君は予が試験の為めに何頁の講義筆記を暗記せざるやを知るや。実に五千頁なり
本書 p.113
京都の教授たちは、こうした期待を受けて、京都の土地に「二番目の帝国大学」ではなく、一番目の帝大に対抗する新たな大学を作り上げようと試みた。
本書 p.210
現在の京都大学の前身である京都帝国大学は、日本で二番目の国立大学として産声を上げました。東京大学が官僚養成の大学として設立され、詰込み型の教育をしていました。一方、京都大学では学生に研究の自由を与えました。その内情と改革の結果を、京都大学法学部(当時京都帝国大学法科大学)の実例を引きながら本書は明治の帝国大学の改革競争を紐解きます。
東京帝国大学での法律の授業は熾烈なものでした。 学生が受ける授業は一週間に27.5時間にも及びました。予習復習の時間を入れると40時間、現在のサラリーマンの勤務時間程度にはなったでしょう。授業中、学生たちはまるで速記機のように教師の言う言葉をノートに書きとり、上の引用でも書いた通り、1年間で筆記講義五千頁にも及ぶ量を記憶し、1年に1度の進級試験に臨みました。中には授業中に言ったダジャレを答案に書かせる教員までいたそうですから、筆記も気が抜けません。
一方の京都帝国大学は東京のような詰め込み式教育では法典条項の中身を覚えさせるより、法的修練を身に着けるほうが大事だと考えます。どうやって身に着けるか? そこでドイツ帰りの教員たちが当地で見たゼミナールを模倣します。ゼミナールを模倣して論文を必修とする一方、必修科目を減らして選択科目を多くした結果、最短3年で卒業することができる制度に変えました。
結果、京都帝国大学は負けました。当初は期待をもって受け入れられたものの、卒業生を輩出しだし、その高文試験(現在の国家公務員総合職試験)合格者の数が少ないことが新聞はおろか、帝国議会でも問題にされました。「碌な卒業生がいない」「文部省の信任問題だ」などと批判されます。
しかし、負けたとはいえ高文試験の合格者数だけの話です。当時の高文試験の出題委員は多くの東京帝大教授、一部の京都帝大教授で占められていました。外交官試験等、ほかの試験も同様です。そうすれば東京帝国大学の教授が行う授業を受けるほうが有利に働きます。その教師たちこそが出題者であり、採点者なのですから。かなりの大差をつけられたとはいえ、東大方式の教育方法に真っ向から反対した京都帝国大学は、国家公務員になる人こそ少ないものの(この傾向はいまでもある)、学会や民間でそれなりの実績を残しているとも考えられます。
ただ公務員試験だけで成功・失敗を測るのではなく、より多面的な方向で価値判断する余地の残る議論だと思いました。少なくとも東大方式、京大方式の二つがライバルとなる形で試行されたのは学生にとっても、大学にとっても、ひいては社会にとっても良いことだったと思います。