中島文雄(1991)『英語学とは何か』講談社
実に国家は現在において具体性を保持する限りの最大の生命単位である。しかもその特殊なる統一性の意義のため歴史の主体として最も適当な単位であって、これが国史の存在理由である。(本書 pp.117-118)
フィロロギーとしての英語学はどこまでも歴史的である。それは決して材料の年代順の記述ではない。歴史的生活に即しての言語の考察である。シェイクスピア時代の言語状態は当時のルネッサンスの空気に影響されて華やかにしかも混乱した時代相をそのまま反映している。英語史家はまず文化史的に当時の言語状態を認識しなければならぬ。 シェイクスピアはこの時代にあって言語を駆使した。彼の言語は社会的制約を受けているとは言えるが、その中にあって彼自身の言語を選択する自由は彼にあった。彼は自己の個性に従って言語を使用し、自己の体験を表現に持ち越してきゃかん的存在とし、それを通して再び時代の現在と未来との流れに投げ返した。ここに歴史的意義がある。そこを明らかにするのがフィロロギッシュな研究である。(本書 p.194)
看板に偽りあり、と言いたくなる本だ。
題名からすると「英語学」について書いてある本かと思いきやさにあらず。いわゆるEnglish Linguisticsではない。English Philology(英語文献学、とでも訳せようか)とは何かについて書いてある本だ。そしてまっとうなことに、まずはPhilologyとは何かについてを延々と語り、その中の英語に限ったPhilologyとその意義について語っていくたいへん見通しが良くなる本である。
Philologyとはすなわち、文献を通じてある人々の世界の見方を知る(認識の認識、と著者はいう)ための学問である。彼らがどのように暮らしていたのか。その解釈方法として公的生活、私的生活、宗教、芸術etcと暮らしを要素に分類していき、それぞれに解釈を加えていく。要素同士の関係は批評と言われるものだけど、それは難しいのでひとまずはおいておき、まずは解釈から入る。その際に一番大事なのは文献を読むことであり、当時の言語の解明であった。そのために今でいう言語史や比較言語学という分野が重用されるのだ。
なんで比較言語学なんていう微に入り細を穿つような、気を見て森を見ないような学問があれだけ盛り上がりを見せたのかは僕にとっては長年の謎だったのだけど、この本でそれが氷解した。確かに比較言語学はパズルのようで面白い。しかしそれは学者の知的遊戯であって、誰も幸せにしていないのではないか、と思っていたら、そもそも人文学の遠大な目標の第一歩だったのだ。
もちろん、ここで射程に収めているPhilologyはとても広い分野を対象とするため、一人では行いきれないから、分業制を行う。ある者はドイツ語フィロロギーを、そしてある者は英語フィロロギーを、という具合に。
もはや最後のほうにある生成文法の説明なんかいらなかったのではないかというぐらいに、前半部分の記述は濃厚だ。逆に生成文法の記述箇所よりも現代性を有しているといえる。結局プロトタイプ意味論とか認知言語学とか、いまだに言語学は遠大な目標を見失った、分業のための分業をしているのではないか。
国家という概念が揺るぎ始めたこの時代に、言語学の世界でも20世紀には言語連合という概念も出てきたことだから、もう一度「国家を基礎としないPhilology」を再検討する必要があるのではないか、などいろいろと考えさせてくれるきっかけとなった本だった。