単語または語彙収集者、としたほうが適切かと思います)と訳すなど、読んでいてこちらが不安になる側面もあります。毎日新聞の論説委員でもこの姿勢なのか、と愕然とします。
それを差し引いても英国滞在中に各地に取材に行き、インタビューを取ってきたのは巷間の学者やフリージャーナリストには(お金がかかりすぎて)難しいことだと思います。英国の辞書編集者や関係者の生の声が知れる、貴重な一冊であるといえます。